──癒すもの──
      
      
      
 「ふう。」
自分でもらしくないと思うため息をひとつつくと、悟空は見張りのいなく
なった部屋の扉を、遠くから眺める。
 「…ふうっ。」
もうひとつ大きなため息をつくと、悟空はとん、と壁に背をもたせかける。
その部屋の中に行きたい気持ちと、行きたくない気持ちが半々で、自分でも
どうしていいのか解らなくなる。
 「三蔵、いないしなぁ。」
こんなとき唯一相談できる三蔵は、用事があって出かけていた。
相談といっても一方的に悟空が喋るだけで、三蔵は煩がるかでなければ
ハリセンでぶん殴られるだけなのだが。
部屋の中にいるのは、ひとりの罪人だ。
数十人の村人を殺し、千人にものぼる妖怪をも殺し尽くした大罪人。
その男を捕らえよという命を受けた三蔵についていき、彼に会った。
  ――湖のような、澄んだ緑の瞳のその人に。――
三蔵の拳銃を自分に向け、どうしてもしておきたいことがあるから、時間を
少しだけ下さいと真剣な表情で言い残し、次に見つけた時には…。
 「あいつ…なんであんなコトしたのかなぁ。」
ぽつりと悟空は呟く。
     
  きれいな瞳だったのに。
  あんなにきれいな色初めて見たのに。
     
彼は己が手でその右目を抉り出したのだ。
自分が止めなければ、間違いなくもう片方の目も抉り出していただろう。
 「なんで…かなぁ。」
いくら考えても、彼がそんな行動に走った理由が解らなくて、悟空は三蔵に
聞いてみた事がある。
が、三蔵は不愉快そうに鼻を鳴らしただけで何も教えてはくれなかった。
三蔵が不機嫌なのは、彼が自分自身を傷つけた事を怒っているのだという
のは解ったが、どうして三蔵がそんなに彼の事で苛々しているのかまでは、
解らなかった。
でも、どうしても気になる。それだけは確かだ。
     
  大勢の人間を、そして妖怪も殺した犯罪人。
  人間から妖怪にその身を変化させるほど大量に。
      
そんな事は解っている。
でも、あの時見た瞳は、とてもきれいで…哀しくて。
そのまま何もしないで放っておいたら、透きとおるような笑みを浮かべた
ままどこかに消えてしまいそうで。
それが、何故か怖くて悲しい。
あの時も、そして捕らえられて今に至るまで、まともに彼と話なんてした
こともないのに。
それでも、どうしてこんなにせつなくなるのか解らないから。
だから三蔵は彼の罪を軽減するために走り回り、自分もこうしてここから
離れられないのだ。
あの緑の瞳を思い出しながら、なんとなく自分の右目の上に指を押し付けて
みる。が、少し強く押しただけでも怖くなって止めてしまう。
 「イタい…よな、きっと。」
どれだけ痛いかは解らないが、自分の体の一部を抉ったのだ。
絶対スゴク痛いに決まっている。
彼は少しもそんなそぶりは見せなかったが。
しかし、斜陽殿に連行され、処罰が決まるまでの間ここに閉じこめられる
と決まった直後、彼は倒れた。
高熱を発し、意識のない彼が手当てされるのを見たことがある。
右目の瞼は守るべき丸みをなくし、力なく窪んでいた。
その瞼の裏には、暗い空洞しかなくて。
まるで彼の心のように虚ろなそれは、見ているほうが痛くて。
消毒されるたび苦しそうに彼は顔を歪め、微かなうめき声とともにその体が
ビクビクと小刻みに震えるのは、とても痛いからだ。
そして三蔵も自分も知らなかった、腹に出来た大きな…傷跡。
まるで獣にでも裂かれたようなひどい、傷で。
塞がったばかりのその傷がまた開き、うっすらと血が滲んでいた。
まるでそれが、彼の失った瞳の代わりに泣いているみたいに。
 『傷から細菌が入ったようです。』
 『肉体的な疲労も大きいですが、それ以上に精神的なダメージの方が
  酷いようですね。』
医者は淡々と事実のみを三蔵に報告し、自分は側でそれを聞いていた。
そしてある事に気付き、それ以来落ち着けないでいた。
彼を捕まえるときに、力いっぱい蹴りつけたのは自分だ。
そのせいで腹の傷が開いたのかも知れない。
 「俺…知らなかったから…。」
そう呟いて、慌てて首を大きく左右に振る。
知らなかったら、何をしてもいいという言い訳にはならない。
たぶん自分のせいで、数日の間彼は生死の間をさまよったのだ。
やっと昨夜意識はとりもどしたが、まだ自力で起き上がることすら出来ない
状態だと聞いていた。
 「俺、謝らなくちゃ。」
自分に言い聞かせながら、扉の前に立ったとたん彼と目が合い。
 「…こんにちは。」
寝台に横たわったままの彼に優しい声でそう挨拶されて。
少しだけ安心して促されるまま部屋の中に入る。
白だけがやたらに目立つ部屋は、消毒液の匂いしかしない。
片目を包帯で幾重にも覆われたその顔は、初めて会ったときよりも痩せて
しまったように見える。
顔色も青白く、ひどく疲れているみたいだ。
それでも、悟空が側に立つと小さく笑って側の椅子を勧めてくれた。
     
     
     
