武 田 信 虎 ・信 玄 所 用 刀 剣

                                  執筆 法 城 寺


和 泉 守 兼 定


 武田家伝来の刀に、室町後期を代表する美濃関の和泉守兼定の作が二振り残っている。現在は二振りとも愛刀家による個人所有であるが、銘文により武田家伝来品ということがわかる貴重な史料である。

太刀(重要美術品)

銘 「兼定 武田左京大夫信虎所持」
刃長 二尺四寸一分(約73cm)

刀(重要刀剣)

無銘「信虎所持 永正元年三月吉日」の切りつけあり
刃長 二尺一寸九分(約66,4cm)

 戦国時代に入ると、刀剣の需要も前時代に比べ飛躍的に増大する。それに応じるべく、全国各地に刀剣を供給したのが備前長船、豊後高田、そして美濃関の地であった。
 二代兼定は初代の実子。やはり同時代の二代兼元(関の孫六)と共に切磋琢磨、大いに全国にその名を轟かせた。永正元年には「和泉守」という国司の官職名を受領、以来ますます和泉守兼定は戦国武将にとって垂涎の的となる。後に山田浅右衛門により「大業物」に評価付けられた程の斬れ味(これについては「最上大業物」に格上げされたという説もある)に加えて風格もあり、戦国武将の指料として最適であろう。江戸時代を通じては、関の孫六兼元の方が知名度・人気ともに一歩先んじていたところが見受けられるが、これは「孫六」などと縁起の良い通称が覚えやすかったためであろう。刀そのものの出来については勝るとも劣らない。
 昨年の日本美術刀剣保存協会の第46回重要刀剣指定刀に偶然にも「和泉守兼定」があった。「和泉守兼定作」の六字銘。刃長二尺四寸八分。重ね厚く、身幅も広く、実に豪壮であるがそれがまったく嫌味を感じさせない。すべてにおいてバランスがとれているということであろう。戦国武将がこぞって求めた気持ちが窺い知れるようだった。かつて、武田信玄公もこの和泉守兼定を腰にしていたことも、今考えると納得がいく。まさに関を代表する刀工といっても過言ではない。
 しかし、関も、この二代兼定と二代兼元(関の孫六)以降、分業体制による大量生産をし過ぎたために、いわゆる「束刀(たばかたな)」とか「数打ち物」と蔑称される、だた斬れればいいといった実用刀の域をでないものが出回るようになり、こういったものが美濃刀全体の評価を下げてしまったことは残念である(これは、戦国末期には全国的にいえることなのだが)。ただ、一つだけ言っておきたいことは、兼定や兼元以外にも優れた美濃刀工の優れた作も現存しており、これらが江戸時代慶長以降の「新刀」に与えた影響は大きい。また、美濃から各地に移住した刀工が、その地における新刀の祖となったものも非常に多く、名工を数多く輩出した。その割に上記の理由から戦国末期の美濃刀の評価は低く値段も安い。だが、決してそんな風評に惑わされることないように、美濃刀の本質のご理解をいただきたいものである。

参考文献  戦国武将と名刀(体育とスポーツ社)
        刀剣鑑定読本(青雲書院)
        日本刀の研究と鑑賞古刀編(金園社)






来 国 長 (らい くになが)

 塩山市の恵林寺所蔵であり、現在重要文化財に指定されている来国長の太刀がある。武田信玄公の佩刀として、また、数少ない来国長の在銘品として貴重な史料である。

太刀 銘 来国長(重要文化財)

 長さ二尺六寸一分七厘(役79,3cm)反り八分三厘(約2,5p)。重ね厚めに身幅狭め、地鉄は小板目、地沸よくつき、刃文は沸出来の中直刃に足入り、物打ちより上が焼幅広く、帽子はとくに深い(日本刀講座・古刀鑑定編より原文抜粋)。

