白雪
楠本 耀


              一

 カーン、カーン、カーンと木刀の打ち合う甲高い音が、道場に響き渡る。
 本所林町の長江道場には剣を学ぶ者の活気が満ちあふれ、威勢の良い掛け声が飛び交っていた。
 この道場にくる者の大半は、道場主である長江長左衛門と既知の浪人であり、あとは付近の町人であったり、近くの子供達だった。長江の歳は三十を過ぎたくらいだろうか。いかにも剣客然とした堂々たる体格を持ち、凄腕であろう雰囲気を漂わせてはいたが、これでいて中々の学問の出来た能書家だった。
 その為か、道場と同じくして開いている寺子屋の評判もよく、子供にも好かれているようだった。
「どうした、相良っ! 何をサボっとるか!」
 縁側でうつらうつらとしていた相良藤次郎は、長江が放り投げてきた赤樫の木刀をどうにか受け取め、目玉だけを動かして長江を睨んだ。
 そろそろ今日の稽古を終えるのであろう。
 今日は珍しいことに、長江の相手をする既知の浪人者達の姿が見えない。そう言うことは、以前に米屋の手代が大怪我で運び込まれた時以来の事だった。
 残る侍は、元服したての近所の若者が数人と藤次郎しかいない。その中でとりあえず一番腕のたつ藤次郎と稽古をつけようと言うのだ。
 藤次郎は愛用の木刀を持ち替えると、紺袴の尻を払いながら面倒臭そうに立ち上がった。そして、身体を少し半身にして木刀を正眼に構えた。その動きは僅かにだがぎこちない。
 今まで何度か長江とやりあったが、なかなか一本を取れずにいる。やはり、長江がかなりの剣客であるのと‥‥
「いくぞ」
 長江は正眼に木刀を構えると、スッと右足を一歩前に踏み出した。
 正面からの鋭い上段斬り。
 上段からの振りを受け止めるのは、かなりの力がいる。だから、藤次郎はそれを一歩下がってかわし、胴をなぎ払うように木刀を振るった。
 が、カツーンという音を立てて、長江の木刀にその一撃が受け止められる。
 藤次郎はすぐさま距離を取り、木刀を下段に構えてゆっくりと横に移動して間合いをはかった。
 長江の動きは、藤次郎の読み通りだ。
 今日こそは、一本取れるかも知れない。
 そう思うと藤次郎はタッと一歩踏み込んで鋭い突きを放った。それに反応して、長江の木刀が振るわれる。が、藤次郎は切っ先を途中で止めると、腕を狙って振り下ろした。
 今度こそ決まる。そう思ったとき、まるで狙い澄ましたかのような動きで、長江の木刀が割り込んだ。次の瞬間には、長江は手首を捻りながら木刀を逆袈裟に振り上げた。
 藤次郎はタンッと床を蹴って、その動きをかわす。そこまでは藤次郎も対応は出来る動き‥‥‥‥のはずだった。
 気付いたときには、藤次郎の赤樫の木刀が、長江の一振りによって宙を舞っていた。長江の動きは、藤次郎の身体を狙ったものではなく、最初から木刀を狙ってのものだったのだ。さすがにそこまでは見切れず、木刀を持ち上げられた勢いで藤次郎はドウッと床に倒れていた。
 やはり経験の差か‥‥
 藤次郎は相変わらずではあったが、その事を思い知らされた。
 長江は「止め」を表すように、木刀の切っ先を藤次郎の顔に突きつけた。
「‥‥参りました」
 藤次郎は降参の意を示して起き上がった。
「まだまだ、詰めが甘いな」
 長江は木刀を肩に担ぐと肩眉を上げてそう言った。何か引っ掛かることがあるようだったが、それが何なのか藤次郎には解らなかった。
「さすがに、師匠には勝てませんよ」
 謙遜ではなく、藤次郎は本当にそう思っていた。フッと息を大きく吐くと、長江に一礼をして道場の端へと向かった。
「よし、今日はここまでっ!」
 長江は道場内を見回し、声を張り上げた。
 それを聞いて、近所の子供たちがワッと道場の隅に置いた自分の風呂敷包みまで駆け出す。
 しばらくしたら、子供たちの大半はこの道場の場所を使った寺子屋で習字などを習う。だが、子供たちが一番楽しみにしているのは、途中で長江の妻が差し入れるおやつだった。
 長江自身の子供の受けもよく、道場には多くの子供が通ってくる。
 少しでも退散するのが遅れたら、長江はしばしば藤次郎に手伝いを頼むようになっていた。子供が嫌いではないので、藤次郎はそれを引き受けていたが、今日ばかりは早く家に帰らねばならなかったので、子供たちの喧騒の中を、足早に道場を後にした。


