『七曜亭事件』
北郷博之


   T

「ひゃあウッ!」
 素っ頓狂な声は、マリィことマレーネ・リストの口から飛び出したものであった。廊下の、ちょっとした段差につま先をひっかけた、その瞬間のことである。
 抗いがたい力に引かれて、マリィは床に突っ伏そうとしていた。石の床は、冷たく、痛い。経験豊富な彼女は、そのことを熟知している。
 しかし、この時のマリィが思っていたのは、膝小僧に赤い擦りむけをこさえた、ほんの少し未来の自分のことではなかった。
 カップ――つんのめったはずみに双の手から放してしまった盆の、その上に載っかっていたもの。
 カップ――それは、今まさにマリィの目の前を浮遊している。縁からは、荒波の断面図のかたちに珈琲がこぼれだしている。
 カップ――遙か東方から、わざわざ取り寄せられたとかいう見事な白皙は、やがて無惨に散るのだろう。奇跡でも起こらない限りは。
 ご主人さまの激昂は明白だった。マリィのご主人さまとは、ブールカルト随一の権門ノヴァリス家の、その御当主さまである。
 だから、マリィは心の中で、こう叫んでいた。
「止まって! あなたに落ちられたら、私の首が本当に飛んでしまう!」
 すると、マリィの願いが届いたのか、盆と、カップと、カップの中の珈琲が、宙で静止した。それらをかすめて、マリィは床へと倒れ込んだ。
「ウン?」
 倒れ込んだ感触の常との違いに、マリィは閉じていた瞼を開いた。まるで痛みがなかった。例えるなら、最高級の寝椅子に腹這いになったような、そんな感触だ。
 だが、マリィの下には寝椅子などない。それどころか、なにもない。マリィは唖然と、床と自らの間の距離を見た。
 微少な自失の時間を破ったのは、聞き慣れた音だった。這いつくばったままの姿勢からマリィは見上げた。
 こぼれだした珈琲が、カップの中にするすると戻っている。チョポチョポという音が、マリィの鼓膜を叩いたのだ。
 再び珈琲で満たされたカップは、スッと宙を舞い、盆の上に戻った。そして、二つの掌が、しっかりと盆をその中に収めた。マリィは思わず叫んでいた。
「お嬢さま!」
「大丈夫? マリィ」
 気遣う声色に、はい、と、応えて、マリィは立ち上がった。
 いつもよりあごを動かす距離が小さかったのは、不思議な感触のせいだった。本当なら、うんとあごを上げなければならない。マリィよりも、ずっと、ずっと、背の高い人なのだから。
 佳人である。尖り気味のあごに薄い唇、細い鼻梁の、それぞれの線の見事さは、神話世界の造成物を思わせる。顔の中央あたりに煌めく紺碧の宝玉も、またしかり。
 そして、眩いばかりの金色の頭髪だ。褐色の頭髪と、同じく褐色の瞳を持つ、ごくごくありふれたエルファランゼ人であるマリィにとって、この金色は、真摯な憧憬の対象であった。
 ヒルデ・ノヴァリス――マリィの大好きなお嬢さまが、にこやかに微笑んで、そこにいた。
「お嬢さま。もしかして、今のが魔導というものでしょうか」
 と、マリィは、縋り付くようにヒルデの側に寄った。「金色の神子」の綽名を持つお嬢さまの、秘技を見るのは、これが初めてだった。
「そうですよ」
 事も無げにヒルデは頷いた。
「あ、あ、あの、私、初めてです。まさに奇跡の力でございますね」
「そんな大げさなものではなくてよ」
「でも、珈琲が宙で止まったり、それに私の身体も……」
「魔素で受けとめたのです」
「魔素……で、ございますか」
「ええ。この世界の至る所には、魔素という小さな粒があるのです。それを導き、様々なかたちへと変えること、それが魔導なのです」
「すると、お嬢さまは、魔素というもので、私と、あと、お盆やら、カップやらを受け止めたのですか」
 よくわかっていないに違いないが、それでも掌でなにかを包むような仕草をマリィはしてみせた。
「ええ」
「でも、私には、なにも見えませんでした」
「私にも見えませんよ」
 即答されて、マリィの眼はまん丸になった。見つめられ、はにかんだような微笑を浮かべて、ヒルデは続ける。
「瞼を開こうと、塞ごうと、見えないものは、見えません。しかし、その見えないものを感じることこそ、魔導の第一歩なのです」
 ほぅ、と、マリィはヒルデを見つめた。尊敬を主成分に、あと幾つかの感情を混ぜ合わせたら、今のマリィのような表情が生まれるのだろう。
「さすが、お嬢さま」
 そう言ってから、不意に、マリィはひったくるようにヒルデの手から盆を取った。その頬は紅に染まっている。
「申し訳ありません。助けていただいたお礼も申し上げずに……お許し下さい」
 心身の隅々までも恥じらって、ぺこぺこと平身低頭するマリィであった。
「いいえ。もう魔素を解いてもいいかしら」
「は、はい」
 ゆるりと、マリィの視界はいつもの高さに戻っていった。
「それじゃあ、気をつけてね」
「はい。ありがとうございました」
 ヒルデは頷くと、緩やかな歩調で彼女の方向へと去っていった。
 その背が見えなくなっても、マリィは、ずっとその場でお嬢さまを見送っていた。

