第10話 史上最凶の攻防1


 サア…とシャワーから零れる小さな飛沫がタイルを叩く音を聞きながら、悟浄はがしがし
と無造作に身体を洗う。
小さな換気用の窓からは、朝のすがすがしい空気と日差しが風呂場の狭い空間を満たす。
何気なくそこへ視線を向ければ、抜けるような青空が窓越しに広がっているのが見える。
そんなのどかな光景の中、機嫌よく鼻歌を歌いながら身体に残った泡を流していた悟浄は
ふいに歌うのを止めると、窓の外へ再び紅い双眸を向ける。
 「…めんどっち〜なぁ。」
そう小さく呟きながら、シャワーのコックをキュッと乱暴にひねった。



 同じ頃、悟浄の鼻歌を聞きながら、ぽたぽたとサイフォンの中に落ちていくコーヒーの様
子を確認した八戒は、テーブルの上に用意したカップを温めようと手を伸ばす。
が、指先がカップの持ち手に触れる瞬間、動きを止めた指が緩やかに握り込まれる。
 「来訪の時間って、できれば考慮に入らないもんですかね。」
何かの気配に脅えたように、チチチ…と甲高く鳴きながら慌ただしく飛び立っていく小鳥に
何気なく視線を向けると、八戒はそう呟きため息をついた。
 「こんな朝早くから来るなんて勤勉だよなぁ。」
カチャリとバスルームに続く扉が開くと、悟浄がジーンズだけをはいた半裸の姿のまま、タ
オルで髪をわしわしと乱暴に拭きながら八戒の側へと歩み寄る。
 「ほんと、暇なんですねえ。」
改めてカップに手を伸ばしながら、八戒はしみじみとした口調でそう呟く。
自分たちの命を狙う刺客の団体の襲撃に対して「暇」とか「勤勉」とかいった言葉で称する
のはどこかズレている気もするが、所詮雑魚の群れ。
彼らにとってはそれで充分なのかもしれない。
 「さって、朝の運動でもしてくるとしましょうか。」
肩にタオルを掛けたまま、今日最初の煙草を口に銜えた悟浄がにやりと不敵に笑う。
ぽとっ…と最後の一滴がサイフォンの中へと落ちていく様子を見た八戒はといえば、少し逡
巡するように、自分の顎に手を添えた。
やる気満々と言った悟浄とは対照的に、八戒は少し困惑の表情を浮かべている。
 「あ…悟浄。」
 「ん?」
シャツに腕を通しながら、名を呼ばれて悟浄は首だけ振り返る。
と、そこには困っているようで、反面どこか楽しんでいるような複雑な笑みを浮かべた八戒
がコップを手にして立っていた。
まさか、と思う間もなく八戒が謝罪の言葉を述べるとそのコップを握りなおす。
 「ごめんなさい!」
ぱしゃという軽い水音とともにその水を掛けられた悟浄の脳裏には、なんで?どうして?と
いう疑問符がぽこぽこと沸いて出ていた。



