-2-


「・・・悟浄、貴方・・・起きてたんですか?」
「――おう。一応な」
悟浄はすこし鬱陶しげに左手で長い髪をかき上げた。
深夜の音ない世界に、さらりと髪の流れる音が響く。
「つーかさ。俺に本当に眠ってて欲しけりゃ、お前なら確実に一服盛るとかするじゃん。それし
なかったってコトは、ホントは俺に起きててほしかった――ってコトじゃねーの?」
八戒はかるく瞳を見ひらき、やがていつも通りの笑顔を浮かべた。
「あはは。バレちゃいました?」
「あははじゃねーよ。お前のその絶妙にひねくれた性格に何年つき合ってると思ってんだ」
「ありがとうございます」
「あ?」
反論が来るかと思って構えていたが、素直に礼をいわれて、調子が狂った。
ポリポリと少し乱れてしまった髪を掻きながら、もう一度八戒に視線を戻す。
「んで、俺にどーして欲しいの?まさかお見送りして欲しいって訳じゃねーよな?」
「もちろんです」
ひとつ間を置いて、八戒はゆっくりと悟浄の方に向きなおった。
「悟浄――僕と一緒に来てくれませんか?」
「ドコへ?」
「分かってるくせに、イイ性格してますね〜」
「何とでも。つーか、おまえよりよっぽどマシだぜ?」
八戒は苦笑を浮かべ、そして軽く息を吸った。
「――悟浄、僕と一緒に、下界に降りてください」
森の深遠のような深く澄んだ瞳が、まっすぐに悟浄を見据えている。
「それは、さ。ちょっと遊びに行くってイミじゃねーんだろ?」
「ええ、二度と天界には戻らないつもりです」
「くれるってゆー天界人としての地位を捨てて?」
「ええ」
「永遠の寿命も、約束された住居も?」
「そうです――だってそんなモノ、貴方も必要ないって思ってるんでしょう?」
視線を反らすことなくまっすぐに悟浄を見つめるその瞳は、まるで全てを見抜いているようで。
「・・・オッケー。んじゃ、早々に行きますか」
おもむろに、床から立ち上がり、準備を始めた悟浄に、今度は八戒の方がすこし拍子抜けしたよ
うだった。
「・・・・そんな簡単に決めちゃっていーんですか? 仲良くなった女官の皆さんとお別れしな
くちゃいけませんし、それに・・・・」
「ベツに俺は全然いーけど。つーか、お前、誘ってんのか、引き止めたいのかどっちよ」
「あはは。そーですね。一応言ってみただけです――準備ができたら、行きましょうか?」
「おうよ」
こいつに―八戒に、振り回されるのはもう今更―だ。
自分は、悔しいがいつも、彼の手の内にある。
それはもう、さも見つけてくれとばかりに道の真ん中に転がっていた八戒を拾った、あの出会い
の時から。
部屋に溜まったゴミの山を前にため息交じり同居を提案してきたのも、西への旅に同行すること
も決めたのは八戒だ。

自分は、自由気ままに生きているとみせかけて、実はかなり受身的なんだと、八戒と同居してい
る間に気づかされた。
気づいた時はそれなりにショックだったが、考えてみればそうかもしれない。
少なくとも一応は『家族』と呼べるものを持ち、庇護されていた自分と
ゼロから全てを手に入れなければならなかった八戒。
母親に愛してもらうことばかりを望んだ自分と
強引に自ら愛する人を作った八戒。

全ては対極で。そして彼は自分の望みのままに実の姉と添い遂げ、その姉を取り戻すために、
迷いもなく千人の人妖を殺した。
――そんな、自分の望みに純粋なまでに正直なヤツに、今の自分が勝てる訳がない。
準備のために自分の部屋に帰っていった悟浄は、ものの5分とせずに、八戒の部屋に戻ってきた。
八戒と同様、かつての戦闘服に着替え、簡単な荷物を肩に抱えている。
「早かったですね」
「まーね」
「・・・悟浄、貴方もしかして、・・・・準備してました?」
「さーね。それより今夜中がベストなんだろ?とっとと行こうぜ」
少しおどけた調子で、悟浄が先に部屋を出る。
「・・・はい」
(―ありがとうございます、悟浄)
八戒は心の中でこっそり悟浄に礼を言った。
貴方が本当に起きてくれるかどうかは、僕の賭けだったんです。
狸寝入りだろうと、僕が部屋を出るときに貴方が寝ていれば、一人で出て行くつもりでしたから。


