ハロー、マイ・フレンド
北郷博之


   1

 相良一能と長沢敬は同級生だった。
 この同級生という言葉は、二人の関係を正確に表している。クラスという同一の集団に属しているのだから、決して顔を知らないわけではない。しかし、二人は、それ以上でも、また、それ以下でもなかった。
 長沢敬は美しい男だった。
 普通、男という言葉に、美しいという修飾語がかかることは少ない。それは、一般に思われている男のイメージと、美しいという言葉の響きとが、互いに相容れない性質の構成物から成り立っているからかもしれない。
 そんな中、長沢敬は、彼を見知る誰もが、ごく自然に美しいという言葉を、その冠に贈ることの出来る男だった。
 一能が長沢敬の名からまず連想するもの、それは彼の首から上の部分であった。
 毎日欠かさずにリンスをしているのだろうな、と思わせる繊細な髪。想いを込めて造られた西洋人形のような顔立ち。それらの一つ一つの線はたとえようもなく優しく、柔らかそうなのだ。
 あと、男のくせにやけに色が白くて細いやつ、という印象がある。
 それぐらいだろう。一能の思いつく限りの敬の概要は。特に親しいわけでもない彼の容姿を克明に記憶しているほど、一能の観察力は優れていない。一能は海外の小説に登場する、超人的な頭脳を持つ名探偵ではないのだから。
 その長沢敬から手紙が届いた。
 夏の盛りに届いたそれは、葉書ではなく封書だった。白の上の筆遣いは、とめ、はね、はらいが正確で、彼に似つかわしいように思えた。

   2

「こんにちは。相良君。
 突然のお便りに驚かれたことと思います。
 実は、相良君に伝えたいことがあって、こうして手紙を書いています。
 これから僕の書くことは、きっと相良君には迷惑だろうと思います。だけど、どうしても僕の気持ちを知ってほしいから、やっぱり書きます。
 相良君のことが好きです。
 高校に入って、相良君と初めて会ったときから、ずっと、ずっと。
 だから、二年生になって、相良君と同じクラスになれたとき、うれしくてたまりませんでした。うれしくて、うれしくて、それだけで満足だったはずなのです。
 でも、どうしてか、相良君にこの想いを伝えたくなりました。どうしてなのか、それは僕にもわかりません。わからないけれど、伝えたくなったのです。
 いきなり変な手紙を、本当にごめんなさい。
 暑い日が続きますが、どうかお身体お大事に」

   3

 自室のベッドに腰掛けて、一能はそれを読んだ。
 手紙のおしまいには、三日前の日付、長沢敬の名、そして「相良一能様」と、前の二つよりは、いくらか大きな文字で、彼の名が記されていた。
 便せんを持つ指先の震えが、はっきりと見てとれた。上下に、振幅は一センチぐらい。
 不意に、紙が二つに裂けた。心臓が跳ね踊ったが、一枚目の下になにも書かれていない便せんがもう一枚あり、それがはがれて分かれただけであった。
 驚くようなことではないはずだった。だが、一能の胴体の中央あたりでは、まだ激しい動悸が止まない。
 背中にぴたりとへばりついたTシャツに、一能は気付いた。冷房の効いた部屋の中、暑さのために吹き出した汗でないことは明らかだった。
 まずい、と思った。
 まさか、自分が同性愛癖のある男に好かれてしまうとは。
 身体のどこが発生地かは不明な、得体の知れない冷気が一能の全身を包み込んだ。
 真っ先に浮かんだのは、これは悪戯に違いない、という考えだった。どこかの馬鹿が長沢敬の名をかたり、一能を担ごうとしているのだろう。それとも、長沢敬本人が一能をからかっているのか。
 そこまで考えて、一能は右手で頭を掻きむしった。ふけがぱらぱらと降ったが、はらうでもなく、膝の上にそのままにしておく。ジャージの黒の上に散った、パン粉のような粒を無意識に眺める。
 違う、だろう。自分は思ったのではなくて、思いたいのだ。
 一能はもう一度、白い便せんに綴られた長沢敬の文字を見た。
 特に凝った表現を使っているわけでもないその文章からは、本気の想い、とでも言えばよいのだろうか、そのようなものが滲み出ているように感じられる。
 あるいは気のせいかもしれない。文章を読まない、書かない一能が、文字に込められた気持ちとか、行間に秘められた想いとか、そんなものを読みとることが出来るとは、彼自身が思えない。
 しかし、長沢敬の飾らない、そして率直な表現の数々は、一能の文学的資質など無視して、彼の内部に深く染み入ってくるかのようであった。
 一能の身体は、再び、あの冷気に包まれた。
 左手に便せんを持ったまま、仰向けにベッドに倒れ込んだ。一能の重みで、一瞬、ベッドがたわむ。
「やばいよ、おい」
 見上げた天井に向かってぼやいてみたが、やはり、なにも返ってはこなかった。