   U

「お待たせしました」
 客間の扉を開くと、そこにはライナー・マリア・リルケが、直立の姿勢で構えていた。
 おや、と、ヒルデが眉をひそめたのには理由がある。リルケの装いが、それであった。
 彼の纏う銀地に白は、衛士隊の証だ。小綺麗にめかし込んで、花束の一つも提げてくるのが常の男にしては、ずいぶんと無粋ななりである。もっとも、ヒルデには流行の装飾などよりも、こちらの方がよっぽど好ましく思えるのだが。
 そんなことを考えているヒルデの前で、リルケは大仰に左手を横に振ると、それをそのまま右肩に持っていった。そうしておいて、深々と頭を下げ、しばらくの間、静止した。
 やがて、面を上げると、
「ヒルデさま。突然の訪問をお許し下さい」
 と、宣言するような口調で言った。
 頷きでこれに応え、ヒルデは左手で椅子を指した。しかし、リルケはヒルデが腰を下ろすのを待ち、さらにもう一度、椅子を勧められるにいたって、ようやく彼女に従った。
 いつも通りに仰々しい男の様を、半ば辟易しながらヒルデは眺めていた。だが、これはヒルデの間違いである。リルケがヒルデに対して尽くした礼は、彼女の門地を考慮に入れたとき、応分であっても、過分ではない。
 このように、ヒルデの言動は、彼女の属する階級の風習とは、まるきり明後日の方角を向いていることが、多々あった。それは彼女の外見にも、明確に表れている。
 今日のヒルデの装いは、絹製のローブと、同じく絹製のジャケツ。素材だけは最良のものを用いているが、意匠的には、そこらの街娘が着けているものと、どれほどの差違もない。
 しかし、そんなヒルデだからこそ、一介の侍従に過ぎないマリィなどとも、対等の目線で語らうことができ、また、彼女からの信望を得ることが叶うのであろう。そして、この日の来訪者も、そういうヒルデの世間の広さが巡り合わせた知己であった。
 その知己は、彼自身が何度も腰掛けたことがあり、また座りの悪いはずもない椅子の上で、なにやらそわそわと身体を揺らしている。若々しい顔には、とても茶飲みに訪れたとは思えない色が浮かび、額には幾つも汗の粒が見える。
「どうしましたか」
 ヒルデの声に、リルケは心中の動揺もあらわに彼女の顔を見返した。はい、と、返したものの、それはただ口をついただけのようであった。その証拠に、大分、時間を経たせてから、ようやくリルケは、この日の来訪の目的をヒルデに告げたのである。
「ヒルデさま。実は、今日は、ヒルデさまにお力添えをいただきたいことが御座いまして、こうして参上いたしました」
「なんでしょう」
「はい。正確に申しますと、私ではなく、私の友人のために、ヒルデさまのお力をお貸しいただきたいのです。友人は、現在、ある事件の容疑者として拘禁されています。状況は、友人にとって、すこぶる思わしくありません。しかし、友人は絶対に自分ではないと言っています。そして、私もそれを信じているのです。このままでは、友人は殺されてしまいます。どうか、ヒルデさま、お力添えを!」
 後半部分の尋常ならざる声量と内容に、さすがのヒルデも、居住まいを正した。
「殺されるとは、大げさですね。いったい、あなたのご友人はなにを……」
「いいえ、ヒルデさま。それが、いけないのです。友人は、よりによって、とんでもない男を殺した嫌疑をかけられているのです」
「とんでもない、とは」
「エルンスト・レマルク。あのレマルク家の者です」
 ここで、ようやくヒルデは、先程からのリルケの不安定な態度の理由を了解した。
 レマルクとは、ブールカルトにその名を轟かす豪商の名である。今のブールカルトの街並みのほとんどは、この商家の出資によるもので、現当主の曾祖父の代にはブールカルト帝国候より爵位も賜っている。その勲功、ならびに資本力からなる政への影響力は計り知れず、リルケの友人の生命が危ういというのも、頷ける話ではあった。
 しばしの沈思の後に、ヒルデはその薄い唇を開いた。
「わかりました。とりあえず、話して下さい」
「ありがとうございます」
 深々と頭を下げると、リルケは熱っぽく語りだした。
「――事の始まりは、エルンスト・レマルクが、一人の令嬢に恋慕したことなのです。ですが、しかし、令嬢には、すでに思い人がありました。それが、私の友人です」
「…………」
「令嬢の苦悩は、察するに余りあります。いくら思い人があるからといって、レマルク家の者からの求愛を、むげに断るわけにもいきません。令嬢は大いに悩み、そして、意を決せぬままに日々が過ぎていったのです」
「…………」
「そして昨日です。令嬢の優柔不断に業を煮やしたレマルクが、友人に決闘状を送りつけてきたのです。友人が呼び出されたのは『七曜亭』という酒場ですが、御存知でしょうか」
「知りません。ところで、その二人は、酒場で決闘など行ったのですか」
「これは失礼いたしました。決闘状と言いましても、別に剣を手にしての決闘というわけではなく、話し合い、つまりは、令嬢から手を引け、ということだったようです」
「そうですか」
「友人が『七曜亭』に赴きますと、すでにレマルクは奥に構えていました。二人は差し向かい、そして、事件が起こったのです。突然にレマルクが血を吐き、もんどりうって、床に……」
 ここまで言うと、リルケは瞼を閉じ、熱い息を吐いた。代わって、ヒルデが口を開く。
「毒ですか」
「はい。レマルクのグラスから」
「ボトルには?」
「いいえ」
「奥というのは、個室のことですか?」
「いいえ。少し奥まったところがありまして、そこが衝立で遮られているだけです。ですから、友人以外に毒を盛る機会を持っていた者は皆無であったかというと、それは、そうではないのです」
「それで、いたのですか」
「は?」
「動機云々は抜きにして、あなたのご友人以外に、レマルクに一服盛った可能性がある者は存在したのですか」
 聞くまでもないように思えたが、敢えてヒルデは追及した。
「マリア・リルケ」
「……いいえ」
 ほぅ、と、ヒルデは小さく息を吐いた。
「いったいあなたは私になにを期待しているのです。ノヴァリスの名で、あなたのご友人の罪を不問にせよとでも言うのですか」
 まるで、駄々っ子を諭すようなヒルデの口調である。
「マリア・リルケ。あなたのご友人が不当に罪を問われているというのであれば、私も、あなたに力を貸すことに、やぶさかではありません。しかし、あなたはその事を証明できますか。あなたのご友人がおとしめられているという、その証明を」
 返答は、なかった。
「どうやら、私はあなたの力にはなれないようですね」
「いえ、お待ち下さい」
 絞り出すようなリルケの声だった。睨み付ける眼からは、凶暴な激情が吹き出している。
「ヒルデさまは、ご存じない。私の友人が、そのような無道を行う男ではないことを。そのことは、あの方も、よく知っておられます」
「あの方?」
「その前に、ヒルデさま。私の友人の名は、ロルフ・メーリケといいます。ヒルデさまには、おぼえのない名前でしょうか」
「それは、確か、クララの……」
 言ってから、ヒルデの身体は彼女の意志に呼応するかのように、激しく震えた。
「マリア・リルケ、それでは、二人が争っていた令嬢というのは……」
「はい。ロルフ・メーリケとエルンスト・レマルク。この二人が、今回の事件の容疑者と被害者。そして、両名共が、クララ・キルヒナー嬢の許婚候補なのです」

