番外編 呪泉郷の法則
   
   
アヒルと化して犬に追いかけられ、あやうく鳥肉料理にされかかった翌日のこと。
昼近くになってごそごそと起きだした悟浄をとがめることもなく、八戒はかいがいしく昼食
兼朝食の支度をする。
 「僕ちょっと出かけて来ようと思うんですが、悟浄はどうします?」
いつも通り賑やかな食事が終わった頃を見計らって八戒がそう言えば、悟浄は食後の一服と
ばかりに煙草を銜えながら振り仰ぐ。
 「…ってあの泉に行くのか?」
 「ええ。」
 「あ、俺も付いていっていい?」
悟浄の向かい側でちゃっかり食事のお相伴(というより強奪の方が近いかもしれないが)に
あずかっていた悟空が、八戒の台詞に期待に充ち満ちた表情を浮かべながら尋ねる。
悟浄の事がどうの…というより、単に退屈していたのだろう。
どこか散歩をねだるワンコのような風情に、八戒はさらに笑みを深くする。
 「悟空がきてくれるなら、僕も助かります。」
 「やりっ!」
なにぶん今日は泉の呪いとやらを調べにいくのだ。
人数は多ければ多いほど作業ははかどる。
にっこりと笑顔でそう応える八戒に、パチン!と指を鳴らして悟空は喜ぶ。
そんな会話を横に、悟浄は少し考えたあと言う。
 「俺も行くわ。ここにいてもする事ねぇし。」
 「はい。」
悟浄の返事に、八戒は嬉しそうに微笑む。
あんな事があった翌日だ。いくら元に戻る方法を探るためとはいえ、好き好んで近づきたく
はないだろうと思っていたのだ。
しかし、考えていた以上に悟浄は己の精神的ダメージを回復させていたようだ。
そんな悟浄のタフさが八戒は嬉しかった。
 「三蔵はどうします?」
僅かに微笑みの質を変化させて八戒はくるりと振り返ると、窓際で胡座をかいて新聞を読ん
でいる三蔵にそう声をかける。
 「…俺が行くと思って聞いてねぇだろう。」
 「ええ。でも事実確認はしておかないと。」
かさ、と僅かに新聞を傾け、三蔵は片目で八戒を睨み付けながら嫌そうに言う。
とても仏道に仕える…それも最高僧のものとは思えない眼光の鋭さではあったが、睨まれた
八戒はけろりとした顔でそう応える。
どうやら八戒は、昨日の出来事をまだ幾分引きずっているようだ。
三蔵に向ける言葉の端々に、鋭いトゲが地雷のようにあちこちに埋まっている。
もちろんそれは、三蔵にも十分すぎるほど伝わっていて。
 「ケッ。」
悟浄や悟空相手なら確実だろうハリセンも拳銃も出ることなく、三蔵はただ短く吐き捨てる
ように舌打ちで応えると、再び新聞に視線を戻す。
 「じゃあ三蔵は留守番お願いしますね。」
ことさらにっこりと微笑む八戒に、一瞬三蔵の新聞を持つ手がぴくりと震える。
そんな二人のやりとりを、息をひそめてひっそりと見つめていた悟浄と悟空は、ほぼ同時に
新聞に眼光で穴が開くのではないかと半ば本気で思っていた。



それから小一時間後。
端から見ればピクニックにでも来たのかと思うような大きなカゴを持った三人が、件の呪泉
郷のほとりに立っていた。
 「悟空、あんまり近づくと落ちますよ。」
 「げっ。」
興味深げに泉に近寄る悟空に、やんわりとした口調で八戒が警告を発する。
そんな八戒の言葉に、慌てて悟空は後ずさる。
さすがの悟空も、悟浄の二の舞いだけはごめんこうむりたいようだ。
 「うはぁ、これ全部そうだっていうのかぁ?」
 「村の人の話だとそうらしいですよ。」
目の前に広がる光景に、悟浄は本当にうんざりだと言った声をあげれば、隣に立つ八戒はた
だ苦笑するしかない。
見渡す限りそこは大小さまざまな泉だらけで、その数は宿の主人の話によると百は下らない
らしい。それがすべて何がしかの呪いがかかっているというのだ。
見ただけで嫌になる悟浄の気持ちも解らないではなかった。
 「さて、何の呪いがかかっているか調べるには犠牲が必要なんですけど…。」
少し困ったようで言うその口調と内容のギャップの凄まじさを、わざわざ指摘する者は残念
ながらその場にはいなかった。
