曰く、言いがたい表情をした。

それが、最初の違和感。

―――彼は、彼女ではない。

それは……ボクではないと、そういうことだった。







時雨と、そう呼ぶにはまだ幾ばくか早い糠雨は、しくしくと優しく、けれど沁み入るほど
に、冷たい。やわらかく耳奥に忍び這入るその音に、じわりと肌をなぞる気色に、青年は
読みさした書に栞を挿んだ。

うち続く雨音に煩い、病くことは流石にもう、稀にはなっていたけれど、やはり、気は
滅入る。

鬱々として、晴れはしない。

白く滑光る肌にゆるゆると青い影がおち、ととのった眉宇がひそめられる。
しめやかに細く息を吐いた青年の、けむる睫がはたりと上下し、次の間、なめらかな肩が
びくりとおののいた。
緑水の眸がいっぱいに瞠られ、そして殊さらにゆっくりと伏せられる。

……雨を蹴散らす足音。

青年はまた、息を吐いた。





「さーみぃなァ」

丈高く、しなやかな総身に、水の色をまといつかせた男は、ぶるりと一つ、首をふる。
首すじから肩さきへ、なめらかに肉が流れる。
その、流れにつれて不ぞろいの紅い髪が空に舞い、こまかな飛沫をはね飛ばした。

さして広くもない部屋うちに、わだかまるようにしてなだれ込んだ水の香。
息つまるほどにしたたかな雨の匂い。
青年はじくじくと疼くキズアトを掌におさえた。血の流れが泡だって、痛い。

「早かった……んですね」

「んー?」

節くれの目立つ指は、けれどすんなりと長く、やわらかに緋の濡れ髪を梳きあげる。
長さに見あう大きな掌が、その紅を無造作に撫でつけた。
しとどに濡れた衣をひりつかせて、濡れた赤銅の肉身は、赤裸よりもよほど生々しい。

したたる水気を傲然とぬぐいさった男は、生返事のかたわら、肌にはりつくシャツをひき
剥ぐようにして脱ぎすてる。
踝の盛りあがり、拇指から小指まですっきりと伸びた素足が大股に、剥いだ着衣を踏み
しだく。なだらかに広い琥珀色の背なから、勁くのびやかな肢までも傍若に、素裸に曝し
て、男は隣室に消えた。

ほどなく耳朶を打ちつけた、雨音とは異なる水音に、青年はあえかに細い肩をすくめた。

てらいもなく、眩しい琥珀の肌より脱ぎおとされ、かなしく床に散らばる衣を掌に掬い
あげる。偶さかとり上げた革仕様のそれは、水を吸ってぐっしょりと重く、けれどそれ
だけでない重みに、青年はいぶかしむように眉根をよせた。
間近に確かめようとかざした、その懐から、ころころと一つ、二つ。何やらが転げる。

「……?」

翠の眸を眇めて拾いあげれば、可愛らしい装飾のほどこされた小箱が、わずかの水を吸っ
て形をひずませていた。

「……プレゼント、でしょうね」

ひっそりとかけそき、そのささやきは、さぁさぁと水音にかき消された。





「……これ、濡れちゃってますよ」

「あ?ナニが?」

若盛りのつややかな肌に水滴を名残らせて、男は白い掌を、己へとさし出だす青年へ歩を
つめた。硬い肩から広くなめらかな胸分け。そして際だつ腰のくびれへと。
削いだように鋭い線で造られた肉体は、いっそ猛々しく、そしてなまめかしい。

「あ…、これ」

紅い花の蘂のように長い睫の、その眸は切れが長い。
わずかにその、血色の眸を細めた男は、らしくもなく口ごもった。

「……はい?」

青年がしなやかに首をかしげる。男は息を吐いた。

「誕生日……だったンだよ」

「……どなたの?」

どこかぞんざいに、蓮っ葉な男の口吻に、青年は面をひそめる。
さし出だされていた掌が、わずか、おののいて引かれた。

「俺の」

「……」

つかの間、おりた無音が痛い。
ざぁざぁと鳴る水音は、耳奥に流れる血の音なのかも、しれなかった。
はたはたと、青年が濡れた翠の眸をまばたかす。
その、夢鳥の羽ぶきのように切ない音ですら、何故だか大きい。

