──戒めるもの──





雨の
      
      
      
音が
      
      
      
する
      
      
      
      
      
半ば目覚めた状態のまま、雨の音を聞く
窓を叩く音、屋根に落ちる音、木々を濡らす音、大地を潤す音
目を閉じているせいか、どの音もよりはっきりと聞こえてくる
そう、嫌になるくらいに
     
聞きたくない
雨の音なんか
     
耳を塞ぎたいのに手が動かない
瞼も重すぎて鉛のようだ。
目を閉じているせいか、余計に耳に意識が集中してしまう
     
う・・
のう・・・
ご・・・のう・・・
     
ああ、とため息に似た声が口から漏れる
彼女の声が聞こえてくる
幻聴と思えないくらいリアルな響きと質感で僕の名を呼ぶ
優しいあの人の声が
     
ごのう・・
     
か・な・ん
      
応えるように、動かぬ口で出ぬ声で彼女の名を呼ぶ
何に代えても守りたかった…ただ一人愛した人の名を
     
名前、呼ばないでよ花喃
僕を置いていったくせに
僕をひとりにしたくせに
     
さみ…しい…よ
いたい…よ
苦しいんだ、とても
     
     
     
ねえ、どうして僕を連れて行ってくれなかったの
     
     
     
「私のお腹の中にはね、化け物の子がいるの」
     
どうして泣いているの?
化け物の…子?
君を傷つけた奴はみんな僕がやっつけたよ
もう君を傷つける者は誰もいない
だから帰ろう
泣かないで、花喃
どうして…泣くの?
     
手をさしのべる
細くて柔らかい体を抱きしめる
温かい…体
     
僕が守るから
誰も君を傷つけないよう、守るから
     
だから…置いていかないで
ひとりは辛いから
     
「さようなら…」
     
君の腹から血が噴き出す
赤い、きれいな血
同じように裂かれた僕の腹からも血が噴き出す
赤いけど、ちっとも綺麗じゃない
同じ傷、同じ筈の血
これは誰の血?
僕の?
花喃の?
     
ああ…
ふいに解ってしまう
     
彼女の腹から出てくるのは、きっと僕だ
彼女が拒む、彼女の子宮に宿ったものは、僕自身
彼女を殺しながらこの世に這い出てくるのは僕だ
赤い血を…彼女の命を奪い取る…異形の化け物
     
殺してしまわなければ
彼女を傷つけるものは全て排除しなければ
それが例え、僕自身であっても
     
雨の音がうるさい
彼女の声が聞こえない
耳を塞がなきゃ
     
瞼が重い
彼女の姿が見えない
目を開けるんだ
     
自分が目覚めていくのが解る
そして徐々に混沌とした記憶がはっきりとしていく
     
彼女はどこにもいない
いないのに
     
どうして…僕は…
     
      
      
ココニイルンダロウ…?
     
     
     
     
     
     
     
     
     
      
      
      
 「胡蝶の夢…って知っています?悟浄さん。」
 「知らねぇ。」
差し出された皿を受け取りながら何気なく尋ねれば、即答が返ってくる。
そのあまりのらしさにふと微かに笑えば、むっとしたように彼の片眉がぴくん
と跳ね上がる。
 「なに?」
 「いいえ…。」
どこか子供のような拗ね方に、また失笑しそうになるのを誤魔化すように、
僕は軽く首を振ると、皿の中のお粥を匙で掬って口に運ぶ。
ようやく医者から固形物を口にしていいと言われて出て来たのは、殆ど米粒の
形が残っていないようなお粥で。
それでも確実に時間が流れていくのを感じ、それと共に自分の体が死から遠ざ
かっていくのを思い知るには充分だった。
心はとうの昔に死んでいるというのに。
 「で?」
 「…ある男が、自分が一匹の蝶になる夢を見るんです。」
とりあえず聞いてやろう、という態度で彼は椅子を引き寄せ腰を下ろす。
その仕草に沈みそうになった思考を無理やり引き戻し、僕は説明する。
     