   V

 キルヒナー家の居館は、俗に「貴人街」と呼ばれる絢爛な館群の一画にある。
 所有者の権勢を計る一つの指標を、彼の居館に求めるなら、それはよく言って中の下、あるいはそれ以下といったところであった。そして、そのことは、そのままキルヒナー家の社交界における地歩を表してもいる。
 もともとキルヒナー家は、ブールカルトでも屈指の名家の一つであった。ところが、何代か前の当主が起こした一大醜聞のため、アッという間に没落して、今では領地も持たぬ街貴族である。
 そんなキルヒナー邸の前に、ヒルデ・ノヴァリスはいた。彼女は、ここに一人の少女を訪ねてきたのだ。
 現当主ロヴィス・キルヒナーの愛娘、ロルフ・メーリケとエルンスト・レマルクの思われ人、そしてヒルデ・ノヴァリスの幼少からの友。少女の名は、クララ・キルヒナーという。
 この時のヒルデの装いは、先程と同じローブにジャケツ。そして、すっぽりと頭部を覆ったフードである。このフードのために、ヒルデの金色は、陽の光の中に煌めきを放つことはない。
 ヒルデは、彼女の頭髪を他人に見られることを好まなかった。それは、羞恥ではなく嫌悪――見るものではなく見られるものへの――である。
 そもそも「金色の神子」などと綽名される所以となった色彩は、ヒルデにとって、苦い記憶を思い起こさせるための触媒でしかない。
 褐色の頭髪を持つ男と、やはり褐色の頭髪を持つ女との間に、金色の頭髪を持つ女児が生まれたとき、二人の女を待っていたのは、決して上がることのない夜の帳だった。
 しかし、ヒルデの思い起こす限り、彼女の半生は、明るく、暖かな光に包まれていた。それは、彼女の側に常にあって、彼女を照らし続けてくれた人のおかげ。
 ヒルデの母の年齢は、今年、ちょうどヒルデの齢を倍にした数である。だが、彼女は、彼女より一〇歳年長の良人と、全く釣り合って見えた。彼女の顔中に、深く、深く、刻みつけられたしわは、不義を疑われた女の嘗めてきた辛苦の数だけあるのではないかと、ヒルデは疑っている。
 そんな母子を、帳の外へと連れ出してくれたのが、ロヴィス・キルヒナーであった。彼は、娘の友人に魔導の資質を認めると、それを多分に扇情的な弁舌でもって、大々的に宣伝したのだ。キルヒナー卿も、また、魔導師であった。
 曰く、
「紛れもなく、お嬢さまの身体には魔導の力が秘められております。それも、私など足下にも及ばぬ、強い、強い力です。これで、全ての説明が付くではありませんか。お嬢さまのこの金色の頭髪。これは選ばれし者の証。双子女神さまからの贈り物に相違ありません」
 さらにキルヒナー卿は、リントヴルムの「パレ・リーゼル」に、ヒルデを留学させることを勧めた。若き日のロヴィス・キルヒナーもその門を叩いた「パレ・リーゼル」――但し、キルヒナー青年は、そこに何らの事跡も残すことはできずに去っている――は、古の大魔導師の名を冠した学究機関である。
「神の祝福を受けた娘」などというおだてに乗ったヒルデの父は無邪気に、否、無責任に喜び、キルヒナー卿の言のように計らった。こうしてヒルデは、一三の歳から五年間「パレ・リーゼル」で魔導を学び、一昨年、ブールカルトに帰参した。
 そして二年の月日が経ち「金色の神子」の名を知らぬ人は、このブールカルトにいない。それでも忌まわしき記憶は決して消えはせず、ヒルデも忘れはしないのである。
「…………」
 近付いてくる足音に、ヒルデは慌ててフードを取った。
 扉が開き、顔を見せたのはキルヒナー卿であった。造作の大きな目鼻には、明らかな驚愕の色が浮かんでいる。それは、ヒルデが訝しく思うほどに、あからさまな表情であった。
 ヒルデの様子に気付いたのか、キルヒナー卿は、とってつけたような礼を施した。
「これは、ノヴァリスのお嬢さま。突然のお越しは、いかがなされましたか」
 と、肉の厚い身体から出た声には、しかし、どれほどの震えもない。
「『七曜亭』のことを聞きました。クララはどうしてますか」
「ああ、もう、お嬢さまのお耳にも」
 瞼を閉じ、キルヒナー卿は、大きく息を吐いた。その振る舞いが、なにか言い知れぬ不安を、ヒルデの中にもくもくと沸き立たせた。
「なにかあったのですか」
「はあ、それが、よほど堪えたのでしょう。すっかりとりのぼせてしまいまして。先程も、薬師を呼んで、投薬をさせたところです」
 あまりに予想外の言葉に、微弱な自失の時間を過ごしたヒルデだが、すぐさまに自らを取り戻すと、
「それで、クララは」
「はい。なんでも、一時的な発作のようなものだとか。今は落ち着いているようです」
「会えますか」
「もちろんでございます。ささ、どうぞ、中へ」
 すぐにヒルデはクララの私室に案内された。
 クララはベッドに横たわっていた。だが、眠っているわけではないようだった。赤く腫れた瞼は微かに開かれ、眼差しは、なにもない空を見つめている。緩く結ばれた唇は、時折、不規則に開閉して、言葉にならない言葉を紡いでいる。
 それは、あまりに痛ましい光景であった。ことにヒルデは、普段のクララの、愛らしく、あどけない顔立ちを知っている。ヒルデの目頭は、知らぬ間に熱く濡れていた。背後で聞こえた啜りは、キルヒナー卿のものだろう。
「クララ……」
 呟き、枕元に寄り添った。すると、クララの瞼がぱっちりと開かれ、二つの瞳がヒルデを見た。
「クララ、私です。ヒルデ・ノヴァリスです。わかりますか」
 コクリと、クララは頷いた。しばらくの間、クララはジッとヒルデの顔を見つめていたが、
「ヒルデ姉さま。ごめんなさい。お出迎えも致しませずに」
 と、囁くように言った。
「いいえ。それよりも、クララ、あなたは大丈夫ですか」
「はい」
 応えてから、クララはさらにヒルデを見つめた。
「ヒルデ姉さま。姉さまにお願いしたいことがあります。クララのお願いを聞いて下さいますか」
「あなたと私の仲で、遠慮は無用です」
「ありがとうございます」
 そう言って、クララは小さく微笑んだ。無理に浮かべたに違いない微笑みは、痛々しいばかりであった。
「姉さまは『七曜亭』という酒場で起こった事件のことは、御存知ですか」
「ええ」
「それでは、ロルフ・メーリケが、その事件の容疑者として捕らわれたことも御存知ですか」
「……ええ」
 返答には、やや間が開いた。次にクララが言うであろう台詞を、正確にヒルデは洞察していたからだ。
「姉さま。どうか、ロルフを助けてやって下さい。彼は、あのような無道をできる男ではないのです。きっと、誰かが、誰かが、あぁあぁ……」
 それまでのとつとつとした語り口が不意に乱れたかと思うと、クララはガタガタと震えだし、眼からは幾つもの滴がこぼれた。
 これを見たキルヒナー卿が、すわ! とりのぼせたか、と、側に寄ろうとしたのを、ヒルデは片手で制した。そうしておいて、ヒルデはクララの額に掌を載せた。
「安心して、クララ。あなたの大切な人は、きっと、きっと、私が救い出します」
 胸に幾ばくかの痛みを感じながらも、ヒルデはこう言うしかなかった。ここで彼女が為すべきことは、冷厳たる事実の指摘ではないはずだった。
「ヒルデ姉さま……」
 潤みきった眼が、真っ直ぐに見つめていた。
「大丈夫よ。私に任せて」
 クララの発作は、次第に収まっていった。彼女が、彼女の年長の親友に寄せる絶大な信頼の故だった。
「姉さま、お願いします」
 ヒルデは頷き、クララの額に載せた掌を、そっと動かした。心地よさそうに、クララは瞼を閉じた。
「疲れた?」
「少しだけ」
「そう。では、ゆっくりとお休みなさい」
 小さく頷いたクララの頬に、軽く接吻をして、ヒルデは立ち上がった。

