「吸血女をデリートせよ」

浅川こうすけ


   第一章・たったひとつの魔法


 Cと書かれたプレートの前を横切るとき、スリアは前を歩く青年にこう訊ねた。
「あのアルファベット、もしかしてえ、食事のランクづけかあ?」
「黙っていろ」
 ふりむいた青白い顔の青年は、赤い唇から冷たい息をはきだした。くさった果物からかもしだされるような、甘くねばりつく匂いがした。
 スリアはこれ見よがしに鼻をつまもうとしたが、手かせの重さがズシリと腕に食いこんできて、断念するしかなかった。
「貴様はここだ」
 青年が足をとめた牢屋には、Gのプレートがかかっていた。
「グレートのGだと思いたいねえ」
 牢にいれられても軽口をたたき、スリアは自分の体を見下ろした。骨と皮ばかりなのは、確認するようなこともない。服を着ているというよりも、はいっているほうが近いという体格なのもこれ承知。だからこそ、鉄格子の隙間から逃げだせるかとも思ったのだが、頭がはいらないのでは無理だった。
 異臭がツンと、鼻腔を刺激してきた。肌にじっとりとねばりつく湿気は、怨嗟をたっぷりとふくんでいる。
 百人に訊ねれば、九十九人は長居は無用と答えるだろう。残りのひとり、それはきっと死神だ。彼は答える。ここにいれば仕事が楽だと。
 スリアは鉄格子にもたれた。
 遠ざかる青年の背中が見えた。彼の足音が、地下の廊下にこだましていく。
「吸血鬼はあ、面食いと決まってるう。あいつは生前、Aってところかなあ」
 間のびしたした声で、だれにともなくつぶやいた。
 スリア・ハードが吸血鬼を退治しにこの城に侵入したきっかけは、あてのない旅の途中、立ちよった町で聞いた話であった。
 泊まった宿の主人が、髭面を消沈させて、この城の吸血鬼のことについて忠告してくれたのだ。早くこんな町でないと、あんたも犠牲者になるぞ、と。
 きょとんとすると、髭面の主人がカウンターをふきながら、吸血鬼は女なんだよ、と吐きすてた。
「突然だ。一ヶ月前、なんの前ぶれもなしに、西の山のてっぺんに黒い城ができやがった。その夜、町長の息子が急にいなくなった。ひとりだけなら家出ともとれるが、それから毎晩、若い男がひとりづついなくなっていくとなちゃあ、大問題だ」
 宿の主人があご髭をもてあそびながら、憎憎しげに話してくれた。さらに、もちろんオレたちもだまっているわけじゃない、と続けてくる。
「深夜、物陰にひそんだ見張りが女を見た。黒いナイトドレスに白い肌。赤い唇からのぞく牙が、月明かりを反射させていたと震えながら報告にきた。こんな辺鄙な町にいても、吸血鬼の能力については知れわたってる。オレたちが徒党をくんだところでどうしようもない。金を集めて、冒険者を雇った」
 宿の主人は、歯のあいだから声を押しだすようにして、彼らは帰ってこなかった、とむすんだ。
 そして、その後、つい五日前、彼の息子も姿を消した。
 スリアは鉄格子ごしに、廊下の端をにらんだ。
 剣を手にした牢番には目もくれず、青白い顔の青年が地上への階段をのぼっていく。
「あいつう、町民っていう顔じゃないなあ。きっと冒険者だろうねえ」
「うるさいぞ」
 低くどなる声に、しかしスリアはケロリとした顔で、
「なにかなあ、マルヴォロくん?」
 と顔をニヤニヤさせた。
 驚いたのは、マルヴォロと呼ばれた男のほうであったろう。部屋の暗がりであぐらをかいた姿勢から、一転ガバリとつめよってきて、
「貴様! なぜオレの名を……」
 彼の吐きだした歯垢の悪臭に鼻をすっぽりと覆われ、スリアはこみあげた嘔吐感に眉をしかめた。
 それでも、ニヤニヤ笑いをやめないのは立派だ。
「決まってるじゃあないかあ、ふもとの町の町長に聞いたのさあ。一昨日、吸血鬼の退治を依頼した剣士がいたってねえ。それにしてもお、ああ……」
「どうしたんだ?」
 スリアはこれ見よがしに、落胆した顔をマルヴォロにむけた。
 いったいどこの岩山から取ってきたのかと思わせられるほど、ごつごつした岩が首の上にのっている。よく見たら顔だとわかるのは、巨大なヒルのような唇がついているからだ。
「なるほどお、Gだあ。オレもその仲間。トホホ」
「なにをブツブツいっている?」
「仲間がひとり増えたってことに感激してたのさあ」
 スリアはしまらない顔で、マルヴォロの胸を拳でたたいた。弾力ある手応えがかえってくる。顔はともかく、体は美しい筋肉の固まりだ。それでいて、表面には脂肪の層がある。まさに理想的な体躯であった。
「吸血鬼を退治する仲間ということなら、残念だな。この牢からは、でれないぞ。格子を折り曲げようとしたが無理だった。魔法がかかっている」
 ――つまり、魔法がかかってなかったらあ、この程度の格子は力技であけられると、こういいたいわけねえ。
 と、スリアは心のうちでつぶやいた。口にしたのは、
「オレならあけられるぜえ」
「――魔法使いなのか?」
