そしてさらに翌日の朝。 朝食の後、煙草を買いに出た三蔵が自分の部屋に戻ると、そこには八戒がいた。 三蔵は警戒と不機嫌を込めた視線で睨め付けたが、当の八戒はといえばそんな事など全く 気にも留めてないという風で、妙に楽しげに手にした植木鉢を部屋の中央に置かれた小さな テーブルの上に置く。 そして、その植木鉢の見栄えのいい向きを探しだした。 これだけなら、さして問題はない事なのかもしれないが、何せ昨日の今日だ。 目の前にいるこの男が、何か企んでいない筈がない。 「…なんだそれは。」 「見ての通り植木鉢です。」 恫喝ともとれる三蔵の低い声もどこ吹く風で、植木鉢に視線を落としたまま八戒はさらりと そう答える。 とたん、三蔵の眉がぴくりと跳ね上がる。 「誰がそんなことを聞いた。」 「もちろん、三蔵ですけど?」 一見すれば、ごく普通に会話しているように聞こえるかも知れないが、実はその言葉の裏に はどこか挑発するような響きが含まれている。 八戒得意の言語に、三蔵の怒気がどろどろととぐろをまき始める。 そんな三蔵に対し、八戒は何気なく、しかし完全無視に近い形で再び鉢に意識を戻すとくる くると左右に動かしながら見栄えのいい向きを探す。 「……。」 どうしてくれようかと三蔵が怒気を練り始めた頃、気に入った向きが見つかったのか、ひと つ満足そうに頷くと八戒は鉢から手を離す。 そしてここに来てから始めて八戒は三蔵と視線を合わせると、にっこりと無害そのものな笑 みを浮かべて言った。 「水をやってくださいね。枯れちゃいますから。」 三蔵はというと、そんな八戒の態度に脱力したように深い深いため息をひとつつくと、頭痛 を堪えるかのようにこめかみを押さえた。 なぜ自分がわざわざ鉢植えに水やりなどしなければならないのかと問いたいが、そんな事よ りも八戒のこの妙な上機嫌さの方が遥かに問題にすべきだ。 絶対に何か企んでいる。 そんな事は最初から解りきっている事だ。 ただその「企み」がいったい何なのかまでは、さすがの三蔵にも完全には見抜けない。 なにせ目の前のこの男の思考は、コイル並に入り組んているのだから。 どうせ今八戒の手の中にある鉢植えは、例の呪泉郷がらみのものなのだろうと推測できるが これもまた、どんな仕掛けが隠されているのかなど解るはずもなく。 「…お前がやればいいだろうが。」 「それもそうですね。」 とりあえず無難な言葉を投げつけると、八戒はぽんと手を打ち、側に置いてあった水差しの 水を鉢の中に注ぎ入れる。 一瞬、何か起こるのかと身構えたが、鉢もその中の植物も原形を留めたままなんら変化する 気配はない。 「きれいな色でしょうこの蕾。夕方には咲きそうですよ。楽しみですね。」 どんな花が咲くのか楽しみですねぇとにこにこ笑顔でつぶやきながら、八戒がまだ固く閉ざ された花の蕾をそっと指先で撫でる。 「……。」 まさに「絵になる」ようなそんな雰囲気の中、三蔵は相変わらず警戒に満ちた態度を崩そう とはしない。 「ああ、長居しちゃいましたね。そろそろお暇します。」 そう言って部屋から出ていこうとする八戒の背中に向けて、三蔵が声を投げ掛ける。 「おい。」 「はい?」 呼び止められて振り向いた八戒に、三蔵が視線だけを動かしテーブルを指し示す。 「それを持っていけ。」 素直に八戒はその視線の先にあるものを見つめながら言う。 「それって…この鉢ですか?」 「他に何がある。」 本当に不思議そうに訪ねてくる八戒に、三蔵は眉間に皺を寄せながら答える。 