              二

 相良藤次郎は御目付衆、相良家の三男坊である。
 病弱だった父が七年前に他界してからは、兄の相良新右ェ門忠輝が家督を継ぎ家内を切り盛りしているといった状況だった。
 相良家は先日まで旗本として井佐藩の藩内に千二百石を与えられていた。それ以前は、井佐藩の剣術指南役として大坂から同伴した侍であったのだが、四十年近く昔、藩主と共に江戸に上がった際、先々代当主相良新右ェ門和久が浅草からの帰りに押し込み強盗と出くわし、これを討つという事があった。この事を聞きつけた時の将軍徳川家綱によって、井佐野島家より将軍家に召し抱えられる。
 そして、近年、当代当主忠輝の政治的手腕から御目付衆を仰せつかることになったのだ。
 そう言った背景もあるからか、三男の藤次郎が仕官もせずにブラブラとしているのを忠輝は快く思っていなかったし、誰よりも心配した。
 藤次郎も、兄が実際何を心配しているかは良く解っていたが、その兄の言葉には今すぐは従おうとは思わなかった。
「只今戻りました」
 藤次郎は屋敷に帰ると、すぐさま兄の居る部屋に向かった。
 今日は、いつもは夜にしか帰らない忠輝が、珍しく昼に屋敷に戻っている。
 御目付衆になってからと言うもの、藤次郎は忠輝とまともに話をした記憶はあまりなかった。
 廊下で何人かの兄の家来とすれ違ったが、藤次郎を見ると皆一様に笑顔で会釈をしていた。
 これは何かあるに違いない。
 藤次郎は、そう直感した。
「兄上、入ります」
 藤次郎は、兄のいる部屋の前まで来ると、そう断って中に入った。
 中には忠輝と、古くから仕えている尾野十郎が歓談していた。どちらも、いつになく上機嫌だった。
「おぉ、藤次郎。よく戻った」
 忠輝は藤次郎の姿を見ると、満面の笑みを浮かべながらそう言った。
 兄が笑っているのは最近では珍しい。
 徳川幕府が起きてから百年近く、天下泰平が続くあまり、下級武士ならいざ知らず将軍に仕える身分の旗本でさえ腐敗が広まっている。つまり行き過ぎた賄賂や役職を悪用した不正、抜け荷の片棒。多少の不正ならともかくも、それが旗本達にも蔓延している現状を、御目付衆の中でも監視、監査の任を負っている忠輝は許せなかった。
 悪を許さぬ姿勢を貫く忠輝の取り締まりは厳しく、そして些細な事からその不正を見抜くために『鬼の目付』として知られていた。
 だから、決して相手に弱みを見せぬために、いつも何か不機嫌な表情を浮かべていたのだ。
 やはり、何かある。
 藤次郎は兄の表情から確信のようなものを得、わざと不機嫌な顔をして兄の前に座った。
 尾野が席を外すのを待ってから、藤次郎は口を開いた。
「兄上、御用件の向きは何事で?」
「‥‥藤次郎、その顔は私に対するあてつけか?」
 忠輝はいつもの不機嫌そうな表情を浮かべて、藤次郎を睨み付けた。すると、藤次郎は済ました顔で言った。
「いえいえ、とんでもありません」
 忠輝は少々面食らった様子を見せたが、これくらいのことでたじろぐのは威厳を無くしかねないので無表情を装った。そして、少し咳払いをすると口を開いた。
「此奴め‥‥、まぁ良い。今日、お前を呼んだのは他でもない。実はな‥‥」
「私に仕官の誘いがあったとか?」
 半ば予想できたことだったので、藤次郎は忠輝の言葉を遮るように言った。
「っぐ‥‥」
 今度ばかりは、さすがの忠輝も言葉を失った。だが、さすがに『鬼の目付』と呼ばれるだけあってか、すぐにもとの表情に戻った。
「まぁ‥‥そう言うことだ。‥‥それで、だ。仕官の誘いをしてきたのが紀州の徳川家でな」
「紀伊藩ですか?」
 紀州徳川家。つまり御三家の一つである。
 そのような所から仕官の誘いが来るのは滅多にあるものではないし、何より忠輝も鼻が高い。だが、藤次郎には紀州徳川家と繋がるようなものは何もないはずだ。となれば‥‥。
「兄上‥‥?」
 藤次郎は忠輝を上目遣いに見つめた。
 ひょっとしたら、兄が人脈を頼って取り付けたものかもしれないと勘ぐったからだ。
 だが、忠輝はその事には首を横に振って否定した。
「実はな。お前が通っていた柾道場の柾九条ノ新殿の推薦でな‥‥」
 柾九条ノ新は三年前までこの江戸で剣術道場を開いていた無静流の剣客である。相良家の屋敷から近いこともあって、藤次郎は幼少の時から剣を学んでいた。三年前、柾は道場を突然たたみ、西国に修業の旅に出ていたはず。
 その事を思い出し、藤次郎は半ば納得し、半ば疑問に感じていた。そして、遠慮することなくその疑問を口にした。
「何故、私なのでしょうか? 柾先生は何と?」
 藤次郎は少々訝しみながら、そう尋ねた。柾は自分よりも腕の立つ者を何人か知っているはずなのに、何故自分を選んだのか? その理由を知りたかったからだ。
「さあ、な。そこまでわしも聞いてはないが、それだけ九条ノ新殿がお前の腕を買っているということだろう」
 忠輝は、藤次郎の視線を真正面から受け止めて言った。
「‥‥‥‥」
 もし、そうならば藤次郎にとっても、相良家にとっても名誉なことだ。これを断る理由もない。
 だが‥‥。
「‥‥兄上。しばらく時間をいただけないでしょうか?」
 藤次郎は拳を堅く握りしめながら、そう言った。
 決断するのを躊躇しているのがありありと見えた。
「政史郎のことか‥‥」
 藤次郎は忠輝のその言葉に身体をビクリッと引きつらせた。
 相良政史郎。
 相良家の次男、だった。
 そう、次男だったのだ。政史郎は。
「いつまでも、自分を責めるな、藤次郎。政史郎の死は奴自身の過ちから起きたものだ」
 忠輝はゆっくりと、言葉を噛みしめるように言った。
 それは、七年前に起きた出来事だった。