「では何故、帰ってらしたんです?」

やわらかく透きとおる声音は、ひどくあどけない。
破片の邪気もなく、むしろ慕わしげに青年は男へと言をつむいだ。

「お祝い、して下さる方がいらしたのでしょ?」

いとけなく。また頑是なく、おっとりと白い面をかしげる青年は、どこか不安を抱かせる
ほどに幼びて……美しかった。

「……それ、は」

なかば喘ぐようにして、男が言をつむぐ。つむごうとする。
ぱたん、と果かない音をたてて、雫が一つ、紅い濡れ髪からしたたり落ちた。

血色ではなく、透きとおる水滴が己が身を地に撲ちつける。

「ボクの……せいですか?」

―――はじける。

ぎらりと鈍く、翠の眸が光をはじく魚鱗さながらにきらめいた。





白い面が、その白すら失して青ざめていく。
悲しいのか、切ないのか。ただ、身がふるえた。

わななき、刹那、閉ざされた翠の眸。

ああ、これは怒りの表情なのだと、男は悟った。

「……八戒?」

青ざめた頬に笑みをきざんだ清やかな面は、しかしこんな時ですら透きとおるように美し
く、あえかで。男はそれに幾ばくかの痛ましさを覚えた。

いっぱいに碧水をたたえて、濡れた眸が、あどけなく瞠られている。
どこかしら、何かしらひたむきに張りつめたその眸は、魂を切なく鷲掴む。
つかの間、眩めいた男はざわりと背すじを這いあがる波に、おののいた。

「雨が降ってきたから……」

ふらりと、糸の切れた人形のように寄る辺なく、二歩三歩。ソトとウチとを障ぐ窓ぎわに
立った青年は、白鳥の頸のようにしなやかな手房をもたげて、濡れそぼつ鎖しの硝子を
押しひらいた。

どッとばかりに逆巻いて、皮フを撲ち、肌に喰らいつく雨音。そして水滴。

いっそ優しげに笑うその面に、雨粒が纏落して、したたる。
幾重にもしたたりをひいて濡れた頬が、ひきつれて、歪む。

―――美しかった。

「ボクが壊れるかもしれないから……だから帰ってきて、下さったんですか?」

ほっとりと朱い唇が笑みをためて、ほころぶ。
花のような容貌にかわりはなくて、青年は清やかに笑った。
吹きすさぶ風に乱されて、もつれた濡れ色の髪に雫がまつわって、頬に白玉を散らす。

「ボクにはアナタが必要だって?うぬぼれないで下さい」

ほっそりとたおやかな腕が、境を越えて、硝子のソトへと伸べられる。
かたく握られていた掌が、露をおいた莟の潤びるかに、ゆっくりと開かれていく。

濡れそぼち、ひずんだ小箱が、ごう、とうなって過ぎた颪にさらわれて、一寸先もおぼつ
かない、濡れしたたるぬばたまの闇に消えた。
我とわが身を闇に鎖して荒ぶ驟雨が、さし出された青年の真白い肌を奪うように、愛しむ
ように、烈しくしたたかに撲ちかかる。

雨音が、強まる。

「ボクは貴方を必要とする、そのためにここにいるんじゃぁ、ない」

では何故、ここにいるんだろう?

眩むほどの怒りに眸を染めながら、けれど、青年はどこか冷静に、思った。

血色の眸のかなしい優しさ。かなしいまでの、やさしさ。……知っている。

だからこれは、理不尽な怒りだ。

―――けれど、抑えられない。

あどけなく、子供じみて瞠らかれた血赤の眸を、青年は眩しく見つめた。
美しい色。悲しくなるくらい、泣きたくなるくらい、キレイな色。魂が千切れるみたいに
切なく、この紅は心に沁みる。