そして、一時間ほど経っただろうか。
 「…眠ったようだな。」
背後から聞こえたその声に、悟空は首だけ振り返ると頷く。
戸口に寄り掛かったまま三蔵は、青白い顔で眠っている悟能の顔を一瞥する。
疲労と投薬のせいか、自分たちがここにいても目を覚ます気配はない。
 「なんで…かなぁ。」
 「どうした。」
うなだれたまま、悟空がぽつりと呟く。
いつもなら三蔵が帰ると、煩いくらいにまとわりついてくる悟空が、珍しく
静かに座っている。
そんな悟空に少し興味が沸いたのか、三蔵が視線を向けて尋ねる。
 「血なんかどこにもついてないのに…自分の手が血まみれだって。」
未だ握りしめたままの彼の手に視線を向け、どこにも血なんてついてないのに
と思いながら、悟空は彼のあの時の表情を思い出してしまう。
しょんぼりと首を垂れる悟空に三蔵は何も応えず、ただ不機嫌そうに無言で
眉根を寄せて舌打ちをする。
 「ち、世話の焼ける。」
何に、とも誰が、とも言わない。
だけどなんとなく、三蔵の言いたいことが解って。
 「…俺、もうちょっとここにいる。」
 「そうしてやれ。」
とっとと帰れと言われるだろうとなんとなく思っていた悟空は、その言葉に
驚いて大きく目を見開き三蔵に視線を向ける。
 「なんだ。」
さらに不機嫌さを増したその表情に、ふるふると悟空は首を横に振る。
 「しっかり見張っておけ。今のそいつは身喰いする動物みたいなもんだ。」
 「身喰い…?」
意味がわからず尋ねかえす悟空に、三蔵は苛立たしげに懐から煙草を取りだし
かちりと火をつける。
 「傷の痛みに堪え兼ねて、それを別の痛みで誤魔化そうとする事だ。」
 「そんなのって…!」
そんなのって…痛みが増えるだけで、ただ辛いだけじゃないか。
悟空はそう叫びかけて…止める。
 「俺は先に戻るからな。」
 「…うん、解った。」
三蔵の言葉に、悟空はこくりと頷く。
    
 ――悟空さんは少しも悪くありません。この傷も…今のこの状態も…
   全ては僕の…僕の過ちの結果ですから。――
    
不思議なくらい穏やかな声で、目の前の彼はそう言ったのだ。
そんな風に自分を傷つけるような事を言って欲しくないのに。
でも、何と言っていいのか解らなくて。
そんな自分の顔を見て、彼がほんの少しだけ笑って言うのだ。
   
 ――悟空さんは…優しいんですね…。――
   
そう言いながら、髪をそっと指先で梳いてくれて。
そんな風に誰かに触ってもらったのは初めてで。
優しく撫でてくれる指先が、なんだかとても心地よくて。
誰かにそんな風にしてもらったことなんてないはずなのに、
何故かその感覚が懐かしい気がした。
遠い昔…失った記憶の向こうに、同じ事を誰かにしてもらったような。
懐かしくて、嬉しくて…どこかせつない感覚。
   
 ――僕の手は…血まみれだから…。――
    
どこにも血なんてついてないのに、じっと手を見つめるその横顔がとても
辛そうで、苦しそうで。
そんな顔してほしくなくて、その手を握りしめると微笑んでくれた。
本当は…本当に痛いのは体の傷ではなく、心の傷なのに。
痛すぎて触れることすら出来ないのに。
     
どうして、あんなにきれいに笑うんだろう。
どうして、こんなに傷ついているんだろう。
     
大切な誰かを失った、そう聞いたような気がする。
だから…こんなに傷ついたんだろうと悟空は思う。
もし自分が、自分が大切な誰かをなくしたら…。
     
誰よりも、何よりも大切なのは三蔵。
救いの手を伸ばしてくれた金色の光。
あの洞窟の中から毎日毎日、憧れていた太陽。
その光を与えてくれた…。
    
それを失う?
三蔵がいなくなる?
自分をおきざりにして?
    
ぞっと背筋に耐えきれない悪寒が走り、悟空は身を竦める。
 「やだ!俺そんなのっ。」
そう反射的に叫びかけて、悟空は慌てて自分で自分の口を塞ぐ。
やっと…やっとこの人がどれだけ傷ついたのか解ったような気がした。
解ったら…泣きたい気がした。
悟空は顔を上げ、横たわったままの彼の様子をそっとうかがう。
眠る彼はひどく静かで。
静かすぎて…本当に生きているのか不安になるくらいで。
でも、自分の掌の中にある彼の手は温かいから。
 「笑ってくれよ、なぁ。」
小さな、本当に小さな声で囁くように悟空は言う。
 「そうしたら、俺…。」
何が言いたいのか自分でも解らない。
でも微笑んでくれたとき、すごく嬉しかった。
だから、もっと笑ってくれたら、自分ももっと嬉しくなりそうで。
言葉の見つからない悟空は、未だ握ったままの彼の手をそっとさする。
それが唯一自分がしてやれる事だと、解っていたので。
彼が再び目覚めるまで、こうしていようと決めた。
    
    
それから毎日のように彼の許を訪れる悟空の姿があった。
    
    
    
*END*
   




これはSAKURAさんにプレゼントした話なのですが、
私の気紛れにより連続小説化しちゃったため、ここにも
アップする事となりました。
SAKURAさん、快く許可を下さりありがとうございますぅ!
     
こういう、ふと思い立って長編化、つーのは得意技だったり
するんだよなぁ、私。
でもって、自爆するんだこれが。(-.-;)



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