おう、おうと地を這うような低い音が聞こえてくるのに気付いた。 それは風が鳴く音なのだろう。 風は地面を空気を揺さぶり、振動となって自分を難なく包み込む。 全身が耳になったような、そんな不思議な感覚が奇妙に心地よく、 小さく息をつく。 何を思うでもなく、重い瞼をこじ開けるようにして開いた途端、光の洪水 がどっと押し寄せる。 眩しさは痛いほどの刺激となって、たまらず再び目を閉じてしまう。 ひとつ息をつくと、少しずつ光に目を慣らしながらゆっくりと周囲を 見渡してみる。 ようやく、自分がどこか岩場のような場所に横たわっている事に 初めて気付いた。 赤茶けた岩肌から視線を少し上にずらせば、青一色の世界が視界一杯に 広がっていた。 見知らぬ風景に少し驚いて、二三度瞬きをしたあと、その青は空の色だと 知り安心する。 ドウシテ…ココニ…イルンダロウ? ようやく、自分の置かれた状況の特異さを感じ、ここに至るまでのことを 思い出そうとした。 しかし、未だ頭の芯がはっきりしない状態ではうまく集中できない。 結局、すぐに考えることは諦めてしまった。 起き上がろうとしたが、指先がかすかに動くだけでまるで感覚がない。 腕だけでなく、両足もまた同じように感覚がない。 オレテ…ル? もしや折れているのではと思い、無造作に投げ出した両手に視線を向ける が、多少のすり傷があるだけで目立った外傷はないようだ。 ならば、ただ痺れているだけなのだろうという事にして、また目を閉じて しまう。 そうやってみて、改めて今の自分がどれだけ眠いのかに気付く。 アトデ…カンガエヨウ…。 今はただ、全身をけだるく包むこの睡魔に身を任せていたかった。 ふと、もうこのまま二度と目を覚ますことが出来ないかもしれないという 恐れに似た感情が心臓の上をよぎる。 しかしその感覚は、まるで泡のようにすぐに消えてしまった。 頬に当たる岩肌の、少しざらついてはいるがひいやりとした冷たさが 心地いい。 これ以上ものを考えること自体が煩わしく、また動くのも面倒だった。 ならば、このままでいいではないか。 たとえ死に至ろうとも、再び目覚めようとも大した違いはない。 少しだけ体を動かして楽な姿勢になると、安堵の溜め息をつく。 その姿が、まるで胎児のようである事など気付かないまま、ゆっくりと 睡魔に己の全てをゆだねた。 パチパチと何かがはぜる音で目を覚ます。 心地よい眠りから戻りかける意識を、全身が引き止めようとするが、 近くで焚かれているだろう火の明るさと暖かさに強い興味を魅かれ、 まだ眠気の残る瞼をこじ開けた。 首を少し曲げると、予想通りたき火が視界に入る。 燃えやすいよう組まれた薪は、決して自然にできたものではない。 それを起こした者がいる筈だ。 しかし、周囲をぐるりと見渡してみても誰かがいる気配はなかった。 たき火を起こした人間は、どこかに行っているのだろうか。 勢いよく燃え上がる炎の勢いと、半分近く炭化した薪から考えても、 つい先程ここに入ったという様子ではないようだ。 あえて洞窟の外を見なくても、既に今が夜だということは解る。 どうやら半日以上も眠っていたようだ。 いくら眠りが深かったとはいえ、侵入者を感じ取れないくらいだった のだろうか。 気配を抑えるのが得意な人間なのだろうか。 沸き上がる疑念を感じはしたが、起き上がって探すのもおっくうで、 ちらちらと踊る炎をぼんやりと見つめていた。 しかしすぐに顔を上げ、洞窟の外へ視線を向ける。 誰かが近づいてくる足音が聞こえたからだ。 その足音の主は、闇の中からゆっくりと姿を現し自分の前で止まった。 それはひとりの人間の男だった。 年齢も性別も容姿も、興味などなかった。 ツヨイ…イキモノ…。 今一番必要で重要な事は、目の前に立つその男が己よりも遥かに力ある 生き物だという確認だけだ。 全身から溢れんばかりの覇気と生命力が、その生き物の強さをはっきり と示している。 