              三

 その日は、年一番の冷え込みで、江戸の町がどこまでも白く染められていた。
 夜に入ってからは雪の降りは止み、空には月が出るまでになっていた。
 浅草からの帰りだった藤次郎と政史郎は、少々酒が入っていたこともあって夜の江戸の町をブラブラと歩いていた。
 通りにならぶ店の大半は、もう閉めている方が多くなっていたが、それでも飲み屋や料亭には明りが灯り、通りには人の姿がチラホラと見えた。
「藤次郎よぉ、柾先生から免許皆伝を許されたそうではないか」
 政史郎は藤次郎の肩に腕をやりながら言った。兄弟、と言ってもまるで生き写しの様に二人の姿形は良く似ていた。双子、と呼ばれるものである。
 本来、双子ならば片方は捨てられ、その後拾い子として育てられるという風習があったが、藤次郎が生まれたのは日が変わってからのことであったので、ごく普通の兄弟として育てられた。
「政史郎。そういうお前はどうなんだ? 旗本の家に生まれながら柳生新陰流を学ばず、念流を学んでいるくらいだからな」
 政史郎は、藤次郎から身を離すと睨み付けた。
「お前もだろうが。だがな、俺は兄者とは違う。俺自身の剣の道を極めようとしている」
 フンッと胸を反って、政史郎は言った。
 上の兄の忠輝は、柳生新陰流を修めた剣客でもある。その事を言っているのだ。
 家の者にはまだ報告していないが、政史郎も念流の免許皆伝を授かることが決まっていた。どちらもかなりの剣の腕をもっている事は誰の目にも明らかだった。
 そして、二人はその事を決して自慢しないところが同じだった。
 性格がまるで反対と思われてはいるが、それでいて共通するものも多い。
 藤次郎と政史郎は、そんな双子だった。
「そう言うと思ったよ」
 藤次郎はやれやれと言ったふうに首をふると、ともすれば店の軒先の柱にぶつかりそうになる政史郎の襟元を掴んで引き寄せた。双子なのにこうも酒に対する強さが違うものか。半ば呆れながらも、政史郎に肩を貸しながら道を歩いていた。
 二人とも元服して一年にも満たない。
 だが、元服してからと言うもの、上の兄の忠輝は二人のすることに一切関与しようとはしなかった。それは、元服したのであるから大人として扱うと言った意志もあったが、何より二人のことは二人に任せるといった信頼があったからだ。
「‥‥うん? 藤次郎。悪ぃ、ちょっと」
 どこかわからないが橋の近くに来たときだった。政史郎がそう言って藤次郎の肩から手を放し、河原に向かった。
「早くしろよ」
 藤次郎は仕方ないなと言った表情で、提灯を軽く振って、政史郎を見送った。
 まるで、俺が兄ではないか。藤次郎は思わず苦笑いを浮かべた。
 藤次郎は橋の欄干にもたれ掛かると、空を見上げた。
 丸い月が夜空に白く浮かび上がっている。どこまでも深い夜空に、大きく月だけが輝いていた。
「‥‥‥‥」
 どこからか人の話し声が聞こえた気がした。
 藤次郎の耳は常人のそれより良く聞こえる。だから、遠くの音や声を拾うこともあるから気に留めようとしなかった。
「‥‥‥‥かっ!」
 先程より大きな声が、耳に入った。声がした場所は近いのかもしれない。
 そう思ったとき、ギリンッ!と刀と刀の打ち合う音が耳に入った。
 ただ事ではない。
 だが、そうだとしても、わざわざ自分が首を突っ込んで行くことでもない。他人の喧嘩に割り込んでいくのは莫迦のすることだからだ。
 今度は、すぐ足下から刀の打ち合う音と、誰かの断末魔が聞こえた。
「‥‥政史郎!」
 河原の方には政史郎が用を足しに降りている。
 まさか。
 そう思うと、藤次郎は柄に手を掛けて土手を駆け降りた。
「政史郎っ!」
 提灯を巡らせて政史郎の姿を探そうとする。その時、藤次郎は空を何かが切って飛んでくるのを感じ、身を反らした。
 提灯の真ん中を小柄が貫き、藤次郎の頬をかすめた。思わず提灯を手放すと湿った地面のせいか火が消え、あたりは闇に包まれた。
 月の明りだけがその場を照らす。だが、何も見えないのと大差なかった。
 その月明かりがフッと消えた。雲が月にかかったのだ。これで、まったくの闇と変わらなくなる。
 誰かが斬りかかってくる気配を感じて、藤次郎は一歩下がった。眼前を切っ先が通りすぎる。
 藤次郎は刀を鞘から抜くと、上段から斬り込んだ。確かな手応えが、刀から腕に伝わってくる。嫌な、感触だった。
 斬り込んだ勢いに乗せて刀を引き抜くと、男の身体が前のめりに倒れ込んだ。
 雲が切れ、再び月明かりが差し込んだとき、藤次郎は決して見たくなかった光景を目にした。
「政‥‥史郎‥‥?」
 数間先に政史郎の背中が見えた。そして、その背中からは刀の切っ先がのぞき、それが月の光を反射して青白く光っていた。黒く、光を放っていない部分は間違いなく、血。
「政史郎ぉっ!」
 藤次郎は叫びながら、政史郎を貫いた相手に斬りかかる。だが、その男は刀を政史郎の身体から抜くと後ろに飛び退り、藤次郎と距離をとった。
「‥‥郎? ‥‥‥‥ではないのか?」
 何事かを呟いているようだったが、藤次郎は構うことなく斬りかかろうとした。が、残り雪に足を取られてしまい、それを果たすことが出来なかった。
 そして、藤次郎が体勢を立て直している間に、その男はいずこへともなく消えた。
 周囲に他に動いている者がいないのを確認すると、藤次郎は刀についた血を払うのも忘れ、政史郎に駆け寄った。
「政史郎っ!」
 政史郎の身体を起こそうとしたが、手が滑って思うように掴めない。ヌメリとしたものが、手について離れようとしなかった。それは政史郎の身体から流れ出た「命」であったが、藤次郎はそれを否定しようとした。
 政史郎が力を振り絞って、藤次郎の着物の襟を掴み、自らの身体に引き寄せた。荒い呼吸の中、どうにか声を出した。
「と‥‥藤‥‥次‥‥ろ‥‥お‥‥よぉ。‥‥‥‥いき‥‥ろ‥‥よ‥‥‥ふく‥‥‥なんて、考え‥‥る‥‥な‥‥よ」
 そこまで言うと、政史郎は咳き込んだ。生暖かいものが藤次郎の顔にかかる。それは、血の臭いがした。
 そして、その咳が政史郎の命をも吐き出し、政史郎の身体は糸の切れた人形のように力を失って、地面に落ちた。
「政史郎? なぁ、嘘だろ‥‥こんなつまらない死に方しやがって‥‥なぁ‥‥」
 もう、政史郎は何を言っても話せないところに行ってしまった。その事実が、藤次郎に重くのし掛かる。自分が、目を離している隙に‥‥。ほんの僅か前まではこんな事が起きるなんて考えもしなかった‥‥。
 そして、その事実を認めた時、藤次郎は誠次郎の名を絶叫した。


