そっと寂しげな笑みを瞬はうかべる。
瞬は、自分の唇で兄の額へ、そして決して癒せぬ傷の眉間から
血のこびりついた頬へと触れていった。
触れた部分を中心に、広がるようにして赤みがさしていく。
最後にその冷たい唇へ己のそれを、そっと重ねる。
 …唇の先が触れるか触れないかの小さな口づけ…。
     
   キキッ   チチッ
   ギチギギッ  ギギギギッ
     
再び騒ぎ出す影たちを、瞬がすっと一瞥する。
先程まで己の兄に向けていた、優しい、暖かい瞳の持ち主とは信じ
られないくらいにそれは冷たく、見るものを凍りつかせてしまう
視線だった。
そしてゆっくりと口の両端が持ち上がり、魔物の笑みを浮かべた。
 「あげないよ兄さんは。どうしても欲しいのなら、
  今すぐ僕を殺してごらん。」
くくくっと喉の奥で転がすような笑い声をあげる。
その声に呼応するように、何匹かがざわりと身動きする音が響くが、
いっこうに瞬に襲いかかる気配はない。
それどころか、まるで瞬の体から依然わきあがっている光に脅える
ように後ずさっていく。
 「傷ひとつつける事も出来ないくせに…。」
静かに呟くと、一言だけ口にする。
 「去ね。さもなければ消す。」
その声に脅えたのか、まるで波が引くように黒い影は消えてゆき、
再び静寂が訪れる。
瞬は、ゆっくりと兄の方に向き直る。
…先程までの瞬とはうってかわり、いつもどうり優しい瞳をした
少年がそこにいた。
軽く溜め息をつくと兄の耳元に口を寄せ、囁くように呼び掛ける。
 「兄さん…起きて…。」
祈りのようなその言葉の余韻が消えぬうち、ぴくりと一輝の右手指 
が何かを掴みとろうとするかのように、内側に折れる。
静かに、だが力強くその指が拳をつくると、その瞼がはじかれた
ように開く。
 「兄さん。」
心配そうに己の名を呼ぶ弟に、一輝が指をのばしその柔らかな翠の
髪の一束をからめとる。
 「瞬?」
急な動きにきしむ筋肉の傷みに、かすかに顔をしかめながら
身を起こそうとする一輝に瞬がそっと手を貸す。
 「…瞬か…?」
一輝の目が弟の姿を捕らえ、くらむ頭を数回ふって意識をはっきり
させると再び確かめるように問う。
 「はい、兄さん。」
 「…奴はどうした。」
 「僕の中で眠っています。」
にこり、と瞬が笑う。一輝が意味ありげに視線を送る。
 「封じたか。」
 「はい。この“器”が持つ限りは。」
 「そうか…。」
言葉短くそれだけ言うと、一輝は瞬の頭を静かにひきよせ、
その額を己の胸に押しつける。
満足そうな笑みを浮かべ、瞬は自分の体を兄の腕の中に預ける。
 「これでチェック・メイトですね。
  もう、こんなゲームはおわりにするつもりです。」
はっきりとそう言い切る瞬に、一輝が苦い笑みを口許に浮かべ
ながら言う。
「やはり、気づいていたか。」
 「…僕だってそんなに馬鹿じゃありません。」
ぷうと頬を膨らませて瞬がいう。
そう。いままでの戦いは全て“神”の退屈しのぎのゲームでしか
なかったのだ。
それでも、この事実を何人の人間が気づいていたことか。
いや…その事に薄々気づきながらも見ぬふりをしていたからこそ、
ここまで来てしまったのではないだろうか?
 「沙織さんも、可哀相だね。」
     
