濁った血の匂いが鼻をつく。私の頬に、生暖かい返り血が飛んだ。醜い姿をし
た獣は、悲鳴とも怒りとも区別のつかない叫び声をあげる。耳に障る声だ。そ
んな声を1秒でも長く聞きたくはない。短い呪文を唱えると、紅い炎が手にし
た剣を包んだ。全て焼き尽くしてしまえばいい。そう思いながら、剣を振りお
ろす。


      斬!


鈍い感触の後、激しい炎が一瞬空を焦がした。匂いまで焼き尽くしてしまう。
私は剣を鞘に収めると、灰へと変わり果て、崩れゆく獣の姿ををじっと見つめ
た。やがて、悲鳴の反響は消えてゆき、森は深い静寂を取り戻した。

「それで、私に何か用なのか?」

男はそう言って、ゆっくりと振り返る。そこには1人の少年が立っていて、男
のほうをじっと見つめていた。派手ではないが、きちんとした身なりをしてい
る。こんな深い森の中にいる事自体が不思議な感じがする。

「今の技は…魔法剣ですか?」
「そうだが、それがどうかしたか?」
「教えて…もらえませんか…」

少年の微かな動きにあわせて、柔らかそうな髪の毛が揺れた。穏やかな表情も
崩れる様子もない。人から注目を浴びるのに慣れた人間だ。だが、私の興味は
少年のどこよりも、その2つの目に向けられた。まるで燃えているような…紅
い瞳…

「こんなものを教わってどうするつもりだ」

ほんの少しの沈黙。うつむき気味の視線で、少年は言う。

「殺したい奴がいる……」























d i s c o v e r y
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
              1998(c) Qwerty






















男がセレスティアルブルーの長い髪を掻き上げると、隠れていた右目の眼帯が
見えた。少年を見ていると、失った右目の後が傷む。まるで昔の自分を見てい
るような、そんな錯覚を覚えた。

「自分が…何を言っているのか、わかっているのか?」

少年は黙り込んだまま頷く。

「子供の戯言に、付き合っている暇はないんだ」
「戯言を言っているわけじゃない」
「戯言を言っているんじゃないとしたら、気でも狂っているのか。そんな事を
 してどうなる」
「なるならないの問題じゃない…」

少年はそう言いながら、心の中で思う。そんな事はわかっている。そんな事を
しても何も変わりはしない。僕が救われるわけでも、失われたものが戻ってく
るわけでもない。でも、やらなければ気がすまない…

「やるしか…ないんだ」
「馬鹿げているな…」

男をそう言って舌打ちした。

「それにお前は魔法というものをわかっていない。元来、魔法というものは限
 られた民族の血を受け継ぐ者たちか、特殊な道具の力を借りて初めて使える
 ものだ。お前みたいな、どこの誰だかわからないガキが、魔法など使ってみ
 ろ。一瞬で反動による崩壊が始まる。自分の命を捨ててまでの殺しに、いっ
 たい何の価値がある?」
「この命程度を引き換えに奴を殺せるなら…その後の事なんてどうでもいい」
「面白いガキだな。気に入った。私の名前はレディウス。お前の名は?」
「ジル」
「いいだろう。ついて来な、ジル」
「教えてくれるのか」
「まだだ。暫く様子を見させてもらう。お前が力を求めるべき資格があるかど
 うかな。もし、お前が一刻も早く力を求めるというなら、止めてもいい。好
 きにするといいさ」

そう言って、レディウスは歩き出した。ジルは少しも迷う様子もなく、レディ
ウスの後について歩き出した。





青々とした草原が続く。風が緩やかに木々を揺らせていた。ぼんやりと遠くを
眺めていた僕を呼ぶ声がする。

「ねぇ、ジル。見て見て」

そう言って彼女は、白い小さな花で編んだ草の冠を頭に乗せ、僕に向かってにっ
こりと微笑んだ。白いドレスが軽やかに揺れる。

「どう、お姫様みたいでしょ」
「ほんとだ」

そう言って、じっと彼女を見ていると、彼女は怒ったように頬を膨らました。

「ねぇ!ジルっ!!」
「なっ、何?ソニア」
「女の子が自分の着飾った姿を見せてるんだよ。もうちょっとね、誉める言葉
 が多くてもいいんじゃない?」
「…ごめん」
「情けないなぁ〜、そうやってすぐ謝るんだから」