              四

 風が冷たい。
 いや、空気そのものが冷えきっているのか。
 藤次郎は夕闇のせまる江戸の町を歩いていた。
 忠輝から仕官の話を持ちかけられてから四日経つ。
 だが、その四日の間、藤次郎は何をやっていたか記憶がまるでなかった。
 仕官の話が政史郎を思い出させ、その事を、忘れようとしていたのに忘れられなくなった。
 政史郎が殺された後、藤次郎は敵について少しでも情報を得ようと江戸を歩き回り、人に尋ねて回った。顔も見ていない相手の話を探すのは大変であったが、最後には一人の男が浮かび上がった。
 中山安兵衛。
『高田馬場』で名を馳せた堀内流の剣客である。
 その後、去年御取り潰しになった赤穂浅野家の家臣、堀部弥兵衛の養子となり『堀部安兵衛』と名を改めている。
 そして、あの日。
『高田馬場』から数週間目。果たし合いの相手であった村上庄左衛門らの仲間が、村上の敵とばかりに不意を討った。それが、あの河原での出来事だった。
 おそらくは、たまたま居合わせた政史郎を逆恨みの一派と間違えたのであろう。
 そう解ったのだが、やはり堀部が敵であることには違いなかった。
 そして、最初はすぐにでも政史郎の敵を討とうとしたが、堀部安兵衛の剣の腕を聞き、剣の腕を上げることを先にした。
 だが、時が経つにつれあの事件に関して客観的に考えられるようになり、ある事に気づいた。
 果たして、復讐が何になるというのだ?
 例え、堀部を討ったとしても政史郎が生き返るわけではない。
 何より、自らが人を殺めた事による苦痛を味わうことになる。自衛の為に行ったものであればいざ知らず、恨みをもって行う殺人はただ虚しいだけだ。結局、何も残らず、何も生み出せない。
 そして業を背負って生きなければならないのだ。
 それを悟りつつも、やはり藤次郎には敵を討つ事に対するこだわりが心の内にあった。
 まだ二十を少し過ぎただけの若者ゆえか‥‥
 仕官することは、すなわち敵を討つのを諦めることに他ならない。仕官し、その地に赴けば土地に縛られることになる。そうなれば、堀部を探すこともままならない。
 どうするか。
 藤次郎は、そう考えながら歩き続けた。そして、知らず知らずの内に本所まで来ていることに気がついた。
 この三日間、長江は急用のためか道場を休みにしていた。寺子屋だけはやっているようだが、それでも開店休業といった状態だ。
 道場に行ってみるか。
 藤次郎はそう思い、道場のある林町へ行こうと向きを変えた。こう言うときは、身体を動かした方が良い。考え続けているのは、身体にも心にも悪い。そう思ったからだ。
「おう、相良ではないか」
 突然、藤次郎は声を掛けられ少々面食らった表情を浮かべた。声の主が、今から伺おうとしていた人物だったからだ。
 飲み屋の店先で長江長左衛門が立っていた。どういうわけか、傘を一本持っていた。そう言えば、今日は雪が降るかもしれないと聞いていた覚えがある。
「これは長江先生。用件は済まれたのですか?」
 藤次郎は考えを頭の片隅に追いやると、長江に注意を向けた。長江から、妙な雰囲気を感じ取ったからだ。
「うむ‥‥。その用件なんだがな‥‥。うん? 立ち話も何だ。中に入って一杯やりながら話そうか」
 入り口に立っていたためか、中から声を掛けられたようだった。
 藤次郎は頷くと、長江の後に続いて店の中に入った。
 店の奥の座敷に座ると、二人は酒が来るまで一言も口を開こうとせず、ただ見つめあっていた。
 それぞれが、それぞれに思うものを抱えていたからに他ならない。
「どうぞごゆっくり‥‥」
 店の女将が奥に引っ込むのを待って、長江は徳利を手に取り藤次郎の椀に酒を注いだ。
「実はな‥‥今日で道場を閉めることになった」
 長江は、そう言いながら自分の椀にも酒をなみなみと注ぐ。
 藤次郎と長江は、目の前まで椀を持ち上げ、そして一気に飲み干した。
「それは、仕官が決まったと言うことでしょうか?」
 長江は、ぎこちない笑みを浮かべると、僅かに首を引いてそれを肯定した。
 そのことがあまり嬉しくなさそうだな、と藤次郎は思った。
「それで、仕官の先は?」
 藤次郎は二杯目を長江の椀に注ぎながら尋ねた。
 長江は、それを少し飲むと、間をおいてから言った。
「うむ。それ何だが、西国の堀内藩と言うところでな」
 堀内藩。聞いたことのない名であったが、百を越える藩があるだけに藤次郎が知らないものがあっても、別に不思議なことではない。
「それでだ。どうも早急に赴かなくてはならないとの事で、明日の夜にでも江戸を発つつもりだ」
「明日の夜、ですか」
 藤次郎は、驚きを隠せない様子で言った。
 あまりにも急な話だが、それぞれの藩の事情もあるのだろう。
「見送りはいらないからな」
 長江は念を押すような口調で、そう言った。
 そして、藤次郎を見ると気が付いたかの様に口を開いた。
「時に、相良も何か考え事をしているのではなかったのか?」
 そう言われて、藤次郎はグッと答えに詰まった。
 仕官の話を受けるか受けないかで悩んでいるのならば、良い。実際は、兄の敵を討つか、それとも仕官をする事でそれを忘れてしまうか。
 その事で悩んでいるとは、さすがに長江が相手でも言えなかった。
 だから、藤次郎は慎重に言葉を選んで言った。
「実は、私にも仕官の話がありまして‥‥」
 長江は、ほぅと藤次郎を見やった。
「して、どこに仕えることになった?」
 長江は三杯目の酒を藤次郎に勧めた。藤次郎はそれを断るでもなく、椀に注がれた。
「紀州の‥‥徳川家です」
「ほぅ、という事は柾殿の御紹介か?」
 長江は目を細めながら、心ここにあらずと言った表情を浮かべた。どうやら、柾と面識があるらし、昔の思い出に心を飛ばしているようだった。
「はい。‥‥しかし、長江先生が柾先生を御存知とは」
「いや、何。以前にお会いしたときに、御目付衆の弟君を教えていると聞いていたんでな。何よりも、柾殿は紀州の出だ。紀伊藩と昵懇であっても不思議はない。‥‥そうか、そうか‥‥」
 長江は嬉しそうな表情を浮かべると、椀に注いだ酒をあおった。
「うむ。仕官したら剣客としては道を歩まずに済む。‥‥そうすれば、俺みたいな過ちをしなくても‥‥」
 長江のいつもの口癖が始まったのを、少し酔いが廻り始めた藤次郎はただ聞き流すだけだった。いつか、その意味を聞こうと思っていたが、結局果たせそうにもなかった。そう、藤次郎はボンヤリと思った。
 その後は、二人は当たり障りのない世間話をしただけで、別れた。
 店から出ようとした時だ。
 白いものが、空から落ちてきて藤次郎の鼻頭に当たった。それはすぐに溶けてしまう。
「雪‥‥か‥‥」
 藤次郎はその白さを目にすると、政史郎の顔が浮かんでくるのを止めることは出来なかった。だが、それは敵を討つことで消えるものだろうか?
 ただ、自らを責め、自らの自己満足の為だけに相手を討とうとしているのではないか。そう、政史郎は死の間際に言ったはずだ。
「復讐など考えるな」と。
 藤次郎はその事から頭を放そうと、首を振った。
「大雪になるぞ、これは」
 長江が妙に嬉しそうに言った。