自分がアテナ自身であると信じ込まされて。
     
言外に瞬がそう言った。
アテナという存在も、聖闘士も、結局“彼ら”の駒の一つにしか
過ぎなかったのだから。
 「お前を、ただの『器』だと過少評価したのが敗因だな。」
 「いいえ。僕にとって兄さんがどれほどの存在か、そんな事さえ
気が付かなかったのが間違なんです。だって僕を殺していいのは
兄さんだけ。他のどんな人にも僕は殺させませんから。」
…つまりたとえ“神”であろうと負けはしない、という事である。
現にハーデスをそうしたように…。
薄く微笑んだまま、凄まじい事を言ってのける瞬に、一輝が歪んだ 
笑みを口許に浮かべる。
そしてその顎を掴むと、ぐいと上を向かせる。
 「ならば、この地上を生かすも殺すも、俺の気分次第と言う
  ことになるな。」
兄の言葉に、静かに瞬が微笑み返す。
それは無言のうちにそれを肯定するのと同じ事だった。
 「兄さん、僕を殺す?」
 「…いや…。」
 「そう…。」
どことなく寂しげな口調で瞬がそう答える。
兄が目覚めたときまっさきに、何故あの時殺してくれなかったのか
聞きたいと思っていたが、結局言い出せずにいた。
たとえ聞いたとして、それで満足できるかと言えば、否という気が
したからでもあるが。
     
   キキュウウ  ギチュチュウ
     
微かな鳴き声に一輝の目が、微かに蠢く何かを見つける。
それは、先程瞬が追い払った黒い塊。まだ何匹か残っていたのか…。 
 「あれは…人の“欲”のなれの果てです。」
訝しげに目を細める兄に、振り向きもせず答える。
 「悲しいですね人間って。己の器が消滅しても、その欲だけは
  存在し続けるなんて。」
そっと溜め息をつく。
 「でも…皆この宇宙が欲しいなんてどうかしてるよね。
  本当に欲しいものなんて、そんなに多くはないのに。」
きっと、だからこんな馬鹿げた争いが起こるのだろう、と瞬は思う。
今ならこの争いごと消滅させることも出来る。
ハーデスの力を得た今なら。
こんな強大な力なんて、別に欲しくはなかった。
     
  欲しかったのは力強いこの腕。
  欲しかったのは広いこの胸。
  欲しかったのは少し低めの僕の名を呼ぶ声。
  欲しかったのは…兄さん。
     
どんなに強大な力を手に入れようとも、決してこの人の心は
僕のものにはなりはしない…。
 「…お前はどうしたい?」
一輝が静かに瞬に聞く。瞬は考えるように小首を傾げる。
しばらくして、そっと兄の腕をとり言う。
 「さあ…何も思いつかないけど…。とりあえず僕は兄さんと 
しばらくこうしていたい。」
甘えるようにその身を預けてくる弟を静かに抱きよせながら、
一輝は苦笑した。
血も肉も、その全てのしがらみをかなぐり捨てた、これが弟の
本当の姿なのであろう。
欲しいものは欲しいと、誰はばかることなく言うであろう。
今、腕の中にいるこの瞬なら。
…その為の力を手にいれたのだから。
 「瞬。」
 「何?兄さん。」
 「俺が欲しいか。」
 「…うん。」
 「ならば、くれてやろう。」
にこりと、心底嬉しそうに瞬が微笑んだ。
     
     
…月は血のしたたるような色で
    地上の者全てを嘲笑うかのように輝いていた…。
     
     
*END*
     
     


うちの場合、ふつうの瞬よりこういったちょっと「キ」てる
瞬の方が何故か人気があるようです。ちょっと不思議。
いえ、書いてるほうとしては純粋に楽しいんですけどね。(^^;)
     
うちの瞬はいわゆる「天使のよう」じゃないです。
とっても世渡り上手なので、どこに行っても適応できそう;
「欲しいものは欲しい。欲しいから手に入れる。」
が、うちの瞬のモットーです。
だって、兄との約束果たすのが目的で聖闘士になったのだし。 
これだけで聖闘士になったんだから、つくづく大物。
う〜ん;小悪魔もあっさり通り越して、すでに大悪魔かも。
でも、好き。歪んでるなぁ私も。 (笑)
     
さて、今回のイメージソングは谷山浩子の「不眠の力」です。
いいよ〜。はまるよ〜。聞いてみてね〜。けけっ。
      
      

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