『RiVER』
北郷博之
1
「もうすぐこの風景ともお別れね」
唐突に、槇摩耶子は言った。それには、僕に向かって語りかけたというよりも、むしろ独白に近い響きがあった。
「東京に行くから?」
「違う。知らないの? ここ埋め立てるでしょ」
跳ね返すように言って、胸を張った槇摩耶子を、少女らしい愛嬌に満ち満ちた娘と言う者は、あまりいない。それより強気とか、勝ち気とか、そういった言葉の方がお似合いだし、また、彼女自身も、その方向で評されることを好んでいる節がありありとしている。
今、二人がいるのは、学校帰りの河川敷。卒業式を明日に控えた二月二八日の正午前だ。
暦の上では春も間近で、陽光はおだやか。しかし、水際の風が強かに吹きつけるので、二人は首を縮こまらせて、とぼとぼと石ころの上を歩いていた。
槇摩耶子が、不意に「風景云々」を言い出したのは、そんな状況下でのことだった。
「ほら。あの土手から河原、それから水面までのライン」
と、槇摩耶子は、はるか前方、対岸を指す。肩口までの黒髪が、向かい風に舞った。
「きれいだよね」
と、呟き、
「もったいないよね」
と、大きく息を吐いた。
確かに、海からよほど遠いこのあたりの自然は、まだまだ人の手垢に汚されておらず、槇摩耶子が惜しむ気持ちも、わからないではない。しかし、それにしても、らしくない台詞は、たぶん、これまでの彼女の人生の中で、最も大きな環境の変化を前にしての、心の揺れから発せられたものに違いなかった。
槇摩耶子は、すでに去年のうちに大学を決めてしまい、この四月から東京に行く。
一方の僕は、ほぼ決定的な状況に追い込まれていて、近いうちに予備校の申し込みにでも行こうか、と、いったような、そんな感じだった。
僕は、そっと槇摩耶子の傍らに立つと、彼女と同じものを見つめた。
あくまでさりげなく連れ立っていた頃からすれば、今の二人には、どこか自然な風さえある。
そのことに僕は満足しきっていたし、延いては、二人の帰り道が重なるという偶然を、いつしか、必然と、思いこんでいた。
それは正しかったのか、それとも、間違いだったのか。そんなこと、この時の僕が知る由なんて、もちろん、ありはしなかったのだけれど。
「……寒ぅ」
それまで真摯な様子で、眼差しを遠くにとばしていた槇摩耶子はそう言って、
「行こ、行こ」
と、さっさと一人で土手を登り始めた。
今頃の高校生にしては丈の長いスカートからのぞいた、びっくりするぐらい白い脚を、僕は見ていた。
ひかがみからふくらはぎにかけた、なめらかな線。そして、三つ折りのソックス。
それも、ひとつの槇摩耶子らしさだった。
2
僕と槇摩耶子の出会いは、去年の四月のこと。
どちらかが転校生だったとかいうわけではない。一学年が一〇クラス、総勢四〇〇名余という僕たちの学校では、顔と名前の一致しない同窓など、ダース単位で存在する。そのうちの一人と、たまたまクラスが一緒になったのが、去年の四月ということだ。
一度目の席替えで、僕と槇摩耶子の席が隣同士になった。
五月の中頃のこと。正確な日付は憶えていない。午前だったか、午後だったかも、憶えていない。確か、古文の授業だったと思うけど、あまり自信はない。
ピンぼけの写真のようにあいまいな記憶の中で、しかし、一ヶ所だけ、焦点を外していない部分がある。
それは、なんとか美形という言葉に引っかかるぐらいの容姿の、色の白さがちょいと眼を引くぐらいの、うるさ型の少女が、僕の中にほのかだけど、確固たるなにかを植え付けた、その瞬間のこと。
僕がノートをとっていると、無遠慮にのぞき込んできて、
「瀬尾君、字がきれいね」
と、槇摩耶子は言った。白い顔と、素直に伸びた髪が、僕の真横にいた。
「男の子じゃないみたい」
そんなことを言う槇摩耶子の字は、お世辞にもきれいとは言いかねた。いや、きれいなんて言ってしまうと、それは嫌みになってしまう。
女子というものは、すべからく字のうまいものだという勝手な先入観を持っていた僕にとって、それだけでも鮮烈な槇摩耶子だった。
3
三年という月日は、短いようでいて長く、長いようでいて短かった。そんな言葉を、嫌でも実感させられる日――今日は、そんな日だ。
