「…ねえ悟浄。」 「ん?」 「洗面器一杯の水で溺死できるって知ってます?」 「……。」 ひどく楽しげにくすくすと笑いながらそんな事を言い出す八戒に、いったい何を言え ばいいのだろうか。 それすら解らず、悟浄はただひきつった笑みを口元に浮かべるしかなかった。 なにはともあれ、なんとか無事元の姿に戻ることに成功した悟浄を含めた一行はその 日は、そのまま宿でもう一泊し、翌朝早くの出発となった。 今から出発したのでは当然ながら今晩野宿は免れない事と、頼んでおいた食料や水を 受け取るのが元々明日の予定だったからだ。 もちろんそれらは確かにその通りで、疑う余地など全くなかったが…。 裏事情として未だ収拾のつかない三蔵と八戒の冷戦があった事は、あえて言うまでも ないだろう。 そもそも呪いがかかったのは自分であった筈なのに、どうしてそれがもとでこの二人 がこうも極寒の世界を作り出す事になったのか…とか、なんでまたその絶対零度状態 のまっただ中に、自分がこうして曝されていなければならないのか…など、悟浄とし ても言いたいことや思うことはいくらでもある。 ただ、それを実際そうしたところで、自分に降りかかってくる厄災の量は全くもって 変わらない、というのもまた情けないことに十分すぎるほど知っている。 結果として、悟浄はひたすら沈黙を保っていた。 …まあ、嵐が通り過ぎるのを頭を低くして待っている小動物の気分とも言うが。 なにはともあれ、そんな事を頭の中で反芻しながら悟浄は目の前にいる八戒を見る。 例の泉から戻ってからこっち、椅子代わりにベッドの端に腰掛けてずっとにこにこ笑 顔でいるその姿に、悟浄は心の中で深いため息をつく。 あの一件──簡単に説明すれば、三蔵が悟浄を溺死寸前に追い込んだこと──以来、 そんな暴挙に対し怒っていた筈の八戒は、何故か妙にご機嫌でにこにこと笑顔を振り まいている。 端から見れば本当の意味で機嫌が良いのだと思われるだろうその笑顔が、実は危険信 号だと知っているのはおそらく悟浄だけだろう。 それも、これが最大級の危険信号なのだという事を判断できるのも。 ここで悟浄に二択問題が用意される。 すなわちこのまま爆発させるか、なんとか鎮めるか。 当然、悟浄が選ぶのは後者の方だ。 誰も好き好んで大切な恋人を犯罪者にしたいとは思わないだろう。 とはいえ、どうやってこれをもとの水準値まで戻せというのかなどというのは、むし ろ悟浄の方が知りたいくらいだ。 ──あー…人身御供って結構こういう感じなのかも…。 そんな事を考えていると、いつぞやの悟空に説明した『表面張力ぎちぎちいっぱいの 水』をもろに連想し、悟浄は心の中で頭を抱えてうずくまってしまう。 先程からずっと頭の中で鳴り響いているエマージェンシーのサイレン音に、悟浄は思 い切りよくそのまま自爆スイッチを押してしまいたい気分になる。 「悟浄、何そんなに難しい顔をしているんですか?」 「…のなぁ…。」 そんな悟浄の自決願望などまったく気づかない様子で、八戒が不審そうな視線を向け てくる。 まるっきり他人事のような八戒の言葉に、どっと脱力しながらも悟浄は腹をくくる。 なにはともあれ、そもそも八戒がここまでギリギリ一杯になってしまったのは、自分 を心配するがゆえの事なのだから、そう考えれば爆死している暇はないのだ。 涙ぐましい決意でもって、悟浄はなんとか気分を浮上させる。 「…ねえ悟浄。」 「ん?」 とりあえず、まずは煙草でも吸って落ち着くか…と、悟浄は懐から取りだした煙草を 銜え、ライターに火を灯し顔を近づける。 悟浄のそんなしぐさを目で追いながら、八戒がふいに口を開き呼びかけてくる。 普段と特に変わらない口調で名を呼ばれ、悟浄も何気なく返事をする。 「洗面器一杯の水で溺死できるって知ってます?」 「……!」 さらりととんでもない事を八戒は口にし、悟浄は火を灯したばかりの煙草を勢いよく ブーッと吹き出す。 