きっと僕も兄さんも、互いが知らない所で笑って、泣いて、怒った
りしてるのだろうな。
ひょっとしたら、一生出会わないかもしれない。
そんなことを考えると、とてつもなく『運命』というものがあるの
だなあと気付いてしまう。
確率からいえば何千万分の一か、何億分の一かは解らないけれども
この幸運に感謝している。
僕は神様なんて信じていないけども。
さあっと涼やかな風が、さわさわと木々の若葉を揺らしながら通り
すぎていく。
その風に誘われるように、ふと顔をあげると視界一杯に鮮やかな
緑色が広がる。
その木の下には小さなひだまり。
耳をすませば鳥の鳴く声も聞こえてくる。
何でもない事のように思えるかもしれないけれど、
これほど大切な事もきっとないと思う。
そして極めつけは、こんなに近くに兄さんがいてくれるっていう
ことだ。
だから今僕は、きっと『幸せ』に埋もれてるんだ。
兄さんを起こさないように、僕は小さく笑った。
     
     
一番高い位置にあった太陽も、今ではほとんど森の木の中に隠れん
ばかりまで落ちてしまった。
そのせいか、あたりは薄暗くなってきて、少し寒いくらいになる。
 「………。」
いきなり、兄さんが手で自分の髪をうるさげにかきあげると無言で
大きくのびをする。
僕は、少し焦りながらも兄さんに声をかける。
 「兄さん、起きたの?」
 「まあな。ところで瞬。」
 「なに、兄さん。」
ゆっくりと起き上がりながら兄さんが僕に聞く。
急に軽くなった膝が少し頼りなかったけれど、それより兄さんの
静かな口調に、何故か僕は警戒する。
 「三十分経ったら起こせと言わなかったか。」
 「………。」
 「どうなんだ。」
 「…うん。言った。」
不承不承うなずく。
兄さんを僕が起こさなかった事は、そんなに大変な事だったの
だろうか。
もしかして、兄さんには何か大切な用件があったのだろうか。
気をきかせたつもりだったとはいえ、僕が兄さんのいいつけを
守らなかったのは確かな事実だし。
 「僕…。」
それきり、言葉がでてこない。
不安で僕がうつむいてしまうと、突然僕を包む空気が優しい色を
帯びる。
 「しょげるな、瞬。俺は怒ってる訳じゃない。」
 「えっ…?」
 「立ってみろ。」
 「…?」
唐突な兄さんの言葉に僕は思わず首を傾げながら、促されるまま
立ち上がろうとすると…。いきなり天と地が逆転した。
 「えっ!?」
 「やはりな。」
足下がふらついて倒れかけたところを、兄さんに抱きとめられる。
なんとか自分の力で立とうとするが、全く足に力がはいらない。
そしてすぐに、じんじんとあの特有のしびれがやってきた。
 「いたたっ…!」
いくら聖闘士で鍛えてあるからって、こんな痛みにはきっと慣れっ
こないと思う。
その場に座り込んで、鈍い痛みを訴え続ける足を押さえた僕に、
兄さんがいじわる気に言う。
 「こんなことろで、何時間も馬鹿みたいに正座して
  座っているからだ。」
 「ばかみたいはないでしょっ!…ったあぁ!」
じんじんから、びりびりに変わったしびれは今や最高潮に達してる
ような気がする。とにかく痛いっ!