戸外にでると、少し肌寒い風が吹いていた。
天界は常春だとはいえ、夜半はさすがに気温が下がる。
冷えた空気は、まだ酒が残る身体を覚ますのに丁度よかった。
すでには日がとっぷりと暮れていたが、庭園には、いまだ酒を酌み交わす天界人たちの面々が残
っており、ほろ酔い気分での会話を楽しんでいた。
「あそこを通るのはちょっとまずいですので、森を迂回しましょう」
「・・・思ったんだけどさぁ、別に今夜、無理やり下界に降りなくても、明日の儀式ん時に
『やっぱ辞退しまース』って言ったら済むコトなんじゃねーの?」
「・・・そうかもしれませんが、多分無理じゃないですか」
「何でよ?」
「天界としても、僕らが天界人になるという前提で物事を進めてきてますし、何よりプライドの
高い彼らが『天界人にしてやる』っていうありがたい褒美を断ったなんてコトをだまって認めて
くれるとは思えません。きっと八方手を尽くして僕らの説得にあたりますよ。――でなければ」
「でなければ?」
「洗脳するとか」
「―おいおい、物騒だな」
「・・・というのは、冗談ですが、なにぶん、天界のやる事はきな臭いですからね。分かりませんよ」
「今日は、やけにシビアね、お前」
「半年の間、天界に住んだ上での客観的な感想ですよ。貴方だって少しはそう思ってるんでしょう?」
「・・・まーね」
「じゃ、ゲートへ急ぎましょうか」
目的地である下界に降りるためのゲートは、天帝ご用達の庭園を通ってその先の天界人たちの住
居地域を抜けたさらに奥にある。
といっても、天界はさほど広くはないので、祝宴の催されている庭園を迂回して森をぬけても、
予定では夜明け前までには降りれる算段だ。
宿舎を抜け、森に入るまでは、声を潜めていた二人だが、森の奥へと入り人気がない事を確認す
るとただ歩くだけというのがヒマなことあり、何ともなしに会話を再開していた。
「天界人たちがきな臭いって言えばさぁ、ちょっと気になってたんだけど」
「何です?」
「俺たちに対する奴らの態度がさ、時々ヘンじゃなかった?」
「ヘン・・・ですか?」
「ああ。・・・何てゆーかこう・・・人によっちゃ、初めて会ったのに、やけに馴れ馴れしい
ヤツがいたりとか」
「まるで、昔からの知り合いのように話しかけてくる方がいたり、とか?」
「そうそう」
「・・・・ですよねぇ・・・悟浄もそう思ってましたか」
「ああ。何度かちょっと違和感を感じたコトがあったからな」
「実は、先ほどの話でもう一つ、気になってたことがあるんです」
「あん?」
「天界の目的が、妖怪を滅ぼすことだとしたら、異変調査の任務になぜ僕ら四人が選ばれたんで
しょう?」
「へ?そりゃ、三蔵は最高僧でそういう役ドコロだし、俺たちは――たまたま異変の影響を受け
てなくて、かつ多少腕っぷしが強かったからじゃねーの?」
「僕もそう思ってたんですけど――・・・。少し前にたまたま、資料室で書棚の隙間から面白い
戦術の本を見つけたんです。」
「戦術の本?」
「ええ。スタンダードな戦法から、奇策、陳策までをズラリと網羅した戦術のマニュアル本でした。
どの項目も革新的な内容でびっくりするほど面白くて、ついつい読みふけってしまったんです」
「・・・それで?」
話の方向が微妙に変わってしまった気がしたが、とりあえず悟浄は先をうながした。
気にしてはいけない。八戒との会話にはよくあることだ。
「それで、あんまり面白かったので、ぜひそれを書いた方に会ってみたいなぁと思ったんです。
それを書いたのは、天界軍の一軍隊に所属する、ある元帥と大将の二人でした」
「で、会えたの?」
「二人はどこにもいませんでした」
「は?」
「どこにも存在しなかったんです」
「・・・どーゆーことよ?」
「分かりません。そのあと、コッソリ”天界住民基本台帳”で全ての天界人のデータを拝見した
んですが、彼らの存在はどこにも記載されてませんでした」
「・・ってお前、アレをハッキングしたのかよ。滅茶苦茶セキュリティが堅いシステムっだて聞
いたぜ、俺は」
「システムは堅くても、使うのは人ですから、所詮穴はあります。それはいいんですけど、結局
その後どの文献を探しても、彼らに関する情報は得られませんでした。その二人の存在が確認で
きたのは、その書棚の隙間から出てきた戦術書だけだったんです。これほどの本が書けるってこ
とは、かなり有能な人物だったと思うんですが」
「・・・不慮の事故で死んじまったとか?」
「それなら、”死亡”という形でデータが残りますが、本当に・・・・何も残ってないんです」
「・・・・・・」
「悟浄、どうしました?」
それまで半分流すように八戒の話を聞いていた悟浄の表情が、少し硬くなった。
「この前、酒の席で女官のねーちゃんがちらっと話してくれたんだけど」
「何です?」
「天界で天界人が大罪を犯した場合、その最高刑は”下界に落されること”なんだと」
「ああ、それは僕も聞いたことがあります」
「そんで、最高刑で”下界に落された”天界人は、それまで天界に存在していた証拠や記録が全
て消されるんだと」
八戒の瞳の色がわずかに濃くなった。
「・・・悟浄。また推測話をしてもいいですか?」
「? おう」
「今度はもっと―いえ、かなり僕の想像だけの話になります。
かつて――天界にとても有能な人物たちがいました。しかし、彼らはあるとき、故意か成り行き
か結果的に天界に反旗をひるがえす事になりました。当然、彼らには天罰という名の制裁がくだ
り、最高刑で下界に落された。しかし、有能な彼らを手放すのは、天界としても大きな痛手だった」
「それで?」
「だから、天界の上層部は考えた。目に見える悪役を作って下界に落ちた彼らにそれを討伐させ
てはどうだろう。天界の名のもとに悪役を倒すという大義名分を果たさせれば、彼らに再び天界
への忠誠心を植え付けることができるんじゃないか――とね。そして褒美と賞して再び彼らを天
界に召し上げればいいと。」
「・・・おい、ちょっと待てよ、それって」
「ただの推測ですよ、悟浄。・・・ついでにこの話に、目障りな妖怪を滅ぼす計画を盛り込めば
一石二鳥。」
「・・・・・・」
「方法は・・・・至って簡単ですね。ある嫉妬に狂った妖怪の女性に力を与え、ほんの少しその
背中を押してやればよかった。逃亡した科学者の中に一人、異色な人間がいましたが、もしかし
たら彼がその任務を任されたキーパーソンだったのかもしれません。後で三蔵から聞いたところ
によると、彼は三蔵の師父、光明三蔵法師の既知の友人だったといいます。そう考えると、もし
かしたら光明三蔵法師が三蔵を拾ったことも、偶然ではなかったのかもしれませんね。」
ごくりと、悟浄が唾を飲み込む音が聞こえた。
「―・・・・マジ?」
「だから、悟浄。ただの推測ですってば。そんな真面目な顔で聞かないで下さいよ。あれこれ考え
てしまう、僕の悪いクセですね。さっきの話と違って、これこそまったく証拠も確信もありません」
「・・・そーだな。証拠もねぇし、相当に突飛な話には違えねぇけど・・・・でも、お前の推測
は大概当たるからよ」
悟浄はほうと、ひとつため息をつくと、懐から愛用の煙草とライターを取り出し、カチリと火を
つけた。
「ま、万が一、それが真実だったとしても」
白い煙が真っ直ぐに夜空に吸い込まれていく。
「もう俺たちにはカンケーないことだけどな」
「・・・そうですね」
「ところでさぁ、三蔵たちには、このこと話してんの?」
「―ええ。いちおう三蔵には、下界に降りる意思と、先ほど僕らの部屋で話した仮説を伝えています」
それをどうするかは、彼らの自由だ。
彼らは、彼らなりの考えで天界に残ることを選択したのかもしれない。