その瞬間思いきり煙を吸ってしまい、げほんごほんと盛大にむせる。 「悟浄大丈夫ですか?」 「げほっ…なにっ…がほん…できっ…みずっ…?」 過剰な悟浄の反応に八戒の方が驚きながらも、むせる悟浄の背中を擦る。 悟浄はといえば、呼吸困難に陥りながらも先程の八戒の発言をなんとか尋ね返そうと するのだが、不明瞭な台詞ではうまく伝わらない。 聞き取れた単語で勘違いしたのか、八戒が側にあった水差しの水をコップに満たすと 差し出してくる。 「はい、水。」 いや違うんだけど…と思いながらも、差し出された水をありがたく受け取りぐっと一 気に飲み干す。 ようやくひと心地ついて、安堵のため息をつくと八戒に再度尋ねる。 「洗面器に水…ってどういうコトよ?」 「えっ…ああ。」 問われた八戒は一瞬何かというように小首を傾げたが、すぐにああと思いだしたのか にっこりと微笑む。 無邪気といってもいい笑みに、悟浄はかえって心の中で身構える。 下手に気を抜くと、とたん意識が遠ざかってしまいそうな予感がしたからだ。 「ちょっとね…思いだしたんです。」 「……何を?」 何を聞いても動じないように…との心の準備だったが、続く八戒の説明でやはりぐら りと揺れてしまったのは仕方がないだろう。 「人間…ああこの場合、妖怪でもだいたいそうなんですけど、洗面器一杯の水さえ あれば、案外簡単に溺死させる事ができるんですよ。」 そう、こんな猟奇的な言葉を日常会話のように笑顔でさらりと言われてしまえば。 それも言い出したのが八戒で、さらにこの状況では最悪のパターンを想像してしまっ たとしても、誰も悟浄を責められはしない。 ──溺死?誰を溺死…って三蔵かぁ? 目の前の八戒が、件の最高僧に対して特に敵意や害意をみせた訳でも、まして具体的 な例をあげた訳でもないが、悟浄の中で即座に溺死者イコール三蔵になってしまう。 というか、現段階において彼以外該当者はいないだろう。 これが数日前ならば多少物騒だが単なる話題で片づけられたが、いかんせん今日の出 来事がそれを否定する。 「…なんでまた洗面器…。」 「アリバイ工作…偽装工作の方が正しいかな?…に使うんです。例えばあらかじめ とある川の水を洗面器に張っておき、殺したい人をこう…溺死させるんです。」 嫌な予感にぞわぞわしながらも搾り出すような声で悟浄がそう問えば、こう…の台詞 で八戒が何気なく誰かの後頭部を押さえ込むような動作をする。 それが一層、悟浄の中のリアリティを増してしまう事など気付きもせずに。 さらに八戒が身振り手振りを交えて、具体的な説明をする。 「そしてできた死体をその川に流せば、あたかもそこで事故死したように見せかけ られるんです。胃からの内容物が一致しますから。」 楽しそうに犯行の手口を語る八戒を見ながら、悟浄の脳裏に先程から浮かんでくるの は、まるで映画のワンシーンのような情景だった。 人気のない町外れに建っている古びた一軒家。 扉を開ければ中は薄暗く、黴臭い空気が鼻をつく。 足を踏み入れれば、床に積もった埃に靴先が埋もれる。 腐りかけた木の階段をきしませながら降りれば地下室が。 室内には、今にも壊れそうな机以外何もない。 そしてその机の上にはクリーム色の真新しい洗面器があり。 その中に満たした水に顔を押し込まれているのは三蔵で。 ──リアルだ…リアルすぎる…。 苦しみもがく三蔵の後頭部を押さえつけている八戒の口元には、張り付いたような笑 みが浮かんでいるとか、洗面器の水が乱れた呼吸でしきりに泡立ち、容器から零れ落 ちるさまとか、裸電球がゆらゆら揺れて、そんな凄惨な現場にいる二人の影を、怪し く壁に映しだしているとか、そんな細部に至る演出まで何故か鮮明に想像してしまい 悟浄はひたすらぞわぞわと背筋に寒けを走らせる。 これが「逆さ剣を仕込んだ落とし穴に突き落とす」とか「爆弾括りつけて放り出す」 とかいうたぐいのものなら、かえってここまで想像しなかった筈だ。 