「その通りい」
「おお! では『開錠』の魔法が使えるんだな!?」
「使えないよお」
「なら、『魔法禁止』が使え……」
「ないよお」
「まさか『ファイヤーボール』で吹き飛ばすのか?」
「使えないってえ」
「使えない使えないと、貴様、ほんとうに魔法使いなのか?」
「ああ。ただしい、たったひとつの魔法しか使えないけどねえ」
 にやけた顔で、スリアは床に寝転がった。
「なにを……?」
「見てなって、オレの魔法を」
 そういうや、スリアは目をつむり、途端に寝息をたてはじめた。
「こんの……」
 眉間にしわをよせながら、マルヴォロが足をあげた。
「まさかあ、そのごつい足でえ、オレの体をふみつぶそうってわけじゃないよねえ。ええ、マルヴォロくん」
 愕然とマルヴォロがふりむいてくるのへ、部屋のすみで腕組しているスリアは、あいかわらずのにやけた笑みを送った。
 マルヴォロが足元に視線を戻した。
 床に横たわったスリアが、静かに寝息をたてている。
「なにが、どうなって……?」
「オレがあ、たったひとつだけ使える魔法」 スリアは、マルヴォロの足元に横たわる自らの体を見てから、
「それが『ドリーミング・ツリー』だあ」
 マルヴォロの岩のような顔のなかで、ノミのような目がかすかに見ひらかれた。
「以前、コンビを組んでいた魔法使いがいっていた。ドリーミング・ツリーという魔法があると。それは夢を実体化させて、コントロールする魔法だと」
「剣士なのに詳しいねえ。では問題だあ。こっちのオレはなんでしょうかあ?」
「夢、かよ。ここに寝てる本体の見ている」
「ピンポーン」
 軽くステップをふみながら、スリアは鉄格子に近づいた。
「そして、ドリーミング・ツリー。夢にふれられたものを夢にすることもできるう」
 スリアは鉄格子にふれた。
「ふれたぜえ、この鉄格子は夢になるう」
 マルヴォロの目には、鉄格子がゆらりと揺れたように見えたことだろう。
「そして夢は、夢見るものが目覚めれば消えるう」
 その声に、ぎょっとしてふりむいたマルヴォロにむかって、ちょうど床から起きあがったスリアはウィンクした。
 そして、マルヴォロが再度ふりむいたときには、夢のスリアも鉄格子も消えていた。
「オレの魔法ドリーミング・ツリー、いかなる物体をも、瞬時に消滅させることができる無敵の魔法だあ」



   第二章・マルヴォロ奮闘す


 電光石火であった。
 その巨躯からは想像できないスピードで、マルヴォロが地下の廊下を疾駆する。
 牢屋番のひとりが、慌てて剣をかまえるのと、マルヴォロの丸太のような腕が、その顔面にめりこむのは同時であった。
 血と脳しょうが石壁へと軌跡を描き、べちゃりと気味の悪いオブジェをはりつける。
「わお!」
 と、スリアは感嘆の声をあげた。
 吸血鬼に噛まれた者は、一度死に、不老不死となってよみがえる。そのときに、常人を遥かに凌駕した力をうるという。
 その吸血鬼の僕を相手にして、このマルヴォロという男、赤子の手をひねるように頭蓋を粉砕してしまった。
 起きているあいだは、この怪人マルヴォロを敵にまわすべきではないと、スリアは心のメモに書きとめた。
 その怪人マルヴォロが、倒れた敵から剣を取りあげ、軽くふった。空中に白い軌跡が弧を描いた。
「魔法がかかってるねえ、その剣。いい拾いものだあ」
 スリアはしまりのない顔で、階段脇の作りつけの棚をのぞき見た。すぐに自らのナップザックを発見して肩にかける。
「なんだ、それは?」
「もちろん、オレの荷物さあ。捕らえられたときにい、没収されたんだあ」
「そういえば、おまえのドリーミング・ツリーは無敵の魔法なんだろ。どうして捕らえられたんだ?」
「マルヴォロくん、きみ、敵の前でえ、いびきかいて眠れるかあ?」
「――あきれた。そんなことで、よくもひとりで乗りこんできたもんだな」
「ああ、頼りになる剣士が先にきてえ、待っててくれてるって聞いたからねえ」
 絶句するマルヴォロにむかって、スリアはニヤニヤ笑いをより深くし、
「さあ、行こうかあ、マルヴォロくん。吸血鬼をデリートしにい」
 スリアは階段を軽妙に駆けあがった。
 淀んだ湿気が、鼻腔にねばりついてくる。吸血鬼の城だという先入観があるからだろうか、鉄分の匂いがうずまいているようだ。
 曲がりくねった廊下を進みながら、スリアは赤く染まった手首をなでた。手かせはすでに、ドリーミング・ツリーによって消滅させている。
 狭い廊下から、広い大広間へとぬけでると、スリアはおおきくのびをした。マルヴォロのあきれた顔が見えたが、もちろん無視だ。
 ふたりは大広間からのびる廊下のうち、赤い絨毯がしかれている一本を進んだ。
「そういえばあ。さっきの牢番にい、止めをさしてこなかったねえ。それがあ、原因だなあ。だれも来ないのはあ」
 マルヴォロが怪訝そうに顔をしかめたのへ、スリアは、