   4

 歩く一能の周りでは、道から透明な湯気のようなものが噴き出して、その先の風景を不自然に歪める。
 額から頬に伝った汗を手の甲で拭い、上着になすりつけた。
 夏休みもそろそろ、というこの日、一能は久しぶりに外の空気に触れていた。
 身体の調子を崩していたとか、そういう理由ではない。元来が出不精な彼である。暑さを理由に、この一週間ほど、食っちゃ寝のだらけた生活を送っていたのだ。
 そんな一能が、わざわざ夏の直射日光を浴びる気になったのは、母親からの頼まれごとのためだった。
 まず、彼の母親は「あんた、最近外に出てないでしょう」と、いかにも息子の健康を心配しているような口振りで言った。その後、「少しは日に当たって来なさい」と続け、「ついでに牛乳を一本買ってきてくれない」と結んだ。
 そしていま、一能はうだるような暑さの中にいるのだった。
 この時の一能の出で立ちは、ジーンズに黒いTシャツというものであった。着てくる服を間違えた、と、一能は思う。タンスから適当に引っぱり出したものを身に着けてきたのだが、もう少し夏向きの服装というのもあっただろう。
 まさに、今さら、ではあるが。
 商店街に着くなり、一能はスーパーに飛び込んだ。自宅から三分もかからない道のりだが、三〇分は歩いたような心持ちであった。
 スーパーの中は、期待通りの、痛いぐらいに効いた冷房である。Tシャツの襟首を掴み、ぱたぱたと中に風を送った。汗が引いていくのが、実感としてわかる。外を地獄に例えるなら、ここはまさに天国であった。
 牛乳を買い終わっても、一能はしばらく店内に居座っていた。あの暑さの中を、また歩かなくてはならないのかと思うと、なかなか外に出る気が起こらないのだ。
 数分後、ようやく店から出た一能は、しかし、そのままUターンして、店内に戻りかけた。確かに、外気は暑かったが、彼の感覚に流れた汗は、そのためではなかった。
 長沢敬だった。一能とは対照的に涼やかな服装は、ジーンズと白のポロシャツである。ジーンズの色は、若干、敬のものの方が濃いようだった。
 遊歩道を挟んでスーパーの斜め向かいにある文具店から、敬は出てきたところだった。気付かないでくれと願ったが、淡い期待は霧散して、敬は一能に向かって軽く手を上げた。
「相良君」
 小走りに寄ってきた敬は、たぶん、テナーぐらいの高さの声で、そう言った。
「買い物?」
 敬の抱えていた紙袋に眼を遣って、一能は応えた。思ったよりも、平然とした声が出てくれたのは何よりだった。
「うん。半紙をきらしちゃって」
 小さく紙袋を掲げて、敬は微笑んだ。
「書道か」
 書道は、一能の通う高等学校で設定されている選択芸術科目の中の一つだ。他に美術と音楽があり、一能は美術を選択していた。絵に自信があるわけではなく、楽そうだから、という理由で選んだだけである。
「字を書くだけって思ってたら、けっこう大変なんだよね。しょっちゅう宿題も出るし」
 瞳にかかるぐらいの、少し長めの髪を、敬は左手でかき上げた。だが、敬の柔らかそうな髪は、すぐにまたさらさらと流れて、元の位置に戻ってしまう。
「大変だな」
 言葉だけの慰めを言い、一能は意味もなく頷いた。その様子を見て、敬はまた微笑んだようだった。
 その後、一能と敬は少しの間だけ会話を重ねた。とは言うものの、あまり親交のない二人だけあって、会話の内容もやはり社交辞令の積み重ねであった。
 この時、敬の一挙一動を注視していた一能は、しだいに心の張りが弛んでいく感触を覚えていた。敬の言動は自然で、どこからもそのような匂いは漂ってこない。手紙のことだって、ひとつも敬は言わない。
 やはり誰かの悪戯だったんだな。
 そう、漠然と、一能は思った。
「相良君、すごい汗だね」
 話題も尽きたかと思われたとき、敬が言った。確かに、一能の額は、暑さのために噴きだした汗の粒でいっぱいだった。
「僕の家、近くなんだけど、よかったら寄ってかない? お茶ぐらいご馳走するよ。クーラーも効いてるし」
 鼓動が停止したような瞬間だった。断った方がいい、と、誰かが言ったような気がした。だが、何と言って断ればよいのか。ごくごく自然で、もっともらしい言い訳は、なにかあるだろうか……。
 結局、数瞬が過ぎてもうまい言い訳を思いつくことの出来なかった一能は、
「あぁ、そう。それじゃ、ご馳走になろうかな……」
 と、敬に告げていた。それを聞いた敬は、初めて彼の真っ白な歯を見せて笑った。

