「兄さん…今だよ!ハーデスを倒すチャンスは、今しかない!」
僕は兄さんに優しくそう言った。
 「さぁ僕に構わず…僕の体ごとハーデスの魂を打ちくだいて!」
兄さんは僕の顔を強い瞳で見据えたまま、微動だにしない。
その瞳の中にある色は、深い哀しみ…。
 「僕は嬉しいんだよ。僕一人の命で地上の多くの人達が
  救えるんだもの…。」
この言葉は嘘じゃない。だけどそんな事など、僕にとって本当は
どうでもいいことだった。
兄さんの顔が、苦渋でかすかに歪む。
そんな兄さんを見て、僕の心がちくりと鋭い痛みを覚える。
自分がどれくらい酷い我儘を言っているのかくらい解っている。
でも…これは僕にとって、いや兄さんにとっても最後のチャンス
なのかもしれない。
そう、互いが互いに縛られる事もなく自由になる為の…。
兄さんは、固くその拳を握り締めた。
    
    
    
光と闇の回廊を渡りながら、僕は考えていた。
自分を殺してくれなかった兄の事を。
そしてなぜ、こんな茶番が繰り返されてきたのだろうかと。
人にせよ、神にせよ、どうして同じ過ちを飽きることなく繰り返す
のだろう?
誰もが一様に平穏な暮らしを望み、そして誰もが他人を傷つける
事を良しとはしない。
しかし、ひとたび戦が始まれば狂っようにその両手を紅に染め、
それを正義と歌う。
だが、それも戦が終われば、罪だと、ただの人殺しだと互いに罵り、
こんな愚かな事は起こらないようにと言う。
まるでメビウスの輪のように、何度も何度も同じことを繰り返し、
繰り返してはまた巡っていく。
アテナの行っている事さえ、決して正しいとは思っていない。
…いや、本当は正しいのかもしれない。
ただ彼女の行為が、彼ら人間には到底受け入れきれないほど清い
だけなのだろう。
聖戦と呼ばれるこの戦いが、遥か太古の昔から繰り返されている
のがいい例ではないか。
ハーデスが言ったように、人間は本当に愚かで哀れな生き物なの
かもしれない。
このまま放っておけば、自からの力で己を滅ぼすどころか、
この地上に住む全ての生き物でさえ滅ぼしてしまう、ただの害虫に
等しい者なのかもしれない。
    
  だけど、それが何だと言うのだろう?
    
それが神にとって人間を滅ぼす理由になりうると思うのだろうか?
ならば、神という存在も所詮はたいしたものではないな…
と僕は思わず苦笑してしまう。
やがて、光と影が織なす長い回廊は終わりを告げ、僕は地上へと
静かにおりたった。
  
  …見渡す限りの廃墟がそこにあった…。
    
いや、それも正しくないのかもしれない。
ここにあるのは見渡すかぎりに広がる灰色の砂漠と、黒褐色に
染められた雲が重くたちこめた空のみであった。
地面からあちこち突き出た灰色の物体は、もと建物らしい残骸だ。
おそらく、少し前まではここは街だったのだろう。
その残骸としての形さえ保てないのか、ねっとりと肌に張り付くよう 
な風が吹くたび、ぼろぼろと跡形もなく崩れ落ちていった。
そして、新たな灰色の砂粒が砂漠を作っていく。
あとに残るのは、ただ“死”そのもののような静寂…。
     
  …空には、今にもこの地上に落ちてきそうなほどに
     大きく輝く、血のように赤い月…。
     
僕は、その光景に再び苦笑を浮かべる。
 「ごめんね…。」
誰に向けられる言葉でもないそれが、自分の口から知らず溢れる。
望まない、と言うのは所詮こんなものかもしれない。
 人を傷つけるのが嫌なら、人がいなければいい。
 戦いがむなしいのなら、戦を起こす者がいなくなればいい。
そんな短絡的な考えをした覚えはないが、やはりこのありさまを
見れば、心のどこかにそんな思いがあったのだろう。
ゆっくりと歩きながら、あたりを再び見わたす。
僕が欲しいのはただひとつ。それさえあれば…あとは…。
 「たぶん、もう僕は狂ってしまったんだね。」
声に出して、そう呟いてみる。
それともこれが『正気』なのだろうか。
ふふっと、何だかおかしくなって笑い声さえ口からもれる。
いったい誰が僕を正気か否か決めるというのだろう?
     
