それが気にならなかったといえば嘘になる。 しかし、こうやってわざわざ見舞いに来る程心配してはいなかった筈だ。 では、何が見られると思って来たというのだろう。 それほどまで、興味を魅かれるようなものは感じなかった。 まして、そんな漠然とした感覚を信じ、わざわざ足を運ぶほど 物好きでもなかった。 結局、どれも正解で、どれもが全てを満たしきれていない。 自分の事なのに、意外に解る事が少ないという事実に改めて気付く。 いや、本当はただ解らない振りをしているだけなのかもしれないが。 面倒な考え事をするのはやめ、ふと目の前に横たわる弟に視線を向ける。 案外、この弟なら知っているかもしれない。 そんな気がした。 傷が癒え、徐々に体力を取り戻しつつある事を、そして、再び己の足 で大地を踏みしめるまでそう長くはかからないだろう事を、正確に把握 していた。 それにつれ、濃い霧が立ちこめていたような頭の中が、ゆっくりと 晴れていくのを感じてもいた。 そんな自分の変化を一通り確かめると、ゆっくりと身を起こす。 さすがにこの程度まで回復すると、癒しのための眠りをほとんど必要と しなくなる。 とはいえ、まだ動き回れる程にまでは至っていないせいか、時折 こうやって周囲の景色を眺めるだけに留まっている。 ツ…キ…。 ふと見上げれば、洞窟の外に紺色の空に大きな月が浮かんでいるのが 見えた。 何を思うでもなく、その月を見つめる。 オツキサマ…マアルイ。 奇麗だと思った。 昼間の赤と青のコントラストがまるで嘘だったかのように、何もかも 濃い闇に飲み込まれている。 その闇をものともせず輝く真円の月が、何よりも今この瞬間美しいと 感じる。 それは、生きている、いや生きようとしている力の象徴のように思えた。 ……。 何か大切なものがあった。 今は忘れてしまっているが、大切な何かがあった。 それが解ってはいるが、不思議に苛立ちや焦りといった感情は浮かんで こない。 ひどく落ち着いている自分が、ここにいた。 必ずいつか戻ってくるものだと、知っているからなのだろう。 そしてその封印がもうじき解ける事も、心のどこかで解っていた。 微かな物音に目を覚ませば、眠っていた筈の弟がゆっくりと起き 上がるところだった。 「……?」 瞬は、体に残る眠気を振り払うようにひとつ欠伸をし、大きくのびを するとよろよろと四つんばいのまま、洞窟の外へと出ていった。 ふらつく体のバランスを取りながら進むところをみれば、まだ本調子 ではないのだろう。 ようやく洞窟から外へと出た瞬は、真直ぐに遥か頭上へと視線を向ける。 「月、か。」 後を追うように出てきた一輝は、真摯に見つめる弟の視線の先を見る。 そこには真円の月があった。 月は落ちてきそうなほど近くに感じる。 紺色の空と赤茶けた岩山、そのふたつを押しつぶしそうなほどに。 聞こえるのは、吹き抜ける風の音と夜に生きる者たちの息遣いだけだ。 「く…う。」 深呼吸とともに吐きだした弟の息は、微かな声へと変化する。 月を見つめたままのその行為は、まるで遠ぼえをする獣を連想させる。 「……。」 白い月光をその全身に浴びてたたずむ弟の姿を見ているうちに、 何と表現していいのか解らない不思議な感覚が、一輝の胸中に沸き 上がる。 本当の生き物がもつ美しさというのはこういうもなのかもしれない。 それは『生命』の美しさであり、同時に獣だけがもつ『無』の感覚なの だろう。 雑多な感情や欲に包まれた人間では、決して持ちえない美しさだ。 その事実を、こうやって獣になった弟で実感するというのは奇妙な話だ。 小さく苦笑いを漏らした一輝のその息遣いに、瞬がぴくんと体を 震わせる。 そして初めて一輝の存在に気付いたかのように、ゆっくりと視線を 向ける。 「どうした?」 獣特有の『無』の表情しか浮かべない弟のその視線に、多少の居心地の 悪さを覚えた一輝が尋ねる。 瞬はじっと自分を見つめたまま、ぴくりとも動こうとはしない。 小さな溜め息をつき、一輝がひとつ足を踏み出すと、瞬は警戒し逃げ ようとするそぶりを見せる。 「…瞬。」 何気なく口にした名前に、瞬が反応する。 そして、かすかに困惑の色を浮かべる。 さすがに自分に与えられた名前までは、忘れていなかったようだ。 考えてみれば、記憶をなくした訳ではないのだから、当然といえば 当然だが。 恐れさせないようになるべく静かに近づくと、そっとその髪に手を 埋める。 「不思議なものだな。」 話しかければ、自分の口許をじっと見つめる。 