 来派は鎌倉時代に山城国(現京都府)において、粟田口派と並んで名工の名を欲しいままにした「国行」を祖とする一派である。多少粟田口派より後発だが、共に時代的には日本刀史の先陣をきるといって差し支えなかろう。粟田口派が後鳥羽上皇の後番鍛冶として、禁裏の好みの作風、いわゆる反り深く、切先が小さく、身幅も細く優美・繊細な太刀姿のものが多いのに比べ、来派は鎌倉幕府と結びつき、徐々に勢力をつけ、刀姿も鎌倉武士の好みに応じて、豪壮さ・頑健さを増したものになっているところに特色がある。これは国行・国俊・来国俊という来派を代表する三名工および一門に共通する事であるが(国行の子が国俊。三字銘の来国俊と区別して二字国俊という)、来国俊あたりから特に傾向として顕著にあらわれる。
 来国長は、来国俊の高弟で、元徳年間前後(1329年)を作刀の時期としているので、鎌倉時代末期から南北朝前期の刀工ということになる。三代まであるとされる。建武中興・足利尊氏の室町幕府等の都での騒乱を避け、摂津の中島に移住し、その地で鍛刀したことから「中島来(なかじまらい)」と刀剣界では呼んでいる(現大阪市の中の島付近)。作風は直刃(刃文がほとんど乱れておらず、比較的まっすぐな焼き刃)を得意とし、総体師の来国俊に似る。
 信玄公佩用のこの太刀だが、なるほど鎌倉初期の作柄と比べると、国長としては身幅狭めとはいいながらも、優美というより力強い刀姿である。切先がやや伸びた中切先で、鎌倉初期の小切先、中期の頑丈な猪首切先(身幅に対し切先が伸びず、いかつく、猪の様にみえるところからいう。小切先・中切先の双方にある))とも趣が違っている。後の南北朝時代中期以降には大切先という、切先だけでも二寸も三寸もあるものへと変わっていくのだが、おそらくその過渡期に位置する切先の形状であり二字国俊や来国俊にも猪首切先に交じり見かける形状である(この中切先は時代を鎌倉中期以降に決定する一つの目安でもある)。そこから初代国長に鑑したものだろうか?(二代・三代の作は中切先だがもっと伸びるもの、完全な大切先になるものが多いとされる。また、銘ぶりにも相違があるとされている。なお、切先の形状だが、南北朝時代を過ぎると、また中切先にもどってゆく)
 この重要文化財指定の太刀だが、銘と物打ちから切先にかけての図版はいろんな書籍に記載があるが、今回はじめて刀姿全体をみる事の出来る写真をいただいた。なるほど間違いなく来派の名品であることを鑑て取ることができる。図版ではあるが、来国俊の太刀で、そっくりな刀姿のものがあり、感心することしきりである。目釘穴が三つあるところから、元は二尺八寸以上あったと思うが、鎌倉末期の北条氏の一門か(建武以前摂津は北条氏の支配下にあった)、はたまた室町幕府の政権もまだ安定をみない時期の、南朝方か、北朝方か、どちらにせよ有力な武将の注文打ちであった事はまちがいない。
 なお、この太刀は信玄公所蔵の後、江戸時代にかの柳沢吉保の手により恵林寺に奉納された。いったいその間どこにあり、またどうして柳沢吉保の入手するところとなったのかはまったく詳細不明である。ただ、柳沢家そのものが武田氏の流れを組む甲州武士であることに注目したい。

参考文献  原色武田遺宝集(武田信玄公宝物保存会)
        日本刀講座・古刀鑑定編(雄山閣)
        日本刀の研究と鑑賞・古刀編(金園社)
        戦国武将と名刀(体育とスポーツ出版社)


 なお、今回、宮下帯刀様より、貴重な史料をお分けいただいたことを、ここに御礼申し上げます。



< 刀 剣 豆 知 識 >

五代山田浅右衛門による業物位列中の最高峰である最上大業物刀工

古刀  備前長船秀光、美濃初代兼元、美濃二代兼元(関孫六初代)、備後三原正家(応永)、備前長船元重

新刀  長曾禰興里(虎徹)、多々良長幸、肥前国忠吉、陸奥守忠吉(三代忠吉)、初代助広、山城大掾国包(初代国包)、長曾禰興正、三善長道(初代長道)