既にちょっとした実験気分というか…むしろ面白い遊び道具を見つけたお子様のように期待
に満ちた色を悟空はともかく、当事者である悟浄までもが浮かべていた。
きょろきょろと実験の犠牲になる妥当な生物を探していると、それまで飼い主である八戒の
肩で大人しくしていたジープが、ふいにふわりと舞い上がると悟空の肩に移動する。
 「なに?ジープ。」
 「ピィ。」
つんつんとその茶色い癖毛をひとふさ銜えて、つんつんと引っ張るジープに導かれるように
して悟空が視線を向ければ、側に生えている木の葉の上に一匹の尺取り虫がいた。
 「これ使ってみる?」
 「お、いいかもな。」
その虫を悟空が指で指し示めせば、悟浄もその意見に賛成して枝ごと折り取る。
それを確認したジープは、再び八戒の肩へと戻っていく。
定位置に戻ったその細い首を無意識に撫でる八戒の手に、ジープは嬉しそうにすり寄りなが
ら満足げにひとつ小さく鳴く。
どうやら、八戒がその手で虫に触れる事が嫌だったようだ。
こいつは…!と内心舌打ちをしながら、悟浄は近くにあった泉へとその虫を放り込む。
とたん、虫は虫ではなくなった。
 「三毛猫…ね。ここは。」
 「そうみたいですね。」
ぷかりと水面に浮かんだ猫らしき物体を、悟浄は嫌そうに指先でつまみ上げ地面に降ろす。
ずぶ濡れのせいか、その毛並みはいまいちはっきりしないが、一応猫であることには間違い
なさそうだ。
 「でも…なんか動きがヘンじゃねえ?」
悟空の指摘に、悟浄と八戒は同じ意見で、その猫らしき生き物に視線を向ける。
元・尺取り虫だった現在猫(たぶん)は、およそ猫らしからぬ直立不動の姿勢でうつぶせた
まま、全く動く様子がない。
 「…泉に毒でも入っていたか?」
つんつんと悟浄が手にした枝でその背中をつつけば、猫はまっすぐ体を伸ばしたまま、ぴく
ぴくと全身を波打たせて反応する。
 「生きてるみたいだけど…動けないのかなぁ?」
悟空が近づいてしゃがみ込み、恐る恐るそれの表情を窺うように覗き込むが、依然として妙
に虚ろな表情のまま、時折痙攣したような動きをするだけだ。
そんな現・猫を見ながら、八戒が苦笑に似た表情を浮かべながら言う。
 「というより…まあもともとが尺取り虫でしたからねぇ。」
はっきりと説明しない八戒の言葉に、悟空は解らないといった様子で頭上の彼を振りあおぐ
が、悟浄には通じたようだ。
 「ああ、尺は取れねえだろうなぁ。」
悟浄もまた、八戒と同じようにあいまいな苦笑をその口許に浮かべる。
というか、それ以外どういう表情をしていいのか解らないせいでもあるのだが。
 「なに?どういうこと?」
 「猫に尺取り虫の動きは無理だってコト。」
ひとり解らない悟空が、じれったそうに八戒の顔を見つめ説明を求めれば、代わりに悟浄が
疲れたというような口調でそう言うと、懐から煙草を取りだす。
 「尺取り虫に骨はないですからねぇ。いきなり内骨格の体になっても…。」
 「足も尻尾もねえしなぁ。」
さらに解りやすく悟空に説明する八戒の台詞に、悟浄も端的な感想を漏らす。
尺取り虫程度の知能で、己の身体にどんな変化が起きたかなど恐らく解りはしないだろう。
もちろん解ったところで、いきなりこれから内骨格の生物としての余生を送れというのも土
台無理な話だ。
悟浄は銜え煙草のまま、その煙とため息を同時に吐きだす。
 「そっかぁ。ふ〜ん。」
悟浄と八戒の複雑な心境をよそに、神経が太いのか、はたまた深い部分での理解が出来ない
せいか、悟空はけろりとした表情で感心したように足下の猫を見ながら頷く。
そしてひょいと立ち上がるなり笑顔で悟浄に言う。
 「悟浄よかったな。カニとかエビとかタコとかじゃなくて。」
 「……まあな。」
 「あははは…。」
何故か全て食用になる生き物の名前を明るくあっけらからんと並べられてしまえば、残る年
長者二人組は力なくそう頷くか、笑って誤魔化してしまうかどちらかの方法しか残されては
いなかった。



 昼過ぎに呪泉郷へと出かけた三人が揃って宿に戻ってきたのは、結局もうすぐ日も暮れよ