              五

 江戸の街は一昨日からの大雪で、ただ真っ白に染められ、深夜にもかかわらず月の光を浴びてほのかな明かりを帯びていた。あらゆる音が降り積もった雪に吸い込まれ、無音の世界が築きあげられる。
 白い雪が、藤次郎の身体に津々と降り注ぐが、それは積もる事なく、身体に触れただけで消えて行く。
 藤次郎は編笠の下から空を見上げると、僅かに雲越しに見える月を探した。
 西の空に低く月の明かりが見える。
「寅の上刻‥‥か」
 ふと、そう呟いた時、遠くの方から重い木の扉を叩く木槌の音が耳に入った。
「始まったか‥‥」
 思わず足を止め、その音に聴き入ると、藤次郎はギリリッと奥歯を噛みしめ、僅かに悔しそうにつぶやいた。
 事が始まる前に、総てを終えたかったのだが‥‥『時の流れ』はそれを拒んだようだ。
「ならば、彼等が本懐を遂げるのを待つ」
 そう呟くと、編笠の雪を払い除け、歩き出した。
 長江長左衛門の嘘と、正体が解ったのは、ちょっとした偶然からだった。
 長江と別れた後、家に戻った藤次郎は「堀内藩」という言葉に引っ掛かりを覚えていた。
 果たして、その様な藩があっただろうか?
 そう思い、兄の書庫から藩名や石高の書かれた帳面を探して、「堀内藩」を探した。そして、「堀内藩」は存在しないことが解った。
 ならば、何故、長江はそのような嘘を言ったのか?
 そう思ったときに、藤次郎はある事を思い出した。
 長江が江戸を急に出ると言ったことだ。本来、江戸から出たり、特に関所を越えるに必要な手形を取るにしても、もっと日数が掛るものだ。
 つまり、長江は江戸からも出ないことになる。
 そして、「堀内」と言う名。
 藩名ではないとすれば‥‥この江戸で有名なもの。それは堀内源左衛門に他ならない。つまり『高田馬場』で名を馳せたあの堀内流道場である。
 そして、その堀内と剣客である長江の接点は何か。そう思ったときに、あの男のことを思い出した。
 堀内流の剣客といえば、堀部安兵衛だ。
 だが、それは単なる推測に過ぎない。それも信頼性の低い、推測だ。
 それでも、藤次郎はその推測をあてにするしかなかった。
 何より、彼に残された時間は少なかったし、そして長江が居なくなる前に真偽を確かめたかった。
 だから、藤次郎は林町の長江道場へと向かった。
 だが、そこには人の姿はなく、いや、つい先程まで大勢の人間がいたことの痕跡だけが残されていた。
 まさか‥‥
 そうなれば、考えられることは一つしかない。
 吉良邸への討ち入り。
 そうだとすれば、長江が江戸を出ると言ったことも合点が行く。そうやって、敵の目を欺くのは少しでも交渉術を知っているものなら誰でも考えつくからだ。
 藤次郎は、長江の姿を求めて吉良邸に向かったのだ。
 そこで、長江、いや堀部安兵衛の姿を見る事が出来ると確信して。
 しばらく歩いていると、藤次郎は前から駆けてくる四人の男達に気付いた。
 寝ていたところを突然起こされ、慌てて出てきたのだろう。着物をはだけ、髷を乱して走ってくる。
 先頭を走っていた男が藤次郎に気付き一瞬身構えたが、『彼等』とは装束が違うのを見るとそのまま横を通り抜けようとした。
 本来ならば、このような刻限に人が歩いていることを怪しむべきだが、今の彼等にはそんな事に気付く余裕はなかった。
 そして、藤次郎の左側を通り抜けると、数間も行かぬうちに「あっ」と声をあげて倒れ込んだ。
 男の左の股がバサリと斬りつけられ、流れ出る赤黒い血の中から白い骨が覗いていた。
 先ほどまで柄にさえ触れられていなかった藤次郎の刀が、今は月光を浴びて刀身から青白い光を放っていた。
「吉良上野介義央殿の、御家中でござるな」
 身が凍るまでの冷たい響き。
 それは一種の宣告と警告だった。
 この場から立ち去るか、それとも藤次郎を斬って先を急ぐか。
 二者択一。
 そして、後者は決して全うされない選択だ、と。
「貴様、赤穂の浪人かっ!」
 若い侍が、慌てて刀を抜くと藤次郎に切っ先を向けて叫んだ。
 死合をした事がないのか、それとも命が惜しいのか。その刀身はカタカタと震えていた。
 藤次郎は刀を左手に持ち替えると、両手で構えて半身を引いた。そして、刀身を地面につくほど下に構えた。
 長江の道場での動きと比べ、その動作はどこまでも自然な動きだった。下段に構えられた剣先はピクリとも動かず、ただ相手の動きを待つだけで、それでいて相手を寄せ付けない威圧を放っていた。
「来ないのならば、こちらから参るぞ」
 藤次郎はそう言うと、ごく自然に前進した。相手との間合いを無視した、あまりにも無謀な動き。
 そう思った侍は、大きく振りかぶって袈裟懸けに斬りつけた。
 藤次郎はさらに前進して侍の懐に潜り込むと、その一撃から完全に逃れ、逆に侍の右腕を斬り飛ばした。刀を握ったままの腕が宙を舞い、残る上杉家の侍の足下に突き刺さる。
「ヒッ!」
 上杉の侍の内、若い侍は自分の足下のそれの断面を見てしまい腰を抜かした。無理もない。斬った本人も見たくないのだから。
「俺の腕ぇーーっっ! 腕がぁっ!」
 腕を無くした男が叫ぶのを、気にも留めたふうでもなく、もう一人の上杉の侍が進んできた。
 その瞳には、何もうつしてはいない。
 歳の頃は四十くらいか。全身から威圧の様なものを感じた。どちらかといえば、うだつの上がらない勘定方役人に見えなくもない。だが、その身体には藤次郎同様、まったく無駄な贅肉も、筋肉もついていない。
 だが、決定的に違うのは、その歳までその体格を保っていることだ。
 おそらく、いや間違いなく名の通った剣客に違いない。
 藤次郎は咽喉の奥が乾いていくのを感じた。これだけの腕の者と戦えるのはまたとないだろう。剣の道に生きるものにとって、これ以上の好機はないかもしれない。
 だが、その好機も命をかけたものとなれば、今は話が別だ。
 今は果たさなければならない事がある。その為には、ここで死ぬわけにはいかないのだ。
「名を‥‥伺おう」
 男は柄に手をかけ、鯉口を切るとゆっくりと刀を抜いた。
 正眼に構えると、ゆっくりと藤次郎と間合いを取る。
 藤次郎も刀を握り直すと、下段に構えた。
「無静流、相良藤次郎」
 藤次郎は男の瞳を見ながら言った。その瞳からは、何も読み取れそうにもない。だが、何か読み取れるはずだ。
「‥‥‥‥御目付衆の弟か‥‥」
 男は感慨深げに言うと、一歩踏み出して大上段に振りかぶった。
 自分の名を名乗る気はないらしい。
 藤次郎は後退り、刀を上段で横に構えて受け流そうとした。が、男の太刀筋は早く、藤次郎は不十分な構えのままそれを受け止めざるを得なかった。
 思い衝撃が腕全体を突き抜ける。
「くっ」
 膝の力を抜いて衝撃を和らげると、脚のバネを利用して後ろに跳び退る。そして、すぐさま刀を下段に構え直した。足を地面に擦り付けるようにずらすと、いつでも対応できる体勢を保つ。
 死ぬかも知れないな‥‥
 藤次郎は、ふとそう思った。そして、何とも言えない「塊」の様なものが、咽喉の奥を流れるのを感じた。
『恐怖』なのだろうか。
 藤次郎は男との距離を保ちながら、そう考えた。
 いや、『恐怖』ではないはずだ。
 もし自分が『恐怖』を感じているのならば、何故こんなに落ち着いていられるのだろう?
 この感覚は何だ?
「っえいっ!」
 男が空気をも切り裂くような気合いを発しながら斬り込んでくる。
 藤次郎はその声で我に返ると、その一撃をどうにか受け流した。
 が、男はさらに神速のごとき素早さで横から胴をなぎ払うように刀を繰り出した。並の腕では到底受けきれぬ一撃。
「っ!」
 刀を滑らすようにして割り込ませるが、無理な体勢がたたって藤次郎はドウと地面に倒れ込んだ。
「覚悟!」
 男は藤次郎にさらに近づいて止めを刺そうと、刀を振りかざす。
 その瞬間、藤次郎は身体を捻って体勢を変えると、左足を男の右の踵に絡み付ける。そして、素早く右足で男の右の膝を蹴りつけた。
 すると、男の身体がまるで棒が倒れるように何の抵抗もなく後ろに倒れる。すかさず、藤次郎は脇差を抜いて男の左の股に突き立てた。
 男達には何の恨みもない。さすがに、命まで取るのは抵抗があった。
 藤次郎は大きく息を吐くと、立ち上がった。
「‥‥何故、斬らん」
 男が足の痛みを堪えながら藤次郎を見つめた。その瞳にはただ剣客同志の戦いを演じた事への満足感が浮かんでいた。
 だが、同時に吉良、上杉に牙を剥くもの、つまり赤穂側に立つ人間が何故、止めを刺さないのかという不信感もあった。
 その疑問の答えを聞きたいためか、雪が男の足から流れる血で染まっていくのに、男は藤次郎だけに意識を向けていた。
 藤次郎は、そこではたと気付いた。
 本当に自分は相手を殺したくないだけだったのだろうか?
 その考えを肯定も、否定も出来なかった為に、藤次郎は言葉を選んでこう言った。
「俺は、吉良殿の味方ではない」
 男の顔に、「やはりな」と言った表情が浮かぶ。同時に「ならば、なおさら何故?」とも浮かんでいた。
 藤次郎は言葉を続けた。
「だが、赤穂の浪人の味方でもない。‥‥俺は、俺自身の思うところで動いているからだ」
 男はその言葉に納得いかない様子だったが、出血のため深くは考えようとしなかった。
 何より、藤次郎の心の内を聞いても自分に理解できるとは思えなかったからだ。
 藤次郎は、男のその様子を見ると、深く一礼して本所の吉良邸へと急ごうとした。
 その時だった。
 ヒュンッ!と風を切るような音が聞こえたかと思うと、藤次郎の背中に激痛が走った。
 藤次郎は、息を詰まらせ前屈みに座り込んだ。痛みのするあたりに恐る恐る手をやると、一本の小柄が突き立っていた。右腕を無くした侍が小柄を投げた姿勢のまま、藤次郎の動きを伺っていた。
「卑怯な奴‥‥いや、俺の油断か‥‥」
 藤次郎は、大きく胸を反らすように上半身を起こすと、その侍を睨み据えたまま、小柄に手を掛けた。刺さった部分の感触から、かなり深くに刺さっているのが解った。だが、命にかかわるものではない。
 手に力を込めると、突き立った先端が背中の肉を押しのけようとして激痛が走る。だが、藤次郎はその痛みを堪えて、小柄を抜いた。
 生暖かい血の流れていく感触を背中に感じたが、その間も藤次郎は小柄を投げた侍を睨み続けた。
 その藤次郎の様子に、片腕の侍は恐怖を感じると、声にならない悲鳴を上げて逃げ出した。冗談ではない、あれだけの傷を負いながら、声も上げないなんて‥‥。そう思ったからだ。
 藤次郎は、侍の姿が見えなくなると、抜き取った小柄を地面に放り投げた。先端に溜まった血が点々と赤く雪の上に飛び散る。
 しばらく激しい動きさえしなければ、命にかかわることは無いだろう。何より、自分の命は「彼」との決着がつくまでもてば良い。
 橋の欄干に手をかけてどうにか立ち上がると、藤次郎は歩き出した。