森を抜けると、天界人たちの居住区域が広がっていた。
幸い、ほとんどが宴に出ているか、または酔いつぶれて部屋で寝ているかしているため、人気は
ほとんどなかった。
二人は足早に住宅街の中央を走る広い道を進み、居住区域を通り抜けた。
やがて、目の前に切り立った巨大な崖が現れる。
崖下には大きな川が流れており、天界の四方から流れてきた水が大きな滝となって川へ流れ込ん
でいた。
「こりゃすげーや」
「あはは。落ちたらひとたまりもありませんねぇ」
「涼しいカオして言うなよ。んで、肝心のゲートはどこだ?」
「あれです」
八戒が指差した先には一本の橋がかけられており、その先は対岸の巨大な建物へと続いていた。
「あれが、下界へ降りるゲートを統括している管理塔です。」
「・・・・なるほど、崖の向こうに建てて、いざという時は橋を畳んで簡単には出て行けねぇよ
うにしてるワケね」
「ええ。そしておそらく、侵入者への対策は、それだけじゃないでしょうね」
不意に橋下から二人をめがけて何本もの細長い矢が飛んできた。一本が、八戒の腕を掠める。
「・・・ッ」
「何だ・・・こいつら?」
いつの間にか、沢山の人影が八戒と悟浄をぐるりと取り巻いていた。
皆一様に僧侶のような姿をしており、そのガラス玉のような瞳は、機械のように冷たかった。
一人一人がそれぞれの手に弓矢や刀を握っている。
「これは――神様や人間ではありません。戦術百般を仕込まれた天界の精巧なカラクリ人形です
よ。確か”黄巾力士”(こうきんりきし)とも呼ばれているものです」
「だーもーそんなもんまで作ってやがったのか天界はっ。きったねーぞ!」
「悟浄、後ろですっ!」
背後から、再び数本の矢が飛んでくる。
悟浄はひらりと優雅に背中を曲げてそれらを交わした。
「ま、人形ってコトなら話は早えーや。――手加減は、無用だな」
言い終わる前に素早く左手から錫杖を出現させ、四方から襲ってくる人形たちをあっという間に
両断する。
隣を見ると、すでに八戒が数十体の人形を気孔の餌食にしていた。
ものの数分で、二人を囲んでいた人形達はすべてガラクタの塊となった。
「なんかこう・・・・不気味なヤツらの割にはあっけなかったな」
「まだ、何体か残っているかもしれません、気をつけて下さい」
まわりを警戒しながら、八戒は慎重に対岸の管理塔の様子を伺う。
橋は架けられたままだ。今なら、渡れる。
そのとき、不意に悟浄の叫び声が上がった。
「はっかいっ、上だっ!」
頭上から、不意をついて一体の人形が襲い掛かってくる。ゲートに気を取られていて油断した。
とっさに気孔の壁を作ろうと構えたが間に合わない。
「しま・・・っ」
瞬間、大きな影が八戒の前に覆い被さった。
続いて真っ赤な血と、それと同じ色をした紅色の髪が八戒の視界を一面に覆った。
「――悟浄ッ!?」
肩から紅い鮮血を流しながら、悟浄の身体がゆっくりと八戒の方に倒れ込む。
「――何やってるんですッ。貴方、バカでしょう!!」
お前ねェ・・・庇ってやったってのに何て言い草だよ。
悪態をついて、なんとか意識を保とうと足掻いたが、次第に頭の中に靄かかかっていく。
「悟浄ッ」
八戒の声が不自然に遠い。
「ちくしょ・・・」
全身が痺れるような感覚を覚えながら、悟浄は意識を手放した。