   W

「乾杯王の広場」――エルファランゼのたいていの都市にある中央広場は、ブールカルトではこの名で呼ばれている。
 都市の顔とも言える中央広場は、どこでも趣向を凝らした景観を持つものだ。たった一日でワインの大樽を空にしたという酒飲みにちなんだ名のこの広場も、赤い切妻屋根の雄壮な建物群に四方を囲まれ、中心には「聖クリステルの泉」と呼ばれる噴水が、無数の水柱をそびえ立たせて、存在感を示している。
 キルヒナー邸を辞したヒルデがやってきたのは、その「乾杯王の広場」である。
 広場で憩う人々の間をすり抜け、ヒルデは広場の東側をいっぱいに占めた市庁舎に足を踏み入れた。この建物の一角には、衛士隊の本部がある。
「これは、ノヴァリスのお嬢さま」
 と、本部の大部屋に入ったヒルデを迎えたのは、ブールカルト衛士隊を率いるアルフレート・キプリングであった。薄ら寒い頭部と、滑稽なほどに立派な口ひげの印象的な、初老の男である。
 キプリングの声に、大部屋にいた衛士たちが、一斉にヒルデに対して敬礼を施した。それらに、ヒルデは黙礼で返す。彼らの仕事に幾度も加勢したことのあるヒルデは、ここではちょっとした有名人なのだ。
「ひょっとしたら、お越しになられるのではないかと思っておりました」
「何故ですか」
「いえ、リルケが、飛び出したまま帰らないので、あるいはお嬢さまをお訪ねしたのではないかと……」
 ここで、クックと、のどの奥で笑ったキプリングだが、ヒルデに睨み付けられて、慌てて咳払いである。
「マリア・リルケのことは知りません。私がここに来たのは、クララ・キルヒナーから相談を受けてのことと、おぼえておいて下さい」
「はっ」
 平伏したキプリングに、もうひと睨みくらわせておいて、いよいよヒルデは本題に入った。
「『七曜亭』のことを聞かせてほしいのですが」
「はあ、その事なのですが……」
 と、言ったキプリングの表情は、見る間に萎んでいく。
「どうしましたか」
「実は、今朝方、帝国候からお達しがありまして、『七曜亭』の一件に関する捜査は、今後、ケプラー卿が取り仕切る、と」
 リルケの慌てふためきようには、そういう伏線があったのかと、ヒルデは心中で頷いた。
「そうですか。それで、ケプラー卿はどこにいるのです」
「いえ、こちらの方にはお見えになっておりませんが」
「引継も……」
 言いかけて、途中で止め、代わりにヒルデは大きく息を吐いた。帝国候は、端から事件の究明などするつもりはないらしい。もちろん、その事を言い含められてのケプラー捜査官であろう。ロルフ・メーリケの命運は、今や風前の灯火といったところか。
 今となっては、言っても詮無いことだが、どうしてクララは自分に相談してくれなかったのかと、ヒルデにはそれが不満だった。
 エルンスト・レマルクの名など、リルケに聞くまでは、知りもしなかった。ロルフ・メーリケにしても、通いの仕立屋が、なかなか好男子である、と、クララからちらりと聞かされただけである。
 しかし、苦い自覚が、ヒルデの慨嘆を中途半端なものにさせる。
「金色の神子」の綽名は、ヒルデに幾つかを与え、そして、幾つかを奪った。奪われたものは、捨ててしまいたいものがほとんどだった。けれど、捨てたくはないものも、本当に少しだけれどあったのだ。
「キプリング殿。あなたは、今回の事件について、どう見ているのですか」
「十中八九までは、メーリケで間違いないと思いますが」
「残りは?」
「手口があまりにお粗末に過ぎます。どんな愚物でも、あの状況下でことが起これば、真っ先に自分が疑われることぐらい、わかりそうなものだと思うのですが」
「…………」
「とは、言いましても、あの男以外に、毒を盛る機会があった者はなし。それに、なにしろ相手が悪うございましたな。あのレマルクの倅と仕立屋の倅では、とても、とても……」
 確かに、と、ヒルデは頷き、
「事件の調書などがありましたら、見せてもらいたいのですが。それから、ロルフ・メーリケは、まだここに?」
「はい。お会いになられますか」
「お願いします」
「承知いたしました」
 と、キプリングが持ってきたのは、ペラが三枚と、一通の封書であった。
「それは?」
「決闘状です。メーリケは、すぐに連れて参りますので、しばしお待ちを」
「そうですか」
 紙束を受け取ると、ヒルデはまず決闘状から眼を通した。
「今宵、件の決着をつけん。六つ時、七曜亭にて待つ。」
 簡にして要を得た文句である。さすがに名家の御曹司の筆らしく、美麗な筆跡だ。
「さすが、名うての発展家だけあって、手慣れたものですな」
 横から口を挟んできたのは、キプリングである。
「エルンスト・レマルクのことですか」
「ええ」
 と、ここでキプリングは声をひそめて、
「こんなことを申しますと、死人に対する辱めになるかもしれませぬが、まあ、相当なものだったようでございますよ」
「相当とは?」
「はあ。道楽者と言ってしまえばそれまでですが、ちと度の過ぎた道楽者というのですか。その方面の悶着はしょっちゅうのことで、その度、家名を隠れ蓑に……」
 ここで、ヒルデは、キッとキプリングを見据えた。
「のんきに言ってますね。そう言うあなたはなんですか。衛士隊とは、そういう無頼を取り締まるために存在しているはずではないのですか」
「あ、いえ。そうはおっしゃいますが、訴えが出てこない以上は、我々と致しましても……」
 フン、と、鼻でせせら笑って、ヒルデはそっぽを向いた。これ以上の自己弁護は、心証を悪くするばかりと悟ったのか、キプリングもそれきり黙ってしまった。
 聞かせるためのため息をつきながら、ヒルデは、彼女の年少の友人のことを考えた。あの、愛らしいクララの許婚候補の一人が、よりによって、そんな男だったとは。
 自分に相談さえしてくれていれば、何とでも理由を付けて、追っ払ってやったものを、と、考えて、そこでヒルデは思考を切った。過ぎたことに思いを馳せるのは、今の時点では不毛なことだった。
 ヒルデは帳面に眼を移した。だが、そこからはなんらの有意義な発見も得られず、ただ、リルケの話に多少の具体性が加わった、というだけにとどまった。
 と、そこへ、
「ノヴァリスさま。連れて参りました」
 見ると、二人の衛士に双の腕を取られて、颯爽たる男ぶりの青年が、ヒルデの目の前に立っていた。
 容貌と人柄とは、必ずしも一致するわけではない。そんなことは重々承知のはずのヒルデだが、やはりリルケとクララの嘆願もあってか、ロルフ・メーリケを見る彼女の眼は、好意的にならざるを得なかった。
 顔立ちを構成する線は、秀麗さと野太さの微妙な調和といったところか。中背ながら肩の広い肉体は、見るからに逞しい。この男なら、どこか頼りなげなクララの、良き相方になるのではないかと、そんなことをヒルデは考えてみた。
「あなたが、ロルフ・メーリケですか」
「はっ」
 さっとメーリケは頭を下げた。
「私はヒルデ・ノヴァリスです。私のことは……」
「キルヒナー嬢から、かねがねお名前はうかがっております」
「そうですか。今日、私がここに来たのは、他でもありません。『七曜亭』のことについて、あなたの話を聞きたいと思ったからです」
「はっ」
 メーリケの表情が、眼に見えて強張った。
「クララも、リルケも、あなたの無実を信じているようです」
 と、先程、キプリングをたしなめたことなど、きれいさっぱりと忘れて、ヒルデはそう言い、
「しかし、二人ほど、あなたという人間を知らない者――例えば、私などからすると、どう考えても、あなた以外に犯行が可能だった者がいるようには思われません。無論、私の良き友人である二人の願いが真実であって欲しいとは思いますが、しかし、もし、このまま、あなたが絞首台に送られるようなことになっても、それは、しょうがないことだとも思っています」
「そ、そんな……」
 ヒルデは手にしていた帳面を、メーリケに突き出した。
「どうです。ここに書いてあることに、なにか足りない部分はありますか」
 食い入るように、何度も、何度も、それを読み返し、やがてリルケは、静かに首を横に振った。
「そうですか……」
 ――正直なところ、ヒルデはこの時まで、ロルフ・メーリケの容疑は決定的なものであると思い、クララ・キルヒナーとの約束は守れないものと、半ば以上、諦めていた。その諦めが急転して、もしや、という疑念をヒルデが持ったのは、件の「七曜亭」を訪れてからである。
 この「七曜亭」行きは、特にヒルデが希望した、というわけではなかった。どっぷりと失意の底に沈み込んでいた彼女を、少しでも元気づけたいというキプリングの親切心から持ち上がったものだ。後になってヒルデは、このキプリングの行為に対して、単一色ではない想いを抱くことになる。
 店の所在を知るなり、ヒルデが内心で舌打ちをしたことには、「七曜亭」が「乾杯王の広場」の西側、つまり市庁舎の向かい側にあったことだ。眼を開いていても、見えないものもあるのだ。
 二人は分厚い扉を潜って、店内に入った。
 場所が場所だけあって、さすがに「七曜亭」は洒落た内装を誇っていた。白壁に掛けられた絵画の一つをとっても、明らかにそれとわかる大家の筆である。
 平常であれば、そろそろ客でごった返してくる頃だが、今日の「七曜亭」に、その気配はない。それもそのはずで、ここしばらくの間は営業を見合わせるよう、命令が出されているのだという。足早に歩み寄ってきた店主は、開口一番にその事を愚痴りはじめた。
「…………」
 ヒルデの眼にも、耳にも、それらの全ては入っていなかった。惚けたような顔で、ヒルデは入り口近くに立ちつくしている。彼女だけの感覚が捉えることのできる、ある気配を、ヒルデはこの場所で感じたのだった。
 それは、極々微少な乱れだった。「金色の神子」だから、気付いたのだった。
 ヒルデは、口には出さず、心の内だけで呟いた。
「ここで、魔導が……」