              六

 堀部安兵衛は、吉良上野介の御首級を入れた布を見つめていた。
 あの中に、我が主君、浅野内匠頭の怨敵であった老人が居るかと思うと、心に空しさが込み上げてくる。
 何故だ?
 主君の敵を討ったのだから、もっと晴れ晴れしていても良いはずだ。
 そう、先程までは皆と共に本懐を遂げたことを喜び、泣き合っていたはずなのに。
 この胸の内に広がっていく空しさは何だ?
 安兵衛は布から目を離すと、大石内蔵助を仰ぎ見た。
 今回の討ち入りの「首謀者」である男は、ただ地に積もった白い雪を見つめているだけであった。その瞳には喜びや悲しみと言ったものは浮かんでいなかった。言うなれば、虚無。
 この男の中にも空しさのようなものがあるのだろう。
 安兵衛は他の者たちの表情を見ようと、周囲を見回した。
 主君の敵を討った喜びを噛みしめている者も多いが、中には安兵衛や大石の様な表情を瞳の中に持った者もいる。
 武士としての忠義を果たしたというのに、何故、空しさに駆られなければならないのか?
 かつて安兵衛が『高田馬場』で行った仇討の際には、このような感情に襲われることはなかった。
 ならば、何故、今は?
 安兵衛は、その事について深く考えようとした。
 だが、それも大石の撤収を告げる声で中断せざるを得なかった。
「御一同。これより裏門より出て、回向院に赴く。その後、我らが主君の眠る泉岳寺へと参る」
 そう言うと、大石は皆に隊伍を整えるように命じた。上杉家の者が追ってきた場合に備えてのことだ。
 安兵衛は、ぼろぼろになった大太刀を肩に担ぎ、隊列の前方に並んだ。
 そして、隊伍はゆっくりと裏門へと向かった。
 が、先頭が裏門を出ようとした時、突然にそれが止まり、安兵衛は大太刀を取り落としそうになる。一体、何事か?
 まさか、もう上杉の援軍が来たのか?
 そう思い、大太刀を肩から下ろし、いつでも構えられるように手を持ち替えた。
 その時だった。
「堀部安兵衛殿!」
 前方から、安兵衛を呼ぶ声が聞こえた。どこかで聞いたような声だ‥‥、いやこの声はっ!
 安兵衛は思わず、隊伍から出ると先頭へと歩いていった。
 そして、まさかと目を見張った。
 相良藤次郎。
 安兵衛が、長江長左衛門と名乗り、開いていた道場での一番弟子。
 確か、藤次郎は紀州徳川家への仕官が決まって‥‥いや、そうではない。赤穂浅野家と高家筆頭吉良家には縁もゆかりもないはずだ。
 何故、ここに?
 それに、何故、自分の名を呼んだのか?
 安兵衛はまったくそのことが解らなかった。
 だが、ゆっくりと藤次郎に近づいていくと、その姿がはっきりと見えるようになった。
 いつもの薄青い着物と紺袴といった格好は変わりないが、その上に襷をかけている。そして、額には鉢巻。
 まるで、敵討ちのような姿ではないか。
 安兵衛はそう思った。
「堀部安兵衛殿。我が兄、相良政史郎の無念を果たさんが為に、参上つかまつった。我が名は相良藤次郎。いざ、勝負をされたし」
 安兵衛は我が耳を疑った。
 自らも誰かに恨みを買い、そして敵とされていたのだ。
その相手が愛弟子の藤次郎だったとは‥‥運命と言うのか。そして、その恨みの原因が、彼がかつて行ったたった一つの過ち。
 関係のない人間を殺してしまった事だったとは‥‥
 あの時、自分が素直に名乗り出て、罪を償っていればこんな事にはならなかったに違いない。だが、そうは出来なかった。
 名乗り出る事が怖かったのだろう。
 若さゆえと言っても、大きな過ちだった。
 その過ちを清算するためにも、藤次郎と闘わなければならない。だが、ただ藤次郎に討たれるのでは、自らの過ちに背を向けたまま死んでいく事になるまいか。
 ならば、全力で藤次郎と闘い、破れるも勝つも、時の運に任せる。
 そう、堀安兵衛は決心し、大石に振り返った。
 今、ここで藤次郎と果たし合いを行う許可を得るためだ。
「‥‥‥‥」
 大石は、しばらくの間、安兵衛と藤次郎を見ていたが、大きく息を吐くと頷いた。
 そして、ゆっくりと口を開いた。
「御一同。この果たし合い、決して手を出してはなりませんぞ。‥‥相良殿と言ったかな? 私がこの果たし合いの立会人となるが宜しいか」
 それを聞いて、藤次郎は少々意外そうな顔をしたが頷いた。

