…もし無視しているのだったら許さないからね。
 「兄さん!」
自分でも判るくらい少し尖った口調でそう言うと、僕に背を向けた
まま兄さんが答える。
 「うるさい。」
むかっ。人がわざわざ起こしにきてあげたっていうのに、そういう
態度をとるわけだ。
それなら僕にも考えがあるからね。
腕に抱いていた子犬を、僕は兄さんの顔の上にぺたりと乗せる。
子犬は訳も解らずに、尻尾をしきりに振りながら兄さんの顔に乗っ
たままじっとしている。
 「子犬の刑。苦しかったらさっさと起きようね。」
しかし兄さんは起きるどころか、子犬を退けようともせずにその
まま動かない。
呼吸…そうとうしにくい筈だよね?
なんで兄さん動かないんだろう…?
 「にい…さん?」
少し心配になって僕はそっと兄さんに声をかける。
…やっぱり返事がない。
 「ねえ、兄さん?」
かなり心配になってきた僕は、兄さんの肩を揺さぶろうと手を伸ば
したとたん、ぐいっとその手を強く引っ張られてベッドの中に倒れ
込んでしまう。
 「わっ!?」
いきなりの事に、抵抗するまもなく兄さんがのしかかるようにして
僕の両手足を押さえ込み、さらに僕の顔の上に子犬を置く。
 「兄の味わった辛酸をお前も味わえ。」
 「…!…!?」
またしても子犬は乗っかったまま動こうとしない。
呼吸しにくいのも確かだけど、それ以上にまだ毛の生えていない
お腹は生暖かくて妙に柔らかくって…。
はっきり言って…気持ち悪いよぉ!
その上、しきりに尻尾を振るせいか、ますますお腹の柔らかい皮膚
が顔に擦れて呼吸困難に陥ってしまう。
なんとか子犬を退かそうとしたけど、うまくいかない。
もがけばもがくほど息が切れてしまう。
 「…!…!」
苦しくて必死に声を出して抗議しようとするけれど、そうすると
子犬のお腹が口に入ってきそうで、結局ただもがもがと唸るだけに
終わってしまう。
そうこうするうちに、やっと兄さんの気が済んだのかどうか知らな
いけれど、唐突に顔の上から子犬が降ろされて、僕は慌てて何度も
何度も深呼吸をする。
空気がこんなに美味しいものだなんて知らなかったよ。
 「…兄さん狙ってたね。」
やっと呼吸が落ちついた僕は、そう言ってまだ僕の手足を押さえ
つけている兄さんを睨み付ける。
 「さあな。」
口許をにやりと歪めると、いきなり兄さんは僕の手足を開放して
再びごろりとベッドに横になる。
 「…兄さん…?」
 「俺は眠いんだ。」
僕に背を向けたままそう告げると、兄さんはさっきの騒動で飛んだ
枕を頭の下に敷いた。
僕はというと、まだ押さえつけられたままの恰好で、兄さんの隣で
ただ呆然としている。
あまりのことに、もう何も言う気力すら起きない。
ようやく気を取り直して起き上がると、大きくため息をつく。
 「…いいよ、もう兄さんを起こそうなんて殊勝な事しないから。
  兄さんなんて苔が生えるまで一生寝てればいいんだ。」
半ば厭味たらしく、あと半ばかまってほしい期待をこめて僕がそう
言うと、
 「そうしたいね。」
たった一言それだけ返ってきた。むかっ!
悔しい。このままだととてつもなく悔しい。
何か効果的に言い返す台詞はないかと頭を巡らせていると、クンク
ンと心細げに鼻を慣らしながら、子犬が僕の膝の上に登ってきた。
 「ねー酷いよねーこーんな可愛い弟がせーっかくわざわざ
  起こしにきたっていうのにねー。心の冷たい兄貴は放って
  おいて僕たちだけで遊ぼうねっ。」
わざと兄さんの嫌いな語尾を伸ばす喋り方で、文句たらたら言って
みたけど、兄さんはと言うと完全無視。
…そっちがその気なら僕にだって考えがあるからね。
僕は兄さんのすぐ隣に寝ころがったまま、子犬と遊び始める。
うん、やっぱり子犬って可愛いよね。
最初はあてつけのつもりだったけど、だんだんこの子と遊ぶのが
楽しくなってくる。
 「…騒ぐなら他でやってくれ。」
ぼそりと兄さんがそう呟く。
 「あ、まだ兄さん起きてたの?
  とっっくに寝たんだと思ってたけど。」
