第8話 災だらけ難だらけ3


何かを確かめるようにざっと周囲を見渡した後、悟浄は今日何度目かの軽いため息をつく。
猛獣と化した件の犬を追い払うために、それこそ盲滅法にさんざん走り回ったせいか、ここ
がいったいどこだか全く解らない。
初めて訪れた村であるため、どこに何があるのかなど知るよしもない。
その上こんなにも背が縮んでしまったせいで、視界も距離感も大きく変わってしまった。
宿までたどり着くのがこりゃ骨だと思いはしたが、いつまでもここでこうやっている訳には
いかない。
とりあえず大通りに出れば道も解るかも知れない、と思い立ち悟浄はぺたぺたと歩き始める。
入り組んだ路地裏を歩いていけば、あたりの家々から食欲をそそる匂いがただよってくる。
とたん腹の虫がグウグウと騒ぎだし始め、自分がいかに空腹である事かに気付かされる。
気がつけば陽は半ば沈みかけているらしく、見上げた空は少し薄暗い。
 「ガァ…。」
猿じゃねえけど、腹減ったなぁ。
全くもって散々な一日だったとげんなりしながら、それでも早く元の自分に戻りたい一心で
ひたすら宿を目指し歩いていく。
家々の間から見える向こう側の道に視線を走らせながら進む悟浄は、その作業ばかりに集中し
ているせいか、背後から気配を殺して近づいてくる一人の男に気付かなかった。
 「おっしゃ、捕まえたで!」
 「……!グワッ!?」
野太いおっさんの声と共にふいにむんずと首をつかまれ、慌てて悟浄はじたばたともがくが
それと同時に両の羽根ごと男の腕で押さえ込まれ、身動きひとつとれなくなってしまう。
それでもそいつに睨みを利かせてやろうかと、唯一動く首をねじったとたん、悟浄の全身を
悪寒が突き抜ける。
自分を拘束しているのが、絶世の美女ではなく中年の腹の出たおやじであることも確かに問題
なのだが…それ以上に今気にしなければいけないのは、その男の着ている服があきらかに
とある職業を示していたからだ。
そう。いわゆる料理人…コックの出で立ちだったのだ。
 「グワ!ガアア!グワワ!」
 「おっと。こりゃあ生きがええのう。」
必死の思いで足掻き始めたが、拘束された男の腕はびくともしない。
それどころか…。
 「暴れても無駄じゃ。こちとら肉をさばいて何十年っちゅうベテランなんじゃけえのぅ。」

サバク?……鯖苦……砂漠……裁く……捌く!?

一昔前のへなちょこ変換ソフトのように間抜けな漢字変換をしたのち、男の言葉の奥にある
事柄に気付き、悟浄はさらに暴れる。

冗談じゃねえ!俺は肉料理の材料なんかじゃねえって!

 「無駄じゃゆ〜とろうが。」
さすがに肉を扱って…を自慢するプロらしく、あっという間に悟浄の動きは封じられ、その
ままとある屋敷のドアをくぐる。
勝手口を越え、いくつかのドアをくぐったそこには…でかいテーブルとまた同じくらいでか
いまな板があった。
有無を言わさずその上に押さえつけられ、もうここまでかと覚悟を決める。
そんな悟浄の脳裏に浮かぶのは、丸焼けにされた自分を嬉々としてほお張る悟空の姿で。

祟ってやる!呪ってやる!腹くだしちゃる!