   X

 結局、一睡もできなかった。
 いまやヒルデの心は乱れに乱れて、気も狂わんばかりである。わけもなく大声を出して、頭を掻きむしりたい衝動にさえ駆られる。
 心の天秤に掛けられた、二つの重石。どちらが重いとも判断できずに、ただ、ゆらゆらと揺らめくばかり。
 肯定はできない。さりとて、否定もできない。
 魔導――昨日の衝撃的な発見は、ヒルデの中に、一つの彫像を結ばせるのである。
 嘆息、また嘆息。
 この日、ヒルデは、朝一番に帝国候の元を訪れ、「七曜亭」に関する捜査全権をもぎ取っていた。
 帝国候は、ヒルデにとって母方の伯父にあたる。この姪の言うことであれば、たいていのことは聞き入れる伯父も、さすがに今回ばかりは、いい顔をしなかった。
「しかし、ヒルデ。聞けば、そのメーリケという男は、お前の幼なじみの思い人だというではないか。そんなお前が、果たして、正義の名に値する捜査ができるのかね」
「いいえ、伯父さま。少なくとも、ケプラー卿よりも、私の方がずっと正義という言葉の意味を知っておりましょう」
「正義」という言葉を発したときの、ヒルデの凄惨な形相は、帝国候に首を縦に振る以外の選択肢を与えなかった。
 次にヒルデが向かったのは「木馬亭」という小さな酒場である。「七曜亭」などとは比べるべくもない場末の酒場に、ヒルデがやって来た理由は、この類の店にたむろする、ある特異な職を生業とする人々の助力を得るためだった。
 その人々は、俗に「冒険家」と、呼ばれている。常人のおよそ得意としないような技術を身に着けた者たちの総称だ。ヒルデは、自らを苦悶させる二つの重石の、目方の判定を、彼らに頼ろうと考えていた。
 ちょうど昼時で、「木馬亭」は、和やかな喧噪の内にあった。扉を潜ったヒルデは、自らに集まる視線にも無頓着で、ぼーっと狭い店のなかを見回した。
「あっ……」
 呟いて、次の瞬間には駆け出していた。
 ドタドタという足音に気付いて、ヒルデの方に向けられた眼差し。それに続くのは、柔らかな微笑み。
「お久しぶりです。ウォルフラム・ファンルースさま」
 その名を口にした瞬間に、涙がこぼれて落ちた。ふらふらと安定しない今のヒルデには、嬉しい誤算は、なにより心に響く。
「やあ」
 そう言って、立ち上がった男の背は、ヒルデよりもさらに高い。差し出された掌を双の掌で握って、その感触が記憶の中のそれと全く変わっていないことに、また、涙がこぼれた。
「二年ぶりですか」
「はい。ちょうど二年です。ファンルースさまは、ちっともお変わりになってませんね」
「あなたは、だいぶ変わられた。二年前は、かしましいばかりの子供だったのに、こんな美しいお嬢さんになられて」
「まあ」
 泣き笑いのヒルデに、ファンルースの双眸にも暖かい光がみなぎる。
 ヒルデ・ノヴァリスとウォルフラム・ファンルース――六年前、リントヴルムで起こった奇怪な連続殺人事件を、鮮やかな手腕で解決に導いたのが、この異色の組み合わせだった。
 痩身長躯、褪せた褐色の頭髪と無精ひげの口元。これらから受ける荒んだ印象とは正反対の、鋭敏な頭脳と深みのある為人を、ヒルデは誰よりも知っている。ファンルースと連んだリントヴルムの四年間は、今でも鮮明に浮かんでくる、ヒルデの大切な思い出である。
「いつから、こちらへ?」
「一ヶ月ほどになりますか。ですが、もう、片付いたので、明日にでも発とうかと思っていたところですよ。最後に、あなたに会えて良かった」
「そうでしたの。そんなに長くいらっしゃっていたのでしたら、どうして私を訪ねて下さいませんでしたの?」
 拗ねたような、甘えたような声は、およそヒルデらしからぬものだった。
「そんなことをしたら、門前払いをくらうだけですよ」
「そんなことはさせません」
 ハッハッハ、と、ファンルースは声に出して笑った。つられて笑うには、あまりに乾いた笑いだった。
 しかし、沈滞しかけた場の雰囲気には気付かないふりをして、ヒルデはつとめて明るい声で言った。
「明日、お発ちになるとおっしゃってましたけれど、その予定を、もう少しだけ延ばすことはできませんか」
「何かご用ですか」
「はい。お願いしたいことがあるのです」
「なんです」
「……ええ」
 ここでヒルデは、ファンルースをじっと見遣り、
「場所を変えませんか」
 と、小声で言った。
 承知、と、ファンルースは頷き、二人は肩を並べて店を出た。
 ファンルースは「七曜亭」のことを知っていた。だが、さすがの彼も、ヒルデに案内された衝立の陰が、事件の現場ということまでは知らなかったらしく、その事を告げられると、わずかに眉をひそめた。
「あの事件のことを調べていただきたいのです」
 ふむ、と、顎に右手をやって、ファンルースは頷いた。ヒルデには懐かしい癖である。
「すると、なんですか。ノヴァリス嬢は、あの事件に不審な点がある、と」
「…………」
「どうしました」
 気遣わしげに、のぞき込むファンルースの眼に、ヒルデは眼差しをあわせた。
「ファンルースさま。これからお話することは、まだ、誰の耳にも入れておりません。ファンルースさまを信じて、お話しするのです」
「なんです」
「魔導です。この店で、魔導が行われたのです。その名残を、確かに、感じました」
「魔導……それでは!」
「いいえ! おっしゃらないで下さい。まだ、おっしゃらないで下さい。ただ、このことをお伝えしておかなければ、いかなファンルースさまでも、調査の取っ掛かりが掴めないのではないかと思いまして……」
「承知しました」
 間髪入れず、ファンルースは返した。今、沈黙で間を作ることは、目の前の金色の頭髪の少女を、限りない虚ろへとおとしめることになる。それと知っての行為だった。
「とりあえず三日あれば、まとまったお話ができると思いますが」
「わかりました。それでは、どうしましょう。三日後に、私の、いえ、またここでお会いしましょうか」
「ようござんす」
 ヒルデは懐から巾着を取り出すと、それをファンルースの前に置いた。
「当座の費用として、お持ち下さい」
「お預かりしましょう」
「それでは、お願いいたします」
 そう言って、ヒルデは深々と頭を下げた。

