彼女は冷たい水の中に
萬忠太


 彼女が死んだ。自殺である。ため池に身を投げて、キルヨンは死んだ。おかげで僕は、こうして廃屋に身を潜め、キルヨンの影におびえている。
 廃屋と言ってもアパートであり、もとはどこかの会社の寮であったらしい。だが今では誰も住んでおらず、苔むしたコンクリートの屋根瓦に草が生え、ひしゃげた雨どいにまでも草が生えていた。コンビニエンスストアの近所であるせいで、よけいに暗く沈んで見える。有刺鉄線に囲まれているが、裏口の鍵が開いていた。僕はそのお化け屋敷の二階の一室(ここも鍵が開いていた)に転がり込んで、暮らしている。いったいどれほどの時間が経ったのか……三時間か三日か三ヶ月……もしかして三年。この部屋の中のどんよりとしめった、重い空気に身を浸していると、時間の感覚すら狂っていく。しかし確実に空腹は僕を追いつめている。もう限界だろうか……。このメモが発見された時僕はこの世にいるだろうか。警察が僕を捕まえてくれれば、生きていられるのだろうが、おそらくあの田中刑事でもない限り見つけられないだろう。あの男のはくなま暖かい息はここの空気に似ている。僕はあの男の息の中で生きているのだ。あの男の息を呼吸している。
 私はこの文章を、柱に残されていた、非常用のろうそくを頼りに書いている。メモ帳を持ち歩いてしまうあたりが悲しい習性というやつか?
 長髪のかつらも取る気にはならなかった。血で汚れた上着も汚れたスカートも脱ぐ気にはならない。僕がどんな格好をしてもキルヨンは追ってきて、僕を後ろからじっと見つめる。僕の後ろの闇の中にはいつもキルヨンがいて、素直にのびた黒髪から水を滴らせて僕をにらみつけるのだ。

