「 蛇口から 」
あんでぃ


 朝、キッチンの蛇口を捻るとコーラがでてきた。

 右手に握られたガラスのコップの中身は、黒くしかも泡立っていた。蛇口から止めどなく流れ出る黒い
液体は、僕を日常世界から逸脱させた。まず信じろと言う方が無理なのだが、現実として蛇口から勢いよ
く流れでる液体は水では無かった。勇気をだして少し口にしてみて分かった。水ではなくコーラが出てい
ると言う事が……。

 僕はキッチンの前で、

「ミッ、ミチコぉ〜○×△■☆!!」

 と声を出すのが精一杯であった。バタバタと寝室から大きい音がして、妻のミチコが慌ててキッチンに
やって来た。

「ゴメン、寝坊しちゃった〜。すぐに朝食作るから」
「そっそれより」
「どうしたのよ、そんな所にぼーっと立っちゃて」

 と僕の側にやって来た妻が、蛇口からコーラが流れ出る光景を目にした。

「いやぁ〜だ、何これ??」
「……」
「水濁ってるぅ」
「……水じゃないんだ」
「え??」
「コーラだ」
「へ??」
「蛇口からコーラが出てる」
「なんで??」
「分からない、でもコーラが出てるのは事実なんだ」

 妻は寝起きで目覚めきってない頭をフル回転させて、現実を理解しようとしている様だった。だが、第
一声は

「とっ、とりあえず大好きなコーラをタダで飲めるから、いいんじゃない??」

 と現実逃避とも思える、なんの解決にもならない言葉であった。

「俺、トイレ行ってくる」
「朝食どうするの??」
「何でもいいよ」
「え……でも」
「パンとコーヒーでいいから」
「……時間ないんだから急ぎなさいよ」

 僕は冷静さを取り戻すため、トイレに入った。用を足す前にまず一度水を流してみた。音を立てて、タ
ンクから普通の水が流れた。この朝初めて見る、いつもと同じ光景に心底安心した。そして洋式の便器に
腰をかけ、用を足しながらこれからどうしようかと考えた。

 一瞬――会社、休むか――とも考えたのだが、いい口実が見つからなかった。ましてや正直に――朝、
蛇口を捻るとコーラが出てきたんで休ませてください――なんて言えば、即刻クビになる恐れすらあるよ
うに思われた。あまりゆっくり思案に耽っている時間も無かったので、結局現状を打開するいい考えは思
いつかなかった。

 だが用を足し終わった次の瞬間、僕は意表を突かれてトイレのドアに頭をぶつけた。

 なんと、ウォシュレットからでる洗浄水がコーラだったのだ。僕はお尻にあたる、シュワっとした感覚
に思わず飛び上がってしまった。――ゴンッ――という大きな音が広くは無いマンションの一室に響き渡っ
た。

「どうしたの」

 妻が慌てて、トイレの中の僕に声をかけてきた。

「痛ったぁ〜」
「どうしたの?? 大丈夫??」
「コ、コーラが出た」
「出た〜?? どこからよ??」
「ウォウォシュレットから」
 
 僕はとりあえず、コーラまみれになった臀部をトイレットペーパーで拭き、トイレからでた。ネチャと
した感覚を完全には拭い取ることはできず気持ち悪かったのだが、朝食を取るために席に着いた。

「バカねぇ〜こんな時にウォシュレット使うなんて」
「つい癖で……」
「とりあえず、早く食べなさいよ」

 テーブルの上には、いつもと変らない食事が用意されていた……一つを除けば。

「コーヒーないのか??」
「だって、お湯沸かせないでしょ」
「そうだったな」
「あっそうだ!!」

 と妻は何かを思いついた様だった。流しに行って蛇口を捻り、流れ出てきた黒い液体をガラスのコップ
に酌み、僕に差し出した。

「はい、今日は朝からコーラ飲み放題よ」
「……」

 僕は妻の行動に言葉を失った。ただこういう時の女性というのは、なんと適応能力が高いというか、冷
静というか、本当に関心させられるものがあるなとも思った。たまに理解不能な言動をとるのは御愛嬌と
いう所であろうか。