   5

 商店街から五分ほどのところ、最近になって拓かれた――とは言っても、もう一年は経っている――高級住宅街の一画に、敬の自宅はあった。
 豪邸と呼ぶには、やや物足りないが、建て売りの相良邸とは比べるべくもない――それが、長沢邸の印象だ。少しくすんだ感じのする白の外壁は、経年による変色ではなく、もともとがそういう色であるらしい。垣根から僅かにのぞく庭には、ゴルフの練習用と思われる緑色のネットがあった。
 軽く二台分、軽自動車なら三台は置けそうなカーポートを横目に、門から玄関戸までの細長い通路を歩いた。敬が玄関戸を引き、一能を迎えた。
「どうぞ」
 手招きされるままに、一能はそろそろと玄関戸を潜った。
「おじゃまします」
 長沢邸の二階には、五つの扉があった。そのうちの一つはトイレで、トイレから一番遠い扉が敬の部屋だった。
 敬の背に続いて扉を潜ると、そこには予想された風景が広がっていた。八畳か、一〇畳か、それぐらいの広さの室内には、この場所しか置くべきところはない、と、思わせるように整然と家具が並べられていた。床の上に読みかけの雑誌が散らばっていたり、空き缶の塔が部屋の隅にこしらえられていたり、とか、そういったものも全くない。指で壁際をなぞってみても、埃も積もってなさそうだ。長沢敬の部屋は絶対に綺麗だ、という奇妙な確信を持っていた一能は、自らに頷いた。
「椅子がないから、ベッドの上でも座っておいて」
 そう言うと、敬は一能の横をすり抜けて、扉の外に出た。目線で追った一能に、敬は、
「お茶を持ってくるから」
 と、応えた。
 敬の背が視界からなくなり、足音が遠くになると、一能はベッドの上に腰を下ろした。
 しかし、ものの一〇秒も経たないうちに、臀部を揺すって座り直す。さらに何度かそれを繰り返していると、階下から足音が聞こえたので、一能は動きを止めた。
 部屋に入ってくるなり敬は、腕をうんと伸ばして、手にしていた盆を取ってほしいような素振りを見せた。一能は中腰で立つと、両手でそれを受けた。受けたとき、盆に載っていた二つのグラスが少し横に滑ったので、一能は思わず、おっ、と、声を出していた。
「ありがとう」
 後ろ手に扉を閉めながら、敬は言った。そして一能から盆を受け取ると、一つのグラスを彼に手渡し、もう一つを自らが持った。役目を終えた盆は、机の上に置かれた。
「ごめん。あんまり冷えてなかった」
 言いながら、敬は一能のすぐ隣に腰掛けた。少しばかり距離が近すぎるような気がしたが、なんとか一能は踏みとどまった。意識して、敬から気を逸らそうと、グラスに口を付けた。
 グラスの中身は生ぬるいうえに、ウーロン茶であった。一能は顔をしかめかけて、慌ててもとに戻そうと努力した。だが、敬は一能の顔面の微かな変化に気付いたようだった。
「変な味がした?」
「いや、そうじゃなくて。ウーロン茶は、どうも苦手なんだ」
「そうだったんだ。ごめん」
 形のよい眉をひそめて、申し訳なさそうな敬に、一能は、いいよ、と、言った。その後、一能は鼻で息をしないように、一気にウーロン茶を飲み干した。
 口に残った独特のくさみに耐えながら、空のグラスを両手でもてあそんでいた一能に、
「相良君」
 と、敬が呼びかけた。首をあげた一能の眼を、真っ直ぐに見つめる眼差しが貫いた。
「ん?」