ドウ…スル? この男が自分に興味以外の…害意を持っているのなら逃げるか、 戦うかどちらかを選ばねばならない。 しかし、満足に手も足も動かせない今、そのどちらも不可能だ。 警戒の色をその瞳に走らせながら、じっと相手の様子を窺う。 痛いほどの沈黙のあと、彼はようやく全身から緊張をといた。 少なくとも、自分に害をもたらす気がないことが解ったからだ。 それだけ解ると、とたんに相手に対する興味が失せ、彼はゆっくりと 目を伏せる。 たき火の暖かさが、また彼の意識を眠りに引き込もうとしている。 その呼びかけに応えようとしていた彼が再び目を開けたのは、ふいに 先程の生き物…いや人間の男が自分の髪に触れたからだ。 触れられる事を嫌い、それを除けようと思ったが、髪を静かに撫でる 手の心地よさが気に入り、そのままにしておく。 「………。」 男の口が小さく動くのに気付き、じっとその口許を見つめる。 何か言っているようだとは思ったが、結局理解は出来なかった。 その内容には興味は湧かなかったが、男の声は心地の良い音だった。 低い、どこか優しい音とその手に導かれるようにして眠りにつきながら、 ふと、己の中でひとつの疑問が浮かんだ。 コレハ…ダ…レ? 何故か自分は、この不思議な生き物を知っているような気がした。 それはこの場所で目覚めてから初めて、己以外に向けた興味だった。 一匹の獣のように、胎児のように身を丸め何度目かの眠りについた 者の髪を手持ちぶさたに撫でながら、男はふと周囲に視線を向ける。 そびえ立つようにして並ぶ岩山は、赤茶けた大地と同じ色をしている。 岩山のふもとにまばらに生えている植物の緑色は、圧倒的なその赤に 対し、ささやかながら抵抗しているようにも見える。 「…なるほど。」 改めて己のいる場所を確認し、男は感心したように小さく呟く。 一見すれば荒廃している、といっても間違いない風景だろう。 しかしそんな言葉を飲み込ませてしまう迫力のようなものが、 ここにはあった。 それは…陳腐な表現だが、ここには命の力が溢れているからだ。 アスファルトですき間なく覆われ、弱り病んだ土地などとは違い、 ここは本来ある生命力を誇らしげに輝かせていた。 「母なる…大地、か。」 思わず呟いた己の言葉に、ただ苦笑する。 冥界での戦いの後、心身ともに深く傷ついた弟が、憑かれたように やってきたのは、この赤茶けた岩だらけの土地だった。 傷ついた聖闘士がその身を癒すために、自然の中に身をおくことは ままある。 そう、かつてカノン島で彼自身がそうしたように。 己の傷を癒すのに最も適した場所を、無意識のうちに探り当てる その姿はまるで野の獣のようだ。 ただ、白い壁に覆われた病室で、何本もの人工的な管に戒められたよう に繋がれるよりは、今のこの状態はこの生き物にあっている。 いや、案外それが正しいのかもしれない。 人間とて本来は、この大地の上に命をつなぐただの生き物なのだから。 傷ついた心と体を癒すのに、大地の力を借りるのならば、人間である 必要はない。 むしろ獣に近い状態であった方が、己の傷を癒すのには都合がいい。 人工物に囲まれ、生きる勘というものが薄れてしまった人間には、 自然が作りだす癒しの力を捕らえることが困難なのだ。 「…皮肉なものだな。」 一輝は小さく呟く。 ハーデスによって傷ついたものを、その祖母であるガイアの力を借りて 癒そうというのは、まさに皮肉でしかないだろう。 自我の消滅寸前まで追い込まれた瞬にとっても、今のこの獣に近い状態 の方が楽なはずだ。 獣になった、といっても本当の意味での獣になった訳ではない。 受けた傷を癒すために、生存本能が一番強い状態、すなわち一番獣に 近い状態となるのだ。 何も考えず、何も感じず、ただ傷ついた体を癒すことだけに集中できる 環境と行為だけが、今の瞬にとって必要だからだ。 その為の場所であり、獣としての眠りなのだから。 