とりはとりでも飛ばないとりはなあに…? 「これはね、なぞなぞなのよ。」 にこやかな顔をしたお婆さんがそう言った。 お婆さんは、子供の目から見ても小柄な人だった。 どれくらい小さいかというと、座っている木製の椅子にすっぽりと 包まれてしまいそうな程だ。 曲がった腰が、余計にそう見せるのかもしれない。 落ちついた色のショールを巻き、銀色に変わってしまった髪を、 後ろできれいにまとめている。 顔も手もしわでいっぱいで、いったい何才になるか予想もつかな かったけど、優しそうに微笑む顔はとても暖かかった。 その笑みに、つい見とれてしまっている自分に気がついて、 それがよけいに嬉しくなる。 その上品そうな物腰に対し、きらきら輝く彼女の目だけは、 悪戯っぽい光を湛えて僕たちを見ていた。 お婆さんの前には、小さな僕と同じくらい小さな兄さんが並んで 座っているのが見える。 「ペンギン?」 しばらく考えて小さな僕がそう言うと、お婆さんはほほ笑みを 浮かべたまま静かに首を横にふる。 「ちがうの?…じゃダチョウだ!」 「それは飛べない鳥。問題は飛ばない鳥だぞ。」 再び僕が答えると、兄さんが横から茶々を入れる。 「飛ばない鳥…?それってなあに?」 「…さあ。なんだろ?」 僕と兄さんがそろって首をかしげていると、しわだらけの顔を いっそうしわで埋めて言う。 「これは大人のなぞなぞだよ。」 「おとなのなぞなぞぉ?」 兄さんが訝しげな声をあげる。 「そう、大人のなぞなぞ。…わかるかな?」 「こたえはなあに?」 僕がそう尋ねると 「おや、もう降参かい。こたえはね…。」 ─こたえはね…。─ ふいに世界が大きく変わった。 ぱちくりと二、三度まばたきをして、ようやく自分が夢を見ていた ことを理解する。 「いつのまにか寝てたんだ。」 すがっていた大きなクッションから起き上がると、寝ている間に 乱れた髪を手でかきあげる。 ─とてもなつかしい夢。─ 「あ、夢じゃあなかったっけ…。」 思わずそうつぶやく。 これは夢じゃなく、昔々にあった遠い記憶。 すっかり忘れてしまっていた事だったのに、こうして夢で思い出す のも少し変な気がする。 「とりはとりでも飛べないとりはなあに…。」 夢の中でのなぞなぞを、声に出して考える。 あれは遠い記憶。答えはもう知っている。 答えは…思いをはせようとしてはっと顔をあげる。 「兄さん…兄さんだっ。」 かすかに外から伝わってくるこの小宇宙は、確かに兄さんのもの だったからだ。 そんな事を頭のなかで確認する前に、もう僕の足は部屋を飛び出し て階段を駆け降りていく。 靴をきちんと履くのもまどろこしくて、軽くつっかけたままドアの ノブを掴む。スニーカーの踵が潰れたってかまわない。 そして、その勢いのまま外に飛び出しかけて…半ば無理矢理僕は 立ち止まる。 だってこのまま飛び出したら、そのまま兄さんに飛びついてしまい そうだから。 「落ち着くんだ、瞬。」 自分で自分を叱咤する。 そんな事したら、また兄さんに笑われてしまう。 いつも僕を子供扱いする兄さんに、ほらみろというような顔をさせ る材料は与えたくない。 だって僕は、少なくとももう子供じゃないからね。 軽く深呼吸。はやる心を無理やり落ちつかせる。 うん。もう大丈夫だ。 だめ押しにもう一回大きく深呼吸をすると、そっと目の前のドアの ノブを握る。 どんなに自分で落ち着いているつもりでも、握る手はやはり緊張の あまり小さく震えている。 「と、止まらない!」 そんな事をしているうちに…なんだか自分で自分が馬鹿みたいに 思えてきた。 どうして僕はこんなに緊張しているんだろう。 たかが兄さんを迎えにいくだけなのに。 そんなふうに思っていると、急に肩の力が抜けてようやく落ち着い た状態に戻る。 一人で勝手に慌てている姿は、端から見ればさぞかし滑稽だろうな と思いつつ、ドアを静かに開けた。 日の光の眩しさに、少し目を細めながらも僕はわざとゆっくり一歩 ずつ進んでいく。 もうすぐ、もうすぐ兄さんが見える。 そう、この角を曲がればすぐにでも。 それは確かな予感。 一歩、また一歩。