 一方その頃、刺客という名目の雑魚を相手に、三蔵と悟空が暴れていた。
文字通り命のとりあいをしている切迫したムードの中、ふいに現れた人物がのんびりとした
声でその場の緊張感を削ぐ。
 「すみません、遅くなりました。」
言葉では謝罪をしながらも、走ってくる気配すら見せない八戒に、雑魚ひとりを蹴り飛ばす
と、悟空が文句を言いながら振り返る。
 「おっそいじゃ…ってあれ?」
八戒の姿を目にした途端、悟空は驚いたような声を上げる。
文句を言おうとした対象がいる筈のポジションが、いつもと違う事に気付いたからだ。
 「…それはどうした。」
同じく雑魚ひとりの顎を銃のグリップで強かに殴りつけながら、三蔵が不機嫌そのものとい
った低い声で、たたずむ八戒とその腕の中にあるモノを睨み付ける。
そう、八戒が大事そうに抱いているのは、アヒルと化した悟浄の姿だった。
こちらもこの姿で二人の前に現れたのは不本意なのか、ぷいっとそっぽを向いたまま視線を
合わせようとはしなかった。
 「ああ、さっき誤って僕がコップの水かけちゃったんです。」
 「ダッセ〜!」
困ったような笑顔で八戒がそう説明すると、悟空がゲラゲラと笑う。
そんな悟空に、悟浄が鋭い視線を向け真紅の瞳でぎっと睨み付けるが、いかんせんアヒルの
姿では迫力がない。ただただ一層の笑いを誘うだけだ。
 「で、ですね。このままだと悟浄は戦えないから…ここはお二人に任せますね。」
 「なんだと?」
 「え〜!」
のんびりとした口調で、しかし決定事項を告げるような断固たる意志を込めた八戒の言葉に
当然ながら悟空と三蔵が揃って不満の声を上げる。
確かに数にして三十にも満たない雑魚相手に、わざわざメンバー全員で相手をしなくとも、
三蔵と悟空ふたりだけで充分だ。
しかし、そういう事でと言われて、はいそうですかと答えられるような内容でもない。
面倒な事は、できるだけ自分の分は減らしたいと思うものなのだ。
とはいえ、抗議の声を上げながらも着実に雑魚を始末しているあたり、意外に二人ともマメ
なのかもしれなかった。
…もちろんそういう問題でもないのかもしれないが。
 「仕方ないじゃないですか。」
が、そんな二人の抗議など、どこふく風で八戒はそう言い切る。
お義理程度に、自分に向かって刃物を振るう雑魚を気孔一発で吹き飛ばしただけで、殆ど何
もぜすに穏やかに話し続ける。
今の八戒の基本姿勢は腕の中の悟浄を守る事だけで、雑魚の相手は二の次以下なのだ。
最初不機嫌そうだった悟浄はといえば、八戒が何を企んでいるのかが解ってからは、妙に楽
しげに首をゆらゆらと揺らしている。
これがいつもの姿なら、にやにやと人を食った笑みを浮かべているのだろう。
傍観者でいられる以上、三蔵達のやりとりはなかなか面白い見物ではあるのだ。
 「悟空。」
 「なに?」
一発の銃声が周囲にとどろいた後、ふいにそう名を呼ばれ、悟空は声の主である三蔵に視線
を向ける。
 「そいつに小便でもかけてやれ。」
 「…なんで?」
唐突に思ってもみなかった事をそう言われ、全く意味が解らない悟空が如意棒を振るう手を
止めて尋ねかえす。
三蔵は銃身を傾け、ジャラ…と音を立てて空の薬莢を全て地面に落とすと、新しい銃弾を詰
めながら言う。
 「湯には違いないだろうが。」
 「あ、そっか。」
説明されて、納得したような表情を悟空が浮かべ、悟浄はゲッと露骨に顔をしかめ、八戒の
眉間が一瞬ぴくりと動く。
確かに体温程度の温度を持った湯である事は違いないだろう。
どこから出た何の湯であるかを除けば、だが。
 「でも、なんか腫れそうでヤだ。」
しかしすぐに思いきり嫌そうな顔で悟空がそう言う。
俺はミミズか!と悟浄が抗議の声を上げるが、そこにいる者には「ガア!」としか聞こえな
いのは幸か不幸か。
 「ああそうだ、悟空。」
それまで黙って聞いていた八戒が、ふいににっこりと笑顔を浮かべて悟空を呼ぶ。
 「お詫びと言っては何ですけど、食べたい物のリクエスト五品まで受け付けますよ?」
 「ええっ!八戒作ってくれるの!?」
とたん、ぱあっとまるで遮っていた雲が消えた太陽のような笑顔を悟空が浮かべる。
与えられた餌を前に、今にも涎を垂らさんばかりに尾を振る子犬、と言ってもいいのかもし
れないが。
 「はい。帰ってくるまでに考えておいてくださいね。」
 「うん解った!五個だよね!」
肉まんとぉハンバーグとぉ餃子とぉ!ああでも焼売もいいよなぁ!となにやら大声で叫びな
がら、悟空が張りきって雑魚掃除にいそしみだす。
あっさりと八戒に丸め込まれた悟空の頭からは、既に悟浄のことも三蔵の言葉もきれいに消
えているようだ。
 「じゃあ、がんばって下さい。」
 「ガッvv」
にこおっと満面の笑顔でそう八戒が言えば、腕の中の悟浄も同調するように機嫌よく鳴き声
を上げる。
 「貴様ら…。」
低くうねるような三蔵の声は、たちまち喧騒の中に消えてしまった。