   Y

 ウォルフラム・ファンルースの人物と能力への信頼から、ヒルデ・ノヴァリスは、三日後、自らが何らかの決定的な情報を得ているであろうことを、疑っていなかった。ただ、その決定的が、誰にとってそうであるかは、努めて思考の外に置こうとしてはいたのだが。
 気を紛らわすには行動あるのみ、とばかりに、ヒルデは三日間を精力的に動き回ることで消化した。これまではあまり興味の対象としていなかった歌劇の舞台などを鑑賞するようになったのである。お得意の散策や文献あさりに時間を割かなかったのは、つまり、独りでいると、気が滅入るからに違いなかった。もっとも、そのおかげで、お供を仰せつかったマリィことマレーネ・リストなどは、生涯に数度、有るか無いかの、望外の体験を得ることとなったのだが。
 招待者として接待に相務めていれば、他に神経を惑わされることもないはず――そう考えての行動だったのだろう。しかし、母やマリィの気遣わしげな視線に気付いて、慌てて笑みを浮かべるといったことが一度や二度ではなかった、というあたり、効果はそれほどでもなかったようだ。
 そして、約束の日である。外出間際のヒルデは、マリィにつかまって、昨日の招待の礼を受けていた。
「そうですか。楽しんでもらえたなら、私も、誘った甲斐があったというものです」
「はい。もし機会がありましたら、ぜひ、もう一度!」
 そう言って、マリィは大きな眼をくりくりとさせて微笑んだ。このあたり、たしなみに欠ける、と、侍従長からお小言を頂戴する材料である。もっとも、それを気にもとめないヒルデの甘さに、責任の大部分はあるのだが。
「今日はどちらにお出かけですか」
「ええ。約束があるのです。あ、それから、マリィ。あなたにお願いがあるのだけれど」
「はい。何でございましょうか」
「クララのところにお見舞いに行ってくれませんか。私の代わりに」
「キルヒナー卿のお嬢さまでございますか?」
 語尾を下げたのは、疑問ではなく、確認のためである。マリィは、クララ・キルヒナーがお嬢さまの無二の親友であることを知っている。「七曜亭」で起こった事件を知り、彼女の身を案じたお嬢さまが、息せき切ってキルヒナー邸に駆けつけたことも知っている。それだけに、見舞いの代行は意外に感じられたのだ。
「ええ。お願いしましたよ」
 マリィの疑問を知ってか知らずか、ヒルデは扉の向こうの人となった。

「ああ、ヒルデさま」
 待ち合わせの時刻には、まだ少し間があったので、ヒルデはふらりと衛士隊を訪れてみた。出迎えたのは、ライナー・マリア・リルケだった。
 ヒルデは「七曜亭」に関する捜査全権を獲得すると、ただちに衛士隊の有志を組織し、事件の徹底的な糾明を指令したのである。有志諸氏の中に、リルケの名があったことは、言うまでもない。
「なにか、わかりましたか、マリア・リルケ」
「いいえ」
 そう言って、リルケは、深く、長い、ため息をついた。乱れた頭髪と艶のない顔色は、この男が親友のために、日夜、駆け回っているという、なによりの証だった。
「マリア・リルケ、少し休んだらどうですか」
 ふとかけてみた優しい言葉が、それほど意外だったのか、リルケはポーッとヒルデを見ていたが、
「ありがとうございます。しかし、ヒルデさま、私は大丈夫です」
 と、笑顔を浮かべた、その笑顔の快活さは、紛れもなくヒルデの知るライナー・マリア・リルケだった。
「それでは、頑張って下さい」
 ヒルデは来たときと同じく、ふらりと去っていった。

 市庁舎から出たヒルデは、噴水の縁石に腰掛けているファンルースの姿を見出した。ファンルースの方でもヒルデに気付いたらしく、立ち上がり、ゆっくりと近付いてきた。
「なにか、めぼしい話はありましたか」
「いいえ」
 吐息混じりに、ヒルデは応えた。
「ファンルースさまの方は、如何でしたか」
「ぼちぼち、といったところですか」
 こちらも吐息混じりに、ファンルースは応えた。