抑えられない。

「ボクは貴方のために、いるんじゃぁない」

これが、壊れると云うことなのかも、しれなかった。







いっそ柔らかな声音で投げつけられた飛礫は、冷ややかに鋭く、小さな氷の塊みたいに
してしたたかに肺腑をえぐり、けれど奇妙なまでにしっくりと心臓の真横におさまった。

男は、小さく笑う。

―――その通り、だったのだ。







小さく。本当に、小さく。片頬に笑いをちろめかせた男は、ただ、寂かにささやいた。
緋の濡れ髪が、闇をつんざいて吹きいる風に、乱れる。

「悪ィ」

ざあっと荒れた風の音も、今は遠い。青年の眸が、瞠らいて……さざ波立つように揺れた。


ひたひたと、水をたたえて濡れた翠の眸が、つかの間泣きだしそうに潤んで、果かない。
波打つように、たゆたうように。寄る辺ない眸が紅の男を見つめて、ふるえる。

「すまなかった」

その、まなざしのひたむきさ。そして幼さ。男にはそれが、痛ましい。

彼は無力で。あまりにも無防備で。そして……呆れるほどに、剥きだしのままだった。
皮フをひき剥いで、魂をそのままさらけ出している、みたいに。

―――痛々しい。

そう。彼は無力だったのだ。降りかかる雨音のなか、一人で。
たった、一人で。男はふと、紅の眸を鎖した。

―――そして、オレも無力だ。

「すまなかった」

言葉をつのる男に、青年の身が、目に見えておののいた。
一人、張りつめていた魂が溶ける。溶けて、流れようと、する。

「どうして」

その、流れにあらがうように、青年はつぶやいた。

「……どうして」

眸の奥が、熱い。潤びてうるんだ翠が、切なく歪んだ。青ざめて白い頬に、飛沫が乱れる。


―――美しかった。

「そんなに優しい」

全霊をこめて泣く赤子のひたむきさで、青年はささやいた。
ただ無邪気に。善悪の彼岸を超えて、ただ、あどけなく一途に。青年は男を見る。
見つめる。

「傷つけてくれればいいのに」

波が泡だつ。揺れる。揺れる。―――あふれる。
深い、深い魂の淵から、涌きいでてこぼれる水。涙。

頬をつたう。

「傷つけて……くれればいいのに。ボクが、貴方を傷つけるみたいに」

どうして。

どうしてこんなにも、かなしみの水は甘い。





「俺はもう、お前を傷つけてンだろ?」

肌をいとしむように狂おしく、優しい声が青年の鼓膜をふるわせた。
優しく、したたる蜜のように甘く。そしてかなしい声。
また一雫、こぼれた涙が、肌に流れる。

「……悟浄?」

「俺はもう、お前を傷つけてる」

十分、すぎるほどに。

繰りかえした男は、片頬をゆがめて血のように苦く、そしてどこか悪戯な笑みをうかべた。
稲妻の閃くように烈しく、凶暴に、鮮明しい血赤の眸がきらめく。

「トマト」

「……え?」

悪魔のように唐突な、思いもよらない言の葉に、青年は眸を揺るがしてはたはたとまばたく。
けぶるような睫に、切なくからんだ雫がはらはらと散った。

「……貴方、トマト嫌いですよね?」

小首をかしげて、つぶやく。濡れ色の髪が、ぱらりと乱れて頬にはりついた。
ほのかに紅みをさした頬に、それはまるで乱れた糸のように吸いつく。
肌の奥の奥。肉のウチまでも、水浸しだ。
青年はふと、額髪の先からしたたりおちた雫を、舌に舐めとった。
二人してびしょぬれて、何だってこんな話をしているんだろ?

たッた一枚の透明な硝子。そのソトには天からの落ち水。
みずからを地に叩きつけ、破る雨音。土塊をえぐる。傷つき……そして傷つける。

……何で?どうして?

沈潜んで、そしてまた、浮く。おし流される。
一すじの澪を求めるようにソトと、ウチと、翠の眸をさまよわせる青年に、男はあざやか
に、あるいは野蛮に笑い、そして肯いた。

「おぅよ」

紅い眸が楽しげに、少年じみてしたたるように瑞々しく、暴虐にきらめくのに、眩んだ
青年は片目をすがめる。
眩しい。紅いあかいあかい色。花のように、罪のように美しい、その色。





わずかに荒れた唇が、うっすらと開き、小ちゃな宝石みたいに光るその紅い実を咥える。
眩しく白い歯が、その紅に喰いいり、そいだような頬の咀嚼筋がうごく。
それから、なめらかな嚥下音。