「コンビだった魔法使いに聞かなかったあ? 吸血鬼とその僕はあ、空間に隔たりがあっても意思の疎通ができるってえ」
「一種のテレパシーというやつだな?」
「そう。だからあ、マルヴォロくんの手ごわさはすでに知られてる。ザコをさしむけても無駄だと判断したんだろうなあ、親玉はあ」
「だが、あの牢番は死んだ。関係――」
「ありさあ。確かにい、彼は死んでる。でも、それはずっと以前、吸血鬼の僕と化したときだあ。だからこそお、いまは殺すことはできない。きっといまも生きてるう。そして、少しづつ回復しているう。そんな吸血鬼の僕を滅ぼすにはあ、心臓に杭を突き刺すかあ、太陽光をあびせる以外にない」
 スリアは足をとめた。
「だからあ、あいつも殺すことはできない」
 廊下の中央で剣をかまえている青年は、スリアを捕らえ、地下の牢屋まで連行したあの青年であった。
「うおおおおおお!」
 怒号はスリアの真横でした。
 マルヴォロの吠え声であった。
 巨躯に似合わぬ猫のような身のこなしで、マルヴォロが青年へと突進した。
 勢いもそのままに、青年の脳天めがけて剣をふりおろす。
 スピードにのった体から放たれる一撃は、神速にまで達した。
 金属がぶつかりあうのに酷似した音が、廊下に響きわたる。
 続いて散った火花は目がくらむほど凄まじかった。
 マルヴォロの一撃を青年が剣で受けとめた――わけではない。
 マルヴォロの渾身の一撃は、青年の頭上五センチの中空で静止していた。
「へえ、『魔法壁』かあ」
 スリアがにやにや笑いながら、肩のナップザックをかつぎなおした。
 先ほどの火花は、マルヴォロの剣にかけられた魔法と、魔法壁が反発したために起こったのだ。
 さすがのマルヴォロもこれはまずいと感じたのか、うしろむきに飛びずさった。
 それがいけなかった。
 青年が剣をマルヴォロにまっすぐにむけた。
 剣の一撃がくると、マルヴォロが青年の一挙一動に集中する。
 しかし、青年はピクリとも動かなかった。
 剣の先端で、光がちりちり踊りはじめる。
 かと思うと、拳大の炎があがり、ぎょっと見入っているうちに、たちまち人間大のおおきさになり、
「こりゃまずい」
 と、スリアがつぶやいたあとでは、廊下の幅いっぱいの火の玉になっていた。
「逃げるぞお、マルヴォロくん。『ファイヤーボール』だあ」
 スリアは踵をかえすと、迷うことなく駆けだした。
 大広間まで戻れば、ファイアーボールをさけることができる。
 だが、廊下は長かった。
「おい! あの火の玉を夢にして消せるか!?」
 追いついてきたマルヴォロが、醜く歯をむいていった。
「寝ればあ、消せるよう」
「じゃあ、寝ろ」
「こんな状態で寝られるかってえ」
 スリアは走りながら、背中があたたかくなってきたかなと思った。
「ねえ、ちょっとマルヴォロくん、ふりむいてみてくれいかあ」
 走りながら器用にふりかえったマルヴォロが、さらに歯をむき、
「こりゃやばい」
 スリアもチラリとうしろをのぞいた。
「はあ!」
 ファイアーボールのむこうで、青年のものらしい気合が聞こえた。
 そして、嫌な汗がでることに、ファイアーボールのスピードが増した。
 すでに背中、冷や汗だけでなく、熱さからでる汗でべっとりと濡れている。
 廊下はまだ続いていた。
「まずい!」
 スリアとマルヴォロの声が和した。
 ――ふれた。
 強暴なる火の玉が、ついに哀れなふたりを飲みこんだ。
 次の刹那、凄まじい爆発音が、天井から埃を落とした。
 もうもうと立ちこめる土煙。
 青年が剣をおろした。
「やっぱりい、剣よりも杖のほうがピタリ決まると思うけどねえ、どうせ触媒アイテムを持つのならあ」
 背後の声に、青年がぎょっとふりむいた。
「あっ、オレ? オレにはそんなの必要ないよお。このスリア・ハード、たったひとつしか魔法は使えないからあ」
 スリアは青年に近づいた。
 得意のにやにや笑いを浮かべて。
 否、いつもの笑みよりも、さらに悪魔的に。
「オレの魔法ドリーミング・ツリーは、いかなる物体をも瞬時に消滅させることができるう。たとえそれが、魔法でつくられたものであってもお」
 スリアはふれた。
 青年を守っている見えない壁を。
 火花が散った。
 魔法と魔法の衝突の火花。
「夢は伝播したあ。起きるぜえ」
 スリアの姿が背景に溶けた。
 青年が悄然と周囲を見まわした。
 魔法壁の消失にあせっているに違いない。
 このとき、神の手によるしわざのように、もうもうとこもっていた土煙が真っ二つに裂けた。
 中心に立つ巌のごとき者の名は、マルヴォロといった。
 魔法の剣を青眼にかまえるその背後には、半透明の緑色をした立方体が鎮座ましましていた。
 中では、スリアがしまらない顔で、寝ぼけ眼をこすっていた。
「行けえ、マルヴォロくん」
 マルヴォロ、すでに、青年にむかって猪突していた。
 剣をふりあげ、飛燕の速度でふりおろす。