「手紙、読んでくれた?」
 グラスを取り落としそうになり、両手で握りなおした。鼓動が今までの一〇倍の速さで拍子を刻みだした。
「……手紙って、暑中見舞いかなにか?」
 演技の平生で、一能は言った。とは言っても、この時の彼は、どうしようもない大根役者であったが。
「届いてない?」
 中途半端に眼を見開き、少しひびの入った声が返ってきた。
「あ、あぁ、俺は見てないけど……」
「…………」
 きっと、敬は自分を見ているのだろう。見ているに違いなかった。
 だが、一能は、その眼差しを見返すことが出来ない。さり気なさを装ったよそ見は、彼自身にも明らかな作為だった。
 やがて、そう、と、敬は呟いた。力無く、唇からこぼれ落ちたような言葉だった。
「そう、なら、いいんだ……」
 その言葉を最後に、押し寄せてきた静寂は、しかし、想像よりも長続きしなかった。切り裂くような音に――それは、まさに切り裂くという表現が適切であった――はっと、一能は敬を見た。
 敬は泣いていた。小さく肩を震わせ、時折、思い出したようにしゃくり上げている。うつむき加減で、一能からは見えないが、敬の頬には、幾つも涙の筋ができているにちがいない。
 一能の中心に、漠とした圧迫感が生まれていた。それは、敬の泣き声に感応して、少しずつ、少しずつ、膨れ上がっていく。
 確かに、責められるべきは一能であった。彼は、最も汚い手段で、敬の求めを拒絶したのだ。
「手紙は読んだ。だけど、君の気持ちには応えられない」
 そう言えば、よかった。そうすれば、敬を泣かせることもなかっただろう。たとえ泣かせたとしても、その涙の意味は、今とは微妙に違ったはず……。
 頭を振り、大きく息を吐いた。今の一能にできること、それは失われた正直さを取り戻すことだった。そうすることで、時が戻るわけでは、もちろん、ないけれど。
「ごめん、長沢」
 泣き声が止んだ。
「嘘をついた。本当は、俺、手紙、読んだ……」
 時の流れを、言葉が、堰き止めた。
 隣の敬は、まるで固形化してしまったかのように、身動き一つもしないでいる。両肘を膝の上におき、掌は祈りを捧げるようなかたちで結ばれている。
 そして、一能は、増してくる時のかさを感じている。彼の言葉によってせき止められた時は、部屋の底面から猛烈な勢いで、その位を増して、今、胸ほどの高さであった。
 このままでは、やがて二人とも時の中に沈んで、溺れ死ぬのだろう。しかし、一能は堰を切ることが出来ない。彼はそれほどの強さも、そして逞しさも、持ち合わせてはいないのだった。
 一能に出来るのは、待つことだけであった。自分以外の誰かが、堰を切ってくれるのを。
「相良君……」
 掠れた声に、一能は隣の敬を見た。敬も一能を見ていた。まだ潤んだままの眼で、一能だけを見ていた。
 敬が動いた。細い腕が一能に絡みついて、そのままきつく締め上げた。
 触れ合うほどに接近した頬と頬の上で、眼差しが慌ただしく交錯する。泣きはらした眼の赤と、きめの細かな肌の白とが、鮮やかなコントラストとなって、一能の視界を埋め尽くした。
 ほんの何秒間かだけ、鼓動が速まったが、それも少しずつもとに戻っていく。
 ずっと近付く二人の距離。そして、敬の唇が、一能の唇に、ゆっくりと重ねられた。
 その光景を、一能はどこか遠いところから眺めていた。