   Z

 三日前と同じ「七曜亭」の、奥まった場所にある衝立の陰で、ヒルデとファンルースは相対している。
 先程、店主がやって来て、二人の間の円卓に、葡萄らしき果実水のグラスと水を湛えた白い皿を、それぞれ一つずつ置いていった。
 数からして、飲むために持ってこさせたわけではなさそうである。ファンルースはもの問いたげな眼で、円卓の上のものとヒルデとを当分に見ていたが、やがて、口にしたのは、別の言葉だった。
「お話の前に、一つお断りしておきたいことがあります。それは、これから私がお話することは、全て暗合だと言われても、何も言い返せない、つまり、何らの確証もない、私の憶測に過ぎないということなんです」
「かまいません」
 男への揺らがない信頼をあらわにして、ヒルデは言い切った。
「ありがとうございます。それでは、ひとつ私の憶測を聞いて下さい」
 一礼して、ファンルースはポツリポツリと語り始めた。
「二人の男――MとRが、ほぼ同時に一人の女――K嬢に恋慕した、という、この事実が、そもそもの事件の発端でした」
 二人の男とは、Mがロルフ・メーリケ、Rがエルンスト・レマルク。そして、一人の女、K嬢とはクララ・キルヒナーである。
「しかし、この事実は、真犯人にとって、非常に苦々しいものでした。それは、K嬢に言い寄ってきたMとRというのが、そろいもそろって真犯人の意向に添わぬ、落第点の男どもだったからです。ところで、あなたは、殺されたRの風評というのをご存じですか」
「はい。聞いております」
「それでしたら、話は早い。真犯人が、RにK嬢を渡すわけにはいかないと考えた理由も、合点がいかれるのではないかと思います」
 ヒルデは黙って頷いた。その点については、ヒルデも、真犯人と思考を等しくしているのだった。
「ここで、何故、真犯人は、男どもをK嬢から遠ざけようとしなかったのか、追い払おうとしなかったのか、という疑問が湧いてきます。これにはそれぞれに理由がありました。まず、Rについては、この男の生家というものが、真犯人にとって無視できないほどの勢いを持っていたため、下手に断ることができなかった、という、これが理由の一つ。そして、Mについては、K嬢がこの男を愛していたから、というのが、理由のもう一つです」
 ファンルースは軽く咳払いをして、さらに続けた。
「おそらく真犯人は、苦慮煩悶したことでしょう。K嬢を、どちらの男にも渡すわけにはいかない。しかし、K嬢からどちらの男をも引き離すための手だてを、真犯人は持たなかった」
「…………」
「ここに至って、真犯人は、K嬢の視界から二人の男を永遠に放逐すべく、一人の男を殺害し、その嫌疑をもう一人の男に押しつけるという、世にも陰湿な犯罪を行う、その決意を固めたのです」
「待って下さい!」
 堪らずに、ヒルデは叫んでいた。
「レマルクに、レマルクに、クララをやれないという、その理由は、私にもわかります。けれど、なぜ、メーリケがいけないのですか! クララは、彼を愛しています。メーリケが囚われたと知って、クララは倒れたのです。それほどに愛している男を、どうして引き離そうとするのですか! そこに、どんな理由が……」
 激したヒルデの熱い血は、しかし、ファンルースの眼差しにあって、たちどころに消え失せていった。自らを見つめる、限りない憂色に、ヒルデは、何故にか身体が震えた。
「ノヴァリス嬢」
「は、はい」
「あなたは、Mの家業を知っていますか」
「仕立屋だと聞いていますが……それが、なにか?」
「わからないのですか」
「は?」
 ファンルースはできるだけ調子を抑えて、呟くように言った。
「真犯人は、こう考えたのですよ。伝統ある家系に、仕立屋の倅などという下賤の血を入れるわけにはいかない、と」
 ヒーッ、と、ひきつれた声を上げ、ヒルデは双の掌で顔を覆った。
 そしてヒルデは泣き伏した。泣いて、泣いて、泣きむせんだ。激しく身体を打ち振るわせ、指の隙間からこぼれるほど涙を流した。
 いつしかヒルデの傍らにはファンルースが立ち、その肩には、大きな掌が置かれていた。いやいやをするように肩を揺すって、けれど、その部分から、涙のもとが抜け出していくような、そんな気持ちに、ヒルデはなっていた。
「……犯行の前準備として、真犯人はRに接近しました。おそらく、K嬢との交際を許可する、とでも言ったのでしょう。そして、次には、こんなことを言ってRをそそのかしたのです。しつこくK嬢につきまとうMに、君から一つ、言ってやってくれないか、と」
 再び、ファンルースは語り始めた。その掌は、まだ優しくヒルデの肩を抱いている。
「何も知らないRは、自らのための墓穴をせっせと掘っていたんですよ。真犯人の言いつけ通りに、Mをここに呼び出し、そして……」
 ファンルースは、掌に力を込め、囁きの口調で呼びかけた。
「さあ、ノヴァリス嬢。泣くのを止めて。もう少しです。だから、泣くのを止めて。そして、私に教えて下さい。真犯人の欺瞞を。このグラスと皿は、そのためのものなのでしょう」
 なおもしゃくり上げながら、ヒルデは小さく頷いた。
「わかりました。ご覧下さい」
 と言い、ヒルデが指したのは、円卓の上のグラスだった。グラスはまるで、指名の返事をするかのように、ひょいっと宙に浮かび上がった、と思いきや、いきなり落下して、間一髪でファンルースが掌に納めた。
「す、すいません。今度は大丈夫です」
 ヒルデの言葉通り、グラスは、今度はちゃんと宙に浮いた。
「これは『魔素の手』という、魔導の基礎の一つです」
「魔素を集めて、手のかたちにするというやつですか」
「はい。ただ、手のかたち、というのは、正確に言うと間違いです。なにか、かたちを持たないもので包み込む、といった方が、より近いと思います」
「ほう」
「ですから、ですから、こういうこともできます」
 宙に浮いたままのグラスの、その中に満たされたものの表面から、一つの珠が飛び出した。
 赤紫色の珠は、空中を移動して、皿の中に落ちた。皿の中には水が張ってあったが、その中でも珠はかたちを崩さずにいる。
「いきます」
 ヒルデの声と同時に、珠が弾けた。皿の中央ほどには、もやりとした、赤紫色の濁りが残った。
 皿とヒルデとの間で、視線を三往復させた後に、ようやくファンルースは口を開いた。
「なるほど。つまり、犯人は、必ずしも、グラスの中に直接、毒を入れることのできる人物でなくてよかったわけですか。この場所は、確かに、衝立で隠されてはいますが、外から全く見えないわけではない。『魔素の手』を使う余地は、十分にあった……だが……」
 ファンルースは言葉を切ると、
「どれもこれも傍証ばかりだ。これでは真犯人を追いつめることはできない」
 と、吐き捨てるように言った。
 ハッと、ヒルデは、ファンルースを見上げた。
「そんな、ファンルースさま。ロルフ・メーリケの潔白を証明してやらなければ。彼は無実です。彼を救ってやらなければ!」
 ファンルースはそれに応えず、しみじみとヒルデを見遣って、そして、
「そのためには、真犯人に死んで貰わなければなりませんが、構いませんか」
 それきり濃い沈黙が「七曜亭」全体を覆い、ヒルデも、ファンルースも、その中にゆっくりと埋没していった。

