![]() |
prologue 「それ」は生まれる。欲しいものを欲しがるために。 |
ねっとりと濃い、一条の光すらも射さない闇の中に、「それ」は息づいていた。 「それ」は、その闇に同化し、ユラユラと漂うようにまどろみながら、時折伝えられ る声に小さく身悶えを繰り返す。 「それ」が生まれてから、どれくらいの時がたったのだろう? 最初は小さな欠片のような存在だった「それ」は、日毎夜毎に糧を得て、徐々に大き くなっていった。 昼夜を問わず、不意に現れる糧。 不規則ではあるが、途切れることなくふんだんに与えられる糧。 中心に熱さを閉じ込めて、ひたすらまっすぐな想いで出来たその糧は、いくら食べて も飽きることなく、そして「それ」は、今日も貪るべき糧が現れるのをじっと待って いた。 ああ、来た―――。 ユラリと揺らいだ闇の片隅から、「それ」の元に糧が届く。 ペロリと舌なめずりをするように、嬉々とした思いで「それ」は糧を呑み込んだ。 天上の果実のような芳しい芳香を放ちながら、醜く歪んだ形を持つ、甘い糧。 その糧の秘めた熱が「それ」の中に広がっていく。 もっと、欲しい―――。 食べても食べても満足出来ず、けれど、伸ばす手を持たない「それ」は、もどかしげ に闇を震わした。 もっと、もっと、もっと―――! 「それ」が貪欲な想いを闇の中にぶちまける。 その瞬間、今まで闇に同化していた「それ」に、変化が起きた。 一面に広がっていた闇の中にボウッと白く霞が立ち、一箇所に向けて集まり凝り出す。 ゆっくりとゆっくりと大きさを増したそれは、やがて一つの形を作り上げた。 暗闇に、霞の凝った白い塊がゆるゆると蠢き出す。 長い手足に白い肌、全体にほっそりとした平坦な躯と、濃茶の髪に包まれた、瞳を閉 ざしたままでも充分に美しい、整った顔立ち。 闇の中に浮かび上がった「それ」は、どこか中性的な成人男性の形状をなしていた。 これが、僕………? 未だ開くことの出来ない瞳に焦れながら、「それ」は己の躯を抱き締める。 手のひらに触れる、すべらかで、ほんのりと温かな肌の温もり。 動く躯に合わせて、サラサラと揺れる柔らかな髪。 左の耳に嵌められた三つのカフス。 腹部をなぞった手に触れた、大きな傷跡。 ギュッと自分を抱きながら、「それ」は実体を手に入れた喜びに震えていた。 もう少し、あとちょっとで目も見えるハズ―――。 「この瞳が開いたら、僕はあのヒトに逢いに行く……」 白い躯を闇の中で耀かせながら「それ」は和えかな声でひとりごち、蕩けるような 笑みを浮かべた。 艶やかな笑みは、たった一人の「あのヒト」に向けられた「それ」の想い。 生まれ落ちたその瞬間から携えていた、たった一つしかない想いの総て。 どこか淫靡さを纏った微笑みが、不意に歪んだ闇に、深みを増した。 声が…聴こえる―――。 『――八戒!』 闇の外から伝えられる声と腕を捕まれる感触に、「それ」はピクリと躯を震わせた。 閉ざされたままの瞳の裏に、どこからともなく映りこむ紅。 敏感な肌に触れる、他人の手の温度。 ああ、これがあのヒトの……。 「なんて熱い手…。その手に抱き締められたなら――。」 得たばかりの躯に初めて伝えられた熱い手の感触に「それ」は甘い息を吐く。 その手に躯を委ねる時を思うだけで、「それ」の中に熱が生まれて、その中心が熱く 猛った。 「…ぁ…あっ……ん…っ」 「それ」は勃ち上がった己の中心に、悪びれることなく手を伸ばす。 軽く握ったモノを上下に擦り、溢れる雫を細い指先で先端の柔らかな肉に塗り広げた。 