   6

 口元に指をやり、唇を撫でる。感触はまだ残っていた。
 窓から差し込む陽の光が、その明度を一日のうちで最も下げる頃、相良一能は自室のベッドに寝そべり、ぼんやりと天井を見上げていた。
 思い出したくもない――しかし、彼の内面から決して消えそうにない――長沢敬との口付けから、時間は、どれくらいが経っただろうか。
 ……永い、永い、一瞬が過ぎて、時は、堰を切って流れ出した。抱き締めたままの腕を振り解き、なにも言わず、なにも見ず、敬の部屋から飛び出した。
 単色に支配された一能の脳細胞は、この時、ただ一つの目的のためだけに身体を酷使した。そして、気が付くと、彼は、この場所にいたのだ。その過程は、彼の中に存在しない。
 吐息と共に、一能は瞼を閉じた。すると、彼の中にあのイメージが舞い戻ってきた。瞼を開けても、もう、手遅れだった。
 ゆったりとした速度で迫る敬の眼差し。やがて、ふれあいから生まれたぬくみを、一能は感じた。彼の視界は、まるで少女の肌のようにきめの細かな、なめらかな薄紅色でいっぱいだった。
 なんと柔らかな唇だったろうか。つややかで、しっとりとした、あの感触を、一能は思った。
 女性と口付けを交わした経験を、一能は持たない。だが、ひょっとしたら、敬の唇の方がずっと柔らかいかもしれない……。
「…………」
 下らない夢想を断ち切ろうと、勢いをつけて起き上がった一能は、あることに気付いた。彼の身体の内に存在する、彼の意志とは相容れるはずのない欲望を具象化する部分に、である。そして、それは、彼が意識を向けたことにより、さらに声高に存在感を主張しだしたのだった。
「なにやってんだよ、俺は!」
 叫びは、深刻な怯えを音声に変換したものだった。
 自分は正常だ。正常なはずだ。その証拠に、あの手紙を読んだとき、震えたじゃないか。長沢敬の顔を見て、まずい、と、思ったじゃないか。
 自己を正当化するありったけの言葉を並べたてて、一能は一息ついた。だが、彼の内面のもうひとりの彼は、それだけでは満足しなかった。
 なら、どうして逃げなかった? 長沢敬から抱きすくめられたときに、なぜ、その腕を振り解こうとしなかった? 自分よりも一回りは細い長沢敬の華奢な身体から、逃れられなかったなんて言い訳が出来るのか?
 恍惚としていたんじゃないか? 酔っていたんじゃないか? 長沢敬のあの美貌に……。
 あれは「蛇に睨まれた蛙」だった、と、自分を信じたい一能だった。場の雰囲気に流されただけだ。そうじゃないと、そうじゃないと……。
 しばしの沈思の後、一能は震える指先で、ジーンズの布きれ越しに、その部分に触れてみた。
 それは、もぞり、と、動いた。
 また、敬の唇が思い浮かんだ。つややかで、なめらかな、あの感触が……。
 一能は双の手で頭を抱え、ベッドに倒れ込んだ。
 行為の後の虚脱感は、尋常であるはずがなく、彼を包み込んで、決してここへ帰しはしないだろう。それに気付いたのだから、彼はまだ、たぶん、正常だった。