うかという時間帯だった。
さすがに新聞も読み飽きたのか、手持ち無沙汰に煙草をふかす三蔵の前に結果報告でもしよ
うというのか、八戒と悟空が現れる。
帰ってきた足音は確かに三人分だった事から、どうやら悟浄はそのまま自分の部屋へと戻り
でもしたのだろう。
 「たっだいま〜!」
 「ただいま戻りました。」
帰宅の挨拶をするのはいつものことで、特別珍しいことでも何でもない。
ただ八戒が何やら小さなケースを持っている事以外は。
 「それは何だ。」
 「ああ、今日の結果です。」
不審そうな声と共に手もとに向けられたその視線に、にこやかに八戒は答える。
妙に楽しげな八戒のその様子に、一層三蔵の眉根が寄る。
一瞬、悟空に説明させた方が精神衛生上ましなのではないかと思い、三蔵はちらりと部屋の
奥に移動した悟空に視線を向けるが、当の本人は荷物の中から間食を選び出すのに忙しいよ
うで、二人が何を話しているのか気にも留めていない。
 「これなんですけどね。」
そうこうしているうちに、八戒は相変わらずにこやかな笑みを浮かべたまま手の中のケース
を三蔵の目の前に置く。
反射的にそれに視線を向けた三蔵の眉間に、今度こそくっきりと皴が一本刻まれる。
小さな紙の箱の中には、一匹の芋虫がうぞうぞと蠢いていた。
 「見た通り、これは芋虫です。」
にこにこと嬉しそうに笑みを浮かべ、まるで手品師が客相手に説明をするかのような口調で
八戒が芋虫の入った箱を指さす。
 「…いい。それを持ってとっとと何処かへ去れ。」
嫌な予感は最大級まで膨れ上がり、三蔵はなおも説明を続けようとする八戒の言葉を遮ると
しっしとまるで犬でも追い払うように手を振る。
だいたい結果などわざわざ聞かなくても、無言で部屋にひとり戻った悟浄の、あの疲れ切っ
た顔を見れば解る事だ。
今本当に問題にすべきなのは、そんな事くらい解っている筈の八戒が、わざわざこうして
結果報告などというものをやろうとしているこの状況の方だ。
絶対に何か企んでいるのは明白であり、その素となる物が目の前のこの一匹の芋虫である事
もまた疑いようがない。
 「まあそんな事言わずに聞いて下さい、三蔵。」
 「いらんと言っている。」
不機嫌そのものといった声と視線で睨み付けても、八戒にはいっさい通じない。
それどころか、にこにこと楽しそうに笑いながらカップの水をその芋虫に注いだ。
とたん、ぼんっ!という音と閃光があがり…。
ふいに音のない静寂が訪れる。
 「…なんだこれは。」
 「だから今日の結果です。」
数秒とも数分とも感じられる沈黙のあと、喉の奥から搾り出すようにして三蔵が問う。
一層笑みを深くした八戒が、芋虫だったその物体を目で追いながら答える。
ただし、その視線はテーブルの上ではなく、彼の目の高さあたりであったのだが。
 「何度見ても、不思議としか言い様がないですよね、これって。」
 「…………………。」
のほほ〜んとした口調でそう言う八戒の声に、三蔵の中でぶちっと何かが切れる音がした。
 「呪泉郷の呪いというのは法則性が難しい…というよりムチャクチャなんですよ。」
 「どういう事だ。」
簡潔明瞭に結果だけを報告する八戒に、地の底を這いずる亡者のような低い声でより詳しい
説明を三蔵は求める。
それこそ、目の前の男の思うつぼだと解っていても、これを見てしまった以上それを聞かず
にはおれない。
 「ですからね、最初に見せたあのイモ虫がもともとの生物だったんですけど。」
そんな三蔵の心境などおかまいなしに、八戒は先生のような口調で丁寧に説明を始める。
 「まずは犬とか猫とかポピュラーな生き物から始まって…。」
いっそ三蔵の神経を逆なでするような八戒のそんな説明に、ほんの少しだけ空腹感が薄まっ
たらしい悟空が割り込んでくる。
 「でけえチョウチョだったよな。」
 「大きかったですねぇ本当に。」
ほのぼのとそう言って思い出し笑いをする八戒と悟空の会話に、三蔵は懐からハリセンを