「きれいな花が咲くそうですよ。見たくないんですか?」 「いらねえ。とっとと片づけろ。」 側にあった椅子を引き寄せ、どかりと乱暴に腰を下ろした三蔵が、取りつくしまもない口調 でそう言い切れば、八戒はひどく残念そうな顔つきになる。 「…そうですか。」 小さくつぶやくと、八戒は再びその鉢を大事そうにそっと抱えて部屋を出ていった。 新聞に視線を落としたまま、それを気配で確認すると鼻を鳴らす。 「…ふん。」 そしてようやく落ち着いたといわんばかりの態度で懐から煙草を取り出すと、一本銜える。 そんな三蔵の背後で、何かがゆらりと動く気配があった。 八戒が鉢を抱えたまま階下へと降りれば、そこには悟浄の姿があった。 居間と食堂を兼ねたテーブルに腰かけ、煙草をぷかりとふかしている姿は、全身で暇だ!と 訴えているように見える。 そんな姿は、遊び相手が見つからなくて拗ねている子供のように感じられて、八戒は思わず 小さく吹き出してしまう。 それを聞きつけた悟浄がむうっと不満そうに唇を尖らせ、余計に八戒の笑いを誘う。 が、それ以上笑えば確実にへそを曲げそうな様子だったので、浮かべた笑みに別の意味を持 たせながら八戒が言う。 「お茶にしませんか。美味しそうなお茶菓子頂いたんですよ。」 「ん〜。」 若干の不満を残しながら、悟浄が気のない返事でそう答えると、八戒はにこりと笑顔を浮か べて台所へと足を向ける。 「茶菓子!?菓子あるのか!?」 「キュ?」 庭先でジープと遊んでいた悟空がその言葉を聞きつけ走り寄ってくる。 その後を少し遅れてジープも戻ってくると、何かと言うように首をかしげる。 さすがこういう事に関しては地獄耳だと感心しながら、八戒が優しく窘めるように一人と一 匹に向かって言う。 「ええ。お菓子貰ったんでお茶にしましょうね。二人とも手を洗ってきてください。」 「おう!」 「ピイ。」 八戒の言葉に、喜びに目を輝かせながら悟空とジープは声をそろえて返事をする。 ただし、ジープの場合は、手というより足を洗うといった方が正しいのだが。 「お〜お子様は元気だねぇ。」 「いいじゃないですか。悟空らしくて。」 「…それって褒めてるつもり?」 「褒めてますよ。」 他愛ない会話を悟浄と八戒が交わすうちに、言われた通り手を洗ってきた悟空とジープが それぞれ席につく。 こぽこぽと、心地よい音と共にカップに注がれるお茶がふくよかな香りを放ち、席に着いた 面々の鼻と食欲をそそる。 目をきらきらさせながら、お茶とともに差し出されたお菓子を悟空は口に運ぶ。 「んめ〜!」 「よかったですね、悟空。」 口いっぱいに頬張りながら本当に嬉しそうにそう叫ぶ悟空に、八戒は苦笑しながらもいれた てのお茶を悟浄の前に差し出す。 「お前ひとりで全部食うなっつーの!」 悟浄はぽかりと悟空を一発どつくと、差し出されたお茶に手を伸ばす。 なごやか…というには多少賑やかではあったが、それでもほのぼのとした空気の中、悟空が ふと気づいたように言う。 「あれ三蔵は?これ食わないの?」 「さあ…でも食べる暇ないと思いますよ。」 穏やかな口調で何げに気になる台詞を言う八戒に、悟空はえ?という疑問符を顔に浮かべ、 悟浄は何かに気づいたのか、軽く目を伏せる。 悟空がその理由を聞こうと口を開いたとたん…。 バリーン!ズガン!ドサッ! ふいに三人の頭上でけたたましい破壊音が響き渡り始め、悟空は口を開いたまま反射的に天 井を見上げてしまう。 「始まっちゃったみたいですねぇ。」 