ほんの少しの間、あきれ果てたという表情を見せたあと、また、にこやかな表
情を見せる。ソニアが見せる無数の表情は、僕の心を幾度となくなごませてく
れた。まだ小さかった僕が、重い重圧の中耐えれたのは、彼女のごく自然な立
ち振舞いのせいかもしれない。彼女は嬉しそうに言った。

「ねぇ、私、お姫様になれるかな」
「なれると思うよ。ソニア…奇麗だからさ」
「ほんと?」
「うん」
「じゃあさ、ジルは、がんばって王子様になってね」
「え?」
「それで、私をお姫様にしてくれる?」

そう言って、僕の目を覗きこむ彼女を見て、僕はドキドキしてうまく喋る事が
できなかった。

「約束だよ」
「う…うん」

ソニアは微笑んだ後、くるりと回り僕に背を向けた。2・3歩進んだ後、彼女
は静かな口調で言う。いつの間にか、風の音が止んでいる…

「でも、ダメなんだよね」
「なにが…」
「ジルは…嘘つきだから……約束、守ってくれないから……」
「なんだよ、それ」

無言で振り向いた彼女は、とても哀しそうな目をしていた。僕は次に言おうと
した言葉を思わず飲みこむ。どこかから、何かが燃えているような匂いがした。
何かが焦げつく匂い。訳のわからない騒音。

ふと気がつくと、辺り一面が火の海だった。誰かの悲鳴が聞こえる。そして、
ソニアも火に包まれる。激しい炎が彼女の体を焦がすのに、苦痛の表情も悲鳴
もない。淡々とした表情で、彼女は僕を見る。

「ソニアっ!!」

僕は駆け出す。駆け出してどうなる?彼女はもう火に包まれているのに。それ
でも、駆け出さずにはいられなかった。今なら、まだ間に合うかもしれない。
ほら、手を伸ばせばすぐ届く距離だ!!

でも、僕がどれだけ走っても、彼女には届かなかった。僕がいくら近づいても、
彼女は同じ距離だけ遠ざかっていた。炎が完全に彼女を包む…

「ジルの………嘘つき……」
「ソニアアアアァァァァァァァァァァァァァア!!」

目覚めるとそこは暗闇だった。時計の音がカチコチと響く。徐々に目が慣れて、
辺りの様子がはっきりとしてくる。たいして上等でもない宿屋の一室。長年、
部屋に染みついた匂いが鼻をつく。嫌な感じのする汗が頬をつたい、僕は額を
手で被った。

「また、同じ夢……」

いつからだろう、何かが狂い出したのは。自分の中の幻影に、うなされ続ける
日々。まるで絡みつく糸のように、僕にまとわりついた呪いは、ほどける事は
ない。僕はただ、壊れていく…

荒れた息を整えると、窓の外の音に気づいた。雨音?カーテンを開くと、滝の
ような雨が降り続けていた。僕は窓際に椅子を持っていき、ずっと雨を眺めた。
もう眠れそうになかった。





レディウスは食堂のテーブルで、送られてきたばかりの新聞を読んでいた。ま
だ、完全に乾いていないインクの匂いが、ほんの少しきつい。コーヒーを一口
飲むと、理由もなくため息が出た。ロクなニュースがない。あるのは、取るに
足らない事件と、嘘にまみれたこの国への賛美だった。誰もがこの王国を、愛
していない事など知っていた。そろそろ、ここからも離れたほうがいいだろう。
いつか内乱が起こる。そう改めて確信した。

