ぱたたんと軽やかな音が耳朶をうち、頬に雫がはねた。 ひんやりと、したたりが肌をつたい、熱を奪う。しっとりと煙るような水の気は、総身を くるんでいた。 ああ、昨夜は雨が降ったのだったと、びしょりと濡れて肌に吸いつくシャツの生ぬるさに、 ようよう気がついた。 ![]() ぱたたん、ぱたん、と雫の音が霧のなか、遠く近く、楚を揺るがして響く。 遠近感が、ひどく曖昧だ。 ふと吐いた息は嫋々と細く、わずかばかりもたれ込めた白を祓いはしない。 胸苦しささえ覚えるほどの濃い乳色の霧。 息を吸い、吐く、そのたびに肺腑の深くなだれおちる水の香に、青年は喉をあえがせる。 なかば伏せられていた、青ざめた瞼がひくりとおののき、透きとおるような翠の色を露わ にした。 いっそ生臭い白のなか、その翠ばかりがひどく鮮明しく、けれど、果かない。 ただその色のみは鮮らに、しかしどこか空けたように眸がさ迷い、そしてくらりと、 その身がかしいだ。 一転、二転、投げだされた肢体は、降りた露をまき散らしながら地に臥せる。 ぱたたん、と糸の切れた玉のように雫が散った。 「……寒い?」 かたかたと瘧のように背ながふるえる。 片頬を濡れた草床に圧しあてて、青年はいっそ頑是無くつぶやいた。息を吸い、吐く、 そのかすかな呼気に目前の草群がさらさらと、露を散らして揺れるのが何故だかおかしい。 うっとりと眸を細めて、青年は小さく、笑った。 「ダメなコ……だね」 くつくつと鳩のように喉が鳴り、ぱたぱたと雫が散りしく。 草床を乱して、一しきり笑った青年は、ほう、と一つ息を吐くとゆっくりと仰のいた。 つれて、生白い喉が露わになる。 「八戒は」 ―――片頬が、濡れていた。 いっぱいに水をたたえた翠の眸をふと閉ざして、青年は喉をふるわせて笑う。 白い靄にまぎれて、露がちりちりとふり撒かれた。 ……悟能も。 音はなく、ただ唇がその名を刻む。 悟能も、けしてイイコではなかったけれど。 ころり、とうつ伏せた青年は、また頬を地に伏した。 じんわりと肌に水の気がまつわる。 ひたひたと肌に沁み這入る水は、肉までもとろかしていくようで、気だるい。 ……けれどあのコは、少なくとも、イイコを取りつくろうコトは、知ってたみたいだ。 つらつらと、追った思いに、肩がふるえる。寒さではなく、笑いに、青年は肩を震わした。 「ダメ、みたいだ。八戒は」 取りつくろえない。壊れていくのを、止められない。 いや……もしかしたら、止めよう、なんて思ってもいないのかも。 笑おうとして、笑えなかった呼気が、細い喉をひきつらせ、さながら獣語のようにして、 唇を破った。 水の帳に籠められて遠く近く、ぱたたんと降る水音に、肌がおののき、血が泡立って 流れる。きしきしと心が、拉がれて、破れていくみたいだった。 「イタイ……なァ」 ふと手をやった素足は、草の汁としたたる紅色に、はだらに染めあげられていた。 まじまじと、その生血の色を見つめる。 伏せた目裏にちかちかとミドリのちろめくほどの、生々しい紅。 乳色の、甘たるく濃い霧がぞろりと揺らめいた。 ぱたたん、としたたりが紅の色にはじける。 けむるような睫が、はたはたと二度三度上下して、祈るもののように敬虔に、首が廻ら された。碧水の眸が嬰児の幼けなさと、ひたむきさをたたえて、漂う。 そして見出す、乳色に滲む紅。 曼珠沙華。 熟れて、崩れんばかりの紅。紅の色。 網膜を灼き焦がすその紅に、水を孕んで揺れる眸が痛みを堪えるように細められた。 捩れたように、痙攣れたように、花弁を散らす、その彼岸の花。 そこに、したたる雫。血色の滴り。 ふらりと立った青年は、熟れ極って紅い蘂へと掌をのばした。 己が罪をささげる巡礼のごと、差しだしたたなごころに、はたはたと降りる透ける白玉。 ころころと掌になずさうそれを、押しいただくようにして、口元へ。 接吻けて、すする、その舌先にからむ水は……血ではなかった。 撲たれたように、しばし面をふせた青年の、その指の股から白玉が漏きでる。 地に落ちたそれは、骨のように、砕けて散った。 おののいた指がにょっきりと立つ茎を手折り、露をすべらすその花弁へと、うすらと 開いた唇が寄せられる。 奔放に、四方にはじける紅を口に含む。咀嚼する。 「……血の味じゃぁ、ない」 深くうつぶした青年がささやき、掌に名残る紅が、はらはらと手俣から毀れおちた。 遠く近く、谺するしだたりの音にまぎれて、下生えを踏む足音が、ひたひたと響く。 乳色の霧が流れる。流れる。 その息詰まる白を破るようにして、紅の色を纏う誰かが顕れることを、青年は知っていた。 あるかなきかの風に揺れる曼珠沙華の一群れが、やけに紅いあかいあかい――― *NEXT* |