イタイ… 誰かの声が、頭の中でぽつりとつぶやく。 まるで、他人事のような感覚の声は、自分のものだと解ってはいるが、 どうしても実感が持てないでいる。 疼痛が絶え間なく続くせいか、眠ることさえ出来ない。 ズク…ズキ……ズク…ズキ……ズク…ズキ… 二つの痛みが、彼を苛み続ける。 そう、ひとつはかぎ裂きのような腹の傷から。 そしてもうひとつは自ら抉り取った右目の穴から。 イタ…イ 痛みともいえない痛みが、疼きとなって血液と共に全身を巡る。 このまま時間が経てば、体の奥から腐り始めそうな…そんな予感。 寝台に横たわったまま、悟能は細い溜め息をつく。 大量虐殺の罪で斜陽殿に連行され、処分が決まるまでの間ここに軟禁状態 となってすぐに悟能は倒れた。 治りきっていない体で無理をしたため、腹部の傷は再び開いてしまった。 そして抉り取った右目の傷口からは、細菌が入ってしまったようだ。 精神の不安定さに上乗せするような大怪我の数々に、身体の方が耐えられ ずに高熱を発し、一時期は意識不明でかなり危険な状態だったらしい。 とりあえず、ようやく危機は脱したようだと医師は自分に告げる。 しかしそれでも微熱は続き、既に数日経った。 下がらぬ熱は体力を奪い、起き上がる力さえもう残ってはいない。 そんな悟能の状態にこれならと安心したのか、それとも病人に余計な 負担をかけないようにとの配慮かまでは解らないが、常に扉の前で警戒を 続けていた僧達の気配も今はない。 この部屋に来るのは、自分の治療のために訪れる医師と看護の者だけだ。 いつものように定期的に訪れ、義務的な問診と治療を行い、そのまま 出ていったあとは、人の気配は微塵も感じられない。 ようやく肩の力を抜き、ひとつ息を吐くと声無き声で呟く。 イ…タ、イ 何もする気力が沸かない。眠ることさえできない。 絶えることのない疼きを抱え、ただ漠然と時が過ぎてゆく。 今は何時なのだろう。朝なのか昼なのか、それとも夜なのか。 視線を巡らせ窓を見るが、分厚いカーテンでふさがれているせいか 全く外の様子が解らない。 恐らく窓から差し込む光が、彼の残された目の負担にならないように という配慮なのだろうが、時間を感じないという事が、こんなにも 不安の材料になる事を初めて知る。 薄暗い部屋の中で、自分だけが取り残されている。 微かな音すらもないこんな静かすぎる空間の中で、いつしか自分が 風化した岩のようにゆっくりと崩れさっていくのだろうか。 シ…ニタイ…シニタク…ナイ… シニ…タクナイ…シニタ…イ… 考えることさえ面倒なのに、相反する二つの感情だけはこの疼痛のように 自分を傷めつける。 眠れそうにもないが、目を開けているのも辛い。 ふ、と溜め息をまたひとつ漏らした悟能は、自分に向けられる視線を 感じてゆっくりと頭を巡らせる。 薄く開いた扉の向こうに、こちらを伺っている者がいた。 「…こんにちは。」 視線があい、無視するのも気が引けたのでそう声をかける。 とたん、ぴくりと体を震わせ一度頭を引っ込めるが、またおそるおそる 扉の向こうから顔を覗かせてくる。 三蔵と一緒にいた少年だ。年はいくつぐらいだろうか。 大きな金の瞳が印象的だった事は覚えている。 確か名前は…。 「悟空…さん、でしたっけ。」 思い出した名を呼ぶと、大きな瞳をさらに見開いてこくりと頷く。 「どう…しました?」 警戒と好奇を混ぜ込んだ視線の持ち主に、できるだけ優しく声をかける。 すると少し安心したのか、おずおずといった様子で尋ねてきた。 「なあ、入っても…いい?」 「…どうぞ。」 問われて、悟能は少しためらったのち言う。 罪人として捕らわれている自分に、入室の許可など選択する権利はない。 ただ、そう言わなければ、きっとこの少年は悲しそうな顔をするに 違いないと感じたから、そう応えたのだ。 そんな彼の逡巡など気がつかず、許しを得た悟空はほっとした顔で寝台の 側まで速足で近づいてくる。 が、すぐにその場でも居心地悪そうにもじもじと体をよじりながら、 視線をあちこちに彷徨わせはじめる。 