 殺伐とした命の捕りあいなどまったく知らぬかのように、のほほんとした雰囲気の中二人
は朝のコーヒーの香りと味を楽しんでいた。
 「で…八戒さんは何を企んでるのかな?」
カタッと軽い音を立てながら、カップをソーサーの上に戻すと、悟浄が面白がるような笑み
を口許に浮かべてそう尋ねる。
だいたい八戒が何を企んだのかは見当がついていたのだが、あえて悟浄はその口から直に理
由を聞いてみたかった。
 「企んでるなんて人聞きが悪いなぁ。」
歯に衣着せない悟浄の物言いに、八戒は小さく苦笑を浮かべると、最後の一口を飲み干して
同じくカップを戻す。
 「ただ、せっかくいれたコーヒーが冷めちゃうのは嫌だなあと思っただけで…。」
 「ホントにそれだけか?」
片目を閉じてにやりと悟浄がそう尋ねれば、八戒は少し迷ったあと素直に答える。
 「たまには悟浄とゆっくり朝食をとりたいなぁって思ったんです。」
旅に出てからずっと食事は四人でとる事が当たり前のようになっていた。
それが決して不満な訳ではないのだが、こうして静かに二人でゆっくりと食事をする楽しみ
もたまには味わいたい。
 「朝食だけ?」
 「あと何があるんですか?」
にっかりと何かを企んでます的顔つきで悟浄にそう言われて、八戒はわざとらしく首を傾げ
て空とぼけてみせる。
この状況下で何を言いだすのか、だいたいの予想はつく。
 「ん〜。とりあえずおめざめのキスからってのはど?」
 「…いいですよ。」
大きな犬がご褒美を待っているかのような、期待に充ち満ちた視線で見つめられ、八戒は小
さく吹きだすと、身を乗り出しその唇に軽いキスを送った。



 とはいえ、二人がのんびりできたのはそれから一時間程度だけだった。
不機嫌全開モードで戻ってきた三蔵の姿に恐れをなした宿屋の夫婦の代わりに、八戒が簡単
な朝食を作っていると、村の長老たちや警備の主立った人間が現れた。
先程起こった惨劇に対し、事実確認と今後の対策について、三蔵に伺いに来たのだ。
ここが砂漠や森と言った人家のない場所ならともかく、村外れでの出来事だけに彼らのその
反応は当然とも言えた。
もちろん、そんな事など知っていても面倒なだけな三蔵には、煩わしいことこの上ない。
とかといって、今すぐこの村を後にするのが出来ない以上、どんなに面倒だろうがある程度
の事後処理は必要になる。
さらにその勢いに拍車をかけたのが、残り三人の態度であった。
「これは三蔵の仕事」と言わんばかりに、三蔵一人を肩書きをもった老人の群れの中に残し
三人は仲良く夕食の材料の買いだしに出かけたのだ。
残務処理に加えて、三蔵法師の説法をと願う声も当然上がる。
片端から無視と睨みで追っ払ってはみたものの、その数はなかなか途絶える事もなかった。
おかげで、三蔵の機嫌は音速を越えそうな勢いで急降下し続けている。
それはもちろん、悟空のリクエスト通りの食卓を囲む時間になっても変わらなかった。