「それより、急がないと会社遅れるわよ。あと20分しかないわよ」
「わかってるって」
「でもさぁ」
「何??」
「その頭で会社行くの?? しかも酒臭いわよ」

 妻に言われてハッと我に返った。そう言われれば、寝癖はついてるわ酒臭いわでとても人前に出られる
状態ではない事に気づいた。

「シャワー浴びなきゃダメかな……」
「あっ、でも考えればシャワーは大丈夫なんじゃない」
「どうして」
「だってウチのシャワーって電気給湯器だから、タンクに備蓄されていつでも適温に保たれているでしょ」
「あっ、そうか」
「じゃあ、お湯は普通の水って変な言い方だけど、大丈夫なんじゃない」
「そうだよな。じゃあシャワー浴びてくるか」
「急ぎなさいよ」

 食事もそこそこに僕は服を脱ぎ、風呂のドアを開けた。だがシャワーの蛇口を捻ろうとした瞬間、あの
黒い泡立った液体が流れてきたらという不安感に襲われた。そうなれば僕は全身コーラまみれになってし
まうのである。スポーツで優勝したチーム等がビールを掛けあう姿は、喜びを日常生活の中から逸脱した
行為で表すのだからいいけれども、誰が会社に遅れそうな時にコーラまみれに、なりたいであろうか!!

 不安と緊張で、なかなか最初の第一歩を踏み出せないでいると、

「ホントに遅れるわよ、早くしなさい」

 と妻の声がバスルーム内まで響いた。僕は決心をつけてシャワー用の蛇口を捻った。すると……幸運
(?)な事にお湯が出た。妻の予想は当たっていたのである。

「ミチコ〜お湯が出たぞ〜」

 風呂のドアをあけて、再び狭いマンションの一室に響き渡る大声で、思わず叫んでしまった。僕は慌て
て、シャワーを浴びた。顔も洗えるし歯も磨ける、ついでに臀部の不快感も洗い流せる。まさに生き返っ
た気分であった。

 だがの喜びも束の間であった。ボディーシャンプーを使い体中を丹念に洗っていると、恐れていたあの
嫌なシュワっと感が頭の先から襲って来た。

「ぎょえ〜○×△■☆!!」

 蛇口から出てくる液体が徐々に黒くなって来ているのである。しかもタチの悪いことに熱せられている
ために、炭酸が抜けかけてタダの黒い砂糖水状態になっているのではないか。僕が一番恐れていた事が現
実となってしまったのである。全身コーラまみれとなって、収集の着かない状況に陥ってしまった。

「どうしたの……」

 後日談だが、妻が風呂場に入ってきた時、僕は頭からコーラのシャワーを浴びて、放心状態で立ち尽く
していたらしい。

「サトシ、しっかりして」
「あっああ」
「とりあえず、バスタオル」

 バスタオルを手渡されて、僕はとりあえず全身を拭いた。意識が回復するにつれ、僕はネチャっとした
感じをぬぐい去ろうと、何度も何度も体を拭いた。しかしもう一度、お湯でキチンとシャワーを浴びない
事には、この感覚は拭えないだろうと諦めざるをえなかった。

 そして更に悲劇は続いた。頭をドライヤーで乾かしたのは間違いだった。ブラシを入れた形に、髪型が
固まるのである。鏡の前で出来上がった姿は、鉄腕アトムの頭の様な状態になっていた。

 しかたなくスーツに着替え、髪形もアトムのまま僕はとりあえず会社に行く事にした。時間はギリギリ
であった。

「いってらっしゃい」

 妻に背中を押されて、僕は玄関の扉を開けた。ちょうどその時、隣に住む島本さんが目の前を通った。

「おはようございます」

 と声をかけられたのだが、恥ずかしくてまともに彼の姿を見ることができない。

「おはようございます」

 と挨拶を返してみると、悪臭が僕の鼻を突いた。どうやら発生源は島本さんの体からの様だった。僕は
顔を上げ、目が合った瞬間悟った。彼の髪形も、心なしかおかしいのである。

「しっ島本さん……」
「……」
「もしかして、島本さん所も……」

 島本さんも僕の頭を見て悟ったらしく、遂に口を開いた。

「いや〜蛇口を捻ったら、青汁が出て来てさぁ〜」
「……青汁??」

 僕は青汁よりマシかな、と思った。

                                     おわり


戻る