「あぁ……っ、……ぁ…ぅ……」 朱唇から淫らな喘ぎが零れ落ちる。 サラリとした髪を揺らめかせ、ユラユラと頼りなく躯を揺らしながら、「それ」は歌 うように言葉を綴った。 「この指はあのヒトの指…この愛撫はあのヒトがくれるもの……」 閉じられた瞳の裏を染め続ける紅を想いながら、「それ」は空いている手を己の躯に 這わせて、惜しげもなく声を漏らす。 「はぁ…っん…、…あ…ぁ……」 真白な肌は「それ」がよがる度に、熱に染まって薄紅色に変わっていった。 チラリチラリと覗くピンクの舌が、乾いた唇を舐め濡らして消えていく。 闇の中で、唾液に濡れた唇が、テラテラとした艶を帯びた。 そして「それ」は己の指で、一際色濃くしこった乳首を摘まみ上げる。 「やぁ…ん……、もっ…と………」 指先で尖った乳首を摘まんでは押し潰し、その痛みと快楽に「それ」は淫らがましく 腰を振った。 揺らめく腰に合わせて、自身を擦り上げる手が激しさを増していく。 「ひっ、あっ、あっ、あああ…!」 襲いくる快感にビクビクと躯を痙攣させ、「それ」は闇の中に白い雫を振り撒いた。 初めて行った自慰に、薄い胸を忙しなく上下させ、「それ」は大きく息を吐く。 力の入りきらない躯をしどけなく闇の中に横たわらせ、「それ」が一言言葉を零した。 「……早く、あのヒトが欲しい」 トロトロと欲に蕩けた声が闇に響く。 欲しい、欲しい、欲しい―――。 膨れ上がる想いのままに、「それ」は再び揺らいだ闇へ、細く綺麗な指を伸ばした。 想い慕う「あのヒト」に逢うために、あと少しだけ足りない糧をいち早く得るために。 ユラリユラリと闇が揺らぐ。 何かに怯えるように、躊躇うように、揺れ惑う闇から、その時を待ち焦がれる「それ」 に最後の糧が落ちてきた。 『悟浄…悟浄…悟浄…』 伸ばした指に捕んだものは、痛いほどに悟浄と言うオトコを求めて叫びを上げる熱い 想い。「それ」と同じ躯を持った、八戒と呼ばれる「もう一人の僕」の心の叫び。 「ねえ、八戒。貴方を解放してあげる。だから、僕を受け入れて?」 艶めいた笑みを口元に浮かべて、「それ」は手にした八戒の想いを呑み込んだ。 「ゴジョウ………」 甘やかな声が「それ」の喉から零れ落ちる。 八戒の悟浄へ向ける想いから生まれ、その想いだけを糧に育て上げられた「それ」は たった一つしか存在意義を持ちえない。 「ゴジョウ、ゴジョウ、貴方が欲しい…」 少しずつ少しずつ、閉ざされていた瞳が開く。 闇の中に耀くのは、欲に濡れた翡翠の瞳。 「―――僕は貴方を手に入れます」 だって、僕は、そのために生まれたんだから―――。 色濃く染まった翠の瞳を煌めかせ、艶冶な笑みを浮かべると、「それ」は生まれ育っ た闇の中から姿を消した。 闇の中に封じ隠されていたものが、光の中に現れ出でる。 八戒の中の欲望が、想いのままに暴走し始めるのを、止められる者は誰もいない。 『悟浄…悟浄…悟浄…』 空っぽになった闇の中に、また一つ、八戒の想いが落ちた。 けれど、それを受け止めるものは既にそこには存在しない。 総てが八戒自身に帰っていこうとしていた。 月が光を投げ掛けるぼんやりとした闇の中に、白い霞が凝り人型を作り上げる。 唐突に現れた気配に振り返った八戒は、その秀麗な面に自嘲の笑みを貼り付けた。 声も顔も躯も、寸分も違わぬ二人が向き合い見詰め合う。 「……何だか妙な気分ですね。同じ顔と向き合うなんて」 「ホントですね」 対峙する二人を、ゆらゆらとした月光が包み込む。 それぞれの真実を暴く、長い夜が始まった―――――。 |