   7

 瞼を開いて、最初に出てきたのは吐息だった。
 手を上に伸ばし、枕元の目覚ましを取る。デジタルの表示は午前七時五七分。見ているうちに、五八分へとかわった。
 時計を戻すと、また、瞼を閉じた。
 眠れない、と、思ってた。今夜だけは、眠れそうにない。眠れるわけがない。そう、思ってた。
 だが……。
 自分が考えているよりも、昨日の出来事は、彼にとって深刻ではなかったのか? あっさりと受け入れてしまえるような、そんなものだったのか?
 出てくるのは、解決の助けになるはずもない吐息ばかりだった。
 室内は薄気味悪いぬるさにおおわれていた。首筋にうっすらと感じられた汗を、かぶっていたシーツで拭った。
 枕元をさぐり、時計の隣にあったクーラーのリモコンを取った。スイッチを押し、クーラーを始動させる。
 頬のあたりに、微かな涼風を感じながら、一能は眠りに落ちていった。

   8

「はい、相良です」
 受話器を取り、一能はそう言った。しかし、受話器は黙りこくったままで、なにも返してこない。
「もしもし?」
 微弱な苛立ちを込めた声は、最後通牒だった。これで何の返事もないのなら、切るつもりでいた。
「……相良君?」
 ああ、と、応えて、ゆっくりと息を吐いた。声は、長沢敬だった。
 あの瞬間から、ちょうど二日が過ぎた頃のことである。
 もう二日か、と思い、次に、まだ二日か、と思った。時間の経過とは、いったい速いものなのか、それとも遅いものなのか。
「相良君」
 咄嗟には言葉が出てこず、んぁ、と間の抜けた声を出してから、慌てて一能は、なに、と言い直した。
「一昨日は、本当にごめん……」
「い、いや、俺の方こそ……」
 その言葉を最後に、二人を繋いだ回線は、完全に、空洞化してしまった。
 ……なにか言ってくれ。
 そう思った後で、敬もきっと同じ事を考えているのだろうな、と考えた。
 会話の順番では敬なのだが、なにも言葉が見つからないのだろう。そして、それは一能にしても同じだった。
 一〇円玉で三枚分ほどの時間、回線の一つを無為に占有した後、再び回線に音声を流し込んだのは、順番通りに敬であった。
「相良君。これから会えないかな……」
 即答はせず、一能は少しの間だけ敬を待たせた。
 曖昧な返事で誤魔化して、いつか風化させてしまうことも、選択肢の一つではあろう。そうした方が、きっと楽だ。
 しかし、それで良いのだろうか、とも思う。
 今、敬に会うことを逃げれば、一能の中に「なにか」が、ずっと消えないで残るような気がする。記憶の淵から、それが浮かび上がってくる度に、眼を覆い、嘆息して、この先ずっと、その繰り返しなのだろうか。
 もちろん、敬に会うことで、他方の選択肢よりも、ずっと重いものを、彼は手にすることになるかもしれない。
「…………」
 返答は、敬の予想と一致していたのか。それとも、その逆であったか。それは、一能の知るところではなかった。
 確かなことは、これから寝癖でぼうぼうの頭髪を梳かさなければならなくなった、ということだった。