そして―――そして。

曰く、言いがたい表情をした。

それが……最初の違和感。青年は濡れた睫を、しばたかせた。
はらはらと、雫が散りまがう。

「彼女は……好きだったンだろ?」

てらいもなく、残酷に男は笑った。笑って、言ってのけた。

「はい」

だろうと思ってた。男はそう、つぶやく。生々しく喉が鳴って、含み笑う。

「俺が食べねーと、お前、ヘンな面するし。ガマンして喰っても、あからさまに不満そーだし」

「……トマトは、栄養あるんですよ?」

「でもキライなもんはキライ」

「トマトシチューなんかは、平気みたいなのに」

「あーあれはイイの。ってか、ナカのぐじゅぐじゅがヤなんだよ」

けろりとして、まるで子供の言い草だ。
呆れたように息を吐いた青年は、けれどおどけた風に、眸を細めた。
わずかばかり、揶揄かう色をのせて、笑みをためる。

「ワガママ」

「どうとでも」

飄々と、うそぶく男に二人して吹きだした。くすくすと、喉を鳴らして笑う。
その音が、地をえぐり、逆巻く雨音を遠ざける。





「なぁ、俺たちはイナリだ」

一しきり、無邪気で、我が儘な子供みたいに、飛沫を振りまきながら笑いころげた男は、
乱れた緋の髪を梳きあげながら、青年にささやいた。

「イナリ?」

頬をしめらす涙を指先にぬぐいながら、青年が繰りかえす。
耳慣れない言葉に、すっきりと弧を描く眉根を寄せて、青年は男を見やった。

「異なる形」

月の満ち盈けにひかれて、寄せては返す波のように、寂かにおだやかに男が言葉をつづる。
ゆらゆらと、たゆたう水の……底から。
眠りのように深い淵から、沈透んでいる言葉を引きあげる。

「見てくれも違うし、オンナの好みだって違うだろうな、きっと。彼女と同じに、お前と
同じカタチのDNAなんざ、端ッから持っちゃいねぇ」

とろとろと深いまどろみのなかで、夢を紡ぐ真珠を男は漁る。水の面へ引きあげる。
水の繭にくるまれて、ぬれぬれと艶やかだった皮フは、地上の乾いて透明な空気にふれ、
水を失っていく。
やがてその表皮は破れて、血を噴きこぼして……崩れてしまうのだろう。
けれど生キモノは水を離れた。喉は渇きにむなしく裂かれ、重力は重くしたたかに、頭蓋
をひしぎ、背骨をきしませる。でも、けれど。

彼女は……まどろみの母なる海は、もういない。

「でも、どうしようもねェよ。オレはどうしたってオレで、彼女にはなれないし、お前に
も、なれねェ」

地に生きようとする、そのたびに、乾いて冷たい空気はきしきしと皮フを破り、真ッ赤な
血がほとばしるだろう。
そして生キモノは失われた水を求めて、涙を流すだろう。
カラダのなかに閉じ込められた、海を……あふれさせるのだろう。

血赤の眸が、水をたたえて潤む翠の眸と真向かって、渇いたもののように、切なく。
けれど与えるもののようにも、かなしく深く、きらめいた。

「お前を、傷つけても」

かなしく美しい色。青年は溺れかけたもののように、そして渇いたもののように、わずか、
仰いた。彼女の……色ではない。ニセモノの色。まがいものの眸。
傷つき、破れたその眸は飢え渇くことを知り、色あせて、けれど美しく、いとおしかった。


「だから……」

ニセモノの眸が濡れてきらめく。切なく、かなしく。血をたれ流して。

「言葉をくれないか?」

緋の髪を、血赤の眸を、生きるために負ったキズを、剥きだしにさらして、男は青年に喉
を裂いてほとばしる、言葉を、あたえた。

「言葉、を」





―――言葉なんて、必要なかった。

ただ眸を見交わせば、同じイロの、同じ水をたたえた眸を交わせば、それだけで満ち足りた。
それが……彼女との世界だった。水の底の、真実の世界。

けれど。

青年はまず、硝子を鎖した。
ぱしぱしと、そのたッた一枚の扉を、狂ったように雨粒が叩く。
それは、失われたコドモを求める、彼女の声で……涙だ。彼女もまた、別たれてしまった
生キモノを、探して、求めて、泣いている、いつも。

そして―――いつまでも。

耳朶に執心くしたたって、からみつくその嘆きの声を、甘くなつかしいルサルカの唄を、
ふりはらうようにして、仰いだ天には煌々と白いランプ。ニセモノの太陽。

……雨は、やんだ。

青年は、男の血塗れた眸を見つめた。ニセモノの太陽の下の、ニセモノの眸。
かつて手にした、ホンモノとは違う。渇くだろう。傷つくのだろう。
この生キモノと、ともに在ることで。そして、己も傷つけ、渇かせるのだ。この、紅を。

―――彼は、彼女ではない。

「……」

ニセモノの太陽の下で、二つの影が一つに重なった。

「……八戒?」

男が、血色を頬に上らせる。ほの赤く、荒れた唇が、溺れるサカナみたいにして、喘いだ。


ニセモノの太陽。イツワリの世界は、理不尽で、痛みばかり。
降りそそぐ雨はいつだってボクを呼んでいる。

青年は、微笑った。

彼女にはなれないニセモノのDNA。異なる体温。
けしてやわらかくはない胸に、頬を押しつける。

―――温かかった。

「……悟浄」

「ナニ?」

「誕生日、おめでとうございます」





*NEXT*





《言の葉あそび》