のほほ〜んとした声で八戒はお菓子をひとつつまむと包装を剥がし始め、悟浄は湯飲みを持 ったまま苦い笑いを浮かべ天井を指さす。 「なあ、あれってもしかして…。」 「ええ、あれです。」 悟空はそんな何か知っている風な二人の会話に、ぱくんと口を塞いで向き直ると尋ねる。 「あれって?」 確かこの真上の部屋は三蔵がいる部屋だった筈。 そう確認しながらも、全く動じない様子の目の前の二人の方が気になった悟空は、恐る恐る 八戒に尋ねる。 「見に行ってみろ。その方が早いぜ。」 「ちょっと楽しいものが見られるかも知れませんよ。」 悟浄が笑いを呆れたようなものから面白がっているものへと変化させながら茶化し、八戒は にっこりと微笑むと、まるで大道芸の見物でも勧めるかのように言う。 「うっ…。」 そんな八戒の笑みに、全身から冷たい汗がどっと吹き出てくるのは、決して気のせいではな いだろうと悟空は思う。 何かが上の部屋で起きてるのかはなんとなく想像できるが、現時点で確実に解ってることは これが敵襲ではなく、八戒の仕業だという事だけだ。 …そっちの方が遥かに怖いのだが。 「ヤバくないか?喰われたりして。」 「大丈夫ですよ。サイズ的には足りないですから。」 一向に収まらない階上の騒ぎに、笑いを完全ににやにやと面白がるものに変えた悟浄が煙草 をひとつ銜えながら物騒なことを平気で言えば。 八戒はあっさりとそう答えてから、少し考え込み再度言う。 「ただ…そうですね。歯形くらいは残るかも。」 「さっ、さんぞ〜!」 のんきに出されたその結論に、慌てた悟空はそれこそ弾丸のような早さで三蔵の部屋へと走 っていく。 そんな悟空の後ろ姿を見るでもなく、湯飲みの中のお茶を一口飲むと感心したように言う。 「三蔵も意外に単純な仕掛けに引っ掛かるんですねぇ。」 何気なく悟空の後ろ姿を見送っていた悟浄は、八戒の発言にずるりと頬杖していた手から顎 を落とすと、嫌そうに口を開く。 「単純かぁ?これが。」 「単純ですよ、十分に。」 はっきりとそう断言する八戒に、悟浄は一瞬納得しかけたが、すぐに思い止まると心の中で 「そうじゃねえだろ」とひそかにツッコミを入れた。 頭上で先程から鳴りやまない騒音に、悟浄はちらりと視線を送ると尋ねる。 「で…何仕掛けてきたわけ?」 「仕掛けただなんて、人聞きが悪いなぁ。」 鳴り響く銃声も、微かに聞こえてくる三蔵と悟空の怒鳴り声にも我関せずな様子で、八戒は お菓子を一口齧る。 「ただちょっと鉢植えを三蔵にプレゼントしただけですよ?」 「それを仕掛けたっつーんだと俺は思うぞ…。」 見解の相違、という言葉を悪意まみれにすれば八戒の言う通りになるのかも知れない。 はっきり言えば、これは昨夜の報復で…いや最初に切っ掛けを作ったのは三蔵で、それに応 酬したのが八戒で、昨夜の食事がさらに三蔵の逆襲なら…今回の八戒の仕掛けはいったい何 になるんだろうかと、ぼんやり今までの出来事を反芻している悟浄の前で、八戒はゆっくり と菓子をひとつ食べ終わると、さらに言う。 「でも面白いですよねぇこの呪泉郷って。水をかけると変身するという事が必ずしも呪い って訳じゃないなんて。」 「で、あの鉢植えはなんな訳?」 知的好奇心も、学者気質もここまで極めればもはや何も怖くないだろうなぁと、八戒の発言 に妙なところで感心しながら悟浄が尋ねる。 鉢植えがどこから持ち込まれたかは知っていたが、それがどういう気質を持っているのかま では悟浄も知らなかった。 「あああれですか。確か『夫婦溺泉』って言う泉の側に生えていた植物です。」 