僕のドキドキは大きくなっていくばかりだ。 角を曲がったとたん、ふいに風がごおっと吹き上げて反射的に目を 閉じてしまった。 そして再び目を開けると…兄さんの姿が小さく視界に入った。 とたん、ぱああっと僕の中で何かが真っ白になる。 嬉しいのと、少しの怒りと、ほんのちょっぴりの不安が頭の中で ぐちゃぐちゃに混ざってしまい、どうしていいのか解らなくなる。 そんなことをぼんやり考えていたら、やっぱり僕の体のほうが正直 だった。そう、僕は兄さんの方へ走りだしていた。 どんどん兄さんの姿が近くなって、とうとう僕は兄さんのすぐ前で 立ち止まってしまう。 「兄さん。」 それから言葉が続かなくて黙りこむ。 話したい事も聞きたい事も、それこそ山のようにあった筈なのに。 兄さんが帰ってきてくれて、こんなにうれしいのに言葉にならない のがもどかしい。 だから。思いのたけを込めて兄さんにただ黙って笑ってみせる。 兄さんになら…きっと解ってもらえるはずだから。 軽く兄さんが苦笑する。そしてぽんっと兄さんの手が僕の頭を軽く 叩いて言った。 「ただいま。」 短い一言だけど、僕はとてつもなく嬉しくなる。 「おかえりなさいっ!」 結局僕は兄さんに抱きついていた。 芽吹いたばかりの木々の緑が眩しくて、僕は目の上に手をかざす。 風も少し強いかなとは思うけど、この日差しだとかえってちょうど いいかもしれない。 まあなんにせよ、兄さんと一緒ならどこでもいい所なんだけどね。 「兄さん、こっちこっちっ!」 僕が後ろを振り返ってそう呼ぶと、兄さんが欠伸をかみ殺しながら 歩いてくる。 もう少し早く歩いてくれても、いいと思うよ。 半ば強引に、兄さんをこの森へ連れてきたのは僕だったけどちょっ と悪かったかな…? でも、僕のとっておきの場所を、兄さんに教えてあげたかったし。 たまのわがままだからいいよね。 そんな事をぼんやり考えながら、兄さんを案内するように歩いてい ると、ふいに目の前が開けて、ちょっとした広場になる。 「兄さん、ここだよ。」 くるりと振り返って兄さんの方を向く。 「いいところでしょ。」 「ああ、そうだな。」 僕がそう言うと、兄さんが関心がないというのがありありと解る 口ぶりで同意する。 …はりあいがないなあ。せっかく僕が教えてあげるっていうのに。 まあ、あまり反応は期待してなかったけどね。 それでも大きく深呼吸すると、森の木々の香りが胸一杯に広がって とてもいい気分になる。 「瞬。」 「なに?兄さん。」 「そこへ座れ。正座でだ。」 「………?」 訳の解らないまま、僕は兄さんの言う通りにその場へ座ると、 兄さんがいきなりごろりと横になった。 それも僕の膝を枕にする形で。 「にっ兄さん!?」 「枕は動くな。」 「僕は枕じゃないですっ!」 僕の膝の上に頭をもたせかけ、目を閉じたままカチャリと自分の 腕から何かをはずすと、僕の鼻先にそれをつき出してくる。 「えっ…?時計…?」 反射的に受け取って思わず確認する。 「三十分たったら起こせ。」 僕にそう言うと、あとには規則正しい寝息のみが聞こえてくる。 「まさか…もう寝たの…?」 嘘みたいに寝付きがいい。 「本当に疲れてたんだね。」 ここ数日、アテナの頼みもあってどこかの国の内戦状況を調べに 行ってたことは知ってる。 だから、ここは言われた通りにじっとしていることにした。 しかし…。チャラリ…と手の中の時計を見て、僕はつぶやく。 「兄さん…腕時計なんて持ってたんだ…。」 少し意外な気がする。 何の変哲もない普通の腕時計。 銀色の金具に黒の文字盤のアナログ時計。 結構あちこちに傷があるのは、長い間使われていたせいなのか、 それとも兄さんの動きが荒いのか…。 どっちもありそうで笑ってしまう。 そんな事を考えながら、その時計を自分の左腕にはめてみる。 やっぱり…ぶかぶか。 軽く腕を上げると、肘のあたりまで落ちて止まる。 もう一度その時計を手首までひきあげると、金属のバンドと手首 との間に、指を一本ずつ入れてみる。 まず人指し指、次に中指、そして薬指。 …三本入った…。なんだか、少しくやしい。 