今、壇上では、ちょうど我がクラスの出席番号一番が、卒業証書を受け取っている。人数がやたらと多いこの学校では、卒業生全員に証書を手渡しするというようなことはせず、それぞれのクラスの代表一名を決めて、その彼だか、彼女だかに、一括して渡すことになっている。風情がないことこの上ないが、遠大にかかるであろう待ち時間のことを考えると、それも仕方のないことかもしれない。
暖房が間に合わず、薄ら寒い式場のあちこちでは、女子と思われる啜りがしきりに聞こえていた。隣をチラと見ると、強面のクラスメイトが、しきりに瞬きを繰り返していた。
そして、なんの滞りもなく、卒業式は終わった。ある種の呆気なさすら、そこにはあり、意外と言えば、意外だった。中学の時の卒業式では、泣けて、泣けて、しかたなかったというのに。
教室に戻った僕は、他のクラスメイトと共に、担任から卒業証書をもらった。僕らのクラスの担任は、長池先生という女性教諭で、さすがに、ここでは、以下省略、というようなことはやらない。
全員に一言ずつかけながらだったから、少し、時間がかかった。それから、長池先生は、おそらく最後になるであろう訓辞を、ゆっくりとした口調で始めた。長池先生の眼は、もう、真っ赤だった。
いつしか、式場の再現が、そこで起こっていた。部屋いっぱいの啜りは、何故か、僕を、とても嫌な気持ちにさせた。
僕の眼差しは、知らずに槇摩耶子のもとへと走っていた。彼女が、この場所で、どんな態度を示しているのかを確かめたかったのだ。
槇摩耶子の眼も、また、真っ赤だった。白い肌の彼女が、赤い眼をしている様は、どこか、ウサギを連想させもした。
そのまま見ていると、槇摩耶子はブレザーのポケットから薄いブルーのハンカチを取り出し、そっと目尻の当たりを拭った。布の一部分の色調が濃く変わったのが、はっきりと僕の眼に映った。
槇摩耶子だけではなかった。みんながみんな、それぞれの態度で、この場の雰囲気に染まっていた。文句のつけようもないほどの「卒業式」が、そこにはあった。
その中で、僕は独り、不遜だった。
不穏に沸き立つ心は、ひたすら問いかけてくる。
何故、泣けるのだろう?
何故、泣けないのだろう?
その理由を、僕の中に見出したくない僕は、ひたすら黙殺し、そして、一刻も早い、このシーンの切り替わりを、じっと願っていた。
ただ、じっと願っていた。
4
三月中旬、大安。
槇摩耶子が、東京に旅立つ日が来た。
「じゃあ、見送ろうか」
この一言を言い出せなかった僕に、救いの手をさしのべてくれたのは、同じクラスの横山さんという女の子だった。彼女とは、予備校の申し込み受付でばったり出会したのをきっかけに、ちょくちょくと連絡を取り合うようになった。
よくよく考えてみると、僕と横山さんは、高校三年間、ずっと同じクラスだったのだが、格別、親しく語り合った記憶はない。それが、ほんの些細なことで、「お仲間」になってしまうのだから、不思議といえば、不思議なことだった。
それは、僕らが明るく「暗い未来」について愚痴りあっていた時のことだ。
「摩耶子みたいに、すぱっと決まっちゃえば、楽だったのにねぇ」
そう言った横山さんの語尾を、逃さずに僕は捕らえて、問いかけたものだ。
「そういえば、槇さんは、もう東京に行ったの?」
「うんにゃ。次の木曜日。しょうがないから、見送りに行ってやるつもりだけど。瀬尾君も来ない?」
少し躊躇するふりをしながら、内心では喜躍していた僕は、行ってみようか、などと、白々しくも横山さんに告げた。
そして、新幹線のホーム。
見送りは多くて、中には見知った男子の顔も幾つかあったので、男子が自分一人だけだったら嫌だな、と、密かに思っていた僕は、ほっとした。
横山さんや、他の知人ととりとめのない雑談をしながら、僕は、何回も、ハーフコートのポケットをさすっていた。中には、考えあぐねにあぐねて決めたプレゼントが入っている。槇摩耶子に贈るためのプレゼントだ。
僕が選んだのは、小さなナイフだった。刃物には持ち主を守る、といったような意味合いがある――誰かからそんなことを聞いたような憶えがあったからだ。例えば、よくあるボールペンなどよりも、ずっと洒落な選択だ、と、内心では得意になっている僕だった。