   9

 あの時と同じ場所。あの時と同じ配役。しかし、物語はその進行を止めたまま、はじまりの気配を見せない。
 相良一能と長沢敬は、二メートルの距離を隔てて、時に沈黙だけを刻み続けている。
 一能は、その胸の内に、答えを持たなかった。
 敬は彼を呼んだ。なにかを告げるために。
 それに対する答えを。
 忘れたのではない。見出せなかったのだ。
 だが、一能はここにいる。曖昧なままの自分を認識しながら、一能はここにいる。
「相良君」
 永すぎる沈黙の後、敬は言った。ころ付きの椅子のどこかが、小さく軋んだ。
「相良君が僕のことを、どう思っているのか、もう、わかってる。だけど、僕は相良君のことが好き」
 もう、一能は震えない。自分には、その資格さえないということを知っているから。
「長沢」
 視線は交錯しない。一能は、あるがままの向きに首を据えたまま、独白の口調で言った。
「お前が、俺に求めてるものって、なんだ」
 口をついて出た問いの中には、例えば「時間稼ぎ」といったような要素も、皆無であったわけではない。ただ、それよりもずっと大きな割合で、整理されぬままの一能の気持ちが存在したのは、間違いのないことだった。
「僕が相良君のことを好きなように、相良君にも、僕のことを好きになってほしい」
 よどみない口調で、そう言いきった敬に、一能は問わずにはいられない。
「好きって、なんだ。好きっていうのは、例えば、友達なんてのも、要するに、お互いに好感を持っているもの同士の集まりだろ。それとは、違うのか」
「違うよ。友達なんかじゃない。僕にとって相良君は特別だから」
 明確な否定に、またしても一能は問いを発した。
「特別って、なんだ」
 さすがに即答はせず、敬は小さく開いた唇の隙間から、そっと息を吐いた。
 それから天井を見上げ、口の中でなにかを呟き、今度は俯いて、また、口の中でなにかを呟いた。
 何度かそれを繰り返し、そして敬は一能を見た。
「……ごめん。うまく言えない。言葉が見つからない」
 舌打ち寸前の心持ちで、一能は言い返していた。
「そんなんじゃ駄目だ。ちゃんと答えてくれ。俺にもわかるように……」
 見開かれた瞳に宿っていたのは、怒りではなく、哀しみでもなく、しかしそれらとよく似たような感情をごったにしたもの。
「人を好きになることに、理由は必要なのかな。きちんとした言葉で、誰にでも説明できなけりゃ、ダメ? 人を好きになっちゃいけない?」
 敬の声は決して大きくはなく、また、口調も淡々としたものであった。だが、その一〇倍大きい怒声よりも、その言葉は一能に深く、鋭く突き刺さった。
 一能は敬を見た。しかし、眼差しは一点に注がれているわけではなく、ふらふらと辺りを漂う。
 人を好くこと。人から好かれること。それぞれに、きっと理由は存在するのだと思う。どんなに不明瞭なものであれ、それは間違いないはず。
 でも、その理由を、確かなかたちとして把握している人が、いったいどれだけいるというのだろう。そして、把握することに、どんな意味があるのだろう。
「好きだから好き」
 この観念的な叫びを解き明かすことの出来る方程式は、あるいは、この世のどこかに存在するのかもしれない。けれど、それを見つけだすことは、誰にとっても不可欠ではないはず。
 そのことが、一能には、なんとなくわかる。だが、それをうまく言葉で表現することは、出来ない。彼の論として、万人に向けて発信することは、出来ない。そんな彼には、敬に解答を要求する資格など、あるはずがないのだ。
 大きく息を吐き、一能は瞼を閉じた。この瞼を再び開くとき、彼の中のうやむやが全て消えていればよいのだけれど……。

 やがて、一能は立ち上がった。
「帰るの、相良君」
 呟くような声が、背中に届いた。
「いや。ちょっと、買い出しに行ってくる。なにがいい?」
「お茶だったら家にあるけど……」
 振り返って、一能は言った。
「ウーロン茶は、好かん」
 そして、微笑んだ。
「そうだったね」
 敬もまた、微笑みで返した。
「じゃあ、僕はミルクティーがいい」
「ああ」



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