 青年が剣で受けとめた。
 吸血鬼の僕は、常人の力を遥かに凌駕している。
 マルヴォロはそのさらに上をいっていた。
 剣の折れる音がした。
 続いて、人が倒れる音がふたつ。
 血が吹きだす音は、そのさらに後だ。
 死闘の終焉は、あっけないほどであった。
 マルヴォロの足元には、ふたつに折れた剣と、右と左に真っ二つにわかれた青年の体が転がっていた。
「凄いねえ、股間から頭頂まで真っ二つにしちゃったよお」
 立方体のなかで、スリアはにやけた顔であごをなでた。
 マルヴォロが愕然とふりかえった。両の目を見開いて、
「見えたのか!?」
「バッチリねえ」
 マルヴォロと青年の対決を、スリアは見ていた。
 それがいかに驚愕に値するか、この場に当事者以外の何者かがいても、きっと知り得なかったに違いない。
 マルヴォロと青年の剣がふれた刹那、互いの魔力が反発して火花が散った。
 その衝撃で、青年の体がわずかに後方にずれた。
 マルヴォロは力で押しきって剣をふりおろし、結果、青年の剣を断ち切った。
 しかし、青年の体は後方にずれていたために、マルヴォロの剣が血に塗れることはなかった。
 通常ならそこでいったん間があく。
 しかし、マルヴォロは一歩ふみだし、ふりおろしたときの倍のスピードでもって剣をふりあげたのだ。
 そして、当然の結果がでた。
 常人の目には、マルヴォロが剣を断ち切った勢いもそのままに、青年を頭頂から股間まで真っ二つにしたと見るだろう。
 しかし、スリアは、股間から頭頂といった。
 マルヴォロにとって、これ以上の脅威はないだろう。



   第三章・血戦夢闘


 スリアが床に置いた水晶球にふれると、緑色した立方体が瞬時に消えた。
 ファイアーボールに飲みこまれんとしたとき、ナップザックのなかの水晶球にスリアはふれた。瞬間、この緑色の結界が発現し、火の玉の攻撃を防いだのだ。
「昔、コンビを組んでいた魔法使いに聞いたことがある。呪文の詠唱中は無防備になるため、結界を自動発現させるアイテムを常備していると」
「常識だよねえ」
「実際にその結界も見せてもらったが、貴様のもつような強力なものではなかった。なぜ、いままで使わなかった?」
 スリアはにんまりと顔をゆがめると、
「その魔法使いってえ、女だねえ」
「な、なにを……」
 マルヴォロが上体をそらして、岩のような顔を赤く染めた。両手のひらを左右にふっているのは、違う違うというジェスチャーであろうが、この動転ぶりは正解の的をついたからこそだ。
「あたり、かあ」
「そんなことはどうでもいい! なぜすぐに使わなかったんだ!?」
「使う必要がなかったからさあ。マルヴォロくん、きみがいたからねえ」
 スリアは声にだして笑いながら、ふたつになった青年の体を見下ろした。
 まだ滅んでない。一度死んで、復活してきたのだ。心臓に杭を打ちこむか、太陽光にあてるしか、滅ぼす方法はない。
 そして、助ける方法もなかった。
 スリアは水晶球をいれたナップザックを肩にかけて、廊下の先を目指した。
「そういえばあ、マルヴォロくん。どうしてえ、きみは牢にはいってたんだい? 吸血鬼の僕相手でもお、まったくひけをとってないのにい」
 スリアは隣を歩くマルヴォロを見上げ、間のびした声で訊いた。
「多勢に無勢だったのかい?」
「違う」
「じゃあ、魔法をかけられてえ、眠らされたかしたんだろねえ」
 マルヴォロがなにもいわないので、スリアはいまのが正解だと確信した。
 そして、その魔法使いは先ほどの青年だろう。あれほどの実力者が、ふもとの小さな町にいるわけがない。やはり、雇われた冒険者だったのだ。
 スリアとマルヴォロは進む。胸にどのような想いが去来しているのか。
「ここだねえ」
 と、静寂を破ったのは、やはりスリアのほうであった。
 目前には、巨大な二枚扉がふさがっていた。闇をぬりこめたような黒い扉は、輝く金色でふちどられていた。
 スリアはしまらない顔で、扉に手をかけた。
 音もなく開いた。
 押してもいないのに。
「自動であくドアかあ、便利だねえ」
 のりこんだスリアは、広間のような部屋をざっと見まわした。
 床には真紅の絨毯が敷きつめられており、四隅には石の彫像が裸身をさらしている。三方向は石壁で囲まれているが、ドアのむかいのほうだけは、波打つ真紅のカーテンが邪魔でまったく見えない。
「わたしの僕が、ふたりも」
 背筋をなめるような声に、スリアはほんの少し片方の眉をあげた。
 だれもふれていないのに、真紅のカーテンが左右にわかれた。向こう側は、他よりも一段高くなっていた。
 そして、玉座に座る黒衣の美女ひとり。
「あれが吸血鬼、いや、吸血女か」
 マルヴォロの声が小さく落ちた。
 ほんの些細な程度だが、彼の声にうっとりした成分がまじっていたのをスリアは聞き逃さなかった。