 藤次郎は、まさかここまで話がうまく進むとは思いもしなかった。
 そして、長江が本当に堀部安兵衛であった事に驚きと、後悔を覚えた。願わくは、長江であって欲しくない‥‥そう、思っていた。
 だが、運命とでも言うのだろうか。
 藤次郎の師匠は、彼の兄の敵だった。
「‥‥‥‥」
 藤次郎は、ゆっくりと歩いてくる長江、いや安兵衛を見つめると、大きく息を吐いた。
 ここまで来てしまったのだから、もう悩む事はない。
 今は、この果たし合いにのみ全力を注ぐ。
 そう決心すると、藤次郎はゆっくりと刀を抜いた。備前光貞二尺二寸八分の大刀である。それを利き腕の左手に持ち替えると、いつものように半身になり下段に構えた。
「ほぅ‥‥」
 その様子を見ていた安兵衛の口から思わず声が漏れる。藤次郎が、今まで道場ではごく普通に右手で構えていたからだ。その理由のほどは知れないが、こうなると安兵衛が知っている藤次郎の実力は少々あてにならない。
 安兵衛は討ち入りで使った大太刀を捨てると、腰に差してあった刀を抜き、正眼に構えた。
 御互いの視線が絡み合い、一瞬でその間の空気は触れただけでも切れそうなまでになる。
「っ!」
 藤次郎はスッと接近すると、刀を振り上げた。下からの腕を狙った斬り込み。安兵衛は迫ってくる刀に自らの刀を叩き付ける。
 ほんの僅かな間に、数回刀を打ち合わすと、二人はパッと飛び退くように離れ、間合いをとった。
 それを見守る浪士の間には言葉もなく、食い入るような視線だけを投げ掛けていた。おそらく、二度と見えないであろう、剣客同士の闘い。
 藤次郎は、ゆっくりと息を吐きながら再び刀を下段に戻していく。
 安兵衛は八相に構えたまま、ジリッジリッと立ち位置を変えた。
 思っていた以上に藤次郎の腕が上がっていることに、安兵衛は嬉しくもあったが、焦りを感じていた。
 だから、藤次郎の刀がいつもより少しばかり位置がずれたのを見ると、ダッと斬りかかった。
 藤次郎は、身体を傾けて一刀目を避ける。だが、返す刀でふり上げられた二刀目は完全には避けきれず、後ろ向きに倒れ込んだ。が、目を見張るような体捌きで起き上がると、再び間合いを取って刀を下段に構えた。
「‥‥‥‥」
 あの体捌き。間違いなく、俺が教えたもの‥‥。
 安兵衛は藤次郎の覚えの良さ、素質に素直に感動を覚えつつも、背中を流れる汗を抑えることが出来なかった。
 殺られるかもしれない。
 そんな一抹の不安が頭をよぎる。あの『高田馬場』でも感じ得なかった感情だ。
 安兵衛は八相の構えから、刀を後ろに倒して行き、右車の構えに変えた。上段からの攻めは大抵防がれる。いや、それ以前として藤次郎の下段の構えは相手の接近を阻んでいた。
 どうするか?
 安兵衛がそう考えている時、藤次郎もまた同じことを考えていた。
 今は、上手く立ち回れた。だが、それは安兵衛が討ち入りの疲労によって腕が鈍っていたからに違いない。藤次郎は、そこまで自分の腕を過信はしていない。
 そして、疲労しているはずなのに、安兵衛の動きはさほど鈍っていない。踏み込もうにも藤次郎の使う無静流の奥義には攻撃的な技はあまりないし、藤次郎も得意ではなかった。
 並の相手ならば、それでも良いだろう。
 だが、相手はあの堀内流剣客、堀部安兵衛だ。
 下手に動けば間違いなく斬られる。
 二人は互いに向かい合ったまま、まったく動かなくなった。
 だが、その間を二人の気配と気合いが絶えず飛び交い、相手の隙を伺っていた。
 先に動けば、確実に殺られる。今は、精神と精神の戦いだ。先に動いたならば、それは精神が敗けた証拠であり、それが肉体的にも現れる。
 その事を理解しているからこそ、二人は待った。
 相手が動くことを。
「‥‥‥‥」
「‥‥‥‥」
 ゴクリッと誰かが唾を飲み込んだ。
 これほどまで、二人をかき立てるものは何か?
 その場にいる誰もが、そう考えていた。
 だが、誰もその答えを見つけることはなかった。