後に古刀に、備前長船兼光と和泉守兼定(美濃二代兼定)を追加・補正し、計十五名





備 前 長 船 景 光

 富士山本宮浅間神社に武田信玄公が奉納した備前長船景光の太刀が現存している。重要文化財として作刀当時のままの威容を伝えてくれている。
 永禄十一年(1568年)にはじまる武田軍の駿河侵攻だが、義元亡きとはいえさすが名門、まだまだあなどれぬ兵力を保っていた今川軍との一進一退が続き苦戦を強いられた。が、やはり徐々に今川軍は勢力衰退の一途をたどり、武田軍の侵攻に耐え切ることかなわず、元亀二年頃(1571年)には駿河全域はほぼ武田軍の手中に落ちた。これ以後、武田信玄公の本格的上洛が開始されるのはご存知の通りである。
 この、駿河侵攻の際に成就を祈願して奉納されたのがこの景光の太刀である。


銘:「南無薬師瑠璃光如来」(佩表)、「備前国長船住景光」(佩裏)
刃長:二尺五寸五分(約77,3cm)

 備前長船景光は正安年間の頃(1299年より)を活躍の時期とする。父に名工長光を持つ、いわば長船正系・正統である。この時代は、文永・弘安の二度の蒙古来襲を受け、日本刀に前時代との変化がみられた時期である。すなわち、古備前や三条派・粟田口派等の山城伝にはじまる「優美な太刀姿」、その後の備前福岡一文字らによる、優美な姿に「強さ」を加え「焼頭に高低があり、かつ焼幅広い華麗な乱れ刃」を焼いたものを蒙古襲来前とすると、形状はほぼ同じものを踏襲しながらも刃文はどんなに乱れていても焼幅比較的狭く焼頭を揃えた直刃仕立ての丁子乱れを施したものが襲来後といえる。これは、蒙古軍の集団戦法を経て、焼幅が広いと折れやすくなることの是正を図ったものと思われる。それまでの太刀が弱いと言う事ではない。蒙古襲来前の日本の武士の戦法は一騎打ちであり、それから集団戦になり、より合戦における太刀の消耗が激化したことからの改良といえるのではないかと推察する。
 焼に高低があると、ともすれば焼の深い部分とその周りとに硬度の違いが極端にでることもある。こうした部分に集団戦で幾度も太刀打ちを試みた場合に負担がかかることを危惧してのことであろう。日本刀の刃は、焼を入れることで硬度を高める。硬度が高ければ高いほど裁断力は強いが、その一方で欠けやすいという弱点をも持ち合わす。刃の欠けた部分からひいては刀を折ることにもなりかねない。多少ニュアンスは違うかもしれないが、かみそりがいい例である。やわらかいものであれば見事にスパっと切り裂く反面、横からの力で簡単にパキっと折れてしまう。これと同じことが刀の刃にも言えるのだ。
 こうした、戦闘方法の変化、すなわち時代の要求にいち早く応えたのが山城の来派と備前の長船派である。結果、山城伝においては粟田口派が影を潜め来派が主流となっていき、同じように備前では一文字派を抑えて長船派が隆盛を極めていくことになる。ただ、その要因に粟田口国綱や一文字助真といった各派を代表する名工の鎌倉移住による技術流出があることも否めないが、少なくとも彼らが創始となり、新藤五国光・行光・正宗によって完成された相州伝の、斬れ味における優秀な点を即座に吸収したところに長船の柔軟な適応力を感じる。
 景光も長船の代表鍛冶として、時代・武士の要求に良く応えた。実子である兼光にも受け継がれ、やがて南北朝期の豪壮な大太刀時代への過渡期を担ったともいえるが、むしろ、長光・景光・兼光は、美しさに加え「よく斬れ、折れず、曲がらず」という刀の本質を具備した点、長船物のなかでも時代を超えて頂点ともいえよう。
 古備前や山城物が長船物隆盛以後、むしろ伝家の宝刀としてあるいは奉納品としての儀式・儀礼的な使用に用途が変わっていく中、これら長船物は戦闘方法の変化に耐えうる強度と斬れ味の良さから当時より多くの武将に愛されてきた。古くは楠木正成の愛刀「名物小竜景光」がある。そして信玄公と時代を同じくする上杉謙信公などはこの長光・景光・兼光をことのほか愛されていた。その他にも戦国武将において、長光・景光・兼光を含めた長船の名工の作は一国にも値する名刀として愛用され、または垂涎の的として名声を欲しいままにしてきたのであった。
 これほどの名刀を奉納する信玄公の駿河侵攻に対する意気込みの程が知れてくるようである。これが、もし駿河侵攻のためでなく、上洛を祈願しての奉納であったとしたら歴史は果たして変わっていただろうか?