にっこりと明るく笑って見せると、兄さんが大きく息をついて髪を
かき上げる。
 「兄さん、おはよう。」
 「…ああ。」
勝ったっ。僕は内心で思わずほくそえんでしまう。
 「ねえ兄さん。この子オスかな、メスかなぁ。」
さっきから疑問に思っていたことを口にする。
 「見れば解るだろう。ついてれば雄だ。」
明確な表現ありがとう。
 「…見ても解らないから聞いてるの。子犬全部ひっくり返して
  星矢と調べたんだけど、みんな同じに見えるんだよね。」
 「だったら母犬を見てみろ。それがメスの見本になるぞ。」
………絶句。確かにそうかもしれない。
でも、でもだよ。そんなこと思いつく兄さんって…。
 「一番確実な方法だろうが。」
にやにやと兄さんが笑う。
僕は何も考えたくなくて子犬の鼻に僕の鼻を押しつける。
 「見せてみろ。」
 「まさか、本気で調べる気…?」
そういうなり、兄さんが僕から子犬を取り上げるので、思わず言っ
てしまう。
 「母犬を連れてきたらそうしてやろうか?」
無言で僕はふるふると首を横に振る。
兄さんは少し笑って、子犬の足を軽く摘む。
 「足がしっかりしているな。それにけっこう太い。
  こいつはでかくなるぞ。」
 「へえ、そうなんだ。」
僕は感心して兄さんの腕に顎を乗せるようにして覗き込むと、
兄さんがよく見えるように子犬を向けてくれる。
 「たぶん、こいつは雄だろう。」
そう言って兄さんが僕に子犬を返してくれる。
 「そっか。お前男の子なんだ。」
うけとって僕は子犬を目の前まで持ち上げると、僕の鼻の頭を
ぺろりとなめる。
 「名前つけないとな。ね、兄さん何かいい名前はないかな。」
 「さあな。」
僕がそう尋ねると、面倒くさそうな返事が返ってくる。
 「そういう非協力的な態度をとるのは良くないと思うな。
  弟が犯罪に走ってもいいの?」
犯罪に走るかどうかはさておいて、少なくとも僕の機嫌は確実に
悪くなるよ。
 「だったら瞬、とでもつけろ。」
無言の脅しに、兄さんがそう答える。
 「…なんで僕の名前なの…?」
そう尋ねると、兄さんがくるりと寝返りをうつなり僕の顔を見る。
 「な、なに!?」
焦る僕に、兄さんはニヤリと笑って言う。
 「誰彼問わずによく懐く。それによく吠える。」
 「どう言う意味だよっ!」
 「ワンッ!」
思わずそう叫んだとたん、腕のなかの子犬が一言吠え、合唱した
ようになってしまう。
 「そらみろ。」
 「うっ…。」
うなる僕に兄さんが吹き出す。
くっくっ…ととくぐもった声で兄さんが笑う。
思わず赤くなってしまった僕も、そんな兄さんにつられてなんだか
急におかしくなってきて、結局一緒になって笑ってしまう。
そういえば、こんなふうに兄さんと二人で笑っているのってずいぶ
ん久しぶりだよね。
そう考えると、胸のあたりが少しじん、としてしまう。
 「どうした?」
僕の考えていることが顔に出てしまったようで、兄さんがいつにな
く優しい声でそう聞いてくれる。
 「ん…ちょっと…ね。」
僕は軽く首を横にふってそう答えると、兄さんの隣にもぐりこむ。
 「こういうなんでもない日の事を“すべて世はこともなし”
  っていうんだって。」
僕がそう言うと、兄さんが少し考える。
 「聞いたことがあるな。確か何かの詩の一部だ。」
 「へぇ、兄さんって意外に物知りなんだ。」
僕がそう茶化すと、コンと兄さんに頭を軽く殴られた。
首をすくめて僕は舌を出して笑う。
 「こんな日がずっと続くといいのにな…。」
なんだか少ししんみりした気分になった僕の髪を、くしゃくしゃと
乱暴にかきまわしながら、兄さんが撫でてくれる。
掌から伝わる暖かさが嬉しくて僕は目を閉じる。
 「…やはりこいつと良く似ているな。」
 「えっ?」
唐突な兄さんの台詞に僕が顔を上げると、例の小犬が鼻を悲しそう
に鳴らしながら、僕と兄さんの間にもぐりこんでくる。
 「ほら見ろ。こうやって少し放っておいただけで、
  すぐ寂しがって鳴く。」
 「……。」
反論できずに、僕は頭まで毛布の中にもぐった。
     