ざあざあと耳障りな音が頭の中に響いている。
そういえば崖下の川には沢山の滝が流れてたっけ・・・でも頭に響くこのイメージは――雨?。
雨のイメージは何故か八戒に重なる。
同居を始めた当初、何度か家の外で雨にうたれてぼんやりとしている八戒を見かけてぎょっとし
たことがあった。
が、そういった事は数ヶ月もするうちに自然となくなっていった。
そんな出来事もあったが、それではなくて。
始めて出会った、あの時の印象だ。
放っておいたら、間もなく確実に死ぬだろうという状態の瀕死の身体をドロドロの泥水の中に横
たえてなお、不意に見上げてきた瞳は生きる力に満ちていた。
そして、あろうことか悟浄に向かって微笑んだのだ。
あれをなんと表現したらよいか分からない。
あえていうならば、全てを降り注ぐ雨に洗い流した後の
再生。
同時に、その日暮らしの半分死んだような生き方をしていた自分を嘲笑しているようにも感じら
れて、何だか少しムカついた。
だから拾った。やがて、「猪八戒」と名を改めた彼は、自らゆっくりと歩き出した。
忘れたわけでも、開き直ったわけでもなく、ただ傷を抱えながら、一歩一歩前に向かって足を進
める彼に、何より悟浄自身が救われた――ような気がした。
(ま、ぜってー口には出さないケドな。)
もう少し。
まだ、もう少しだけ。前に進むあいつを見ていたいと思う。
だから。
はやく、目を、覚まさなけなければ―――。