なまじ妙に知的で具体的な犯罪計画なだけに、冗談話だと笑い飛ばせない。 「悟浄、何想像してるんですか?」 「なにって…。」 ぼんやりとなにやら考え込む悟浄に八戒が訝しげに問えば、素直に悟浄の中でその考 えが列記されていく。 やっぱり死体を運ぶのは俺かなぁとか、ここら辺に適当な川ってあったか?とか、身 元不明にするなら身ぐるみ剥いでおいたほうがいいかも…などなど、何故か八戒を犯 行前に止めるというよりも、共犯の段取りを考えている自分に気付き、がっくりと悟 浄はうなだれる。 結局は八戒さえよければ自分もそれでいいと思っている事に気付いたからだ。 三蔵には悪いが、まあ線香の一本でも立ててやればいいか…など、当人が聞いたら射 殺ものの発言を悟浄は心の中でつぶやく。 「なんだか、悟浄の中で僕既に犯罪者になってませんか?」 「…え?」 「別に三蔵の名前をあげた訳じゃないし、実行するとも言ってないでしょう。」 「…へ?」 「それにもし僕が本当に実行するつもりなら、こんなありきたりな手口じゃなく 完全犯罪目指しますよ。」 「……。」 ひとつひとつ丁寧に説明すると、ね?とにっこりと微笑んでみせる八戒に、悟浄はた だただ絶句する。 言われてみればそうだ。 何もこれを本当に実行するなどとは一言も言ってないし…あまり考えたくはないが、 八戒なら誰にも見破れない方法を編み出しそうではある。 先走って勝手に勘違いした自分が悪い。 確かにそれはそうなのだが…どこか楽しそうな、からかうような瞳で八戒が自分を見 ているのがひっかかる。 これは半分確信犯なのだと、悟浄にも解ってしまう。 とたん、大きく安堵すると共に、どうやら八戒の思い通りの反応を示した事がなんと なく面白くない。 「グワッ。」 「…悟浄?」 反応を伺うような視線で自分を見つめる八戒に、悟浄はにやりと笑うと一声鳴く。 突然の行動に、八戒はきょとんとした顔で悟浄を見つめる。 そんな八戒の体をぽんとベッドの上に転がすと、悟浄はその体の上にのそのそと乗り 上げ押さえつける。 そしてもう一度にたりと笑うと、こちょこちょと八戒のわき腹をくすぐりだした。 「わっ!ちょ…ちょっ…悟浄!」 「ガアッ。」 慌てて八戒が制止の声を上げるが、アヒルだから言葉は理解できませ〜んと言いたそ うな顔つきで、悟浄はそのままくすぐり続ける。 「やめっ…あははっ!…くすぐっ…ひゃっ…はっ!」 身をよじりながら、発作のように笑う八戒の跳ねる体を体重で押さえつけて散々くす ぐれば、やがて笑い疲れた八戒が息も絶え絶えにベッドにつっぷす。 「もっ…駄目…お腹いたっ…。」 「ギブアップ?」 とうとう音を上げた八戒に満足した悟浄がようやく手を止めると、悪戯が成功した子 供のような口調でその耳に問い掛けるようにそう囁く。 「降参…です。」 「よろしい。」 素直に負けを認めた八戒の目には、笑いすぎで涙が零れんばかりに溜まっている。 それを悟浄が犬のようにぺろりと舌先で舐めてぬぐえば、八戒がくすぐったそうに口 元を緩める。 「本当に…もう…。」 半ば呆れたようにぽつりとそう言葉を漏らせば、依然として八戒の胸の上に顔を乗せ たまま、悟浄が上目遣いでご機嫌を伺ってくる。 何だか本当に大型犬に懐かれている気分になって、八戒は小さく笑うとぽんっとその 頭を軽くはたく。 ふと気付けば、先程までの極限状態に近かった自分の精神状態が、平常値にまで戻っ ている事に気付き、なおいっそう苦笑を深めてしまう。 まさかこういった奇抜な方法で、自分でも完全に制御できなかった感情を難なく悟浄 が宥めてしまうなど、思いも寄らなかった。 悟浄には本当に適わないなぁ…と思いつつ、その燃えるような紅を宿した髪を何気な く撫でてやれば、気持ちよさそうに悟浄が目を細める。 「あの…悟浄もしかしてさっきの発言、やっぱり勘違いしました?」 