ぱた、ぱたと窓をたたく軽い音と共に、雨足が強まっていく。 今朝から雨が降り止まない。 霧のような雨は、時折こうやってふいに激しく降り注ぎ、世界をその雨音だけ で埋めていく。 何気なくかけていたラジオの音を絞り、雨音に耳をそばだてる。 意識を音だけに集中させれば、まるで自分が今外で雨に打たれているかのよう な錯覚を起こしそうになる。 ふ、と気だるげに息をひとつつくと、顔にかかる前髪を無造作に片手で後ろへ 撫で付け、悟浄は冷蔵庫から缶ビールをひとつ取り出すと、後ろ足で蹴るよう にして扉を閉める。 側にあった椅子を同じく足で引っかけて目の前に寄せると、その背にもたれる ようにして座った。 プシッという音と共にプルトップを引き起こし一口飲み込むと、痺れるような 冷たさが喉から胃へと流れていくのが解る。 春先とはいえ、暖かいのは日差しが照りつけるときだけで、こんな雨の日は 上に一枚羽織ろうかどうか、少し悩む。 することもなく、ぼんやりと機械的にビールを流し込みながら、窓の外を眺め れば、雨は今や滝のような勢いで窓ガラスに水滴を叩き付け、幾筋もの小さな 流れを作っている。 この数日間、こんな調子の天気は続き、外へ出る事をついためらってしまう。 いや、外へ出なくなったのはそれだけが理由ではなかったが。 無意識のうちに取り出した煙草を銜える瞬間、ふと医者にきつく言われた言葉 を思い出し、軽く舌打ちをしながら悟浄は渋々それを懐へと再びしまい込む。 「な〜にやってんだろうな、俺。」 椅子の背もたれに顎を乗せ、悟浄はため息とともにそう呟くと、視線を窓際に ある自分のベッドへと移す。 そこには、男がひとり横たわっていた。 年はおそらく自分とそれほど違いはないだろう。 身長もさして変わらない。 暗褐色の髪に、血の気がない事を差し引いても男にしては白い肌。 顔立ちは整いすぎて、どこか作り物めいてさえ見える。 いっそ、不細工ならこんな事にはならなかったかもしれないと思う。 瞳の色は…あの一瞬の事ではあったが、印象的だった緑色。 …あとは知らない。 先日の土砂降りの中、道端に文字通り落ちていた男だから。 どこの誰かも解らないどころか、名前さえ知らない。 それはまあ仕方ないとは言えるかもしれない。 なんせ拾ってからこの一週間、一度も意識を取り戻さないのだから。 ふと思いついたような顔で、悟浄は缶を持ち替えると冷たくなった手を寝てい る男の口元へかざす。 微かに開かれたその唇から零れる規則正しい呼吸が、冷えて感覚が鋭敏になった 手に、さざ波のように当たる。 そうやってちゃんと呼吸しているのを確認すると、少し安心する。 そしてその指先を喉元へ移動させ、ついでに正常に脈打っている事も確認する。 力強い血の流れを表す鼓動が生み出す、規則正しい振動が指先から伝わって くるのが何故か楽しくて、飽きるまでそのまま手を当てていた。 「…っと。」 時計に目をやると、缶に残った最後の一口を飲み干し立ち上がる。 テーブルの上に置きっぱなしにしてある紙袋の中から、包帯とガーゼ、消毒液 を取り出すと、寝ている男に掛けてある毛布を無造作に引きはがす。 パジャマ代わりのシャツの前をはだけさせ、腹に巻かれた包帯をほどくと、 慎重に傷口を覆っているガーゼをはがす。 日に数度行うせいか、この行為にいつの間にか手慣れてしまったような気が する自分に、ただ苦笑するしかない。 全て取り除いたそこには、まるで破れでもしたかのような大きな傷がある。 そして治療した、というにはあまりにも不格好な縫い目もそこにある。 裁縫のひとつくらい、出来たほうがよいのかもしれないと思ったのは、 医者の代わりにこの腹を縫いあわせた時だ。 裂けた腹から腸をはみ出したまま、意識不明に陥っている大の男をひとり 担いで帰るのも大変だったが、その泥にまみれた腸を洗って元通り腹の中に 戻して縫う、というのはもっと大変な仕事だった。 裂けた腹から溢れ続ける血で生温かい腸はぬるぬるとぬめり、大人しく腹に 戻ってくれない上に、下手に力を入れようものなら他の臓器まで飛び出して きそうで冷や冷やものだった。 あの大量の出血と手にした腸の柔らかな感触。 