人間として、弟としての表情、しぐさ。 今目の前にいる、一匹の獣としての表情、しぐさ。 同じ顔、同じ姿をしているが、その面に現れる表情は違っている。 「このまま獣でいるか。」 このままでいれば、少なくとももう戦いに駆り出される事はないだろう。 それを瞬が望んでいるとは思えないが。 そんな事をぼんやりと考えていると、ふいに腕を掴まれ、視線を向け 思わず息を飲む。 今までになかった変化が、弟に現れていたからだ。 それは獣には決してない、人間としての感情。 「…還ってくるのか。」 素直に手放しで喜べない複雑な想いに、一輝は小さく呟くだけに 留まった。 男の口許が動き、自分に向けて何か言った。 何を言ったのか、理解はしていなかった。 どこか聞き覚えのある、懐かしい音だったと思う。 しかしその音を聞いた途端、ふいに頭の中でなにかがバチンと音を 立てて弾けた。 弾け飛んだ勢いのまま、止められていたものがどっと全身を駆け巡る。 そしてゆっくりと、自分が今までとは違う別のものに変わっていくのを 感じる。いや、変わっていくのではない。戻っていくのだ。 封印…トケ…タ。 夢の中でかいま見た記憶が、体の隅々まで染み込んでいく。 それまでどこかふわふわと頼りなかった世界が、徐々にはっきりとした ものへと変わっていく。 封印を解く鍵はたった三音からなる言葉だった。 その音、いや言葉は…。 シュン… …ボクノ名前ハ…シュン。 ……瞬……。 自分が何であったのか、そして今までどういう生き方をしてきたのか。 名前を思い出すと同時に鮮やかに蘇っていく。 ようやく、大地にしっかりと根を張ったというような確かな存在感を 覚える。 今まで積み上げてきた記憶こそが、自分と世界とを繋ぐ鍵である事を 初めて知った。 ……ア……? 誰かの手が、頬に触れてくる。 その行為に少し驚いて、反射的に身を引きかけたが、名を呼ばれて 踏みとどまる。 見上げれば、そこには懐かしい人の姿があった。 誰ヨリ…大切ナ…人。 そう、自分の命など微塵も惜しくないほど。 「……。」 口を開き呼びかけようとしたが、舌がマヒして思うように動かない。 こんなにも言葉にしたいのに、うまく発音できないのが酷くもどかしい。 焦りと苛立ちに唇を噛めば、頬に置かれた手が小さく撫でてくれる。 まるでなだめるかのようなその仕草が嬉しくて、その手に自分の手を 重ねる。 掌から伝わる温もりが、とても愛おしい。 身を包む温かさに満たされながら、じっと兄の顔を見つめる。 確かにここにいるのだ。 今目の前に、還る場所が現れたのだ。 だから…全ての想いを込め兄に視線を向ける。 「ニイ…サ…。」 視線を外すことなく、痺れる舌を懸命に動かす。 ──名前を呼びたい。── 大切な、自分だけに許された大切な呼び名を。 唯一同じ血を持つ兄弟だからこそかもしれない。 こんなにも、この目の前の男に焦がれるのは。 しかしそれだけではない、もっと強く深い何かが、 そう、目に見えない何かが確かにあるのだ。 還ってきた そう、僕はここに還ってきた…。 全身がその喜びで震える。 それは、また新たなる戦いの始まりと同じなのかもしれない。 また誰かを傷つけ、傷つけられるのだろう。 きっと苦しいだろう。 きっとまた涙してしまうだろう。 それでも今はただ嬉しかった。 もう一度、この人の隣に立つ事が出来る。 もう一度、この人と共に歩む事が出来る。 どれだけ苦しくても傷ついても、この思いがあるかぎり、何度でも 立ち上がれる。 ──兄と共に有ること。── それは自分という存在にとって唯一の、そして絶対の事なのだから。 「に…い…さん。」 ようやくちゃんと呼べた事に満足し、極上の笑みを浮かべる。 一番大切な、何よりも大事な人の名前をもう一度味わうように確かめる ように口にする。 「一輝…兄さん…。」 呼びかけに応えるかのように、頬を包む手に微かに力がこめられる。 そうやって反応が戻ってくるのが、また何よりも嬉しかった。 懸命に自分を呼ぼうとする弟のその姿に、奇妙な感情を覚える。 こんなにも必死になって、自分の名を呼ぼうとするのはどうしてなの だろうか。 目覚めた瞬間から、こうやって自分を全身で求めるのは何故だろうか。 いったい、この弟の中で自分という存在はどれほどの大きさだというの だろうか。 「一輝…兄さん…。」 ひどく嬉しそうに微笑みながら、弟はゆっくりと確かめるかのように 名を呼ぶ。 ──弟はまたここに戻ってきた。