 マルヴォロが吸血女に見とれるのも無理はない。
 黒衣の美女の肌はぬけるように白く、それでいて濡れたようになまめかしい。そう、白蛇の腹がちょうどこんなふうに艶光っている。
 腰までスリットのはいったナイトドレスは、闇を紡いだのでは思わせられるほど黒い。腰まである黒髪もまた闇そのものであり、吸血女のイメージカラーを決めていた。。
 そして、ああ、ワンポイントの赤は唇の色か。ルージュではない。真性の唇の色が、どうしてここまで赤いのだ。薄い唇に、まるで血を塗ったかのように。
 すっとのびた鼻梁の両翼をになうのは、これも黒い柳眉だ。天才画家が、渾身の才をふるって描いたような柳眉だ。
 冴えた瞳が、凛とスリアをにらんだ。
「ドリーミング・ツリー。危険な魔法ね」
「やはりねえ、情報が伝達されていたかあ」
 間のびした声で、スリアは事もなげにいった。
 その前に、すっとマルヴォロが進みでた。
「マルヴォロくん?」
「依頼されたのはオレが先だ。まず、オレが戦う」
「吸血鬼の力はあ、その僕とは桁違いだよお」
「ああ、知っている。昔……」
「コンビを組んでいた魔法使いに教えてもらったんだろお」
「――そうだ」
 声はなにもない空間でした。
 空気の振動がスリアの鼓膜に到達するよりも早く、マルヴォロが吸血女へと駆けていたのだ。
 あの巨躯でどうやって、と思わせられるほど敏捷なる行動に、吸血女がわずかに目を見開いた。
 その瞳にふりおろされる剣が映った。
 黒い湖のような瞳のなかで、必殺の気合をこめて剣がおおきくなる。
 しかし、次の瞬間にピタリととまった。
「ぐおおおお」
 マルヴォロの苦鳴が低く響いた。
 丸太のような腕を、白くたおやかな手につかまれているからだった。しかも、骨まで食い込む痛みをともなって。
「このスピード――脅威ね。わたしの僕と戦ったときは、まだ力半分だったってところかしら」
 涼しげな声が、赤い唇からもれた。
 吸血女の鼻先で剣がふるえている。彼女の吐息がふきかけられる悦びに打ち震えているからではない。マルヴォロが渾身の力で剣を動かそうとしてできずにいる、その痙攣が伝動しているのであった。
「こりゃあ、まずい」
 スリアはナップザックから水晶球を取りだし、結界をはった。
 薄緑色した立方体にはいったスリアは、マルヴォロに睨まれているかとうかがってみたが、彼は吸血女との力くらべに必死で、こちらはまるで意にかいしていないようだった。
「ほんとうにい、まずい。はやくう、寝よう」
「そんな結界――」
 空気のうなる音がした。
 吸血女が、マルヴォロを真上に投げ飛ばしたのであった。
 ヒグマのような巨躯が中空を飛んで、天井に頭を打ちつけた。
 にぶい音が、部屋中に響く。
「――わたしには通用しないわよ」
 吸血女がナイトドレスの裾をひるがえし、悠然と近づいてくる。裾をわる白いふとももの、なんとやわらなかそうなこと、艶かしいこと。
 スリアはちらちらとふとももを気にしながら、
「だろうねえ。だけどお、結界を破るあいだに眠れれば、オレの勝ちだあ」
「一秒とかから――」
 吸血女の首が跳んだ。
 切断面から噴出した血液が、はじき飛ばしたのだ。
 降り注ぐ血雨に、マルヴォロの筋肉が濡れ光る。
 真紅に染まる世界で、彼の持つ魔法剣は一際赤く艶やかであった。
 吸血鬼のパワーで天井に頭をぶつければ、常人なら死んでしまう。黒衣の美女もそう確信していたに違いない。マルヴォロがどうなったのか確認せず、すぐに結界のほうへやってきたのはそのためだ。
 だから、その背後で、怪人が音もなく着地したなど知りえようはずもない。
 スリアは彼を注視しては気づかれると思い、ふとももの色気に気をとられているように見せかけた。
 しかし、吸血女も危険に気づいてふりかえったのはさすがであった。おそらく、空気の動きで感づいたのだろう。
 マルヴォロが剣を横にないで胴を狙っていったのに対し、吸血女が手をかざしてうけとめようとした。すでに一度防いだという実績がある。この時点で、彼女は楽観していたに違いない。
 剣を振るマルヴォロの手に、吸血女の手がふれようとしたまさにその一瞬、マルヴォロが剣の軌道を修正させた。
 吸血女の胴の位置から、首の位置へと。
 早ければ吸血女に気づかれ、遅ければ腕をつかまれる。
 薄紙一枚のタイミングであった。
 その見きりの目のなんと驚嘆すべきことか。
 否、げに恐ろしきは、途中で軌道修正した筋力であった。
 かくして、吸血女の首が跳んだ。
 次の刹那、マルヴォロが瞠目した。
 跳んだ首が、おなじ軌跡を描いて体へと戻ってきたからだ。喉にうっすらひかれた赤い筋が、溶けるように消え失せた。
「なんだと!?」
 マルヴォロの驚愕の表情は、石のように固かった。
「わたしの名はディーズ・シールズ。このような不覚をとったのは、三百年の人生ではじめてよ」
 白く柳のような腕がふられた。