「勘違い?」 笑いすぎてややかすれた声で、ふと先程のやり取りを思いだした八戒が悟浄にそう問 いかけてくる。 悟浄も同じく今までの会話を頭の中で手繰り直すが、どこで何をどう勘違いしたのか 解らない。 それが正直に顔に出たのか、八戒はほのかに苦笑を浮かべて言う。 「別に僕は三蔵を言葉通りにしようとした訳じゃないんですよ。」 「じゃあ何?」 例の洗面器云々は一応冗談だと解った。 一応、とまだ頭につくあたり、可能性を否定できてないのだが。 「洗面器云々っていうのは、単に思いだしただけです。」 それも聞いたと悟浄は視線で促せば、八戒が初めて視線を外し少しためらう。 「ただちょっと…。」 「ちょっと何。」 言葉を濁す八戒に悟浄が重ねて問い掛ければ、八戒は小さく微笑みながらついと視線 をとある方向へ向ける。 つられて悟浄がそちらを向けばテーブルがあり、その上には水筒が乗っていた。 「そこのテーブルの上に水筒あるでしょう?」 確認するように八戒が言えば、悟浄はこくりと無言で頷く。 「その中にちょっとした水が入ってるんです。」 「ちょとしたって…それって呪泉郷の?」 やや笑い含みになってきた八戒の声に、すぐに水筒の中身が例の呪いがらみの水だと 悟浄にも解る。 それと八戒の口ぶりからして何か企んでいる事と、それがおそらく悟浄にとっても興 味を引くものである事もまたなんとなくではあるが察しがつく。 「はい。熊猫溺泉っていうんだそうで。」 「熊猫って…ああパンダか。」 聞きなれない単語に一瞬視線を彷徨わせた後、確認するように八戒に問いかけると八 戒はそうだと頷く。 そしてにっこりと極上の笑みで問いかける。 なのでその先を視線で促せば、どこか悪戯めいた視線を八戒は悟浄に向けて言う。 「…見てみたいって思いませんか?」 「……。」 わざわざ何を見たいのか…とか問わなくても、八戒の頭の中の企みはダイレクトに悟 浄にも伝わってくる。 八戒が見たいのはおそらくパンダ。 まあ…とりあえず外見だけでも本物の珍獣。 手元には熊猫溺泉の水…いわゆるパンダ製造水。 でもってひとつ足りないアイテムは犠牲者だけだが、これまた既に二人の間では候補 者は決まっている。 もちろん、当の被験体候補者は彼らの思惑など知る由もないが。 「…パンダって拳銃持てると思う?」 「そうですねぇ。」 わくわく…という音が聞こえてきそうな好奇心一杯の表情で悟浄がそう問えば、八戒 もまた同じような顔つきでふと考え込む。 「それよりも…僕としては、魔戒天浄をその姿で唱えられるかどうかの方が気に なるんですけど。」 「うわ、それ俺も気になるぅ〜。」 「でしょう?」 二人視線を合わせて、楽しそうに笑う。 どうやら八戒が見たいと思っているのは、単なる珍獣パンダではなくて、パンダと化 した三蔵のようだ。 先の悟浄にした三蔵の仕打ちに対し、八戒が用意した報復はどうやらこれらしい。 水を張った洗面器に顔を突っ込まれるよりは、ずいぶん可愛いし面白そうだと思うの は、おそらくここにいる八戒と悟浄くらいのものだろう。 「ですから…これどうします?」 にっこりと八戒が微笑みながら水筒を振って見せる。 つまりは、実行するもしないも悟浄の腹一つだと言う事らしい。 ここ数日の冷戦の結果も、最終的には当事者である悟浄に判断をゆだねる事で終りに する事にしたようだ。 判断…それはつまり…。 ちゃぷん…と中で水が跳ねる音がして、それが一層悟浄の好奇心を煽る。 悟浄はふむと一瞬上目遣いに考えるが、すぐに悪ガキそのものの顔つきでにしゃりと 八戒に笑いかける。 それを受けた八戒も、極上の悪魔の笑みを返す。 果たして何がその後起こったのか。 それは三蔵一行にしか解らない。 ただひとつ付け加えておくならば、次の街で起こった騒動で、わざわざ三蔵が八戒ご と自称『カミサマ』を撃ち抜いたという事実だけだった。 《おわり》 |