軋んだ音がして、食堂のドアが開く。レディウスは目だけでドアの方向を見た。
ジルだ。ジルはぐるりと食堂内を見回すと、まっすぐとレディウスのところへ
とやってきた。

「おはようございます」
「ああ、よく眠れたか…」
「まぁ…」

レディウスは、クックッと笑いながら言った。

「嘘つきだな…なんなんだ、その目の隈は…」
「こ、これは…」
「まぁ、お前さんが寝不足になろうが構わんよ。ただ、深夜に大声で叫ぶのは
 どうかと思うぜ」

レディウスは意地の悪そうな笑みを浮かべる。ジルは慌てて、思わず大声で叫
んだ。

「聞いてたんですか!」
「聞こえたんだよ」

そう言って、コーヒーの残りを飲み干した後、レディウスは立ち上がり、ジル
の肩をポンと叩いた。

「あんまり気にするな。はっきりと聞いたわけじゃない。まぁ、朝飯でも適当
 に食って、嫌な事なんて忘れちまいな」

食堂を立ち去るレディウスの手には、剣がさも当然のように握られていた。い
つも持ち歩いているのか。いや、きっと当然の事なんだろうな…。そんな事を
思いながら、剣を部屋に置いてきた自分の姿を見た。食堂のメニューを開き、
書かれた文字をざっと眺める。食欲はなかった。

ぼんやりとメニューを眺めていると、別のテーブルから男が1人近づいてきた。
あまり奇麗な身なりじゃない。いや、これが普通なんだ。ジルはそう思った。

「なぁ、兄ちゃん。今の男と知り合いなのか」
「ええ、まぁ…」
「悪いことは言わねぇ、止めときな」
「どういう事です?」
「気づかなかったのか、あいつは龍族だよ」

男は吐き捨てるように呟いた。





雷鳴とともに激しい雨が降る。男は木の陰で、じっと息を潜めていた。後ろで
束ねている髪が、べっとりと肌に貼りつく。自分の体から流れて落ちていく血
を、彼はその2つの瞳でしっかりと見つめていた。

 なぜ、私がこんな目にあわなければならない!?

何度この問いかけを繰り返したのだろう?なんどやったところで、自分が納得
できる答えなど、出てくるはずがないのに…。足音が近づいてくるのが分かる。
そう、奴らはすぐそこまで来ている…。無意識のうちに、剣を握り締める手に
力が入った。

「居たぞっ!こっちだ!!」

鎧に身を固めた男が3人、彼を囲む。鎧の胸の部分には、シンプルに仕上げら
れた紋章があった。間違いない…シュトラクツァー家の奴らだ。彼はそう思っ
た。

「随分てこずらせてくれたじゃねぇか」
「俺たちだって忙しいんだよ、あんまり世話かけないでくれるか…」
「なぜ…バロン王は、あんな命令を出した……」
「知らんよ、俺たち兵隊は、そんな細かい理由なんて教えて貰えないからな」
「ま、お前らの血に、ドラゴンの血が混じっているからじゃねぇのか」
「血…だと……」
「ああ、それ以外に俺らが思いつける理由はないな」
「ふざけるなっ!!」

彼は剣を握り締め構える。

「そんな事のために、仲間たちは殺されなければならなかったというのかっ!!」

男たちも一斉に構える。

「言っただろう…世話かけるなってな!!」

剣と剣が重なりあい、激しく火花が散る。3人相手はきつい、せめてこの怪我
さえなければ…。男の斬撃が肩を切り裂く。彼は痛みを振り払うように、男に
切りかかる。しかし、その剣先は鎧により阻まれ、男の肌を切り裂くことはな
かった。その場に倒れてしまいそうになりながらも、彼は必死に間合いを取ろ
うとする。

「くそっ……」
「そろそろ、観念してもらおうか」

死ぬのか…こんなところで……。彼はそう思いながら、男たちのほうへ目を向
けた。その時、彼は何かの気配を感じた。目の前の男たちではない。もっと別
の…。彼は視線を、男たちの向こうへと向けた。誰かがいる。

崖の上に人影があった。男か女か?若いのか年寄りなのか?それすらも分から
ない。薄汚れたローブが全身を覆い、ギラついた目だけが、彼をじっと見てい
た。大気がザワつく…

彼の頭の中に、何かが過った。

「いかんっ、逃げろ!!」

彼は男たちに向かってそう叫んだ。その言葉が、終わるか終わらないかという
時に、辺りに激しい轟音が鳴り響いた。





レディウスは窓の外を眺めながら、知らないうちに、目つきが鋭くなっていた
自分に気づいた。変わっていない…雨も、人も、何もかも……





3日間、雨は降り続いた。ジルは少しずつ、苛立ちを抑えきれなくなっていた。
このまま、この宿で無駄に時間を過ごしていくのか?冗談じゃない。もし、レ
ディウスが自分を試しているというのなら、何か課題でも与えてくれれば、こ
んなに苛立つ事はなかっただろう。何もしないという事。それが今のジルには、
最大の苦痛だった。