 マルヴォロの胸にあたった。
 筋肉の塊のなかに、腕が食いこんだ。
「ぐおおおお!」
 苦痛の叫びが尾を引きながら吹っ飛んだ。
 今度こそ、手加減なしの一撃であった。
 マルヴォロの巨躯が、緑色の結界にあたって、床に落ちる。うめき声が聞こえた後、カクリと首をうなだれた。
「時間かせぎい、ごくろうさまあ。ちょっと休憩してなあ」
 そのそばに立つスリアがいった。仔細に観察すれば、背景がかすかにすけていることがわかるであろう。
 スリアが夢見ている、夢のスリアであった。
 結界のなかでは、本体が床に横たわっていた。ナップザックを枕がわりにして。
「ドリーミング・ツリー」
 ディーズ・シールズと名乗った吸血女が、唇のあいだから声を押しだした。
「そう、オレが使えるたったひとつの魔法。夢をコントロールすることができるう」
 スリアのにやにや笑いが、より深くなった。
 ディーズがうしろへ跳んだ。
 中空を玉座まで直線をひく。
 スリアは、右手のひらを上にむけて、
「ドリーミング・ツリーは無敵の魔法だあ」
 といった。
「吸血鬼のもつ超治癒力は脅威だあ。その僕の比じゃあないねえ。どのような傷でも瞬時に治ってしまう。心臓に杭を刺すかあ、太陽光にあてるかしないと、滅ぼせられない」
 スリアの手のひらの上に、拳大の球体が突如あらわれた。ピンク色をしていた。
「しかし、何事にも例外はあるう。それが、オレの魔法ドリーミング・ツリーだあ」
 スリアはピンク色のボールを投げた。
「夢から抽出したボールだあ。すなわち、夢の塊だあ。ふれたものを瞬時に夢にするう」
「無駄よ!」
 ディーズが玉座を片手でつかむと、ボールめがけて投げた。
 その延長線上には、スリアがいた。
「わお!」
 スリアは、飛んで来た玉座を危ういところでさけた。
 玉座は結界にあたると、うなだれているマルヴォロの隣に落ちた。
「ドリーミング・ツリーのことは研究しているわ」
 ディーズがわずかに微笑を浮かべた。
「夢はほかの物体に夢を伝播させると同時に、消えてしまうということも学習済みよ。さっきのピンク色の夢は、玉座にふれて夢を伝播させると同時に消えてしまっている。コピー品である玉座には、伝播させる力はない」
「夢であるオレは、なにかにさわっても消えないよお。なんでかわかるかなあ?」
「術者自身の夢だから」
「よく勉強しているねえ」
 スリアはまた右手のひらを上むけた。
 また、夢のボールがでた。
 色は――灰色であった。
「オレがどうしてえ、あんたを退治にきたかわかるかい?」
「町長にでも依頼されたんでしょ」
「いいや、町長が依頼したのはあ、マルヴォロくんにだあ。オレはあ、ある少女に頼まれたあ」
「少女?」
 ディーズが理解不能とばかりに、眉間に皺をよせた。
「お前がさらってきた男の恋人だあ」
 スリアがにやにやと笑いながら――否、馬鹿にしているようなにやけ顔が、みるみる引き締まっていく。まるで、潮が引くように。
「お前が血を吸うだけ吸って、川に捨てた青年がいただろう、覚えてはいまい。彼の恋人がオレの依頼者だ」
 声もすでに間延びしたものではない。
「少女は、恋人のひからびた死体に泣きついて三日三晩泣いた。その間、一睡もしていないぞ。オレが町を訪れるまでは」
 スリアは灰色の夢ボールを頭上にかかげた。
「お前をデリートするのはオレではない。三日三晩悲しみと憎しみに醸造された夢だ。少女の夢だ」
 部屋中に笑いが響いた。
「あははは! おかしいわ、こんなおかしいことは百年ぶりよ。ドリーミング・ツリーの使い手が、こんなおセンチだったなんてね」
「ほざけ」
「ふふふ、で、その少女の灰色した夢をどうするつもり? わたしに投げる? ふふ、さっきみたいになにかをふれさせれば、それでおしまいじゃない。いえ、それよりも」
 ディーズ・シールズが白い胸の谷間から、親指大の小ビンを取り出した。
 スリアの脳裏に、チリッ、と危険信号がはじけた。
 あっと思ったときには、すでに夢のボールを投げたあとであった。
「無駄よ!」
 ディーズが小ビンのふたをあけた。
 小さな口から、なにかが飛びだした。
 灰色の夢ボールと、「なにか」がふれた。
「まさか!?」
 スリアの驚愕の叫びもむべなるかな。
 必殺の夢ボールが、急速にしぼむやついに消えてなくなってしまったのだ。
「あはははは! あわれ、少女の夢は腹のなかね」
 蔑むような笑いを浮かべるディーズの前に、赤ん坊くらいの大きさの昆虫がおりたった。紫色した外殻で、カミキリ虫に酷似している。
「夢食らい」
 スリアは口のなかだけでつぶやいた。
 小ビンにはいる大きさの昆虫が、赤ん坊大にまで急速に成長したのは、夢を食らったからだ。
 夢を食って成長する昆虫、ドリーミング・ツリーの天敵、通称「夢食らい」がここにいた。