参考文献 日本刀講座(雄山閣)
       刀剣鑑定読本(青雲書院)
       日本刀鑑定必携(雄山閣)
       甲斐中世史と仏教美術(名著出版)




( つ づ く )

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業 物 位 列

 時代小説・時代劇などで時々、刀を指して「○○の鍛えし業物」という表現が出てくる。いったいこの「業物」とは何のことなのだろうか?
 皆様のなかで「首斬り朝」という劇画をご存知の方もいらっしゃると思う。週間ポストだったか週間現代だったかはっきりとは覚えていないが、江戸時代の公儀御様し御用(こうぎおためしごよう)を仰せつかった山田浅右衛門を題材にした劇画であった。
 山田浅右衛門は実在の人物で数代続いている。が、公儀御様し御用という役職は本来ない。実は首斬り後の屍を用いての試し斬りを行うものだが、さすがに公の役職には出来ない。また、本来斬首を行うのは刑場の同心の役目である。だが、こんな役目は嫌がって誰もやりたがらない。そこで代行する者が必要なのである。山田浅右衛門もそうしたひとりであった。公の職ではないので身分は浪人、しかも、斬首役の便宜を取り計らってやった(?)同心に袖の下を渡して行うのである。えっ、と思う方がほとんどであろう。斬首後の屍胴を使って試し斬りをすると、依頼主(将軍家・大名家などなど)から謝礼がでる。将軍家より、大名家の方が「御様し御用」の腕を借りるという意味合いからかなり包んでいたようだ。同心からすると、その「試し斬り」による試し料の権利も譲ってやったという意識から、袖の下をとっていたのである。役人とは今も昔もこうしたものなのか・・。
 この山田浅右衛門の五代にあたる「吉睦」が柘植平助という人物の求めに応じ、寛政九年(1797年)に出版された「懐宝剣尺」という刀剣書の中で、助言とも言うべき記述を行った。山田家代々に伝わる試し斬りの記録、さらに自身の試し斬りの経験から、数ある刀工(古今東西2万4千工といわれる)の中から特に斬れ味のよい刀工を抽出、さらにそれを「最上大業物・大業物・良業物・業物」の四段階に分けたのがそうである。その後三十三年を経て、追加・補正を加えて、天保元年(1830年)の「古今鍛冶備考」において、最上大業物14名、大業物84名、良業物210名、業物803名の計1,111名を位列した。これが「業物位列」である。やはり、武士たるもの、見てくれの良い刀だけではどこか満足出来ない風潮があったのであろう。
 このすべてを実際に試したとは考えられない。おそらく、古刀は、戦国時代等の実戦での記録・逸話からの判断も多かったと思われるが、その最高峰に位置する最上大業物には備前長船兼光や、美濃二代兼元(孫六)など、なるほどと納得できるものが選ばれている。新刀からは、「今宵の虎徹は血に飢えておる」の台詞で有名な「虎徹(長曾禰興里)」や「肥前国忠吉」などが選ばれている。ちなみに、小生所持の「法城寺正弘」は業物である(自慢か〜)。
 世の中、知らなかった方がよいこともある。時代劇で冒頭の「○○の鍛えし業物」なる台詞が出てくると、業物位列表を取り出し、確認してしまう・・・。その結果、なんと嘘が多いことか。そして、そんなことで時間をつぶしている自分を、つくづく「暇な奴」と思っている次第である・・・。



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