雨も小振りになった4日目。ジルは堪え切れなくなり、レディウスに言った。

「いったい、いつまでここに居るつもりなんです!!」
「どうしたんだ、怖い顔をして。かわいい顔が台無しだぜ」
「馬鹿にしないでください!」
「まぁ、落ち着け」
「落ちついていられません!僕を試すなら試すで、何かやらせてください。い
 つまでも、時間があるわけじゃないんだ!」
「なぁ、ジル。どうして、魔法じゃなきゃいけないんだ」
「え?」
「殺したい奴がいるというならそれでいい。でも、無理に魔法なんざ使わなく
 ても、手段はいくらでもあるはずだ。剣術でもいいし、毒だって使える。な
 ぜ、魔法なんだ」
「それは…」

ジルはうつむき、下唇を強く噛む。なんと答えればいいのか、迷っているよう
でもあった。短い沈黙の後、ジルは口を開く。

「同じ苦しみを…あの男に味わわせたい。それだけです…」

レディウスは口元だけで笑みを作った。まるで予め答えを知っていたみたいに。
そして、小さな炎を指先に作り、ほんの数秒の間に消した。

「今の炎を作るだけで、体にどんな影響が出ると思う?」
「え?」
「そうだな…普通の人間なら、寿命が3〜4ヶ月は縮んだはずだ」
「そんな…あれだけの事で……」
「俺が最初に見せた魔法剣。あれをお前がやってみろ。切りかかる前にお前の
 命は尽きる。俺が無理だと言っているのは、そういう事さ」
「それじゃあ…」
「言っただろ、普通の人間には無理なんだ…あの技は」

短い沈黙の後、ジルは小さな声で呟いた。

「じゃあ…どうして……」
「どうした?」
「どうして、教えてやるなんて言ったんですか!」
「お、おい、ジル」
「僕をからかって!馬鹿にして!あんたは楽しいのかよっ!」

レディウスは何も言わない。ジルが次に何かを言おうとした時、それを遮るよ
うに隣のテーブルから怒鳴り声が鳴った。

「ガタガタうるせぇんだよ!てめぇら!!」

数人の男がジルとレディウスを睨んでいた。男たちは肌を露出した服を着てい
て、無数の傷痕が見える。傭兵か何かかもしれない。ジルはごくりと唾を飲ん
だ。1人の男がこちらに近づき、座っているレディウスを見下ろした。口元に
は、下品な笑みが浮かんでいる。

「おい、てめぇ龍族だろ」

男は剣の鞘で、レディウスの顎を持ち上げ顔を自分のほうへ向ける。レディウ
スは何も言わずに、じっと男を見ていた。

「へっ、どうせ龍族狩りから逃げてきたんだろうけどな、ここはてめぇみてぇ
 な混血が来るところじゃねぇんだ。人間様の街なんだよ!」
「…すまなかった」

ジルは自分の耳を疑った。どうして?どうしてレディウスが謝るんだ?レディ
ウスはそれ以上何も言わずに、食堂を立ち去ろうとした。男たちは笑いながら、
言った。

「へっ、臆病者。その剣は飾りかよ」
「ちょ、ちょっと待ってよ、レディウス」

ジルは慌ててレディウスの後を追い、廊下でレディウスの肩をつかんだ。

「どうしてだよ…悔しくないのかよ!あんな風に言われて…馬鹿にされて…レ
 ディウスのほうが強いんだろ!なのに…なのに…」
「ジル。あいつらの言っている事のほうが…正しいんだ。ここは俺たちの住む
 街じゃない…彼らの街なんだ」

そう言って振り向いたレディウスの顔は、なぜか少し悲しげだった。でも、そ
の表情が、余計にジルを苛立たせた。

「見込み違いだったよ!僕の!!」

そう叫び、ジルは宿を飛び出していった。1人になったレディウスは、ポツリ
と呟いた。

「臆病者か……確かに、そうかもな………」





炎はどこまでも広がっていた。僕は小高い丘の上から、その景色をずっと眺め
ていた。錯覚かもしれないけど、血の匂いがどこまでも続いているようだった。
耳にはまだ、叫び声の残りが響いている。気持ち悪い…吐き気がする。