 「起こしたらいけないかなと思って、親切に気をつかった
  弟にそれが言う言葉ですかっ。」
ぷりぷりと怒りまくる僕に対し、兄さんが鼻先で笑って言う。
 「だから三十分経ったら起こせと言ったんだ。」
 「うーっ!あー言えばこー言うんだからっ!」
 「それが兄に対して言う言葉か。
  お前がそういう態度をとるのなら…。」
兄さんが口の端を歪めるようにしてにやりと笑う。
…嫌な予感。思わず後ずさりしようとする僕の足をがしっとつかむ
なり、痺れに苦しむ足を軽く叩く。
 「たたたっ!兄さんやめっ…たたた!」
叩かれるたび、びーんっと電気ショックでも受けたような衝撃が
走り、痛みがよけいに激しくなる。
 「にっ兄さん、やめてよぉー!」
兄さんがいじめ足りたのかどうかは知らないけど、情けない声の
僕に、とりあえず足を放してくれる。
 「もう!デリカシーのかけらもないんだから。」
 「また叩かれたいか。」
 「いいえっ、けっこうですっ。」
ぶつぶつと文句をいいながら、僕は兄さんの視線から自分の足を
隠すようにして擦る。
 「日ももう暮れるな。」
空を見上げて兄さんがそうつぶやく。
僕もつられて顔をあげると、確かにもううっすらと空が赤みを帯び
てきていた。
 「兄さん先に帰ってて。僕もすぐに帰るから。」
 「まだ立てないのか?」
そう尋ねる兄さんに、なんとなく情けない気持ちの僕はやっと聞こ
えるくらいの小さな声でぽそりと言う。
 「…やっと足の感覚が戻ってきたところ…。」
膝から下が自分の足じゃない気がする。
足の代わりに棒が二本くっついてるだけのような感じだ。
 「ははは…。」
虚しい笑いが口から漏れる。
まだ立って歩くだけの自信はない。本当に情けないけど。
 「おぶってやろうか。」
 「へ?」
兄さんの突然の言葉を理解できず、きょとんとしていると、
僕に背を向けて腰をかがめる。
 「ほれ。」
 「めずらしい…。」
 「何がだ。」
向けられた肩に手を伸ばしながら僕がつぶやくと、兄さんがいぶか
しそうに眉をしかめる。
 「だってそうじゃない。いつもこんなに優しくしてくれれば
  いいのに。自分の気が向いたときしか行動しないから、
  ヘンクツって言われるんだよ。」
僕が大げさにそうぶーぶー文句を言うと、兄さんがうるさそうに
両手を離した。
とたんにささえをなくした僕は、がくんと地上に落下した。
それもお尻から。
 「いったーっ!兄さんひどいっ!」
 「耳元でぎゃあぎゃあわめくからだ。それにとっくの昔に
  足のしびれは治っているだろうが。」
もろに打ったお尻を擦りながら、僕は睨んだけれど兄さんは平然と
した顔で手さえ貸してくれない。
そりゃあもう、足のしびれはとれてたよ。
でも、兄さんからこんな仕打ちを受ける理由は僕にはない。
絶対に。
 「………。」
無言で兄さんを上目遣いに睨んでいると、ようやく兄さんが
手を差し延べてくれた。
にっこり笑ってその手をとり、立ち上がろうと力を入れたとたん、
兄さんがその手を離す。
再び僕は、その場で強く尻餅をつくはめになる。
 「……っ!」
 「他人をたやすく信じるからだ。」
 「うーっ!うーっ!」
くやしい。とてつもなくくやしい。
でも、この気持ちを表せる言葉が見つからない。
 「…昔はもっと兄さん優しかった。」
 「当たり前だ。あの頃はお前はまだ子供だったからな。
  それとも俺に昔みたいにしてほしいのか?」
 「…いやだ。」
兄さんの『昔みたいに』は、はっきりいって子供扱いされたいの
かっていうのと同じ意味だ。
何を言っても兄さんにやりこめらてしまいそうなので、結局ただ
僕はふてくされて座り込んでいる。
 「日が暮れるぞ。」
その声にしぶしぶ立ち上がるけど、兄さんの顔なんて見たくない。
ぷいっと僕はそっぽを向くと、一人で歩き始める。
もちろん兄さんをその場に残したままで。
何が一番悔しいかっていうと、僕がこんな行動をとってみても一向
に堪える様子がないっていう事だ。
せめて追いかけてくれてもいいのにさ。
そこまで考えて、ふと我に返ってしまう。
…この考え方、この行動…。
これじゃあ、まるっきり子供みたいじゃないか。
なんかどっぷりと、足元から自己嫌悪の沼につかっていきそうで
重いため息が出てくる。
それをふりはらうように、乱暴に木の枝をかきわけながら強引に
進んでいると、ばしっと言う音とともに跳ね返った小枝が僕の目に
あたった。瞬間、目に鋭い痛みが走る。