 そして、四半刻が経った‥‥。

 突然、藤次郎は、背中を血が流れていくのを感じた。
 先程、上杉の侍にやられた傷からだった。一度は出血が止まっていたのだが、やはり激しい動きには耐えられなかったのだろう。
 だが、藤次郎は恐るべき精神力で、意識を安兵衛に集中させていた。
 今、ここで動けば、確実に殺られる。
 だが、そうやって待ち続けている間にも、血は流れ、それにより意識を失いかねない。
 そうなる前に、決着しなければならない。
 こちらから動く。
 そう、藤次郎は決心した。
 ならば、打つ手は一つ。決して、敗けはしない方法を取る。
 藤次郎は肩の力を抜くと歯と歯の間から息を出していく。
「‥‥‥‥スーーーーーッ」
 息を出す、その音だけがその場に響き、雪に吸い込まれる。
 藤次郎は下段に構えたまま、安兵衛に接近した。安兵衛もそれに応じて、間合いを詰めると袈裟懸けに降り下ろした。
 藤次郎は、身体を大きく捻ってそれを避け、刀を横に振った。安兵衛はすぐに刀を引き上げて、鎬を使ってその一撃を受け止める。と、その触れている部分を支点にして、藤次郎の刀を上に持ち上げて放り出そうとした。
 が、藤次郎は素早く刀を引いて、それを避ける。
 その動きに、さすがの安兵衛も付いていけず、右半身の護りがなくなった。
 藤次郎はその隙を逃すことなく、引いた刀を横に向けて、最小の動きでなぎ払う。
 安兵衛も、持ち上げた刀をなんとか逆に向けて、神速の降りを放った。
 二つの刀が、同時に二人の身体に吸い込まれる‥‥はずだった。
「‥‥‥‥」
「‥‥‥‥」
 ほんの皮一枚。
 それくらいで、二人は刀を止めていた。
 藤次郎は、安兵衛の脇腹で。
 安兵衛は、藤次郎の眉間で。
 二人は同じように刀を引くと、二間ほどの間合いを取って向かい合った。そして、刀を鞘に収める。
 安兵衛は、ゆっくりと口を開いた。
「何故、斬らなかった‥‥?」
 安兵衛は、訝しんでいるようでもあったが、そこには別の表情が浮かんでいた。今まで悩んでいた答えを見つけた気がしたからだ。
 藤次郎は、少し俯きながら、だがハッキリと言った。
「私には、長江先生は斬れません」
 安兵衛は、その言葉に頷いた。
「俺も、弟子は斬れんよ」
 安兵衛の言葉も、藤次郎の言葉も、それなりの事実を含んでいるのは間違いなかった。だが、藤次郎の言葉にはそれ以外もあるはずだ。安兵衛は、そう思った。
 そして、藤次郎の次の言葉を待ったが、それは安兵衛に向けられたものではなかった。
「大石様。勝手を許していただき、誠にありがとうございます。少し、伺いたいことがございますが、宜しいでしょうか?」
 藤次郎は、薄れゆく意識をどうにか保ち、これだけは大石にも聞いておこうと思った。今、自分が安兵衛を斬らなかった、もう一つの理由。
 そして、大石が吉良殿を何故、討ったのか?
 その二つの奥には、同じものがあるはずだ。
 そう、藤次郎は考えていた。
「大石様。‥‥遺恨は何も生み出せませんよね?」
 藤次郎は、同言おうか考えたあげく、そう言った。
 その言葉に、大石は考え込んでいたようだったが、小さく息を吐いてから口を開いた。
「さようでござるな、相良殿」
 それを聞いて、藤次郎はニコリと笑みを浮かべ、地面に倒れ込んだ。
 着物の背中がどす黒く変色し、血の広まりを見せる。
 だが、藤次郎は満足げな表情だった。
 安兵衛は、その藤次郎の表情を見てハッとした。
 先程から感じていた、空しさは、これだったのだと。
 復讐は、ただ空しさと、後悔しか生まない。恨みを忘れれば良いと言うかもしれないが、人間である以上それは無理だ。だから、我慢する。
 何より、復讐が、新たな復讐を生み、それが果てしなく続くならば、誰かがそれを止めなくてはならない。何故なら、止めるも続けるも、人の意志によって決められるからだ。
 そのため、復讐心に燃えた安兵衛の心は渇き、空しさを抱いたのだ、と。かつて安兵衛は若かったが故に、それに気付くこともなかった。
 だが、藤次郎は、その事に気付いたのだ。
 だから、藤次郎は安兵衛を斬らなかった。
 藤次郎自身のため。後に続く遺恨を断ち切るため。
 安兵衛はその事を理解すると、口唇を噛みしめ、こう思った。
 俺は、藤次郎に敗けた、と。
 では、大石は『復讐の無益さ』を理解しながら、何故、吉良を討ったのか。
 安兵衛が、そう思っていた事を、藤次郎もまた考えたのだ。
 そして、その事に気付いた。
 大石は復讐の無益を知っていたからこそ、あえて吉良を討ったのだ。
 何故か?
 幕府の不正な御裁きに対して、抗議するために。
 その事を、世間に知らしめる為に、吉良を討つという大罪を置かしてまでも、『仇討ち』を行ったのだ。
 そこには、恨みはなく、復讐という考えは存在しない。
 その事を、藤次郎は知りたかったのだ。
 復讐は何にもならない、と。
 だから、自分の選択は正しかったと。
 藤次郎は、そう思うと意識を失った。


              七

「雪‥‥か‥‥」
 藤次郎は、木刀を振る手を休めると、空から舞い落ちる白いものに見入った。
 白い雪は、相変わらず藤次郎を『政史郎』という呪縛から解き放つ事はなかったが、それでも雁字搦めに身を縛ることも無くなっていた。
 そして、何より白い雪は堀部安兵衛、いや長江長左衛門との事を思い出させた。
 あの戦いの後、意識を失った藤次郎を大石は手当てさせ、相良家まで安兵衛に送り届けさせた。
 その為、当然ではあるが、藤次郎が赤穂浪士の仇討ちの手助けをした事は、結果的ではあったとは言え、御上の知れるところになった。
 だが、仮にも御目付衆の弟が手助けしたとなると、幕府にとっても都合か悪い。御目付衆、すなわち幕府の一部が赤穂浪士を手助けしたと、世間に取られかねないからだ。
 その為、藤次郎の事は記録から抹消された。
 だが、仕官の話は、断られるどころか、強く勧められることになった。理由は簡単である。
 安兵衛との果たし合いで、藤次郎の実力のほどが知れたからだ。
 だが、藤次郎は仕官を断った。
 安兵衛らが切腹になるのは半ば予想された事であった為、残された長江道場を継ごうと考えたからだ。
 何故、そう思ったか、深いところは藤次郎自身にも解らない。
 だが、そう自分で決めたのだ。
 その事を聞いた忠輝は複雑な表情を浮かべたが、しぶしぶ承知した。
 そして、長江道場は相良道場に名を変えた。
 それからしばらくして、赤穂浪士の切腹が行われた。
 悲しくはあったが、涙を流すような歳ではなかったし、やはり心にわだかまりが存在したのだ。
「もう五年になるか‥‥」
 そう呟くと、藤次郎は木刀を再び構えた。
 まだ、長江の歳になるまで数年ある。それまでに、長江を越すことが出来るかどうか。
 今の藤次郎の目標は、そんな事だった。
 だが、どうしても果たさなければならない目標だ。
 長江を越したときこそ、藤次郎の堀部安兵衛に対するわだかまりが消えるだろう。そう思うと、藤次郎はまた、木刀を振った。



                           (了)


戻る