「いいか、ジル」

険しい表情で、その景色をじっと眺めていた父が、静かな口調で言った。

「お前は王族の血を引いているんだ。ほかの者たちとは違う、特別な存在なの
 だ」
「はい…」

違う…

「死んでいく人間を哀れだと思うな。反乱を企てた奴等を生かしておいてはな
 らん。いや、企てた者たちだけではない。その一族も、ともに生活していた
 者たちも、全てだ」
「はい…」
「そう言えば最近、よく屋敷を抜け出して、ふらふらしているそうだな」
「え…いえ、そんな事は…」
「隠さんでもよい。わしが気づいていないとでも思ったか」
「…すいません。父上」

会話を遮るように、近くの茂みから音がした。剣を手にした男が、父の前に飛
び出す。

「バロア・シュトラクツァー!キサマは許さんっ!!」

そう叫んだ男は、剣を振り上げる。その剣が振り下ろされるより速く、父の剣
は、男の胴を真っ二つに切り裂いていた。飛び散った血が僕の頬に触れる。ど
ろりとした感触。父の表情はピクリとも動かない。僕は倒れた男の顔を見る。
ソニアの父さん…

「いいか、ジル。民に心を許すな。奴等はわしらと別の血を持つ、別の存在な
 のだ。お前はジル・シュトラクツァー。わしの息子なのだ…」



この血が憎い…
僕を縛る血が…
僕を呪う血が…

                              殺す……





冷たい風がそっと肌を撫でた。木々がざわざわと揺れる。僕は知らないうちに
眠っていたみたいだった。綺麗な森だな。そう思った。僕は巨大な木の幹にも
たれるように空を見上げる。不思議な気分だ。何かが肌に触れているだけで、
随分と落ち着いた気分になれる。夕日が空を赤く染めていた。街を飛び出して、
かなりの時間がたっていた。

これから、どうすればいいのだろう。僕の今の力で、あの男に勝てないのは分
かっていた。でも、どうすればいいというのだ。拳をぐっと握り締める。力が
欲しい…力が……。

「よぉ、さっきのガキじゃねぇか」

声のしたほうを見ると、宿でからんできた男たちがいた。これから別の街へ移
動するところなのだろうか。彼らは見下すような笑みを浮かべ、僕を見ている。
嫌な笑みだ。

「なんだ、1人か。って事はさっきの腰抜けとは別れたわけか。結構結構。あ
 んな弱虫とは一緒にいるもんじゃねぇさ」

そう言って男たちは笑う。その笑い声が、僕を不快にさせた。

「…ウスは」
「は?何か言ったか?坊主」
「レディウスは、あんた達なんかより、よっぽど強いっ!」

男たちの顔色が変わった。明らかに不愉快な顔だ。僕は言った後、少し後悔し
た。なんであいつをかばう必要があるんだ?そう思った瞬間に男の蹴りが僕の
腹を打った。鋭い痛みが伝わる。

「おい、ガキ。もう一度言ってみろ」
「…レディウスは……あんた達より、ずっとずっと強いって言ったんだ!」
「ほぉ、じゃあ、てめぇもさぞかし強いんだろうよ」

男はそう言って剣を抜く。僕を殺す気だ!とっさに間合いを取ると、僕も手に
した剣を抜いた。新品同然の剣。まだ血にも汚れていない剣。

「だったら見せて貰おうじゃねぇか!てめぇの強さをよ!」

そう叫んだ後、男の鋭い一撃が僕に向かって振り下ろされた。僕は即座にその
一撃を剣で受ける。激しい衝撃が手に伝わる。手が痺れそうだ。そのまま男は
何度も切りかかる。顔は笑っている。馬鹿にしてる。でも、僕は男の攻撃を受
ける事に精一杯で、自分から攻撃する事はできなかった。そして、何度目かの
攻撃を受けた時、鈍い音とともに僕の剣が折れた。

「な…」
「ナマクラだなぁ、おい」

そう言った男の拳が、僕の腹を打った。胃の中身が戻されそうな衝撃。男はそ
のまま、僕の胸ぐらを掴み上げると、背中を木に叩きつけた。痛い。男は僕を
木に押しつけたまま、酒臭い息で僕に言う。

