「豊田くんの小説作法・ウルトラ初級編」
浅川こうすけ


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 肩をおされた脇坂達彦が 抵抗もできずにうしろへよろけた。
 体重をうけた金網がしなり、ギシギシと鳴いた。
「貸してくれと頼んでるだけさ」
 脇坂の肩を押した青年が、一歩ふみだしてきた。詰襟の学生服をおおきく開いており、黒いシャツに包まれた肉体を誇示している。服ごしにでもわかる筋肉のつきかたを見れば、なにか武道をやっていると知れる。
 彼のうしろでは、これも詰襟学生服の青年たちが五人ほど、扇型にひろがっていた。
「貸してくれといってるだけさ。ちゃんと返すさ」
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「貸してくれといってるだけさ。ちゃんと返すさ」
 豊田は、たったいまキーボードに打ちこんだ文字を読みかえしてみた。
 そして、イスに座ったまま、上半身をひねってうしろをむく。
 八畳間の洋室は当然フローリングであり、絨毯もなにもしかれていない。暖房をつけていない室内ではさぞ冷たいだろう床に、水色のスーツを身につけた人物が座っていた。
 豊田は、まばたきを二回してから、
「一区切りついたよ。で、なんの用なんだい、菊地」
 菊地と呼ばれた人物が、仏頂面のまま前髪をかきあげて、
「お前に影響うけて小説を書いてみたんだが、だれもおもしろいといわない。ちょっと読んでみてくれ」
 と、おもむろにフロッピーを投げてよこしてきた。
 菊地という人間のこういった態度に、はじめはビックリしたが、一年近くもつきあっていれば、自然と馴れてしまう。
「いつの間に書いたんだい?」
 豊田はフロッピーをパソコンのスリットにさしこんだ。たったひとつだけあるテキストファイルをひらく。
「昨日だ」
 菊地の即答であった。いつも仏頂面なのだが、今日はさらに苦虫を噛み潰しているような顔だ。
「で、今日、いっしょの講義をうけてるやつに読んでもらったんだが、おおむね不評だった。なぜだか教えてくれ」
 豊田は、まあ待てよ、といって、ディスプレイに表示された文章を目で追っていった。

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「ビスケットエンジェル」


 西村敏明は二十歳である。現在、海鳴大学ニ回生だ。なんのとりえもない男だ。メガネをかけている。ある朝、大学にむかう途中、偶然とおりかかった女性に助けを求められた。
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 そこまで読んで、豊田は腕ぐみしたままうなってしまった。イスを回転させて、客人の顔とむかいあう。
 菊地がまた前髪をかきあげた。少しきざなそのしぐさは、しかしまったく嫌味になっていなかった。
 美少年といってもつうじる、その面差しのせいだろうか。顔は卵型の輪郭を維持していており、肌はすけるように白い。すっとのびた鼻梁は、天工が技の粋を結集してつくったもののようだ。
 これで常に仏頂面でなければ、もてにもてて、一ヶ月前のバレンタインデーなど、持ちきれないほどのチョコをもらったに違いない。
 しかし、美形だからといって、はじめて挑戦する小説で、そんなにうまく書けるはずもない。いま読んだ個所だけについていえば、自己紹介とあらすじをたしたものにすぎない。
 いようかどうしようか、数秒とまどった後、豊田は口をひらいた。
「小説を書くときは、読者の立場になって考えたほうがいいと思うよ」
「どういうことだ?」
 菊池が眉間に皺をよせて、たずねてきた。
 豊田はイスから立ちあがって、デスクにもたれかかった。
「読者が、キャラクターをイメージしやすいように書かなくちゃいけないってことだよ。菊地の書いてきたのをニ三行読んでみたが、これじゃあまったくイメージが頭に定着しないよ」
「そんなことないだろ。西村敏明は二十歳で、海鳴大学ニ回生で、なんのとりえもない男だと、はっきり書いたぞ」
「書けばいいってもんじゃないよ。いまの書き方だと履歴書をつきつけられてるようなもので、西村敏明というキャラクターがまったく生きてないんだ」
「――そうなのか?」
「そうなの。普通、履歴書を見せられておもしろいとは思わないだろ」
「じゃあ、きみならどう書く?」
「うーん、そうだなあ。基本的なことだけど、キャラクターに動きをつけるよ」
 豊田はふたたびイスに座ると、パソコンのディスプレイとむかいあった。ちょっと考えてから、リズムにのってキーをたたきだす。
「書けた。いまプリントアウトするよ」
 プリンターが吐きだしてきた紙を、ふりかえって菊地の手にわたす。