  ──何も聞かなかい人だ。──
     
悟浄という人物を計りかねたあげく、僕は単純にそう判断するしかなかった。
自分がどこから来たのか、どういう名前でどこへ帰るのか。
そんな当たり前な質問すら、この悟浄という人はしようとはしなかった。
気にならない筈はないだろうと思う。
ただの行き倒れならともかく、腹に大穴を開けて内蔵はみ出した状態で地面に
転がっている男の過去など、知りたいという好奇心以前に、警戒心が働くもの
ではないだろうかと思わずにいられない。
 「チョウチョ?」
 「ええ。で…それがとてもリアルなものだったから、男はふと思ってしまう
  んです。自分は蝶の夢を見ている人間なのか、それとも人間の夢を見てい
  る蝶なのか、と。」
 「へーえ。」
そんなツマンナイ事で悩むやつもいるんだ、と言わんばかりの口調で、妙に感
心したように悟浄が声を出す。
 「…作者の意図と違う感想みたいですね。」
 「まあね。どうせ見るならもうちっとタノシイ夢にすればいいのにな。」
キレーなお姉ちゃんが出てくるやつとか…と考えながら指折り数える彼の仕草
に、つい苦笑してしまう。
 「夢を見ているのは蝶々か人か…。」
夢に見るものは決まっていた。
彼女の…花喃の笑顔だけ。
小鳥のようによく歌い、小さな花のように笑った彼女の優しい笑顔。
そして僕にさよならといった、涙に濡れた最後の笑顔。
繰り返し繰り返し、壊れたプレーヤーのようにぐるぐると花喃の笑顔だけが
僕の中を通り過ぎていく。
窓にかかった生成のカーテン、花喃が種を植えた白い鉢植え。
古びた木のテーブルの上にある小さな赤いチェックのマット。
その上に置かれたコップには野辺で摘んだ花が一輪。
悟能と囁く桜色の唇、頬を滑る華奢な白い指、優しい色を浮かべた翡翠の瞳。
風に揺れる栗色の長い髪、甘い歌声、腕の中に残るその体温。
こんなにもひとつひとつ鮮明に思い出せるのに、目覚めれば彼女はいない。
もう…どこにも…いない。
 「僕はどっちなんでしょうね…。」
何もかもが夢で、目を覚ませばいつものように花喃が柔らかい微笑みが迎えて
くれるのだろうか。
 『怖い夢でも見たの?』
と言いながら、優しくその腕で抱き締めてくれるのだろうか。
それとも…本当に大切なたったひとつの存在すら守れず、生き延びてしまった
これこそが現実なのだろうか。
  カタ…。
硬質の小さな物音に、僕はふと我に返り音源へ視線を向ければ、悟浄がライター
を側のテーブルの上に置くのが見えた。
ふう、と本当にうまそうな顔で煙草の煙を吐きながら、気のなさそうな声で一言
悟浄は言った。
 「…好きなほう選べば?」
 「そう…ですね。」
僕はただ苦い笑みを浮かべて言葉を濁す。
それ以上何も言わず、悟浄は食べ終えた皿を手に取ると、いかにも面倒だという
態度で立ち上がり台所へと去ってしまった。
その後ろ姿を何気なく見送った後、僕は目を伏せつぶやく。
 「選べたら、よかったんですけどね…。」
僕は彼にどう答えて欲しかったんだろうか。
現実はここだと示して欲しかったのか。
それとも、夢だと言って欲しかったのか。
どちらにせよ、それはとても傲慢な事でしかない。
自分が償うべき罪を、他人にすがりゆだねようとしているだけだ。
たったひとつ残された、花喃を死なせてしまったこの罪は僕だけのものだ。
無意識のうちに握りしめた右手に、視線を落とす。
目を覚まし、最初に見たのは自分のこの右手。
それから…鮮やかな血の色をした髪と…同じくらいに紅い瞳。
一瞬、自分の手に付いていた血が移動したのかと、馬鹿な事を思った。
目に映るもの、全てが灰色で遠いものだった。
この感覚は、なじみ深いものであった筈なのに、忘れていたことに気づく。
     
忘れていたのは、彼女に巡り合えたから。
思い出したのは、彼女を失ったから。
     
とても簡単な図式。
笑ってしまうほど単純で、深い傷。
     
彼女がいない。
もう、どこにも…いない。
     
     
     
     
     
狂ってしまえればよかったのに。
     
     
     
     
     
*NEXT* -Please wait-

   




「胡蝶の夢」というのは、確かもっと色んな事が織りまぜてあった
ような気がしますが、とりあえずこういう感じでひとつ。
ただ「胡蝶の夢」というテーマでもうちょっと掘り下げた話は
いずれ書いてみたいと思います。



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