「もう一度、チャンスをやろう。誰が強いんだって?」
「レディウスだよ…」
「死にたいらしいな。どうやら」

そう言って男は剣を振り上げる。僕は思わず目を閉じた。その瞬間、男の叫び
声が森の中に響いた。慌てて目を開けると、男の手首より先がなくなっていた。
血が噴き出、苦痛の表情を浮かべる。振り向くと、剣を抜いたレディウスが立っ
ていた。

「1つ言っておこう」、レディウスは男たちに近づきながら言う。
「ここは、お前たちの街じゃない」

そして何やら呟くと、激しい風がレディウスの剣を包んだ。魔法剣?

「死ね…」

そう言ってレディウスは他の男たちに切りかかる。軽く擦っただけで、男たち
は激しい疾風に呑まれた。風が男たちの肌を切り裂き、血が舞散る。手首を切
られた男は、ガタガタ震えながらレディウスを見ていた。そして、レディウス
は、最後の1人となったその男に、ゆっくりと近づく。

「ま…まってくれ、俺たちが悪かった。な、見逃してくれ」
「そう言った俺の仲間たちを、お前は見逃したか?違うだろう」
「し…仕方なかったんだ……頼む、助けてくれぇ!!」

レディウスの剣が振り下ろされる。風がざわめき、静寂が戻った。返り血を浴
びて、真っ赤に染まったレディウスは、僕をじっとみる。僕は声も出なかった。

「力が欲しいか?」

僕は頷く。

「命を引き換えにすると言った覚悟、変わりはないか?」

僕は再び頷く。

「いいだろう。お前にチャンスをやる」

そう言ったレディウスの声は冷たく、別人のようだった。





森を進むと洞窟があった。その洞窟に着くまで、僕もレディウスも何も喋らな
かった。洞窟の奥は広く、どこかから光が差し込んでいた。ゆっくりとレディ
ウスが口を開く。

「龍の血の伝説を知っているか?」
「…人並みには」
「龍の血を飲むと、とんでもない力が得られるというのは子供でも知っている
 伝説だ。そして、その伝説は本当の事だ。なにせ、その龍の血を飲んだ人間
 の末裔が、俺たち龍族なのだからな」
「そ、そうなの?」
「昔、ある国が龍の力を欲し、大規模な龍狩りを行った。そして多大な犠牲を
 払い、1匹の龍を退治してその血を得た。だが、その国は滅びた。なぜだか
 分かるか?」

僕は首を横に振る。

「猛毒なんだよ。龍の血は」
「ど、毒?」
「龍の血を飲むと言うのは、一種の選別なんだ。力に耐える事のできる人間は、
 その力を覚醒させ、耐えきれない人間は、その力に押しつぶされてしまう。
 なにせ、人間の体の作りを完全に組み替えるのだからな」

そう言って、レディウスは自分の手を切った。

「!?」
「そして、その効果は直接龍の血を飲むほどではないが、龍族の血にも存在す
 る。俺の血を飲め。それがお前に与えてやれるチャンスだ」

レディウスは自分の血をコップに注いだ後、僕の前に置いた。猛毒の龍の血。
自分でも気づかないうちに、僕の足はガタガタと震えていた。僕は生き残れる
のか?それとも死ぬのか?分からない。分かるはずがない。でも、やらなけれ
ば…やらなければ、あの男は殺せない。

僕は一気にその血を飲んだ。

「なんだ、なんともな……」

そう言いかけた僕に激しい震えが走った。吐き気とともに血を吐き出す。体中
が痺れ、バラバラになりそうな痛みが全身を駆け巡る。僕はうめくように、の
たうち回った。

「失敗だ。運がなかったな」

運?運だって?そんな安っぽいもので、僕は死ぬのか?そんな下らないもので
しか、僕は死ねないのか…

「その毒はそう簡単には死ねない。気が狂うような苦しみが、気の遠くなるほ
 ど長く続くだろう。不幸だったな…」
「ま、待ってください…」

そう言って立ち去ろうとするレディウスを、僕は必死の声で呼び止めた。

「どうした?」
「僕の話を…聞いてもらえますか?」
「いいだろう。言ってみろ」
「僕の名前は…ジル・シュトラクツァー。龍族抹殺の命令を出した…バロア・
 シュトラクツァーの息子です…」
「なんだと?」
「僕は…父が憎かった。多くの人の命を奪った父を…大事な人たちを奪った父
 を…」
「だから、殺そうとしたのか?」
「僕の代わりに…あの男を……殺してください」
「ダメだな」
「え?」
「まだお前は生きているんだろう。生きているなら、自分で出来る限りの事を
 やってみろ。さっきも言ったように、その毒で死ぬにはまだまだ時間がかか
 る。その間、苦しみ続けるのもよし。お前の父を殺しに行くのもよし、自分
 で死ぬもよし。好きにすればいいさ」