 「んめ〜!やっぱり八戒の作った飯が一番うまいよ!」
焼き立てのパリパリっとした皮の餃子を口一杯頬張り、幸せそうな笑顔で噛みしめていた悟
空が、飲み込むなり感動の声を上げる。
 「あったり前だろうが、んなこたぁ。」
 「ありがとうございます。」
その隣で、悟浄が何を今更といった顔つきでビールをすすりながら言えば、八戒は嬉しそう
な笑顔を浮かべて礼を言う。
 「ああ!俺の餃子盗るなよゴキブリ河童!」
 「だったら俺の唐揚げ返せ!この脳みそ胃袋猿!」
 「まあまあ。おかわりはたくさんありますから、静かにしましょうね。」
いつものように賑やかと表現するにはあまりにも騒がしい食卓を前に、ひとりだけそのいつも
とは違う行動をとる人物がいた。
 「……。」
普段ならとっくの昔にこの騒がしさにキレて、ハリセンなり銃なりを取りだし騒ぎの元凶で
ある二人を止める三蔵が、黙って食事をしているのだ。
さらに、通りかかったウエイターを引き止め、自ら小声でなにやら頼んでるではないか。
 「…追加注文ですか?」
 「まあな。」
訝しげに尋ねる八戒に言葉少なくそう答えると、三蔵は再びビールに手を伸ばす。
 「あ、俺ラーメンも喰いたい!」
何か腑に落ちないといった表情を微かに浮かべる八戒とは対照的に、悟空は追加注文という
言葉に即座に反応し、はいっ!と手を上げて言う。
 「勝手に頼め。」
 「え?いいの!?」
いつもなら、どれだけ食うつもりかとハリセンで張り飛ばされる発言なのに、あっさり承諾
され、嬉しさに目をきらきらさせながらも不安が残る視線で、悟空は三蔵を見る。
 「…へ〜。三蔵さまってば今日は気前がいいじゃん。」
 「ふん。」
珍しいこともあるもんだと、悟浄がからかいの言葉を口にしても、三蔵は鼻であしらうだけ
でそれ以上の反応を示さない。
どうしたんだろうねぇと視線で八戒に悟浄が尋ねるが、八戒も解らないというように小さく
かぶりを振る。
そう、静かすぎるのだ。三蔵が。
今朝の一件以来、三蔵の機嫌が大変よろしくない事くらい二人とも承知している。
というか、そうなる事を見越してわざと嫌がらせをしたというべきかも知れないが。
だからこそ、キレもせず発砲もハリセンも出てこない今の三蔵という存在が不気味だった。
台風の目に似た状態なのかも知れないと、悟浄はともかく八戒もそう思っていた。
 「お待たせしました。」
そんな四人の雰囲気を破るかのように、先程のウェイターが何か大きなふた付きの皿をテー
ブルの上に乗せる。
 「何?何頼んだの?」
わくわくしながら悟空が身を乗り出し、八戒と悟浄もまた自然にその皿へと視線を向ける。
かぱっという音とともに、蓋が取り除かれた瞬間。
 「うまそ〜!」
 「…………!」
歓喜に満ちた悟空の声と共に、悟浄が声にならない悲鳴をあげ、ガタッと音を立てて椅子か
ら立ち上がる。
口許を押さえたまま、その場から逃げるようにして立ち去る悟浄の顔は、青ざめていた。
 「悟浄どうしたんだ?」
いきなりの事に、悟空は皿に伸ばした手を止めたままぼう然とした表情でいう。
その手に握られたナイフは、ぶすりという効果音が似合いそうな様子で皿の上の料理につき
ささっていた。
そこにあったのは、首と足を切断され、内臓まで抜かれた一羽の鳥の無残な焼死体だった。
ただ、確かに焼死体には違いないが、より解りやすく表現するならば、まる一日かけて丹念
に炙られこんがりときつね色をしたそれは、 いわゆる北京ダックという料理だったのだが。
その料理の周りには、レタスと数種類の刻んだ野菜が添えられており、おそらくこれでこの
料理を巻いて食べろというのだろう。
昨日までならきっとみるみるうちに皆の腹へと消えたであろうそれは、今日の悟浄と八戒に
とっては、なかなか刺激的な物体と化していた。
 「…三蔵…。」
悟浄の後ろ姿に心配そうな視線を投げ掛けていた八戒が、そのままの姿勢で背後にいる三蔵
の名をひどく静かな声で呼ぶ。
そして一呼吸を置いた後、ゆっくりと振り返ったその顔はとてもとても奇麗な笑顔だった。
そう、その顔を見た者を全て石に変えるという、かの有名なゴルゴン三姉妹さえも畏れずに
はいられないだろう程の、完璧な氷の微笑で八戒は言う。
 「僕、覚えておきますから。」
びしり、と音を立てて永久凍土と化したその場を放置し、八戒は悟浄の後を追うべく階段を
上っていった。



そしてこれが、史上最凶とも最悪ともいわれる戦いの火蓋が、切って落とされた瞬間だとい
う事は、既に言うまでもないだろう。


八戒VS三蔵 ROUND1。
勝者はどっち?と尋ねるよりも、被害者は誰?って感じです。
ええ、考えるまでもないですけど。(汗)
本当は第二ラウンドまで一度に乗せようとしたんですが、異様に
長いのであえてここで切りました。
さて次は八戒の勝利でしょうか。がんばれ悟浄!負けるな悟浄!
管理人さんはまだ帰ってこないぞ。(笑)


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悟浄1/2