 「つっ…!」
痛さよりもふいうちのといってもいい衝撃に驚いて、僕はその場に
しゃがみこんでしまう。
 「瞬、どうした。」
背後から兄さんの声がかかる。
声をかけてくれた、と喜ぶ間もなくいきなり兄さんの手が僕の顎を
つかむと、無造作に上向かせる。
驚いて閉じていた目を反射的に開けると…兄さんのどアップ。
少し動揺する僕に気付かず、兄さんが聞いてくる。
 「どっちの目だ。」
 「み、右目…。」
 「見せてみろ。」
僕がどうぞと言った訳でもないのに、痛む目の瞼を思い切りぐいと
開かれ、そこから涙がぼろぼろと後から後からこぼれ落ちる。
少し恥ずかしいとは思ったけど、この場合別に僕が泣きたくて泣い
てる訳じゃないから別にいいよね。
 「眼球には特に傷がついた様子はなさそうだが…
  瞼が少し切れたようだな。血が出てる。」
 「え、ほんと?」
傷口を触ろうとした僕の手を兄さんが掴む。
 「触るな。化膿するかもしれん。
  とにかく帰ってから氷で冷やせ。」
 「…はい。」
あいかわらずの命令口調だけど、どこかほっとしたような兄さんの
声の響きに僕は気付いた。
ひょっとして…兄さん僕のこと心配してくれたのだろうか。
 「兄さん心配した?」
そう尋ねる僕に応えず、兄さんが再びくるりと背を向けて座る。
 「え?」
 「乗れ。片目でこの暗がりを歩けば、怪我が余計に増える。」
なおかつまだ事情がのみこめないでいる僕に、苛立たしそうに眉を
しかめる。
 「人の好意には素直にしたがえ。」
 「う、うん。でももう落とさないでよね。」
 「お前が騒がなければな。」
うながされるままに兄さんの肩に両手をまわすと、ひょいとかつぎ
あげられる。
 「帰るぞ。」
 「うん。」
今僕を背負ってくれているのは、本当に兄さんなんだろうか。
少し不安になるけど、それ以上になんだか嬉しくなってきて聞こえ
ないように小さく笑った。
     
     
暮れかかった日差しはますますその赤みを増し、あたり一面まるで
燃えるような色に染まる。
その夕日を、こうして兄さんの背中から見ていると何故かとても
懐かしくて胸が一杯になってしまう。
 「そういえば…。」
 「ん?」
僕の口からこぼれた言葉に、兄さんが反応する。
 「僕が小さいころ、よく兄さんにこうしておぶって
  もらったような気がする。」
 「しょっちゅう泣いてたからな。」
兄さんがそう言って笑う。
 「そんなに僕、泣き虫だった…?」
 「ああ。転んだと言っては泣き、犬が吠えたと言っては泣き…。
  一日にいったい何回泣いたか数えるのもイヤになってくる
  くらいだったな。」
 「うっ…。」
思わず口ごもる僕に、兄さんがくっくっとくぐもった笑いを小さく
漏らす。
そのたび軽く兄さんの肩が揺れて、身をもたせかけている僕の体
まで振動が伝わってくる。
それがとても心地良くて、このまま兄さんの背中で眠ってしまい
たい気持ちになる。
 「寝るなよ。」
僕の考えてることなんてお見通しの台詞に、僕は閉じていた目を
ひらく。
 「兄さん。」
 「なんだ。」
 「なんでもない。呼んでみただけ。」
まるで三流の恋愛ドラマのような会話に、兄さんが小さく
ため息をもらす。
 「…降ろすぞ。」
 「いやだ。」
じゃれるようにして、僕は兄さんの肩に頬を何度もこすりつける。
 「何をしている。」
 「匂いつけ。こうすればまた兄さんがいきなりどこかへ
  消えても解るかもしれない。」
これはちょっとした兄さんへのあてこすり。
どんな反応を見せてくれるのか、ちょっと期待しつつ待っていたら
 「………馬鹿か、お前は。」
たった一言、その言葉が飛んできた。
期待するだけ確かに馬鹿かもしれないけど、もう少しましな答えは
言えないのだろうか。
 「悪かったね。こんな馬鹿が弟で。」
僕はむっと口を尖らせて、兄さんの肩に軽く歯を立てて噛みつく
ふりをする。
案の定、ぺしっと兄さんの手が僕の頭を叩く。
 「痛いじゃないか。」
もうっ!とその手を掴んで、引き離しながら抗議する僕を兄さんが
愉快そうに笑う。
これじゃあ子供扱いどころか、ほとんど僕は兄さんのおもちゃみた
いなものかもしれない…。でも今はそれでもいいや。
こうして兄さんといられるのだったら。
      
      
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