寝てる兄さんの投げ出した手首と、自分の手首をじっと見比べる。 見れば見るほど自分の手首の細さが目について、嫌になってくる。 腹立ちまぎれに、このまま立ち上がろうかと思ったけど、膝の上の 兄さんの顔を見て…やめた。 兄さん…ほんとに熟睡してない? ちょっとつついたくらいじゃ起きそうにないよ。 「兄さん?」 試しに小声で、そっと兄さんに呼びかけてみたけれど反応がない。 僕の膝から直接伝わってくる規則正しい呼吸音は、兄さんが本気で 眠っていることを証明してる。 今どこかの敵さんがきたらすぐ負けちゃうぞ。 でも…僕は笑いをこらえる。 こんなにも無防備でいてくれるって事は、それだけ僕は兄さんに とって安心できる場所になるのかな。 そう考えるとなんだか嬉しくなってくる。 ちらりと時計を見ると、すでに長針は半回転。 もう約束の三十分は過ぎている。 約束は守らなくちゃいけないけどね。 僕はさっき返事してないから、約束は無効だよ。 だから、取りあえず僕が満足するまで、このままでもいいよね。 「とりはとりでも飛ばないとりはなあに。」 小さく、できるだけ小さな声でそっと兄さんの顔を見ながら囁く。 やっぱり返事はない。 「答えはね…ひとり。」 ずっと僕はこの答えを聞いてから、本当は『飛ばない』ではなくて 『飛べない』だと思ってたんだ。 『ひとり』だから怖くて『飛べない』のじゃないのかってそう思っ ていた。 だけど、お婆さんの答えは正しかったんだね。 ほんの少しずつだけど、お婆さんの言った事がようやく解ってきた ような気がする。 「ひとりでは…飛ばないんだね。人は。」 お婆さんが僕たちに答えを教えてくれた時、兄さんはつまらなそう な顔をして『なぁんだ』って言ってどこかへ行ってしまった。 けれど、僕はいくら考えても解らなくて、 『どうして飛ばない、なの?』 って聞いたんだ。 するとお婆さんは、子供みたいに目をきらめかせながら 軽くウインクして、僕にこう言ったんだ。 『おとなになったら解るからね。』 そしてその手で僕の頬を撫でてくれた。 皺だらけで少し痛かったけれど、優しい手だった。 その感覚を思い出すようにそっと僕は目を閉じる。 『おとなっていつなれるの?』 僕がそう尋ねると、とろけるような笑顔で 『そうだね、坊やの背丈がこれくらいになったら きっともうおとなになってるよ。』 と言いながら手をいっぱいに上へと広げる。 『でもね、いつかはおとなになってしまうものなのだから、 ゆるりと大きくおなりなさいね。』 お婆さんの言葉は少し効きすぎたようだね。 僕は、膝の上の兄さんの髪をそっと指にからめる。 なぞなぞの答えが少しだけ解るようになった今、僕はお婆さんの 言う『おとな』に近づいたのかな。 お婆さんの広げた手くらいに僕の背丈が伸びたのかどうかはもう 解らないけれど。 「僕は、ひとりじゃ飛ばないからね。」 そおっと兄さんの耳元でささやく。 飛ぶときは兄さんといっしょだからね。 でも僕は欲張りだから、本当は皆と一緒の方がいいんだけどな。 風が頬をなででいく心地よさに、ふと空を見上げると青い、 ほんとうに青い空が一面に広がっている。 兄さんとなら…きっと高く飛べるだろうね。 高く、どこまでも高く。どんどん遠くへ。 「笑わないでよね。」 きっと聞こえていないだろうけど、兄さんに言う。 我ながら、少女じみた発想に顔が熱くなる。 だけどやっぱりそうなれたら素敵だろうなと思う。 少し赤くなった頬をごしごしと手の甲でこすると、兄さんの髪に そっとふれる。 この状態で他にすることもなかったし、兄さんも起きる様子がない ので、そのまま僕は兄さんの髪を手で梳いていく作業に専念する。 くせの強い、硬い髪は僕のと全然似ていない。 むしろ正反対といってもいいほどに。 よく僕と兄さんがとても兄弟には見えないって言われる事がある。 そう言われれば腹も立つし、悔しいけれど、それ以上にいつも思う のは、僕と兄さんがもし兄弟でなかったら、いったい僕は今どこで 何をしているんだろうかっていう事だ。 そして兄さんも。僕が弟でなかったら、兄さんは今何をしている のだろうね。 |