最後のあがきにしてはあまりにも情けないが、全身全霊で呪いのアイテム化を誓う悟浄の
耳に、ぱたん!と乱暴にドアを開ける音が聞こえる。
 「あんた!駄目だよ!そのアヒルは!」
 「悟浄!」
見知らぬオバサンの声と、聞きなれた男の声が重なったかと思うと、急に太い親父の腕から
解放され、そのままその胸に抱き締められる。
確認するまでもない、それは八戒の腕で。
 「無事だったんですね!よかったぁ…。」
どこにも怪我がないか腕の中の悟浄の全身をざっと確かめると、ようやく心底安堵したとい
う笑みを浮かべ、へなへなと八戒はその場に座り込んでしまう。
いつも冷静で決して慌てることのない八戒が髪を乱し、息も切れ切れにそう呟く姿に、いか
に彼が自分を探して町中走り回っていたのかが伺える。
そんなにも自分の事で必死になってくれたのかと思えば、胸の中に何かしら熱いものが込み
上げてくる。
 「……。」
首をひょいと伸ばし、冷えきったその頬を温めるかのようにクチバシですりすりとさすれば
くすぐったそうに八戒が小さな微笑みを浮かべる。
 「な、なんだ?」
 「それはっ、ただのアヒル…じゃなくてっ…呪泉郷に落ちた旅の人なんだって!」
いきなり始まった怒濤のような展開に、何が起こったのかいまだに理解できない料理人の親
父がぽかんと口を開けたままそう呟けば、八戒と同じくそこに飛び込んできたオバサンが息
も絶え絶えになりながらもそう説明する。
 「はあ?あそこに落ちたって…まさか家鴨溺泉にか?」
 「そう!今さっき宿屋の奥さんに気をつけてくれって頼まれたばかりなんだよ。」
 「ほおぉ…そうかね。」
ようやく呼吸も正常に戻ってきたオバサン…どうやらこの親父の奥さんらしい…がさらに詳
しいいきさつを説明すると、感心半分呆れ半分の返事が返ってくる。
長年この町で暮らしてきた人間にとっては、あの呪泉郷に落ちる者がいるという事はどうや
らかなり間抜けな感じがするのだろう。
一応労りの表情は浮かべてはいるものの、その目が笑っている。
 「…っていう話なんじゃけど、あんた本当に旅のお方なんかいの?」
未だ八戒の腕の中にいる悟浄の顔を覗き込みながら親父がそう尋ねると、コクコクコク…と
思わず目まいがするくらい首を縦に振って悟浄は肯定してみせる。
あらぁとおやじは妙な声を上げながら、ぺしんと自分の禿げた額を叩いた。
 「ありゃまぁ…そりゃあ悪いことしたのぅ。儂ゃてっきりどこぞの農園から逃げ出した
  野良アヒルじゃとばかり思ったもんじゃけぇ。」
 「こんな小さな村で野良も何もあったもんじゃないでしょうが。」
親父の妙なボケに、すかさず奥さんが裏拳付きでツッコミを入れる。
連れ添って何十年かは解らないが、さすが夫婦という息の合いようだ。
 「まあ、ええじゃろうが。無事だったんじゃし。」
 「笑って誤魔化すんじゃないよ!」
豪快に笑い飛ばす親父のわき腹に奥方は一発キツメのひじ鉄を入れる。
大げさに身をよじって痛がる旦那をきれいに無視して、オバサンは八戒の腕の中の悟浄を
気づかうように覗きこむと言う。
 「危機一髪だったねぇ。大丈夫かい?」
ごく普通の…どこにでもいそうな恰幅の良いおばさんのその姿が、今の悟浄にはさんぜんと
後光が差して見えた。



