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act.1 月の光が生み出すものは、内に秘めた「想い」のかたち。 |
月だけが異様に大きく明るく輝く夜だった。 放たれる白い光に遮られ、星はその姿を消されてしまう。 真の闇の中、ひとつの光球だけがそこに存在し続ける。 そんな夜空を、取り憑かれたかのように見つめ続けている者がいた。 大きく開け放たれた窓の近くに置かれた椅子の上で、虚空に視線を向けたまま彼は 身動き一つとろうとしない。 瞬きさえ惜しむその姿は、まるで彫像のようにさえみえる。 しかし、彼はそんな闇を瞳に映してはいるが、本当の意味では見てはいなかった。 彼が見ているのは…いや目をそらそうとしているのは別のものだった。 「……。」 ふいに口から何かが言葉という形を借りてこぼれ落ちそうになり、八戒は右手で口許 を押さえる。 言ってはならない言葉があった。告げてはならない想いがあった。 二度と同じ過ちを…絶望を感じたくなかったから。 もてあますだけの想いなど、切り捨ててしまえばいいのだ。 これまでと同じように笑い、会話し、互いに一定の距離を保っていく。 それを望みつつも、心のどこかでそれを拒む声がある。 ──失いたくないのなら、手に入れなければいい。── 短絡的な考えだと自分自身をあざ笑いながらも、一歩を踏み出すのが怖くて同じ場所 を堂々めぐりし続けている事も自覚していた。 「馬鹿…みたいですね…。」 軽く目を伏せ、うなだれて自嘲気味に呟けば、ふと背後に誰かの気配を感じる。 まるで今この瞬間から、この世に存在し始めたかのように唐突に。 八戒はのろのろと顔を上げ、背後の存在を確認するかのように振り返る。 そして自嘲めいた笑みを薄く口許に浮かべた。 「…なんだか妙な気分ですね。同じ顔と向き合うなんて。」 『ホントですね。』 そんな笑みを浮かべたまま八戒がそう言えば、彼もまたくすりと笑みを返す。 そこに立っているのは、見知った姿をした者だった。 同じ髪、同じ瞳。同じ…顔。 鏡を見るかのように、なにもかも自分と同じだというのに、その笑みはどこかこの 事態を面白がるような色を含んでいた。 「ええと…まずはお茶でも…しますか?」 『それじゃあ、僕がお茶をいれてきますね。』 沈黙が苦痛として感じられ、自分でも間抜けだと思う内容の会話で切り出せば、 にこりと笑って彼は部屋を出ていく。 「…あ、はい。お願いします。」 浮かしかけた腰を再び椅子の上に落ち着けると、八戒は小さくため息をつく。 いったい自分は何をしているのだろうか。 唐突に現れた同じ姿をした彼を、驚くことなくまして疑いもせず受け入れている事が 自分でも不思議だった。 確かに、どこか頭の中の感覚が鈍っている事は自覚していた。 夢…を見ているのだと思えないこともなかったが、そう結論付けるにはあまりにも リアルなものがあった。 何故なら、カチャカチャ…と微かに陶器が触れあう音が近づいてくるのが聞こえて くるからだった。 『お待たせしました。』 笑みと共にもうひとりの自分は、入れ立ての紅茶を目の前に置いた。 そしてもうひとつのカップを手元に置くと、向かい合わせになるようにして座る。 こくり…と紅茶をおいしそうに飲む彼につられ、八戒もつられるようにしてカップ を手に取り、口許へと運ぶ。 何も考えることなく、八戒はひと口飲む。 とたん、口の中に甘味を帯びた芳香がほわりと広がっていく。 『お味はいかがですか? 僕の特製なんですけど。』 穏やかな笑みと共にそう問われ、八戒はふと我に返る。 どうやら自分の精神世界に深くはまりこんでいた事に気付き、苦笑を微かに交えた 笑みで応える。 「え…ああ。おいしいです。香りもいいし。」 『そうですか?それはよかった。』 自分の応えにクスリと小さく笑う彼の笑みが、どこか意味ありげな色を含んでいる事 に、感覚が鈍っている八戒は気付くことはなかった。 ぼんやりと機械的な動作でお茶を飲み続ける八戒に、もうひとりの彼もまた黙った ままで同じように紅茶を飲み干す。 そしてどれくらい経っただろうか。 それすらも解らないくらい自分の中に沈んでいた八戒は、クスクスと忍び笑いをする 声に、意識を引き戻す。 視線を上げれば、そこには意味深な笑みを浮かべ、尋ねるように見る顔があった。 「あ…の?」 『…ねえ、眠くなってきませんか?』 そう言いながら、指先でティーカップを軽く弾くと片目を閉じて見せる。 その仕草が意味する事に気付いた八戒は、驚いて立ちがあろうとするが、足に力が 入らずそのまま椅子から転げ落ちてしまう。 その拍子に、落ちたカップが派手な音を立てて割れる。 「っつ…!」 『ほら、だんだんボウッとしてきたでしょう?』 くらりと揺らぐ視界をはっきりさせようと首をしきりに振る八戒に、彼は悪戯が成功 した子供のような笑みと口調で話しかける。 『怯えなくてもいいですよ。だって貴方は僕。そして僕は貴方なんだから。』 どこかうっとりするような口調で呟きながら、彼は八戒の前にかがみ込むとその頬に 手を伸ばす。 が、ぱしっという小気味のいい音と共に、その手は八戒によって払われてしまう。 「…触らないでください!」 目まいを起こす頭を支えるかのように、片手で顔の半分を覆いながら、残った目で彼を きつい視線で睨み付ける。 氷のような冷たい視線に動じることなく、少し呆れたような口調で言う。 『気丈ですね。ただ、僕は貴方の中に眠ってる欲望、それを解放してあげようと しているだけなのに。』 そこまで言うと、またもクスクスと彼は楽しそうに笑い出す。 『それに…ほら。もう、起きていられないでしょう?』 「…くっ…。」 八戒は心の中で自分のうかつさをののしるが、今となってはもうどうしようもない。 彼の言う通り、手足に全く力が入らないのだ。 全身がひどくだるく、こうやって身を起こしているのも辛い。 が、それでも最後の抵抗とばかりにきつい眼差しを送り続ける。 「解放…?そんな事、頼んでもいませんよ。」 『ええ、確かに頼まれてはいないですけど?でも、貴方の中はどろどろした 欲望でいっぱいじゃないですか。』 そのままじゃ辛いでしょう?と奇妙に親切めいた口調に、八戒はぎり、と音を立てて 歯を噛みしめる。 「…それが何だって言うんですか。あなたが僕にこんなことをする理由になんて なってませんが。」 鈍りかける思考を懸命に留めようとしながら、八戒は振り絞るように喋り続ける。 そうしていないと、意識を持っていかれそうだった。 『どこまで我慢するんです?』 どこか呆れたような口調で、彼が言う。 『ねえ…僕は貴方なんです。そして、貴方は僕だ。僕は知ってます。貴方の中に あるあの人への欲を。さあ、一緒に解放しましょう…?』 八戒の薄れゆく意識の中で、ねっとりと絡みつくような湿度を持った視線と声が からみつく。 「うっ…。」 ぐらぐらする視界に耐えきれず、小さな苦鳴と共に八戒はそのまま床に倒れ込んだ。 |