そう言って、レディウスは自分の剣を僕に投げて渡した。

「死に方を…選べって事ですか……」
「違うな」

レディウスは、はっきりと否定した。

「生き方を選ぶんだ」

そう言って立ち去るレディウスの後ろ姿を、僕は途切れそうな意識でじっと見
つめていた。僕にどうしろって言うんだ。こんな体で…こんな意識で…僕にいっ
たい何ができる。苦しい…何もかもが嫌になる。その剣で全てをお終わらせた
い…。楽になりたい…このまま楽に……





空はいつの間にか青空が広がっていた。当分雨の心配はないだろう。レディウ
スは、食堂でコーヒーを飲みながら、窓の外を見て思った。なぜ、私はあの時、
あの男を殺したのだろう。血と雨に濡れながら、暗く深い場所で…

レディウスは自分の手をじっと見つめ、ため息をつく。この両手は、どれだけ
の血に汚れたのだろう…そして、この両手がどれだけの人を救えたというのだ
ろう…。多分、誰1人救えなかったはずだ。レディウスは立ち上がり、食堂を
後にした。

部屋の扉を開けると、ベッドに寝ている男に声をかけた。

「1週間も眠り続けた気分はどうだ。ジル」
「どうして…僕を助けたんです?」
「助けたりはしていないさ。言ったろう。効果は龍の血ほどではないと。つま
 り、失敗しても死ぬまではいかないのさ」

レディウスは、意地の悪そうな笑みを浮かべて言った。

「苦しみながら、いろんな事を考えました。父の事…僕の事…」
「それで、何かわかったのか?」
「僕は…僕はただ、逃げていただけだったんです。強くて…巨大な父の存在か
 ら。僕には…父を止める事が、止めようとする事ができたんです。でも、僕
 は、父が怖かった。父から逃げ出す事しかできなかった。そして、父を憎む
 事で、自分は間違っていないと思いこもうとしていた…。僕は…卑怯者だ」
「ジル、これだけは覚えておいたほうがいい。復讐によってもたらされた正義
 は、復讐によって覆される」

そう言って、レディウスは自分の眼帯を取った。目をえぐったような傷が、はっ
きりと残っている。淡々とした口調でレディウスは続ける。

「俺も、この目を失うまで気づかなかった事だがな」

ジルはレディウスの言った事を、頭の中で何度も繰り返した。じゃあ、これか
ら僕は、どうすればいいんだ…

「俺も一時期、お前の親父の事を真剣に憎んだ。何度も殺してやろうと思った。
 でもな、お前の親父のやり方も、1つの正義の形ではあるんだ。そのやり方
 を喜んで迎える人たちもいる。俺たちは嫌われ者だったからな」
「僕が、父を殺そうとしたのは、間違いだという事ですか?」
「さぁな。間違いの反対がいつも真実とは限らない。そして、真実の反対が常
 に間違いとも限らない。真実がそんな簡単に見つかるなら、誰も迷いも傷つ
 きもしないさ」

レディウスはそう言うと、ジルに背を向け、部屋の扉を開けた。

「ここでお別れだ。俺は俺の真実を見つけ出す。お前はお前の真実を探しだせ」
「レディウス」
「なんだ」
「その…また、いつか会えるかな……」
「さぁな…」

そう言って、レディウスは部屋を出た。そして、声に出さずに思った。幸せな
再会はできないかもしれないがな…





ジルは1人きりの部屋の中で、じっと天井を見ていた。染みのついた古い天井
は、ひどく哀しく見えた。そして、知らないうちに、涙を流していた。でも、
その涙が誰のためのものなのか、その時のジルには、まだ分からなかった。


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