   [

「今宵、件の決着をつけん。六つ時、七曜亭にて待つ。」
 ロヴィス・キルヒナーが、差出人不明の手紙を受け取ったのは、「七曜亭」の事件から六日が過ぎた日の昼だった。
 端麗な女文字を見て、キルヒナー卿は、ニヤリと不適な笑みを浮かべた。彼は、この手紙の差出人を知っているのだ。
 訪れた「七曜亭」では、痩せた、背の高い店員がキルヒナー卿を迎えた。キルヒナー卿は知らないが、この店員はウォルフラム・ファンルースである。
「キルヒナーだが」
 名乗ると、すぐさま奥に通された。六日前、エルンスト・レマルクが悶死した場所で、彼を待っていたのは、ヒルデ・ノヴァリスだった。
「お嬢さま、これは、なんの悪戯ですかな」
 ヒルデは眉をひそめて、キルヒナー卿の顔を睨め付けたが、それもごく僅かな間のことだった。眼差しを外し、小さく息を吐き、そして、左手で彼女と相対した椅子を指した。
 キルヒナー卿が腰を下ろすと、先程の店員が、盆に果実酒らしいグラスを載せて、やって来た。
 店員は、まずヒルデの前にグラスを置き、次いで、キルヒナー卿の前にグラスを置こうとしたが、手をすべらしたのか、あっ、とグラスを取り落としてしまった。
「おぉ」
 唸ったのは、キルヒナー卿である。宙で静止したグラスは、ヒルデの「魔素の手」によるものだった。
「気をつけて下さい」
「申し訳ありません」
 店員はヒルデとキルヒナー卿に一礼し、衝立の外に出ていった。
「どうぞ」
 ヒルデは、「魔素の手」で、グラスをキルヒナー卿の前に置くと、これを勧めた。遠慮せずにグラスを取り、鼻を近づけたキルヒナーは、感嘆の呻きをあげた。
「ほぉ、これは良い香りだ。それでは、遠慮なく」
 と、グラスの半ばほどまで果実酒を減らした。そのさまを見るヒルデの眼は、冷たく、乾いている。
「さて、お嬢さま。今日は、どのようなご用件で」
「私に言わせるのですか」
「はぁ?」
 小馬鹿にしたような、卿の返答である。
「いったい、なんです」
「……わかりました。あなたがそのつもりなら、私が言いましょう。エルンスト・レマルクを毒殺したのは、あなたですね」
 静寂の後、キルヒナー卿は、巨体を揺すって大笑した。
「いやいや、失礼いたしました。それにしても、突然、何を言い出されるのかと思えば……」
「お黙りなさい!」
 ヒルデは眼差し鋭く、キルヒナー卿を射た。
「あなたは、ロルフ・メーリケとエルンスト・レマルクの両名ともを、クララの許婚としたくないために、一方を毒殺し、その罪をもう一方になすりつけたのです」
「…………」
「何とか言ったらどうですか」
「……証拠はありますか。私が、レマルクを毒殺し、メーリケをおとしめたという、その証拠が」
「魔導です」
「魔導?」
 ヒルデは大きく頷いた。
「あなたは『魔素の手』を使って、レマルクのグラスに毒を仕込んだのです。メーリケが一服盛ったと見せかけるために」
「…………」
「この店で、魔導の使われた形跡を、確かに感じました。それが、何よりの証拠です」
 ヒルデの言葉に続いたのは、またもや、無礼千万の大笑であった。
「お嬢さま。確かに、お嬢さまの言われるとおりのことを、私は行うことができるでしょう。しかし、それが証拠とは、あまりにお嬢さまらしからぬおっしゃりよう。それを言うならば、お嬢さまにもその機会がお有りだったのではないですかな」
「なにを!」
「お怒りになりますな。例え話ですよ。つまり、魔導即ち私、という、その構図が短兵急に過ぎると、そのことを申し上げたかったまででございます」
 ニヤニヤと、まだ、先程の笑いが抜けきらぬ顔で、キルヒナー卿は続ける。
「このブールカルトには、あなたと私以外に、魔導師はいないのですか? そうではないでしょう。私の知るだけでも、片手の指ではおさまりきりませんよ。この点から言っても、あなたのおっしゃられたことは、間違っているのです」
 と、キルヒナー卿は、一つ大きく息を吸い、そして吐いた。
「あの事件の犯人は、ロルフ・メーリケに相違ありません。なんと言っても、あの男以外には、レマルクに一服盛る機会を持っていた者はいないのですからね。それに、あの男には動機がある」
「あの日、ちょうど事件の起こった時分に、あなたもこの店にいたそうですね。あなたにだって、動機はあるでしょうに」
「偶然、ですよ」
 この瞬間、ヒルデは、二人の間に僅かに残されていると信じていた通路が、厚く、重い扉によって閉ざされた、その響きを聞いた。
 どんなに大声を出しても、向こう側の声は、こちらに届かない。こちらの声も、向こう側には届かない……。
「もう、お話もないようですので、私はこれで失礼させていただきますよ」
 黙りこくったままのヒルデを一瞥し、キルヒナー卿は、巨体を揺らして席を立った。
「待ちなさい、キルヒナー卿」
「まだ、なにかご用がお有りで?」
 尊大なその横っ面に、ヒルデは、フンと、冷笑を浴びせかけた。
「まだ、気付かないのですか。あなたの体内に、私の『魔素の手』が潜んでいることに」
 まなじり裂けんばかりにヒルデを睨め付けたキルヒナー卿は、不意に、
「クソッ! さっきの酒は、そのためか!」
 と、罵った。
「気付くのが遅すぎますよ。それから、無駄なことは止めて下さい。この場の魔素は、全て私が支配しています。つまり、言うまでもなく、あなたの生命は、私の手中にあるということです」
 血管が浮き出し、脂汗のしたたる形相は、醜悪以外のなにものでもなかった。
「観念して下さい。私は、あなたを殺したくはない。私と、そして母を救ってくれたのは……」
 予想もつかない反撃に、ヒルデの言葉は遮られた。キルヒナー卿が、巨体に勢いをつけて、ヒルデに突進してきたのだ。
 撥ね飛ばされ、ヒルデは壁にしたたかに背を打ちつけた。集中が途切れ、部屋中の魔素の支配も解けた。
 当然、キルヒナー卿の体内の「魔素の手」も、支配者であるヒルデの集中が途切れたことで、かたちを失い、中に仕込まれた毒液が、ぱっと飛び散った。
 キルヒナー卿の狙いは、ヒルデの集中が途切れ、毒液が体内で飛散する前に、自らの「魔素の手」で、それを包み込むことだった。
 しかし、キルヒナー卿は、失敗した。焦った彼は、「魔素の手」を創り出すことができなかったのだ。
 ヒルデが背中いっぱいに広がる鈍い痛みに、なんとか打ち勝って、瞼を開いたとき、そこには、男の遺骸が、一つあった。
 隣には、いつの間にか、ファンルースが来ていた。
 その顔を、じっと見つめた深い緑色の瞳の奥から、悲哀の滴が沸き出すまで、もう、どれほどの時間も必要ではなかった

   \

「もう、このあたりで結構ですよ」
 言われて、ヒルデ・ノヴァリスは振り返った。ブールカルトの市壁が、随分と遠くに見えた。
「それでは、どうぞ、お気をつけて」
 ヒルデは、そう言って、傍らの男に深々と頭を下げた。
 事の多い一週間だった。
 ロヴィス・キルヒナーは、ヒルデ・ノヴァリスの名において告発された。告発者ヒルデの証言と、彼女が提出したキルヒナー卿の告白書――これは、ヒルデがある人物に依頼して作成したもので、巧みにこの事件に魔導が用いられたことが隠蔽してある――とが決め手となり、キルヒナー卿の罪状は確定した。
 エルンスト・レマルクの遺族からは、遺体でも構わぬ、と、キルヒナー卿の引き渡しが要求された。だが、ヒルデはいち早く遺体を処分し、どことも知れぬ場所に葬ってしまったので、死者に対する冒涜は行われず、事件は一応の決着を見たのだ。
 無実のロルフ・メーリケは、解放されたその足で、命の恩人であるヒルデのもとに駆けつけると、額を地に擦りつけんばかりにして、彼女に謝した。そして、その翌日、彼はクララ・キルヒナーへの求婚を取り下げた。
 クララ・キルヒナーは、いまや涙の人である。朝に泣きぬれ、夕べに泣きむせんだ。ヒルデの取りなしにより、キルヒナー家は、取り潰しを免れた。しかし、それが彼女にとって、なんの救いになろうというのか。ヒルデにはわからない。
 そして、今日、ウォルフラム・ファンルースが、ブールカルトを去るのである。
「ノヴァリス嬢」
「は、はぁい」
 湿っぽい感傷に浸っていたヒルデは、不明瞭な応えを返した。その顔を、意味深な微笑を浮かべたファンルースが見ている。
「林檎飴が食べたくないですか」
「え?」
「リントヴルムは、もうじき収穫祭ですよ。久しぶりにどうです」
「…………」
「『パレ・リーゼル』なら、二人ぐらい押し掛けたって、どうってことはないでしょう」
 ヒルデが、言葉と微笑の意味に気付いたとき、ファンルースの背中は、すでにずっと遠かった。
 一陣の風が、ヒルデの金色の髪を揺らした。
 ヒルデは思う。今、彼女の横をすり抜けていった風は、やがてファンルースに追い付き、彼の道連れになるに違いないと。
 少しだけ、ヒルデは風に嫉妬した。



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