そして人の皮膚を針で突き刺した時の、ぷつりという弾けるような音。 当分、酒場でのスプラッタネタには困らないと思う。 まあ何にせよ、初めての仕事にしては出来は良いほうなのだろう。 現にこうしてこいつは生き残っているのだから。 「ふ…ん。」 悟浄は傷口の状態を一通り確かめたあと、軽く鼻を鳴らす。 ぱっくりと開いたその傷が、もう半分以上くっついているようだ。 くっついている、とは言ってもちょっとつつけばたちまち開くだろうが、 それでも驚異的なスピードで回復しているのは確かだ。 外見は人間だが、それはあくまで見かけだけで、本来は妖怪であるという事は 拾った時から解っていた。 それも、制御装置を三つもつけてなお、この回復力を保てる程の強い妖力を 秘めた妖怪で。 妖怪と一口に言っても、その内にある妖力の大小はさまざまだ。 制御装置など、つけただけで赤子並になってしまう程度の力しか持たぬものも 意外に多い。 妖怪と人間が共存している理想郷だと、薄っぺらな知識をひらけかして自慢す るのは大概金持ちか、物事の上っ面しか見ようともしない学者かどちらかだ。 妖怪の本質は享楽的で、その能力の強さゆえに個人プレーを得意とし好む。 逆に人間は力こそ妖怪には適わぬが、それゆえに集団行動を得意とする。 どれほど妖怪が強くとも、一対多数では結果は見えている。 根本的なところで、互いに互いをけん制しあいながら保っているのが現状だ。 そんな種族同士の摩擦に疲れて、制御装置を使い人と変わらぬ姿になり人とし てひっそりと暮らす妖怪もまた少なくない。 しかし、こいつの場合はどうも違うような気がした。 そんな事をつらつら考えながらも、手は動く。 消毒液に浸したガーゼで丁寧に傷口を拭けば、時折僅かだがひくりとその 腹の筋肉が動くのが解る。 返ってくる反応といえばそれだけだった。 動くこともなければ、当然喋ることもない。 できのいい人形を寝かせているような錯覚を時折覚える。 こんな状態のままなら、いっそ観葉植物と大して変わらないと思い、植物と 人形どっちが扱いやすいだろうかと、妙な事まで考えてしまう。 ──何故拾ったのだろう。── 死にかけていた男ひとり。 ひとつしかない自分のベッドを明け渡し、食いぶちである賭場にも出ないで かいがいしくも、野郎の看病をしている自分。 「な〜んでかねぇ。」 何度目かの自問自答をしてみるが、納得いく答えは未だに出てはこない。 彼の呟きに対して反応は返ってはこない。 この家には誰もいないからだ。 家、という程上等なものでもないが、ここに尋ねてくる奴はいない。 気に入った女でさえ連れ込んだことはなかった。 ここは彼にとって、取り敢えずのネグラでしかなかった。 長居するつもりはない。 悟浄にとっては、適当に酒場で欲しい情報が手に入れば、あっさり捨てて いける程度のものでしかない。 探している人物がいた。もう何年もあちこち巡り歩きながら探してはいるが まともな情報はかけらほども入ってはこない。 顔立ちや体つき、声。時と共に薄れゆくそれらの記憶を掻き集めながら、 それでも探すことを諦められない。 その人に会って、どうするかなど決めていない、というか考えられない。 自分のせいで罪を犯させてしまった…義兄という立場にいた、人。 ゆっくりと心が壊れていく母親と、禁忌の色をその髪と瞳に持つ義弟との 間で、どれだけ苦しんだだろう。そしてどれだけ傷ついただろうか。 会って許しが請いたいわけではない。 また会ったからといって、その傷がなかった事には出来ない。 自分の頬に刻まれた一生消えないこの二本の傷のように。 それでもこうやって未だに探し続けている。 だから、家の中に余計なものは入れなかった。 必要なものでさえ、極力避けた。 ここを自分の居場所…いや逃げ場所にするのを避けるために。 そんな悟浄のネグラに、今他人がいる。 誰とも目を合わせなかった。 誰にも本心を見せなかった。 人懐こそうな作り笑いと、軽い口調で見えない壁を作り、誰もそこから 中には入れなかった。 気楽な生き方だと、これが自分だと格好つけて言えばそれでよかった。 チープな言い訳。