ところが、その日の主役たる槇摩耶子は、なかなか姿を見せなかった。三〇分ほど前から集まって、ワイワイとやっていた僕らも、新幹線の到着時刻の五分前になると、さすがに焦ってきて、横山さんが槇摩耶子の自宅に電話を入れたりもした。
「ゴメン、ゴメン。みんな、来てくれたんだ」
やがて、屈託の微塵も感じられない大声と共に槇摩耶子は登場した。ジーンズにスタジャンという格好が、いかにもだと思った。
「お? 瀬尾君も、来てくれたんだねぇ」
愛想笑いを浮かべながら、ポケットに手を入れた僕の耳に、横山さんの声が入り込んできた。
「全く、遅いのよ。さては、彼と会ってたな、こら」
それに対する槇摩耶子の返事は、エヘヘヘ、と、笑うのみだった。
僕は、ポケットに入れた手を、何気ない素振りで抜いた。
掌の中には、何もない。
5
なにかが確実に終わり、虚ろな風の残るホームで、僕は、呆然とした時を過ごしていた。そんな僕の気持ちなどお構いなしに、横山さんが明るい声で提案した。
「ねえ、これから、みんなでどっか行こうよ」
皆が口々に応諾する中で、僕は、さも残念そうに言った。
「あっ、ごめん。僕は、ちょっと……」
例えば、あの槇摩耶子のように、お祭りごとにおいて必要不可欠な存在というわけではない僕のこと、この申し出は素直に受け入れられ、首尾よく、一団から離れることができた。去り際まで、笑顔を絶やさずにいたのは、せめてもの虚勢だったろう。
僕は、駆け足寸前の足取りで、駅に隣接したバス・ターミナルに入ったが、入るなり、ハッと足を止め、慌てて、用もない便所の中へと突進した。
バスを待つ人の列の中に、見知った顔を見出したのだ。中学の時の同窓生で、高校こそ別々になったけれども、僕と彼とは相当に親しかった。顔を会わせれば、きっと、お互いの近況など、話さなくてはならないだろう。微笑を浮かべなければならないのだろう。
なけなしの演技力を使い果たしてしまった今の僕には、もうなにを演ずることもできないというのに。
どうしよう。
これっぽっちも冷静じゃない僕の頭は、ただ、同じ言葉を繰り返すばかり。
どうしよう。
今だけは、誰であっても、僕の側にいて欲しくない。僕は、独りでいたい……。
「……歩くか」
思わず呟いてしまって、それが意外に新鮮な響きを持っていることに、僕は驚いた。
わるくない。そうしよう。
6
暦の上のことだけではなく、確実に春は近い。そう思わせるような日差しの下を、僕は歩いていた。
額には、うっすらと汗がにじんでいる。もう、二時間ぐらい、ずっと歩きっぱなしだろうか。さすがに苦しかったが、それでも歩調を緩めようとは思わなかった。
ここで立ち止まったら、なにかに負ける気がする。そのなにかは、僕の中でも漠として、明確には言い表せない。あるいは槇摩耶子であったかもしれないし、あるいはもっと他のものであったかもしれない。けれど、だから、歩くことはやめられなかった。
意地になって歩いていた僕だが、ある場所で、不覚にも、と言うより、そんな言葉すら思い浮かばないほど自然に、歩みを止めてしまっていた。
そこは、僕らがいつも隣を歩いていた河川に架かった橋の、その上だった。
いつか見た景色が、僕の知らないうちになくなっていた。代わりに、うずたかく盛られた土砂と、それをせっせと川面に投げ込んでいる鮮やかな青緑のショベルカーとが、そこにいた。
吹き上げる風が、見る間に僕の額の汗を飛ばしていく。眼下には、青黒い水面が、ゆらゆらと揺らめいている。眺めていると、吸い込まれそうな気持ちになり、僕は、つと身を引いた。
ふと、思った。ここに、あのナイフを捨てるなんて、どうだろう?
途端に高揚し始めた身体を、押さえ込むように僕は、大きく息を吸い、吐いた。ポケットの中に手を突っ込み、紙包みを、強く、強く、握りしめた。
「…………」
いつか、我知らずに、苦笑いをしていた。あるいは、嘲笑だったかもしれない。カッコつけすぎだよって。そんな度胸もないくせにって。
ナイフを捨てるのは、やっぱり、やめにした。きっと後悔するに決まっている僕を、誰よりも僕が知っているから。
幾ばくかの時を経たせて、僕は、また歩きはじめた。
そのすぐ横を、背の高いバスが追い越していった。
終