Scene 1. 無言歌 夢とうつつを隔てる川を、人はどうやって渡るのだろう。 うつつの願いを、夢の約束を、人はどうやって向こう岸へ運ぶのだろう。 ‡ ‡ ‡
頭上を覆う薄紅の花の天蓋。ほの白い空気を揺らめかせて、雪のように降りかかる花弁。 周囲は明るいのに、足下に落ちるべき影がない。 気が付いたときには、裸足のまま花の雨の中に立っていた。 どうやってここに来たのかは知らない。どうしてここにいるのかも知らない。 ただ自分が夢を見ていることだけは分かった。 桜の森の満開の下、彼は陶然と群雲のような花の広がりを見上げる。 花の狭間に覗く空は青く晴れ渡っている。真昼であろうに仰ぐべき太陽がどこにも見当たらない。 それを不思議とも思わなかった。この世界の空には日も燃えず月も灯らぬことを、彼は知っていた。 その代わり、枝々にみっしりと咲き誇る桜が、自ら光を発するかのように辺りを照らしている。 影すら産み落とさぬ白い木の下闇に、ほろほろと光の尾を引いて数限りない花弁が舞う。 このままでは花に埋もれてしまいそうだったから、ようよう彼は歩き出した。 桜の散りしく地面を踏みしめて、木の間隠れの細道を辿る。 裸足の足裏に触れる花弁の絨毯は、冷たく柔らかい。 鳥の啼き声一つ聞こえぬ静寂の中、降る花だけが燦々ときりもなく。初めての道のようでもあり、 幾度も繰り返し通った道のようでもあった。 ひたすらに足を進めながら、桜の花が夢見草とも呼ばれるわけを、ぼんやり考えていた。 花の隧道をどれほど歩いたのか、唐突に視界が開けた。 桜の海の真中に、空が涙を落としたほどの小さな空地。 待ち受けていた光景に、彼は自分がここに来た理由を悟った。 正面のひときわ見事な桜の大木の根元に、その男は身を預けていた。 長い足を無造作に地に投げ出し、僅かに傾けた頭を幹にもたせかけて、目を閉じている。 短い黒髪に着崩した黒の軍服。傍らには抜き身のままの長剣が地面に突き立てられ、膝の上では大振り の拳銃が鈍く光っている。男の上にも、無粋な鉄の塊の上にも点々と散る花。 淡い花の芳香に、どこかで嗅ぎ慣れた匂いが混じっている。 −−− 血の匂い。 端正な男の顔は血と泥で汚れ、黒い服にも布地より濃い色の染みがいくつも広がっていた。 胸に噴き上げてきたのは、言い様もなく激しい渇望だった。 この男を探していた。この男に会いたかった。この男に確かめたいことがあった。 ずっと、ずっと、ずっと。 焦燥は胸を焼くほどだったのに、彼はそれ以上前に進むことができなかった。 空地の周りには目に見えない壁が張り巡らされ、侵入者を拒んでいる。透明な硝子のようなそれは、 どんな拳もどんな望みも打ち砕くことのできない境界だった。 風が出てきた。 またひとしきり花が散る。とめどもなく。砂時計の虚ろに砂が落ちるのにも似て。 永遠の倦怠に淀んだ世界にも、刻々と失われいくものがあると教えるかのように。 眼前の小さな空地は、とおに過ぎ去った時間の降り積もる場所だった。そこに踏み入ることのできる 生者はいない。 ただ、はらはらと。 はらはらと、無心の桜だけが境を越えて行き交うのだ。 花の雨の向こうで、眠っているかに見えた男が身じろいだ。 僅かに眉根を寄せながら、眼を開く。類い稀な意志の輝きを宿した黒い双眸。 浮かべられた怒りも喜びも痛みも欲も、自分自身のもののように慣れ親しんだ瞳。 瞬きをし、長閑に伸びをし、それから。 まっすぐに視線が出会う。 切れ長の黒い瞳が一瞬驚いたように見開かれ、そして、望んだものを見出した子供の表情で、笑った。 