さらさら… さらさら… 枯れ草の中に、とり残された幼な子がひとり…。 かすかに水の流れる音が、無心に眠り続ける子の頼を撫でるようにして通りすぎていく。 その感触に、うずくまるようにして眠っていた幼な子の目がゆっくりと開き、二三度瞬き を繰り返す。 まだ覚めきらぬ目を、手の甲でこすりながらようやく起き上がると、そこは見渡す限りの 草の原だった。 ──どこだろう?── まるで子犬のように小首をかしげて考えてみるが、ここがどこなのか、どうしてここにい るのか全く解らない。 ただ、不思議なことにはっきり自分にも解るのは、ここにいるのは自分たったひとりきり だということだけだった…。 「ひっく…」 小さな子供が、今にも泣きそうな顔で草むらの中を歩いて行く。 必死に泣くまいとこらえているらしいが、もう限界なのだろう。 かすかにしゃくりあげる声が口から漏れる。 ──失くしちゃった…ぼく忘れちゃった!── そのことだけが頭の中で、繰り返し繰り返しわんわんと割れ鐘のように鳴り響く。 確かに覚えていたのだ。とても大切な事を。それが何一つとして思い出せない。 そう、全て忘れてしまった今でも大切なものだと知っている何かを…。 何かなくしちゃったんだ…消えちゃった…とても大切なことだったのに! 思いださなきゃ!早く思いださなくちゃだめなんだ! 幾度もしゃくりあげながらも歩く幼子の足や手は、一足ごとに枯草の刃物のような鋭さに 傷つけられていく。 「いた…っ!」 踏み出した足を襲った激痛に思わずその場にうずくまる。 おそるおそる足の裏を見ると、紬い茎が深々とほぼ直角にささっていた。 きゅっと目をつぶり息を止めると、痛みに顔を歪めながらその茎を思いきって抜き取る。 とたんに今まで以上の痛みが血とともに流れだし、再び傷口を押さえてうずくまる。 それでもはやる心にせかされてか、まだずきずきと心臓の鼓動にあわせるかのようにうず く足を庇いながら立ちあがろうとするが、全身に走った激しい痛みに耐え切れず、べたん とその場に座り込んでしまった。 「ふっ…っく…あっ…えっえっ…」 足の痛みと心細さに情けなくなってとうとう泣き出してしまう。一度泣き出してしまった のが最後だった。 今まで我慢していた分だけ涙が後から後から流れでる。 やっと自分がいる場所に気付いたのか、ぽろぽろとこぼれる涙を拭いもせず、ひどく不安 気にあたりを見渡す。 いったいここはどこなのだろう…?小さく首を傾げる。 ましてこれから何処へ行き、何をしなければならないかなど解る筈などなかった。 自分より遥かに背の高い枯草の群れは、幼い視界を塞いで、歩いても歩いても何処へも行 けないような、このまま誰にも逢えないまま、ひとりぼっちのままここで死んでしまうの ではないのかという不安が、小さな胸を締め付ける。 「──さん。」 この世界で目覚めてから初めて桜色の小さな唇からこぼれた言棄は、主に気付かれぬまま ねっとりと皮膚にはりつくような空気につつみこまれ消えた。 見上げると、わずかに草の間から見える空は、濃いミルクを流し込んだように真白く不透 明で、一歩先さえ霧にはばまれ何も見えない。 もしここが世界の終りだと誰かが言ったとしても過言ではないのかもしれない。 「──さん。」 無意識のうちに再ぴ口から浴れた言葉に首をかしげた。 何か大切な人の名だったような気がする。 …必死に思いだそうとしたけれど激しい頭痛に阻まれそれ以上はどうしても駄目だった。 大切な事なのに… とっても大事なことなのに…。 幼な子の思考をさえぎるかのように、いきなりざっと強い風が吹き上げる。 風は淡い若草色の髪をかきみだしながらいっせいに枯草の原にうなりをあげさせる。 それは大きく、まるで生き物のようにゆらゆらと波うちながらうねりはじめた。 枯れ草どうしが激しくこすれあい、乾いた音をたてる。 その音は、いつしかひとり立ちすくむ幼な子のまわりをとりかこむ。 今の今まで死に絶えていたかのような静寂がふいに破れ、世界が騒ぎ出す。 ごう… ごう… その音はまるで自分にむかって『出ていけ』と大勢で騒ぎたてているように聞こえる。 他人に対しまるで無関心だったものが、突如自分に向かってその牙をむき、襲いかかって くるような恐怖にかられる。 「やだ…だれか…」 助けを呼ぼうとするが、誰の名も口から出てこないのにがく然となる。 「ひっ…!」 足の痛みも忘れて無我夢中で草原の中を泳ぐように走り出した。 何処に行けばいいのかもわからないまま、ただがむしゃらに。 出ていけ…! 出ていけ…! 走れば走るほど、後ろから追われている感覚は徐々に大きくなってゆき、恐怖もよりいっ そう強くなる。 「あつ!」 傷ついた足の爪先が何かにつまずき、大きく世界が回転したかとおもうと、地面にそのま ましたたか体を打ち付けられ、一瞬息がつまる。 「いた…。」 転んだショックでくらくらする。 擦り剥いた膝をかかえこみ鈍い痛みにきゅっと唇を噛む。 しかしそんな痛みより、どうしようもない孤独感に押し潰されてしまい、とうとう地面に つっぷしたまま大声で泣き始めた。 誰かに助けてほしかった。 誰かに来てほしかった。 土を握りしめた手で地面を叩く。 そうでもしていなければ、こわくてこわくて気が狂いそうだった。 |