「ドリーミング・ツリーについては、研究してるっていったでしょ。夢を食う昆虫、夢食らい。そして、あなたもいまは夢だったわよね」
 ガラスをすりあわすような音がした。
 夢食らいの鳴き声であった。
 いや、それは食料を見つけたがゆえの感激の奇声であろうか。
 硬質な音を響かせながら、昆虫がスリアめがけて歩きだした。
「このスリア・ハード、この程度のことでは慌てない」
 スリアは両手にそれぞれ、赤と青の夢ボールを出現させた。
 同時に投げる。
 ただし、右と左、まったく別の方向へ。
 夢食らいがつられるように、中空の赤いボールに食いついた。
 後ろ足だけで立つ、不安定な態勢で。
「ドリーミング・ツリー!」
 青の夢ボールが、空中で直角に曲がった。
 狙いは夢食らいの胴体。
 ドリーミング・ツリー。
 夢をコントロールする魔法。
 スリアの狙いは、どちらかの夢が食われれば、他方の夢で攻撃する、というものであった。
 思惑通り、夢ボールが夢食らいに命中した。
 命中はした。
 しかし、その直後、ボールは跳ねかえされた。
「あははは! 無駄よ! 夢食らいの外殻は夢を受けつ……」
 ディーズにみなまでいわせなかったのは、跳ねかえった夢ボールのしわざであった。
 夢食らいの外殻で跳ねかえったボールは、直線をひきながらディーズへとむかっていたのだった。
「子供だまし!」
 ディーズが床に手をつくや、石畳の一部をこそげとった。
 まるで、チーズケーキをえぐるかのようにたやすく。
 彼女が夢ボールにむかって、その塊をはなった。
 ふれた瞬間、ボールは消え、石畳の塊が夢と化す。
「行きなさい! 夢食らい」
 ガラスのすりあうような音をさせて、夢食らいが六本の足を忙しく前後させた。
 またひとまわり大きくなっているくせに、動きは意外とすばやい。
 スリアは横すべりに走った。
 六本の足が追う。
「ちっ」
 舌打ちひとつ、スリアは夢ボールを出現させ、夢食らいの斜め前にはなった。
 あごを左右に開き、夢食らいが食いつく。
 六本の足がとまった。
 その隙をついて、スリアはさらに距離をとる。
 目がぎょっとむいた。
「無駄な時間稼ぎよ、そんなのは」
 ディーズが結界へと近づいていた。
「強力な結界だけど、わたしにとってはなんてことないわよ」
 白い手が結界へと突き出されようとしていた、いままさに。
「うおおおお!」
 吠え声は獣のようであった。
 起きあがったマルヴォロが剣をわきに引きつけ、ディーズの胸めがけて突きだした。
 両足の突進力を上乗せして。
「やはりね」
 ディーズが半身になってかわした。
 いきおいあまったマルヴォロが、吸血女のわきをすりぬけ、さらに突き進む。
「このディーズ・シールズ。二度も油断はしな……」
 虫の絶叫が響いた。
 マルヴォロがその手に持つ剣が、夢食らいの外殻を貫いていたのだ。
「こいつはひきうけた」
 マルヴォロの声を、すでに駆けだしていたスリアは背中で聞いた。
「遅い!」
 ディーズがふりかえりざま、結界へと白い手をのばした。
 結界はあっけなく砕け散った。
「死になさいな、本体」
 ディーズが床に眠るスリアに近づく。
 足があがった。
 頭をふみつぶすつもりか。
 夢のスリアは、まだ五メートルも離れたところにいた。
 夢ボールをはなっても、すでに間にあわない距離であった。
「ドリーミング・ツリー!」
 スリアの叫びと同時に、吸血女が足をふみおろした。
 本体の頭がつぶれる、そう思われた刹那、
「え?」
 と、ディーズが足をとめ、愕然と横をむいた。
 彼女には見えたのだ。
 空気を貫いて滑空してくる夢ボールを。
 それがピンク色をしていることを。
 至近距離にある玉座の影からでてきたことを。
「なんですってえええ!?」
 恐怖に歪んだ顔に、ピンクの夢ボールがぶつかった。
 衝撃によって、ディーズがよろける。
「かけひきだ」
 夢のスリアは、ゆっくりと、余裕をもって、ディーズに近づいた。
「用心している吸血鬼には、近づくことも、夢をふれさせることも容易ではない。だが、みずからの勝利を確信し、油断したときならばどうかな?」
 スリアは腕組みをして、
「結果はこのとおりだ。貴様は夢になった」
 ドリーミング・ツリー。
 夢をコントロールする魔法。
 スリアが一番はじめに放ったピンクの夢ボールは、投げられた玉座に接触して消えた――とディーズはうたがっていなかっただろう。
 しかし実際には、ヨーヨーのように夢ボールを引き戻していたのだ。そして、何物にもふれさせないようにコントロールし、ギリギリまで玉座の影に隠していた。
「よく見えなかっただろう。玉座の影に隠しながら引き戻したからな」
 ディーズは床に倒れたまま、憎憎しげに見上げているだけで、まったくの無言であった。
 スリアは見下ろしながら、
「やはり、お前をデリートするのはオレではなかったな。三日三晩悲しみと憎しみに醸造された夢。少女の夢がお前を消す」