本当は、ただ臆病なだけの生き物な自分。 それでも、たぶんこうやって死ぬまで自分と周囲とを煙にまいていくの だろうと思っていた矢先に、この男が落ちていた。 あの一瞬…。 この男がその翡翠の双眸で自分を見上げた、あの一瞬。 そこから目を反らすことさえ出来なかった。 死にかけながら、こいつは笑った。 はっきりと自分を見て。 それは笑ったのか、それとも嗤ったのか。 無性に気になっていた。 あの時、これはお前の姿なのだと、そう言っているような気がした。 こうやって、誰からも顧みられることなくいつか道端でひとり野垂れ 死んでいくのだと。 見せつけてあざ笑っているような感覚に、沸き上がった感情は怒りだった か諦めだったのか…。 それは自分の単なる思い込みで、実際はただ殺されたがっている死にかけ の男がいるだけだと解っていた。 それでも、そいつのその視線にムカついた。 死にたがっている奴を、望み通りに殺してやる趣味なんてない。 だから拾った。 このまま楽に死なせてなんかやるもんかと、半ば意地になっていたのは 間違いなく事実だ。 でもそれだけだろうか? 本当にそれが理由なのだろうか。 それだけの理由で、かれこれ一週間もこうやって意識の戻らない男の面倒 を見続けているというのだろうか。 そこまで自分は執念深かったのかと考えれば、違うような気がする。 単にお人よしなだけだと思えば、情けなくなる。 「…あ〜チクショウ、めんどくせぇ。」 がしがしと頭を乱暴に掻くと、悟浄は考えるのを止めた。 自分自身にも解らない事なら、こいつに聞いてみようと思った。 こいつがどんな奴なのか知らない。 それでも今はただあの瞳を…あの視線をもう一度見たかった。 雨音が聞こえない。 ふと外に目をやれば、久しぶりの日差しが地上へと降り注ぎ始めるのが 見える。どうやら雨は一時の休息に入ったようだ。 「いい加減、目ェ覚ましやがれ。」 悟浄はため息交じりに、眠ったままの人形に話しかける。 雨が上がれば、賭場に行かねばならない。 特にこんな数日雨が降った日なら、外出を控えてたまった鬱憤をはらしに 来る客で賑わうと決まっている。 賭事で生きるための糧を得ている悟浄にとって、今夜は絶好の稼ぎ時だ。 それでも、いつ何が起こるか解らない怪我人を置いたまま、出かける気には さすがになれない。 「どうせお前は知らないんだろうがさ、俺のベッドなんだぜこれ。」 そう言いながら、ベッドの足を軽く蹴る。 振動が伝わらないよう、気をつけながら。 「何が哀しくて家主の俺が固い床で寝ないとイケナイわけ?」 もともと自分だけのネグラだ。 客用のベッドなど当然置いてある筈などない。 ソファなどという家具もこの家にはないため、悟浄は結局毛布を体に巻き 付けて床で寝る、という状態が続いていた。 いい加減、寝不足だし体が痛い。 「目ェ覚まさないのなら、もとの場所に捨てるぞ。」 自分でも嘘だと解っている嘘で脅せば、ふいにその瞼が小さく痙攣する。 続いて、左手の中指もぴくりと動いた。 脅してみるもんだ、と心の中で奇妙に感心しながら、悟浄は目を離さずに じっとその姿を凝視する。 ふ、と綻ぶように開いた唇からため息のような息が漏れ、瞼がゆっくりと… 本当にゆっくりと開いていった。 その下から現れたのは、あの日、そうあの雨の日に見た翡翠色の瞳で。 ここ一週間、ずっともう一度見てみたいと思ったその色を、悟浄は無意識の うちに息を止めて凝視していた。 「…地獄って案外庶民的なところだなぁ…。」 どんな声で何を言うのかと思えば、それがこの男の第一声だった。 |
まずは、悟浄視点から書いてみました。 原作でも、悟浄が八戒の腹をふさいだように聞こえるんですが 腸がはみ出るほどの大怪我なら、血管とか筋肉とか神経とかも 繋ぎあわせないといけないんじゃないかな?と思うんですが。 そんなマネ素人に出来るのか?とか思いつつ、ま、それはそれ でおいといて。(笑) 八戒(まだ悟能か)が意識不明だった一週間、何を考えていた のかなぁ、と思ったのがひとつ。 もうひとつは悟浄にとって、あの家は終の住み処じゃなかった だろうなぁと思ったので、こんな感じになりました。 |