 「……。」
 「悟浄?」
なんとか無事に宿に戻る事が出来た悟浄はそのまま風呂へと直行便となった。
しばらく経ちもとの姿となって出てくるなり、八戒を無言で背後から抱き締めた。
悟浄のために部屋に運んだ軽食を、テーブルの上に並べていた八戒は首だけねじってその顔
を見ようとしたが、さらにきつく回された腕の意味を察して諦める。
その代わりとでも言うように、自分の右肩に置かれた悟浄の頭に右手を伸ばすと、指先で
ゆっくりとその紅い髪を梳く。
 「まだ湿ってますよ、髪。」
 「ほっときゃ乾くって。」
 「風邪引いちゃいますよ?」
 「俺馬鹿だからダイジョーブ。」
耳元をくすぐる甘い声と、労るようなその指先がもらたす感触がひどく心地よくて、悟浄は
抱き締めたままの温かな体にぐりぐりと額を押し付ければ、くすくすとくすぐったそうな
笑い声が振動と共に伝わってくる。
 「仕方がない人ですねぇ…。」
八戒が甘やかしてくれるのをいい事に、しばらくそうやって抱きあったまま互いの体温を
分かち合っていた。
が、かたん…という軽い金属音に、二人揃って反射的にテーブルの上へと視線を向ける。
そこには、コーヒーのソーサーから転げ落ちたらしい銀色のスプーンが小さく揺れていた。
どうやら悟浄が邪魔をしたせいで、中途半端に置かれていたのだろう。
 「…コーヒー冷めちゃいましたね。」
 「ん〜?ま、いいんじゃない?」
そのスプーンを拾い、ソーサーの中に戻しながら八戒が困ったような顔でそう言えば、悟浄
は肩越しにその指先を自分の右手で軽く握りしめ、引き寄せる。
 「あんまりよくはないですけど…夕食、どうします?」
何が楽しいのか、無心に八戒の右手の指を自分の両手で一本一本確かめるように触っていた
が、そう尋ねられて悟浄はようやくその手を放して言う。
 「…悪ィ。なんか眠い。」
骨格も何もかもこれほどまでに違う生き物へと変化する、ということはそれなりに肉体的に
も精神的にも負担は大きいはずだ。
すまなそうにそう言う悟浄の腕の中で、八戒は身を反転させると向かい合う形になる。
そして気にしていないと言うように、柔らかな笑みを浮かべながら首を横に振ってみせる。
 「いいえ。今日は疲れたでしょう?ゆっくり眠ってください。」
 「やさし〜ねぇ、今日の八戒は。」
 「ええ?僕はいつだって優しいじゃないですか。」
 「は〜い失言でした。」
至近距離で囁きながらふざけあい、ふたりくすぐったそうに声をひそめて笑う。
そしてごろりとベッドに横になった悟浄の脇に、八戒も腰を下ろす。
 「なに?添い寝してくれるの?」
優しく眠りを促すように真紅の髪を指で梳きはじめる八戒の指を捉えて、ちゅっと音を
立てて軽いキスを送れば、ほんのりとその白い頬に赤みがさす。
 「お望みでしたら、子守歌でも歌ってあげますよ。」
 「…ケッコウです。」
 「そうですか?残念だなぁ。」
本当に残念そうに言う八戒の口ぶりに、悟浄は嫌そうに顔をしかめながら言う。
 「お前…楽しんでるだろ?」
 「はい。」
にっこりと極上の微笑み付きできっぱりと断言して見せれば、少し拗ねたような顔つきで
ごろりと寝返りを打ち八戒に背を向ける。
駄々っ子のような仕草にくすくすと笑いながら、八戒はそっと髪からその傷のある頬に指を
這わせると、癒すように気を悟浄の中へと注ぎ込む。
ゆるやかなその波動と、疲労のせいで、すぐに悟浄は静かな寝息を立て始める。
眠る悟浄の顔を、優しい笑みを浮かべ八戒は見つめていたが、その笑みがふと変化する。
決して自分からそんなそぶりを見せはしないだろうが、アヒルとなってさんざん犬や肉屋に
追い掛け回された事で、悟浄のプライドはかなり傷ついたのだろう。
そんな悟浄に対し、銃口を向けたばかりか発砲までした三蔵は、今や八戒にとって許せない
存在になりつつある。
 「…覚えておいてくださいね、三蔵。」
どこに焦点を合わせるでもなく、そっとそう八戒が呟く。
ゆっくりと…そう酷くゆっくりと彼の両の口の端が上がり、ゆるいカーブを描き出す。
美しいその曲線が、口許に描き出すのは一般的に『微笑み』と呼ばれるものであった。
それは本来、安らぎと癒しを与える優しいものである筈なのに、彼の全身から滲み出る気が
それを全て否定していた。
もしその空気を計る温度計があるとするならば、それは触れるもの全てを凍らせる絶対零度
を示していただろう。

 ──復讐するは我にあり。──

アルカイックな笑みを口許に浮かべた八戒の、心情を一言で表現するならばこの言葉が近い
だろうと、悟る者は幸か不幸かその部屋にはいなかった。


とりあえず悟浄の最大の不幸はこれで終わりです。
残念とか一瞬でも思った方、教育的指導をするので正座しなさい。
…とはいえまっさきに私が正座しなきゃね;ごめんね悟浄。
次回からシアワセにしてあげるから許してくださいな。

とはいえ、次回から怖いことになりそうなのは八戒の方ですね。
怒らせてはいけない人は、怒らせないほうがいいんです。
ええもう本当に。(-.-;)


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悟浄1/2