取りだすと、半ば八つ当たりを込めて悟空の頭を手加減無しに張り飛ばす。
すっぱぁあん!といういっそ気持ちいい程の音と共に、悟空はあまりの痛さに思わずその場
にしゃがみ込んで頭を抑える。
 「いって〜〜!何すんだよぉ!」
 「猿は黙ってろ。」
涙目で悟空がいまだ頭を擦りながらそう訴えかければぎろりと睨まれ、そのあまりの不機嫌
さに懸命にもそのまま口をつぐむ。
そんな悟空を尻目に、三蔵は同じ視線を八戒に向ければ、八戒は何事もなかったかのように
説明を再開する。
 「…必ずしも、種族とサイズが一致する訳じゃないんです。組み合わせ如何によっては
  大型の鳥サイズの蝶が出来たり、ミリ単位の象とかに変化したりするんです。」
そんな無茶苦茶な話があるかとか、そこまで行くと呪いというより単なる化かしじゃないの
かとかツッコミどころはいくつもあったが、目の前のこの現実を突きつけられてしまえば、
もはや何も言うことは出来ないでいた。
 「さらに言うと、絶対上書きされる訳でもないみたいで…。」
再び椅子にどすんとと力なく座ると、頭痛がするのか三蔵は自分のこめかみを押さえる。
既に何も言う気力すらなくなった様子の三蔵に、八戒は少しだけ気の毒そうな視線を向けて
締めくくるように、先程から視界を何度もよぎる物体を指さす。
 「結果がこれなんです。」
八戒の指先数センチ手前で、ふよふよと浮遊するものは、手のひらサイズのショッキング
ピンクの象だった。
その背中に生えている羽根はどうやら巨大化した蝶々のもののようだ。
それだけでも、ふざけるなテメエいっぺん死んでくるか的生物であると言うのに、よく見れ
ばその象の頭には、可愛らしい花が一輪咲いているではないか。
さらにダメ押しとして、ウサギのような丸いふわふわした綿毛の尻尾がついている。
 「なんかもう…どう表現していいのか解らない生き物ですよね。」
感情が読めない笑みで、八戒が簡潔にその生物の感想を述べる。
そしてふと、何か思いついたような表情で、さらに笑顔を深めて言う。
 「ああ、こういうのを『メルヘン』っていうのかもしれないですねぇ。」
 「……。」
三蔵は、反射的に懐の拳銃を握りしめた。
この言い様のない感情をどこかにぶつけてしまいたかったが、ぶつける先が見つからない。
さすがに危機を察した悟空はとうの昔に部屋の隅に逃げ込んでいるし、目の前のこの男に
銃口を向けることは自殺行為に等しい。
そうこうするうちに、ふいに突風が開け放った窓の外から吹き込んでくる。
風はカーテンを揺らし、窓枠をかたかた鳴らしながら部屋の中を縦横無尽に駆け巡っていく。
 「あっ。」
ふわりと風にさらわれるようにして、外へと出ていくものを目撃した悟空が、思わず短い声
をあげる。
その声につられて残る二人が視線を向ければ、窓の向こうにふわふわと漂いながら遠ざかっ
ていく例のピンクの象が見えた。
 「出ていっちゃいましたね。」
 「あーあ。」
赤い夕日の中に消えてしまった象を八戒が苦笑とともにそう言えば、悟空が窓の外に身を乗
り出すようにして目で探す。
 「…ふん。」
三蔵は握りしめていた拳銃から手を放すと、煙草を取りだし一本銜える。
家畜や人間ならともかく、野生の生き物がお湯に触れることなどまず皆無に等しい。
ということは、あの羽根の生えたピンクの象も、一生を終えて死骸と化すまではあのままの
姿だという事になる訳で。
八戒曰くの「メルヘン」な生き物を運悪く目撃した人間が、己の正気を疑おうがどうしよう
が、三蔵にはどうでもいい事だ。
とりあえず目の前から消えたことだけをよしとした三蔵は、深く煙草の煙を吸い込んだ。


この話は、第8話と9話の間に入る話です。
番外編にしちゃったのは、話の流れとしてはなくても特に不自由の
ないものだったので。
おかげで主役?の悟浄はほとんど出てこなかったり。(笑)
ちなみにピンクの象さんの詳しい生態とか私にも解りません。
見てみたい気も、見たくない気もどっちもするけど。


【第8話】  【第9話】

悟浄1/2