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 心地よい弾力を味わい、西村敏明は尻餅をついた。
 手をはなれた鞄が、石畳をガリガリとすべる。白い筋のついた鞄をさげて講義をうければ、またぞろ冷笑をあびせられるだろう。
 黒縁メガネのずれをなおしながら顔をあげた西村は、しかし大学の仲間のことなど、頭から吹き飛ばしてしまった。
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 菊池が仏頂面のまま、ちらりと視線を流してきた。
「たしかによくなってるな」
「だろ。書くときのポイントはわかるかい?」
「漠然とは、な。オレは『なんのとりえもない男』と書いたが、おまえはそんなことチラリとも書いてない。だが、『なんのとりえもない男』だということが、よくわかる」
「そうそう。こういうのを『描写』っていうんだよ。菊池が書いてきたのは『説明』でしかないんだ」
 菊地はうなずいて、手に持つプリンタ用紙を裏返した。裏にも、文字がびっしりとプリントされている。
「過去を背負ったプリンタ用紙、かよ。ケチだな」
「片面だけ使うなんてもったいないよ。公募に投稿するような原稿じゃないかぎり、両面は使わなきゃ。さっ、話を元に戻すよ」
 豊田は菊地の手からプリンタ用紙を奪い取り、表をむけた。
「たとえば、『メガネをかけている』では説明でしかないよ。あくまで『黒縁メガネのずれをなおしながら云々』と描写するのが基本。わかるかい?」
「ああ、わかりかけてきた。オレが書いてきたものは、はじめから終わりまで、すべて説明でしかないな」
「そうだね。ほとんどあらすじだよ」
「なあ、ものは相談だが」
「なんだい?」
「ちょっとパソコン貸してくれないか。いまここで修正したい」


 豊田は寝転がって、菊地の背中をぼんやり眺めた。
 菊池がキーを叩きはじめて、一時間が経過していた。
 豊田はそのあいだ、プリントアウトした「ビスケットエンジェル」を読んでいたのだが、あまりの退屈さに三十分ほど、うとうとしていたようだ。
 菊地の小説はストーリーは悪くないのだが、いかんせんすべて説明書きになってしまっている。はっきりいって退屈だった。菊地の書いたものでなければ、一行目で読むのをやめてしまっていただろう。
「そういえば」
 豊田は上半身をおきあがらせ、
「明日はホワイトデーだね」
「なんだ。やぶからぼうに」
 菊池がコンピューターからフロッピーをぬきだした。こんな短時間にすべてを修正できるわけがないのだ。きっと忘れないうちに行為を反復して、自分の実にしようとしたのだろう。
 豊田は菊地の仏頂面を見ながら、
「やぶからぼうってわけじゃないよ。『ビスケットエンジェル』がバレンタインデーの話なんだから、ね」
「そういやそうか」
 菊池がジャケットの内ポケットにフロッピーをしまいながら、ドアへと歩いていった。
「なんだ、もう帰るのかい? もっとゆっくりしていきなよ」
「せっかくだが、帰ってもっと修正したいんだ。また来るよ。邪魔したな」
 ドアをあけ、部屋から片足をだした菊池が、ふとふりかえり、
「いまさらこんなこというのはなんだが、おいしかったか?」
「――おいしかったよ、手作りチョコをもらったのははじめてだし」
「じゃあ、明日のお返しは期待していいってことだな」
 そういってドアをくぐった菊地の頬に、ほんの少しだけ朱がさしていたのは気のせいだろうか。
 しかし、ボーイッシュな彼女が刹那に浮かべたほほえみは、夢でも幻でもなかった。



(終)


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