     
     
腹が減ったから起きると言った兄さんに、先に下に降りてるから
と告げて僕は階下へと下りていく。
 「あら、瞬。上にいたのね。」
階段の下から声を掛けられて覗き込むと、そこに立っていたのは
沙織さんだった。
 「沙織…さん…?」
 「ええ。何?」
聞き返すと、沙織さんは訝しげな表情で僕を見る。
僕がそう聞き返したのにはちゃんと訳がある。
なぜなら沙織さんは、長い髪をあみこんでまとめあげ、エプロン
姿で立っていたからだ。
僕の視線に気付いたのか、沙織さんは少し顔を赤らめて言う。
 「…変かしら…。」
 「いいえ。なんだかいつもとずいぶん印象が違ったから
  ちょっとびっくりしました。でもとても可愛いです。」
 「ありがとう。」
僕がそう言うと、沙織さんはにっこりと微笑んでスカートを摘むと
優雅に礼をする。
 「ああ、そうだわ。私、初めてアップルパイを焼いてみたの。
  みんなに食べてもらおうって持ってきたのだけれど、どこへ
  行ったのかしら…?」
思い出した、というようにパンと両手を打ち鳴らして言う沙織さん
に僕は答える。
 「あ、僕知ってます。呼んできますね。」
 「お願いしてもいいかしら…あらっ?」
 「えっ?」
唐突に声を上げ僕を見る沙織さんにつられ、自分の胸もとを見る。
僕の腕の中には、自分に注目が集まった事に気付いた小犬が尻尾を
振り始めていた。
あ、そうかこの子抱いたままでいたんだ。
 「可愛い…抱かせて。」
僕は笑って沙織さんにその小犬を渡す。
 「暖かいわね。お前。」
くすくす笑いながら、沙織さんが小犬を抱き締め、その頭に頬を
よせる。
そんなふうにしてると、まるで普通の女の子みたいに見えますねっ
て言いかけて…僕は止めた。
考えてみたら、沙織さんだってまだ街を歩いている女の子達と歳は
そんなに変わらない筈なんだ。
もしアテナの生まれ変わりでなかったら、こうして城戸沙織として
ここにいることさえないんだ。
 「なあに?瞬。」
声をかけられてはっと我に返ると、沙織さんが不思議そうに僕を見
ていた。
 「いいえ。その子、見ていてくれませんか?
  僕みんなを呼んできます。」
僕はそう言うと、向きを変えて駆けだした。
家が見えなくなったところで、僕は走るのを止めて歩きながら
考えこむ。
普通の女の子?じゃ、僕は普通の男の子というものになれたかも
しれないんだ。
でも「普通の」男の子って何だろう。
両親や友達がいて、学校に行って勉強してスポーツして…。
きっと戦うこともないんだよね。
戦わない僕。聖闘士でない僕…。
そこまで考えて、僕は軽く首を横に振る。
確かにあこがれはあるけど、もしも何々だったらっていうふうに
考えるのって、今の自分を否定することだよね。
僕は色々な事があって今の僕なんだし、みんなだってそうなんだ。
それに、今まで僕に関わってくれた人も否定することになるよね。
僕は色々あったけど、みんなの事が好きだから。
 「やぁめたっと。なんだか年寄りみたいだ。」
僕は小さく呟いて、再び走りだした。
 「星矢!」
犬舎の前まで走っていくと僕は入口で叫ぶ。
 「瞬、遅い!」
 「ごめんね。」
中から星矢が出てくるなり、両腕を腰に当てて僕を睨み付ける。
 「それより星矢、沙織さんがお茶にしましょうって。」
 「お、ラッキ!」
とたんに嬉しそうな顔で、星矢がパキッと指を鳴らす。
 「沙織さんの手作りのパイだよ。」
 「…なんか恐ろしいな…。」
さも不気味だと言わんばかりの表情で、顔をしかめる星矢に、
僕はいじわるく言う。
 「あ、そんなこと言っていいの?僕告げ口しちゃおうかな。」
 「しゅん〜愛してる〜。」
 「はいはい。」
情けない声でそう言う星矢に笑って答える。
 「じゃ僕先に帰ってるから。ちゃんと手を洗ってきたほうが
  いいよ。真っ黒だ。」
 「うわ、ほんとだ。」
自分の手を見てしみじみそう言った星矢に、僕は吹き出しながら
再び走りだした。
     
     
     
次は誰に声をかけようか。紫龍?氷河?それとも兄さんかな…?
いろいろと頭のなかで順番を組み換えながら、僕はふと思い出して
口にしてみる。
 「すべて世はこともなし。」
こんな日がこれからずっと続くといいな。
抜けるような青い空の下で、僕は走っていた。
     
     
*END*
     
     


う〜ん、本当になんでもない日になってしまった…。
でも、こういう日もないと…ねぇ。(^^;)
     
ちなみに子犬の性別の判断については、実話です。
昔うちで飼っていた犬が子供を四匹産んだときに、子犬の
性別を確かめようとしたのですが、生後二ヶ月くらいじゃ
まだはっきりと解らなかったんです。
すると、おもむろにうちの母が母犬(中型犬)をひっくり
返してくらべたという、なんともいえない話がありました。
母は強いというか、恥じらいはどこに捨てた?というか…。
     
それと「子犬の刑」は妹の実体験に基づくものでした。
寝転がってる妹の顔に、率先してのっかかったまま動かない
子犬の腹は、たいそう生温かかったそうです。(笑)      
     
(「すべて世はこともなし1.5」を改題しました。)
      
      

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