「なんですって? 少女の夢はさっき……」
 ディーズがみずからはがした石畳を見た。灰色の夢ボールにあたって、夢と化した石畳の一部を。
「あのときの灰色のボールが、少女の夢だと、オレはいっていない。たまたま、手に持っていただけだ」
「――そう。それがあなたのやりかたということね。フフ、わたしは夢になった。あなたが起きれば消えてなくなってしまう」
「そうだ」
「ならば!」
 ディーズがバネ仕掛けのようにおきあがった。
「永遠に寝てなさい!」
 ふりかえりざまに、白い腕が寝ているスリアへとのびる。
 それがピタリと停止した。
「ドリーミング・ツリー。夢をコントロールする魔法。そして、いまのお前は夢だっただろ」
 金縛りのように動きを止められたディーズが、空中に浮かんだ。
「オレにとっては、いまのあんたは夢のボールとかわらないのだよ」
「降ろしなさい!」
 血を吐くような怨嗟の声であった。
 それに対し、スリアは涼やかに、
「ああ、いいとも。ただし」
 吸血女の体が、空中に直線をひき、
「降ろすのはそこだ」
 石畳に降りた。
「ひぃ」
 と、かすれた悲鳴をあげたのは、その吸血女であった。
 夢食らい。
 いまは虫の息であるその昆虫が、すぐそばであごをすりあわせたからだ。
 夢食らいの背中から剣をぬいたマルヴォロが、肩でおおきく息をした。
「さすがマルヴォロ。夢食らい、すでに虫の息。だが、生存本能が多少でもエネルギーを充電しようと、手近なものを食べるつもりなんだろうな」
「や、やめなさい!」
 吸血女の必死の命令など、瀕死の昆虫には通じなかったようだ。ずるずると這いすすみ、あごを吸血女にふれさせる。
「た、助け……」
 哀願の瞳で、吸血女がスリアを見上げてきた。そこに支配者のプライドはなかった。
「お願い」
「いままでお前の犠牲になった青年たちも、同じことをいってきたはずだ。おまえはどうした?」
「いやああああ!」
 スリアの声が聞こえたかどうか、ディーズが絶叫をはなった。
 昆虫のあごが体奥に食いこんだかと思うや、たちまちのうちにしぼんでいった。風船から空気がぬけるように。
「あわれ、吸血女は腹のなか、だ」
 そして、ついに、吸血女が消えた。
「マルヴォロ」
「おう」
 マルヴォロのふりおろした剣が、夢食らいの頭を落とした。



   最終章・スリア・ハードはふりかえらない


 東の空が、かすかに白みはじめたのを見て、
「あの吸血女を太陽のもとにさらけだすこともできたんだぜ」
「どういうことだ?」
 とは、魔法剣を肩にかついだマルヴォロであった。
 吸血女の城からのびている石畳をくだりながら、スリアはひきしまった顔で、
「夢にふれたものは夢になる。なら、城を夢にかえたら、さてどうなる」
 城を夢にかえ、そして夢を見ているスリアがめざめれば、城は消える。隠れる場所のない吸血女は、太陽の洗礼をあびることになるだろう。
 マルヴォロはそれを理解したのか、それとも適当になのか、深くうなずいた。
「最後は少女の夢でケリをつけたかった」
 スリアはだれにともなくつぶやいた。
「それにしても」
 と、マルヴォロが不思議そうに見下ろしてきた。
「なんだ、その言葉使いに顔つきは」
「変か?」
「ああ、変だ。らしくない」
「それは第一印象の――」
 スリアはここで言葉をきり、
「まあ、いいかあ」
 と、しまらない顔で間延びした声をだした。
「それにしてもお、マルヴォロくん、きみってタフだねえ。いまになにかあ、どえらいことをやらかしそうだよお」
「ふん、貴様こそ、ドリーミング・ツリーをうまく使えば、一国の王になることもできるんじゃないか?」
「できるよお」
 スリアははっきりといった。
「だけどお、そんなことしたらあ、いろんなやつらに命を狙われるだろお。おちおち眠れなくなるう」
 といって、スリアは歩みをとめた。
 遠くに、家々のシルエットがうかがえる。煙突から白い煙がのぼっているところを見ると、朝食を作っているのだろう。
「ここでお別れだあ、マルヴォロくん」
「おい、戻って報酬をもらわないのか?」
「ああ、べつにいいさあ」
 宿屋の親父に、宿代をロハにしてもらっている。そして依頼主である少女を紹介してもらった。
 宿屋の主人は、少女の恋人だった青年の、その父親であったのだ。
「報酬はあ、すでにもらってるう」
「ふん。そうかい」
 そういったマルヴォロの岩のような顔を見てから、スリアは昇りゆく太陽にむかって歩きだした。
「じゃあ、マルヴォロくん、縁があったらまた会おう」
 おう、とマルヴォロが片手をあげたのへ、スリアは笑みを浮かべることで答えた。
 にやにや笑いではない、ほんとうの笑みで。

(終)


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