「悟浄・・・・目を開けてください、悟浄ッ!!」
慌てて悟浄を抱き起こしてその傷を確認する。肩から背中までざっくりと切りつけられた傷から
生々しい鮮血が噴出している。
――頚動脈をやられてますね。
普通の人間ならとっくに死んでいる傷だ。
強靭な悟浄の体力だからこそ何とか即死を免れている。
早く、血を止めなければ。
大量の血液が流れ出し、2人の衣服をあっという間に紅く染めていった。
止血しようと伸ばした両手が真っ赤に染まる。
悟浄の、血。
「あ・・・」
どくり、と。八戒の身体の奥底で何かが疼いた。耳元のカフスが僅かに悲鳴をあげる。
ダメだ―――。
必死に自制ようとするが、身体の奥底から抑えきれない衝動が湧き出し、八戒の全身を席巻する。
遠くに聞こえる滝の音が、まるで雨の音のようでさらに八戒の衝動に拍車をかけた。
ゆらり、と。射るような鋭い眼光が、悟浄を切りつけた人形に向けられる。
「よくも――。」


ばりばりと機械が激しく壊されるような音を遠くに聞きながらゆっくりと瞳を開ける。
覚醒したと同時にその破壊音は、急に間近で聞こえてきた。
(はっ・・かい・・・?)
視界の端に八戒が無機質な表情で,淡々と人形を握り潰している姿が飛び込んだ。
人形の姿は、既にもう跡形もない。
「・・・はっかい。そこまでバラバラにしなくても、そいつ、もう動かねーよ?」
その声に、ぴたりと八戒の手が止まった。
「あ―もー。めちゃめちゃ痛ッてーわ。取り込み中ワリーんだケドさー。早いトコ傷口塞いでく
んない?」
なんて緊張感のないセリフだ。
けれど、その一言で呪文のように八戒の殺伐とした気が削がれていった。
我に返った八戒が慌てて悟浄にかけ寄る。
「――っ喋らないで下さい、悟浄」
すぐに八戒の手から淡い光が燈り、悟浄の傷跡をふわりと優しく覆っていった。
「――〜〜ッッ」
「痛みますか?もう少し我慢しててくださいね」
「〜っててて。もーちょっとお手柔らかにお願いしまス」
「贅沢言わないで下さいよ」
あらかたの傷を塞ぐと、持って来ていた携帯用の包帯で傷跡を覆う。
傷は塞いだが、何せ失血量が多かったので、悟浄はまだ暫くのあいだ、立ち上がれずにいた。
「あーあ。エライ目に合った」
「・・すみませんでした、悟浄。」
「は? 別にお前のせいじゃ」
「――克服したと、思ってたんですけどね」
座って煙草をふかしていた悟浄がちらりと八戒の方を見る。
「ま、そんな簡単なモンじゃねーってコトだろ?」
「・・・ええ」
「別にいーじゃん。それも含めて、今のお前なんだからよ」
八戒の瞳が、少し驚いたように見開かれる。そしていつも通りの表情で穏やかに微笑んだ。
「・・・そぉですね」