すでに廃墟と化したこの地上で。
     
廃墟は終わることなくどこまでも続いていた。
生きているものは、人はおろか動物、虫、植物にいたるまで
ひとつとして見つけることはできなかった。
…その死骸でえさえも…。
ただひとつ、砂の上に横たわった男を一人除いては。
男の体はあちこち酷く傷ついており、傷口から流れ出した血は
その流れを残した形のまま、すでに乾いてこびりついている。
両の目はきつく閉ざされ、倒れたまま少しも動かないその姿からは、
彼が死んでいるのか、生きているのかすら解らない。
ふいに、もそりと周囲の砂が動く。
チチッと甲高い音がしたかと思うと、彼を取り囲むようにして
何かがうごめき始める。
次から次へと地面の中から湧き出る黒いそれは、横たわる男から
一定の距離以上には決して近付こうとはしなかった。
かといってその場を去る気配もみせず、しきりに未練がましい鳴き
声のような音をたてる。
     
   キキッ   チチッ
   ギチギギッ  ギギギギッ
     
時折数匹が、触手らしき細い糸状のものを伸ばす。
しかし、昆虫の黄色い体液のような触手は、ある距離まで伸ばすと
何か見えない障壁でもあるのか、弾かれたように触手をひっこめる。
突然ざわざわと、その黒い影達が波打つように騒ぎ出しはじめる。
何かから逃げるかのように、幾匹が地中に慌てて消えた。
やがて、男を取り囲んだ輪の一部分が、円形に分かれた。
 「兄さん…。」
小さな、遠慮がちのすずやかな声がどこからか響き、
瞬がその円の中心に、虚空から姿を現した。
黒いゆったりとしたローブを纏い、体からはオーラのように
まばゆい小宇宙を発している。
     
   ヂイイッ  ジジューイ
     
その小宇宙の光に触れた黒い塊のいくつかが、激しい悲鳴をあげ
ながら蒸発していく。
そんな周囲の事など少しも気にせず、その翡翆の瞳は、ただ一点
だけを見つめ微動だにしない。
すい、と音もたてずに地面におりたつ。
影たちの悲鳴は一段と大きくなり、まるで瞬の為に道をあけるよう 
にうごめき、目の前がすうっと開かれる。
瞬は、そんな周りの状況には目もくれず、兄の側まで静かに歩み
寄ると両膝をついた。
 「…兄さん…。」
ささやくように兄の名を呼ぶと、思った以上に傷ついているその
様子に軽く眉をよせ、掌をかざす。
そっと愛しげにその頬を両の掌で包みこむと、彼の体から淡い陽炎
のような光が現れ、それが瞬の両手を伝い一輝の体へと流れ込む。
その光が一輝の全身に広がると、まるで水が一瞬のうちに蒸発する
時のように、しゅうしゅうという音をたてて傷がふさがっていく。
     
   千切れた血管は再び繋がり
   折れた骨はその形を取り戻し
   弾けた肉は再生する。
     
みるみるうちに、一輝の全身の傷は完治していった。
さらに、自らの小宇宙を送り続けると、消えんばかりだった一輝の
心臓の鼓動は再び強く大きく波打ちはじめ、死人のようなその顔色
に生の色がもどる。
それを確認するように、静かに瞬は先程まで傷のあった場所を指で
たどる。傷は薄い筋を残したまま全て消えていた。
     
     
     

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