── 身を心を引き裂かれる傷の痛みに、声にならない悲鳴を上げるために。 それを充分解っている筈なのに、こうやって目の前のこの弟は何度でも 微笑むのだ。 強い、と思う。 聖闘士としての強さではない。 外見からは想像しにくい、その心の強さに触れるにつれ、いつも 感嘆せざるを得ない。 だからこそ、この弟という存在が好ましかった。 だからこそ、負けたくないと思うのだ。 そう思うからこそ、弟の前では無様な真似だけはしたくない。 それが単なる、兄としての意地とプライドから出たものなのだと解って いても。 「兄さん…。」 心底嬉しそうに、瞬が自分を呼ぶ。 たった先刻まで表情らしきものを浮かべることのなかった事がまるで 幻だったかのように。 「どうした。」 「うん、あのね…。」 何か言いたげなそぶりで、瞬が口ごもる。 無言で先を促せば、小さく微笑みを浮かべて言う。 「ただいま。」 「…ああ。」 あまりにも無邪気に笑う弟のその笑顔と、発せられた言葉の重みを 同時に感じながら、一輝は言葉短く応える。 「ずっと…側にいてくれたんだ。」 少しはにかむような顔で、瞬が尋ねる。 記憶をほとんど封じていた状態であった筈だが、それでもここにきて からの事は、うっすらとではあるが覚えているらしい。 「…暇だったからな。」 無愛想に応えたつもりだったが、何がおかしいのか弟はくすくすと 笑っている。 「何だ?」 「兄さんが暇でよかったなぁって。」 「そうか。」 「うん。」 瞬は子供のようにこくりと頷く。 長い眠りから覚めたばかりのせいか、仕草や口調がどこか幼い。 それがなんとなく面白くて、くしゃりとその髪を撫でてやれば、 真っ赤になる。 「もうっ、僕は子供じゃないんだからね。」 「そうだったか?」 「……。」 少しからかえば、ぷうと頬を膨らませるところは、充分に子供だと思う。 「ふんだ。」 口をとがらせたまま、瞬が膝の土を払い落とし立ち上がろうとする。 が、あっという間に膝が崩れ、すてんとその場に尻餅をついてしまう。 目覚めたとはいえ、まだ完全には回復しきっていないようだ。 「あれ、立てないや。」 「無理に動くな。」 笑って体の不調を誤魔化そうとする弟の頭をぽんと叩くと、そのまま 抱き上げる。 驚いた表情のまま、瞬は慌ててしがみついてくる。 それからゆっくりと、嬉しそうにまた微笑む。 「ここも、もう用済みだな。」 今まで弟が眠りについていた洞窟を見やると、一輝が何気なく呟く。 「そうだね。」 瞬もまた兄のその言葉に頷く。 どこか寂しそうな感覚をその台詞から感じはしたが、一輝はなにも 言わなかった。 ──獣の眠りは終わった。── 獣から人間に戻った瞬には、もうこの場所は必要でなくなった。 それでも、暫くの間とはいえ過した場所に多少の感傷があるのだろう。 「…兄さん、ほら。」 瞬がそっと空に向かって指をさす。 振り返れば、月がよりいっそう輝きを増している。 「月、きれいだね。」 「…ああ。」 囁くように弟が一輝に告げる。 何の気負いもなく、ただ素直に弟のその言葉に一輝は頷いた。 兄と同じように月を見上げるふりをしながら、そっと瞬はその横顔を 盗み見る。 月の光に照らされたその横顔は、普段とはまた少し違うように見えて 不思議な気持ちになる。 そういえば、こんなふうに兄の顔をゆっくりと見つめる機会など なかった。 今が昼間でなくてよかったと思う。 もしそうなら、こんなにも兄の側には寄れなかったかも知れない。 嬉しさより恥ずかしさの方が先に立って、こんなに素直に甘えられ なかったかも知れない。 子供のように抱き上げられたまま、瞬は気付かれないように小さく笑う。 「どうした。」 「ちょっと思い出し笑い。」 聞きとがめられて、そう誤魔化してしまう。 兄の不器用な優しさが、くすぐったくて心地よい。 これは、がんばった自分へくれた、誰かからのご褒美なのだろうか。 そんな自分の考えも、子供じみているとは思うが、今はそう思って いたかった。 あと少しの間は、こうやって甘えさせてくれそうで、ちょっと 気恥ずかしくて嬉しい。 まだ頑張れる。 まだ戦える。 こんな優しい時がもらえるのなら、大丈夫。 きっと生きていける。 『兄さん、大好き。』 幼い頃のように、素直にそう言ってみたかったが、それを口にしたなら、 きっとこの優しい時間が終わってしまう。 だから、別の言葉にすり替える。 「本当に、きれいな月だね。」 瞬は満足そうなため息とともに、ゆっくりと兄の肩越しに月を眺めた。 *END* |