何か話をしたそうに見えるが、どう切り出していいのか解らない様子に、 悟能は小さく笑って言う。 「立ったままだと疲れますよ。そこの椅子にでも座ってください。」 「う、うん。」 促されるまま悟空は椅子に座ると、横たわったままの悟能に一度視線を 向けると、すぐに俯く。 そんなに言いにくいことなのだろうかと思いながら、彼が話し始めるのを じっと待っていると、やがて上目遣いに小さな声で言った。 「…イタ…い?」 「え?」 唐突にそんな事を尋ねられ、思わず反射的に聞き返してしまう。 それを聞こえなかったからだと勘違いした悟空は、悟能の腹部と右目の 包帯にそれぞれ視線を向け、再度言う。 「イタい、かなって…思って…。」 「…はい。」 まるで自分が怪我をしたかのように痛そうな表情を浮かべて、悟空がそう 尋ねたせいかもしれない。 痛くない、大丈夫だという事も出来たのに、何故か悟能は自分でも意識 しないうちに、素直にそう答えていた。 そう答えて初めて、自分は痛みを感じているのだと自覚する。 そしてそんな些細な自覚が、遠ざかっていた世界を少しだけ戻した。 「そっか…うん、イタそう…だもんな…。」 「悟空…さん?」 しゅんとうなだれてしまった悟空に、どう声をかけていいものか迷った 悟能は、ただ彼の名を呼ぶ事しかできなかった。 「ごめん…な。」 何故か悟能にそう謝ると、ぎゅっと自分のズボンの膝を握りしめる悟空に 悟能は不思議そうな声で尋ねる。 「どうして、謝るんですか?」 「だって!」 高ぶった感情のまま、大きくなった声を慌てて両手で押さえる。 怪我人で、さらに病人の前で出していい音量ではないと気付いたからだ。 落ち着こうとしているのか、一度大きく深呼吸をすると悟空は言う。 「だって俺が蹴ったから…傷開いたんだろ?」 叱られるのを待つ子供のように、身を竦めて自分の反応を待つ彼の様子に わざわざこれが言いたくて、悟空がここに来たのだと解った。 「悟空さんのせいじゃ、ないですよ。」 「でも…!」 なおも言い募ろうとする悟空を視線で制し、一度ゆっくりと息を吸った のち、溜め息のように吐きながら悟能が言う。 「悟空さんは少しも悪くありません。この傷も…今のこの状態も… 全ては僕の…僕の過ちの結果ですから。」 「……。」 自嘲に満ちたその台詞と笑みに、何と言っていいのか解らない悟空は、 ただ唇を噛むしかなかった。 その表情に、悟能は自分のそんな言葉がこの少年を苦しめているのだと 解ってしまう。 「いいんです。」 「なに…が?」 「イタいって感じる事は…今僕が生きているという事ですから…。」 一度言葉を切り、反応をそっと確かめるようにして続ける。 死にたかった自分は、まだここにいる。 しかしそれでも、自分は生きていかねばならないのだ。 いや、生きようと…全ての罪を背負ったまま生きていこうと決めた。 痛みを訴え続ける右目と腹部の傷を、その罪の証として己が身に刻んで。 この思いが言葉として届けばいいと願いながら悟能はさらに言う。 「だから…いいんです。」 「…そっか。」 そんな短い言葉の裏にある彼の言葉が通じたのか、やっと安心したよう に悟空が笑う。 素直すぎるその反応が、不思議なほど今の自分には心地よい。 「悟空さんは…優しいんですね…。」 無意識のうちに、悟能は手をそっと伸ばしその横髪を指先で梳くと、 少し驚いたように両目をぱちくりと悟空が瞬かせる。 そして少し顔を赤らめると、俯いた。 「…で、いい。」 「え?」 悟空が小さな声で何か言い、悟能が反射的に尋ね返す。 すると、顔を上げた悟空が照れたように笑いながら、もう一度言う。 「悟空、でいい。さん、いらない。その方がなんか…落ち着く。」 「そう…ですか?」 「うん。」 まるで太陽のように輝くその笑顔につられ、悟能も微かに口許に笑みを 浮かべると、その悟能の笑みを見た悟空がさらに破顔する。 「あの、さ。」 「なんですか?」 少し顔を赤らめ、もじもじしながら悟空がふいに何か切り出す。 「もいっかい、して。」 「……?」 今度は何かと思いながら悟能が尋ねるが、当の悟空はうまく言葉に 出来ないようだ。 