とりあえず、今のところ二人は人形たちの死角に身を隠しているため無事だが、事態はあまり好
転していない。
ゲートに入るためには橋を渡らなければならないが、その前にはこれでもか、という数の人形達
が待機していた。先ほどの騒ぎでその数は倍増しているように見受けられる。
「くそー。一体どんだけいやがるんだ、アイツら」
「一気にカタをつけるには少々数が多いですね。でも―ここまで来たらもうやるしかないですね。」
「そーだな」
「じゃあ・・・ちょっと行ってきますので、悟浄はここで待っててください」
「・・あ? おいっ、ちょっと待てよ、何で俺は待機なワケ?」
「何でって、貴方その身体で戦うつもりですか?」
「何でよ?俺のケガなら、お前のおかげでほとんど回復してるぜ?」
「さっき頚動脈を切ったばっかの人が何言ってんですか。ダメですよ」
「大丈夫だって」
「ダメだって言ってるでしょう。殴り倒してでもここに居てもらいますからねっ!」
「無茶苦茶ゆーなよ。オイ」
珍しく、ホントに珍しく八戒が取り乱している。
血まみれになった悟浄を見て我を忘れかけたことが余程にこたえたのだろうか。
そんなことを考えて、悟浄はどういった訳か少し嬉しさを感じている自分におや、と思う。
「とにかく、僕がカタをつけて来るまでここに居てください。いいですね!」
「・・・・・・」
返事をせずに憮然と黙っている悟浄に、八戒が痺れをきらした。
「ちょっと、悟浄っ、分かっ――・・・」
語尾は続かなかった。正確にいうと物理的に言葉を遮られので、続けられなかった。
ゆっくりと、悟浄の唇が離れていく。



(ふーん。めずらしー顔)
こんな風に瞳を超全開に見開いた八戒を見るのは珍しい。
普段はたいてい瞳を細めて笑っているため、瞳が半開きだからだ。
そんな呑気なことを考えながら、悟浄は未だ眼を見ひらいて呆けている八戒に向かってニヤリと
笑った。
「さっきのお返しだ。ばーか。」
「・・・・〜〜リアクションに困る行動を取らないでくださいよ」
「でも、ちょっとは落着いたろ?」
「・・・・さっきのお返しって何です?」
「何ってお前、さっき俺の髪にキスしただろーが」
「そこの所も起きてたんですか。まったく、いつの間にか狸寝入りがうまくなりましたね」
「気が付かねーお前が悪い。それより、あれはどーゆーコトよ?」
「知りませんよ。悟浄こそ、何故です?僕を落着かせるんなら殴るとか他にも方法があるでし
ょーが」
「知らねーよ。直前までは殴るつもりだったのに、気が付いたらキスしてたんだよ」
「それは・・・とてもミステリーですね」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
短い、沈黙。
「ま、こんな事を言ってる場合じゃないですから、この件についてはお互いまた後でゆっくり考
えましょうか」
「同感。ついでに、『また後』があるコトを祈りたいケドな」
「・・・どうやら、気づかれてしまったようですね」
・・・まあコレだけ騒いだら当たり前か。
気がつくと、いつの間にか再び自分達のまわりを大量の人形たちの黒い影がぐるりと取りまいて
いた。
「――それじゃ、行きましょうか、悟浄。くれぐれも足手まといにならないで下さいね」
「だーもー、うっせーよッ。お前こそ、また油断してヘマすんじゃねーぞ!」
「あはは。そっくりそのままお返ししますよ」
八戒の言葉を合図に、二人は勢いよく人形たちの中へ飛び出していった。


■NEXT






《言の葉あそび》