逆を返せば、ここまで自分自身を変えないと癒しきれない程の傷を 受けたという事でもある。 「…ふ…。」 小さな息を吐き、眠っていた弟という名の獣が目を覚ます。 そして、ゆっくりと視線を自分の方へと動かす。 目を覚ますたび、この生き物は最初にこうやって一輝を見るのだ。 「弟」という人間であったその瞳は、獣そのものの無垢な光沢で 一輝を見つめる。 しかし、それは兄としての自分を見ているのではない事は解っていた。 恐らく、単に自分の近くにいる生き物をただそうやって認識し直して いるだけなのだろう。 それでも何とはなしに、兄である自分がここに居ることを認め許して いるかのように思ってしまう。 そんな都合のよい解釈をしてしまう位には、この獣となっている弟を 気に入っているのだと、他人事のように判断したあとは、ただ苦笑する しかない。 『兄さん、僕を撃って!』 冥界でそう訴えた弟の言葉が、ふと蘇る。 何を思い己が身を犠牲にしようとしたのか、ある程度までは想像がつく。 自分の命ひとつで、全てが解決するのなら…と考えたあたりは、確かに 瞬らしかった。 しかし、本当の奥深くに、弟本人でさえ気付かないほどの場所で、 どんな思惑が働いていたかまでは解らない。 結果的には、弟は死なずにすんだ。 だが、それは瞬本人にとって本当に幸運だったのかどうか。 「…ちっ。」 結論の出せない、堂々めぐりの思考に終止符を打つように、 わざと大きく舌打ちをした。 目を覚ませば、必ずその男はそこにいた。 今の己の体が完全ではない事は充分解っている。 それだからこそ、獣や鳥といった外敵から身を守るのに最適なこの場所 を癒しの場に選んだ。 その大切な場所に見知らぬ男がいる。 それなのに、どうして自分はそれを許してしまうのだろうか。 ミシラヌ…シラナイ? ふと小首を傾げる。 知らない…のだろうか。 本当にそう、なのだろうか。 閉じていた目を開くと、改めて男を見つめる。 シラナイ?シッテル? どこかで見た…いや知っていたような気がする。 頭がはっきりしない。 考えるのが鬱陶しい。 何もかも放り出して眠ってしまいたかった。 そう思った途端、何度目かの眠りが全身を急速に包み始める。 望み通り煩わしい事から開放され、安心して目を閉じるが、ちりちりと 心臓の辺りを爪先で引っ掻かれるような感触だけがなかなか消えない。 ネムイ…イヤ…イタイ、イヤ… 癒しの眠りを邪魔する胸の微かな痛みに、苛立ちまじりに息を吐く。 ふいに炎を挟むようにして、向かい側に座っていた男が立ち上がる。 反射的に目を向けるが、男はゆっくりと近づくと、そのまま隣に座り 直しただけだった。 そして、いつものように彼の髪をゆっくりとなで付け始める。 不思議なことに、そのとたん先程までの胸の痛みがなくなってしまう。 ようやく心地よく眠れる事に安堵し、睡魔に身をゆだねながら、 それでも…どこか胸の奥に何か残っているのに気付いていた。 それが何であるかは、今は探る必要がない事だけは解っている。 この…癒しの眠りが終わりを告げる時、その答えは自然に解るだろう。 それで今は充分だった。 何度目かの昼が過ぎ、夜が終わり、やがてここに辿りついてから 一週間ほど経っていた。 相変わらず一日の大半を眠って過し、夜になると僅かの間だけ目を 覚ます。 最初の数日は、飲まず食わずのままほとんど眠ったままの状態だったが 最近では徐々に目を覚ましている時間が長くなっている。 まだ食べ物は一切受け付けないが、少量の水は口にするようになった。 そんな行動から判断しなくても、弟が心身共に受けた傷が少しずつだが 癒えていくのが、その身を包む小宇宙で解る。 それでも、未だに獣の状態から人間へと戻ってくる気配はない。 思ったより日数がかかっているようだ。 この数日で土と埃で薄汚れている筈なのに、外から差し込む月の光を 全身で浴びているその姿は、うっすらと燐光すら放っているようにさえ 見えてくる。 