泣きたいほど懐かしい笑顔だった。 何かを言いかけた男が、ふと物音に気付いたように横を向いた。 瞬時に鋭くなった横顔は、既に戦士のものだった。 長剣を支えにうっそりと立ち上がる長駆。全身に浴びた赤は、返り血ばかりではないのだろう。 男の足下の地面は桜より遥かに鮮やかな色に染まっていた。 傷ついてなお美しく強靱な、野生の獣のような男。 もう一度彼に視線を戻すと、桜の似合う手負いの獣は晴れ晴れと笑った。 唇が動く。 触れた温度も触れられた感触も誰よりよく知る唇が、何言かを形作る。 「 」 言葉が聞き取れない。 それが約束の言葉だと知っているのに。 男の声が聞こえない。 いつも、いつも、いつも。 目許に浮かべた笑みだけで別れを告げ、男は広い背中を向けた。 もう決して振り向くことはないのだと分かった。 血の匂いを孕んで、一陣の突風が空地を吹き抜けた。 舞い狂う花吹雪が、たちまちに男の姿を覆い尽くす。 声を限りに呼んだはずの名は、ついに音となることはなかった。 ‡ ‡ ‡
夢の中で誰かがあげた声に驚いて、彼は眼を覚ました。 全身にびっしょりと汗をかき、胸は全力疾走した後のように早鐘を打っている。 呼吸を整えてから、ゆっくりと体を起こした。 自分のものではない部屋の、自分のものではないベッドの上。 だが、空気に染みついた煙草の香りは身に馴染んだものだし、天井の節目の形にも見覚えがある。 そのことに少しだけ安堵した。 枕元に置かれた腕時計が教えるのは明け方に近い時刻。 薄いカーテンの向こうに水色の夏の朝が早や明け初めている。 スタンドの陰で、モノクルが鈍く光をはじく。 夢を−−− 何か、とても哀しい夢を見ていた。 目覚めと同時に雲散霧消してしまった夢は、緋色の桜の形をしていたのかも知れない。 夢の残滓が、落ちた花弁のように点々と体に纏わりついている。 砕け残った細い根が、まだ心臓の深いところで青白く光っているようだった。 血の色に似た名残りの花を振り払うように、彼は細い手で右目を覆いながらゆっくりと首を振った。 指に触れる冷たい義眼の感触が、現実感を取り戻してくれるように思えた。 そうして、はじめて隣によりそう体温の存在を思い出す。 肌の触れ合う距離で眠る男。 枕に広がる長い髪が鮮やかに赤く、一瞬理由のない眩暈を覚えた。 夕べ初めて、この同居人の男と抱き合って眠った。 何故かと問われれば、成り行きだったと答えるしかない。 互いにとってあまりにも自然な行為だったせいで、疑問を覚えている暇もなかった。 けれど、一夜の熱情が過ぎ去ってみれば、胸を噛むのは後悔ともまた違う苦く重い感情だ。 自分はまた、失えば他のすべてを壊すしかない誰かの手を取ってしまったのだろうか? 忘れた夢の破片が、胸の奥で疼く気がした。 枕の上で、男が寝返りを打った。 起きたのかと思えば、長い睫毛を伏せた顔は子供のように安らかで、今だ深い眠りの内にいるのだと 知れた。 なのに、大きな手は何かを求めるようにシーツの上を彷徨う。 ようやく捜し当てた彼の指に指を絡め、夢うつつに男が笑った。 奇妙な既視感がして、彼は息をひそめながら男の口許を見詰めた。 昨夜自分の肌に無数の熱を落とした唇。 少し荒れた肉厚の唇が開き、吐息だけで一つの言葉を紡いだ。 「 」 囁かれた言の葉は、形にすらならぬまま消えていったはずなのに。 心臓に刺さった夢の欠片が、解けて翠の瞳から零れ落ちる。 光る雫は眠る男の唇の上に、儚い花弁のように散った。 |