「夫婦溺泉だぁ?」 耳なれない単語に悟浄が思わず聞き返せば、八戒は頷く。 「ええ。なんでも文字通り夫婦が溺れた泉とか。」 「まんまな訳ね。」 この呪泉郷のネーミングセンスはどうにかならないもんかと、半ば感心し、残り半分で呆れ ながらも悟浄は話の続きを促す。 「で…その泉はなんの呪いがあるんだ?」 問われて八戒は、お茶の葉を取り換えていた手を止めると少し考え言う。 「特に姿形が変化する訳じゃないんですよね。ただ強いて言えば…ある条件において凶暴 性が増すって感じでしょうか。」 「…凶暴性が増したっていうのはこの鉢植えのやつか…。」 悟浄はテーブルの窓際の端に置かれた鉢植えを見ながらつぶやく。 簡単に凶暴性が増す、というが、その凶暴性の度合いこそが一番問題なのではないかと悟浄 は内心思ったが、口には出さずに頭上の気配を探る。 「この呪いの特徴は水の有無には関係なく、夫婦が引き離されるのをひどく嫌うっていう ところなんですよね。」 「引き離された結果があれね。」 悟浄が苦笑いを浮かべて天井を視線で指し示す。 三蔵と悟空ふたりがかりでなおも苦戦している様子を見れば、例の凶暴性とやらも大したも のなのだろう。 いや、きっと八戒の事だから、二人の戦闘能力とは相性の悪いものを考え、きちんと選んだ に違いない。 「ええ。三蔵の部屋の窓辺に置いてきました。」 あっさりと八戒がそう言う。 テーブルの上にある鉢…つまり八戒が持っておりたものとは別に、今階上の部屋で暴れてい る最中の鉢があった事になる。 「女性の嫉妬って怖いですね。」 そう言って、八戒はこぽこぽとお茶のお代わりを湯飲みに注ぐ。 その「怖い」雌株をわざわざ置いてきたのかい、とツッコミを入れたかったが、即効で言葉 を返されそうだったので、別の事を口にする。 「こっちは雄株ってことね。でもなんでこいつはおとなしいわけ?」 同じ呪いがかかった植物なら、この雄株の方も暴れだしてもおかしくない状況だというのに 全くそんな気配はない。 そんな悟浄の当然とも言える質問に、八戒はくすりと小さく笑うと視線で鉢を示す。 「その鉢植えのすみに枝がさしてあるの解ります?」 「ああ…ってこれ…。」 悟浄は鉢を引き寄せると、八戒のその言葉通り、雄株の根の側に小さな枝が差し木してある のを確認する。 「ええ。雌株の枝を差し木してみたんです。別に本体じゃなくても、その一部さえ身近に あれば、大人しいみたいですよ。」 八戒のとった行動を詳しく説明するとこうなる。 三蔵が不在なのを確認して、夫婦溺泉なる呪いがかかった鉢植えをふたつ持ち込む。 そのうち雌株の方を窓辺に置かれたごく普通の鉢植えと交換し、小枝を一本折り取る。 それをもう一方の雄株の鉢にそれを差すと、あとは三蔵の帰りを待った。 そして三蔵の注意をこれ見よがしに手元の鉢植えに引き寄せ、三蔵から鉢とともに退場しろ という言葉をわざわざ引きだしたのだ。 何でもない日常会話のような台詞の裏に隠された計画的な犯行に、悟浄は苦笑しながら頭上 の部屋の住人に対し、お気の毒さまと心の中で合掌する。 悟浄にしてみれば、今回のすべての行動は自分の為だと解っているから、多少の問題はある が、だいたいにおいて嬉しい。 とはいえ。 「男って単純ですよねぇ。」 と、のどかな口調でしみじみと呟きながら、いれたてのお茶の香を楽しむ八戒に対し悟浄は ──お前にかかれば、世の中の男はみんな単純だって…。── とそっと心の中でつぶやきながら、同じようにずずっとお茶をすすった。 |