不思議な生物だと思う。 姿もその心も紛れもなく弟のものだというのに、目の前にいるこれは、 そんな個という殻などとうに越えてしまったように感じられる。 弟として、瞬というひとりの人間としてあった存在の方が実はかりそめ のもので、今この状態の彼こそが本来の姿なのではないだろうか。 現に、聖闘士として死に急ごうとしていたあの時とは違い、獣となった 今はこうして懸命に生き延びようとしている。 「馬鹿馬鹿しい。」 暴走しかけている思考に、自ら歯止めをかけるようにわざと声に出す。 頭を冷やそうと洞窟の外へ出れば、黄色い大きな月が迎えてくれる。 微かに吹く風が心地よい。 赤茶けた岩山を何気なく見渡しているうち、ふとこの場所だけが時間を 止めているように感じる。 時の流れは平等だ。 たとえ止まっているように見えても、ただゆっくりと変化しているだけ なのだろう。 それは、人間という生き物が存在しないせいだ。 人工的な力で無理やり加速されない、自然のみに任された時の変化は ひどく緩やかなのだ。 「…ふん。」 そんな事を考えているうちに、己も人間だという事に気付き、鼻で嗤う。 ──人間、獣、鳥、植物、海、大地。── そういった分類をしないと落ち着かないのが人間の性なら、紛れもなく 自分もそのひとりだという事に気付いたからだ。 そして、そうやって自分が何であるか確認すればするほど、奇妙な 違和感は意識の底に染みのように張り付いていく。 違和感の正体には薄々気付いてはいるが、あえてその答えから目を そらす。 真っ向からその答えを受け止められる程、まだ自分に正直になれない からだ。 どこか子供じみているとは解ってはいたが。 深く浅く、眠りの中を漂っているうちに、それはまるで泡沫のように 浮かんでは消えていく。 ──そう、何度も夢を見た。── 懐かしさを誘うもの、痛みを伴うもの、思わずじんと胸の奥が 熱くなるもの…。 いつか見た、燃えるように赤い空の色。 風にそって波のように揺れる、一面の草の原。 繰り返し、ひいてはまた満ちてくる波の音。 空に浮かぶ星と、地上に灯る家々の明かり。 そして…抱き締めてくれた誰かの温かい手。 大勢の人々の顔が、浮かんでは消えていく。 虹色の光をきらきらとちりばめながら。 それは、封印した筈の自分の記憶の断片だ。 ただ、それが本当に自分のものだと解っているのに奇妙に他人めいて 見える。 それでも夢のような記憶の泡に、こうやって包まれているのは、 何故か温かく心地いい。 今こうしてここで全力で自らを癒さなければならない程のダメージを 負っているというのに、そんな辛さは記憶の中から出てこない。 フシギ…。 戦った記憶はある。 もちろん傷つけ傷ついた記憶も。 それでも、夢の中の自分は笑っている。 気負うことなく、そして偽ることなく、ごく自然に笑っている。 それはきっと、一番大事な何かを自分は手に入れているからなのだろう。 ならば、己が還るところはひとつだけ。 時が経ち、自分が負った傷が癒えればいずれそれが何かも思い出す筈だ。 それまでは、この温かい夢の中で静かに眠りについていればいい。 ゆっくりと体の力を抜きながら、小さく微笑む。 還る場所が、大切なものが自分にはある。 ──それは何と幸運な事だろうか。── 少なくとも、それがどんなに大切で愛おしい事なのか、記憶はなくても はっきり解っていた。 瞬の小宇宙の不安定さには気付いていた。 そんな状態の弟がふいに姿を消したとき、どうしてわざわざ後を追って きたのか、自分でもはっきりと解らないでいた。 常ならぬ弟の様子が気になったから、だろうか。 今まで見ることの出来なかったものが見られる、そんな予感めいたもの がしたからだろうか。 確かに瞬の受けたダメージは、予想以上に大きなものだったようだ。 こうやって、人工的な治療より自然の力を借りて癒そうとするくらいに。 |