じれったそうに悟能の手を取ると、自分の頭に当てる。 「さっきみたいに、して。」 なんかすっげえ気持ち良かったからさ。無邪気に笑う少年の笑顔に 応えようと、置かれたままの自分の手を動かそうとしたとたん…。 ずくりと腹の傷が強い痛みを発した。 とたん、自分のその手がかつて何に染まったのか思い出してしまう。 ――ダメダ…―― ――コノ手ハ……ニ染マッテイル…カラ…―― ――早クドケナイト…コノ子ガ汚レテシマウ…―― 血まみれの、手。 何十人もの村人と…そして千人もの妖怪を殺した、手。 ねっとりと纏わりついて離れない、紅の色。 ふいに全身を強ばらせ、動かなくなった悟能に気付き、悟空が訝しげに 視線を向ける。 「どうかした?」 強ばった悟能の顔を覗き込むようにして尋ねると、逃げるように視線を 彼の目から外す。 それを拒否ととったのか、悟空がしょんぼりと肩を落とす。 「なでるの…いや、だった?」 「ちがいます。」 勘違いさせてしまった事に気付いた悟能は、慌てて誤解を解こうとする。 「じゃ、なんで?」 「それは…。」 言葉にするのをためらった悟能は、自分の手を残された瞳にかざす。 「僕の手は…血まみれだから…。」 「血?どこにもついてないじゃん。」 じっと手を見つめる悟能に、確かめるように悟空も一通りその手を 見渡した後、不思議そうに言う。 「きれいだよ…手。」 『悟能の手、好きだなぁ。』 悟空の何気ない一言が、ふいに大切な人の声となって蘇る。 失ってしまった…もう二度と会う事ができない、大事な己が半身…。 「…か…なん…。」 過去に捕らわれ、ぼんやりと微かにつぶやく悟能が、ふいにぴくりと 身を震わせる。 悟空が、その手を自分の両手でぎゅっと握りしめたからだ。 「あ…の…?」 「イタそうだったから。」 「え?」 「イタそうな顔をしたから。」 痛いところがあったら手で撫でれば少しは楽になるけれど、今はそれが 出来ないから。だから代わりにこうやって手を握ったのだと、言葉以上に 雄弁なその瞳で悟空が言う。 「…ああ、そうでしたか。」 「うん。」 悟能が薄く笑いながら尋ねると、真剣な瞳のまま悟空が頷く。 本当は…本当に痛いのは体の傷ではなく、心の傷なのだろうと言いたい。 だけどそれは、言葉に出来ないから。 痛すぎて未だ触れることすら出来ない、場所だから。 だから口から出る言葉は全て、体の傷の事に置き換えられる。 「…まだイタい?」 「大丈夫、です。楽になってきました。」 手を通して伝わる体温が心地よい。 同じように自分を気づかってくれる悟空の心も、そこからじんわりと 体の中に流れ込んでくる。 温かくて…優しくて…泣きたくなってくる。 「…温かいなぁ…。」 微笑みを浮かべ嬉しそうに悟能が言うと、悟空が照れたように笑う。 自分のたったこれだけの行為が、こんなにも喜んでもらえた事がなんだか とても嬉しい。 「もう少し…このままでいてくれますか。なんだか眠れそうな気が するんです。」 悟能の柔らかな声とその願いに、悟空は大きく頷く。 「いいよ。俺、ここにいる。」 「…ありがとう、悟空。」 言葉に出来ない感謝の気持ちを込めて名を呼ぶと、嬉しそうに悟空が 笑顔を浮かべた。 その笑顔を見つめながら、悟能はゆっくりと目を閉じる。 痛みは、まだある。 しかしそれ以上の温かさが、心地よい眠りを運んでくる。 ようやく…眠れそうだった。 そう、何もかも忘れて。 今自分にとって一番必要な、癒しの眠りにゆっくりと悟能は己が身を 沈めていった。 「猪 悟能」という名を捨て、新たに生きる為に「猪 八戒」の名を もらったのは、それから数日後だった。 *END* |
どこかで聞いた話によると、自分が傷ついて苦しいのだという事を自覚 した時から、治療と癒しは始まるとか。 悟空の無垢な心こそが癒しなのね。 しかし彼の場合、アニマルセラピーという表現がぴったりかも。(^^;) ま、それはおいといて。 実はこれ、状況が状況とはいえ、八戒(まだ悟能か)を蹴り飛ばして くれた悟空に謝らせたかったという気持ちだけで出来た話。 |