 僕はその日、酒とゲロの臭いの中で目覚めた。ウィスキーの臭いと、酸味のある吐瀉物の臭いは、混ざり合って、僕の胃液を逆流させようとしたが、もはや僕の胃の府に吐き出せるものは残っていなかった。
 頭が痛む、頭が心臓になって脈打っているようだった。 どくり……どくり……景色が回りそうになる。
 なぜこうなったのか? 思い出せなかった。なぜ僕は酒を飲みいつの間にか眠り、そして胃の内容物をすべて吐き出し……目を覚ました。何もする気が起きなかった。僕はつまり誰なのか? 僕は本当に生きているのか? そもそもここは僕の部屋なのか? 頭痛のせいで、何もかもが遠く見える。自分すらも遠く見える。何もする気が起きない。 見渡す限り、僕の体のどこに入っていたのか、テーブルの上にも雑誌の上にも、ゲロ……。立ちこめる臭い。涙が出てきた。片付けなくてはいけないのはわかっている。わかっているが、何もできない。頭痛が僕を押さえつけて、放さなかった。
 不意に呼び鈴が鳴った、ピン……ポーンと言う間の抜けた音だった。ボタンから指を放すのが遅いとそうなるのだ。応対したくなかった。だから無視した。だが、もう一回呼び鈴が鳴った。居るのはわかってると言うかのように、三回目が鳴った。
「上賀茂警察署の者ですが! 池田さん、いらっしゃらないんですか」
 中年の声がする。声に張りがないからすぐわかる。巻き付くような嫌な声だ。豚が話したらきっとあんな声に違いない。僕はそう思いながら、居ますと返事をして、顔を洗った。上着を脱ぎ捨て、トレーナーを着込んだ。魚眼レンズで覗くと、思った通りの中年男と、その後ろに若い男が居た。間延びした顔は魚眼レンズのせいだけではあるまい。僕の視線がわかったかのように、中年男はレンズに向かって手帳を見せた。
 僕は、扉を少し開けた。空気が動き、酒と胃液の臭いが流れ出す。扉の隙間からわずかに覗く、脂の乗った中年刑事は顔をしかめた。若い方は影のようになって見えない。
「池田勇人さんですね? 私、上賀茂警察署の田中です。こいつは吉田……池田勇人……立派な名前だ、私も息子に角栄って付けたんですが、例のロッキードで改名せざるを得なくなった。私は角栄で通したかったんですけどね……あんなに突き抜けた優秀な方はそう居ませんよ。そうは思いませんか? 池田さん」
 僕の名前は、池田勇人の熱烈なファンだった祖父が付けたものだ。さんざん馬鹿にされたが……すぐに憶えてもらえると言う点ではずいぶん得をした。それにしても、この頭が痛い時に何の用だ? 中年男の不遜な態度に怒りが募ったがその怒りすら、頭痛に押さえつけられていく。
「あのう……何の用でしょう?」
 弱々しい発声がやっとだった。それが相手に力を与えた。田中刑事は、ふんと鼻を鳴らすと口を開いた。
「パク・キルヨンさんご存じですね?」
 ご存じも何も……キルヨンは……キルヨン……僕は前の晩、つまり酒を飲んだ夜、キルヨンと公園で他愛のない話をしていた。だが……いったいどうして、僕は酒を飲んで……だいたいキルヨンと別れた記憶がない。すっぱり抜け落ちている。
「実はパク・キルヨンさん亡くなられましてね。この近所のため池に浮いてたんです」
 僕は目を剥いた。重要な何かを思いだしかけている。にもかかわらず、頭痛がシャッターのように記憶を遮って思い出せない。
「おそらく自殺ですね。動機に心当たりは無いですか? 留学生寮に行ったんですが、めぼしい手がかりが見つかりませんで、遺書もない。まぁ十中八九衝動的な自殺ですよ。まぁ……手がかりと言えば、君が彼女とつきあっていたって事ぐらいだ……手がかりはそれだけじゃないんだが、それはあとでお話ししましょう。で、何か心当たりは?」
 どぼっと言う感じで痛みが襲った。何もわからない……キルヨンが自殺した。本当に自殺したのか? 本当に死んだのか? 吐き気が襲ってくる。部屋に充満したよどみきった臭いのせいではない。頭痛のせいだ。くらりくらりと世界が揺れた。
「……実はね、夕べの午後十時頃、近所の公園で逃げ去る男を目撃したという証言が得られました。それから、そのあと、ふらふら放心したように歩き去る若い女性の姿も。心当たり有りませんか?」
「わからない……わかりません……」
 思い出せなかった。その公園に居たのは確かだ……それを言わなかったのは、僕の自己防衛に他ならない。これ以上血液を脳に集中させたら、脳がはじけ飛んでしまいそうだった。もう帰って欲しかった。だが、そんな僕の焦りを知っているかのように、中年刑事はにやりと笑って、細くあけたドアに顔をつっこんできた。
 確実に僕の記憶は、追いつめられている。隠しきれずに断片を見せ始めるまであと一歩……。どくどくと鼓動する脳の中にキルヨンの顔が浮かんだ。僕はキルヨンの死に関して何か知っている。もしかしたら僕自身が追い込んだのかもしれない。頬を冷たい汗が伝って落ちた。
「……まぁ憶えていないなら、それも仕方ないでしょう。ところであなた血液型は?」
「A……型」
 答えた僕の言葉に、田中刑事は満足そうにうなずき、口を開いた。
「なるほど、キルヨンさんの体内にB型の男の体液が残ってまして……死体に残された傷や衣服の破れ方汚れ方から判断して間違いなくキルヨンさんは強姦された。それもあなたではなく他の男にね……それも君の見ている前で、ね。君が嘘をつきたくなる気持は分からないでもない。が、くだらない自己防衛は君自身ためになりませんよ」
 田中刑事は、ふるえる僕の手にテレホンカードを押し込むと帰っていった。

 喉元まででかかった記憶が、胸につっかえて気持ち悪かった。心臓の収縮の一回一回が感じられた。耳の奥で鼓動して、胃液が喉元までせり上がって僕はたまらずよろけた。ふらふらと、視界がゆがみ目の前にチリチリとノイズが走る。キルヨンが死んだ。強姦されて死んだ。彼女はため池に浮かんで……。僕は、薄暗い玄関に座り込んでいた……。あの夜のように。頭痛も吐き気ももう関係なかった。記憶が再生されはじめた。
 僕たちはあの晩、児童公園のベンチに居た。遊具も心許ない小さな公園だが、山の形をした大きな滑り台が子供たちには好評なようである。ナイターのように明るい街頭が、まるで舞台照明のように、辺りをオレンジ色に染め上げていた。
「なぁ……さむないか?」
 春が近いと言っても夜は冷え込む。雲一つない星空は、地表の熱を容赦なく吸い上げていく。僕の熱も同様であった。僕が、シャツに薄手のジャケットという薄着のせいもある……。キルヨンは鋭く尖った三日月を見ていた。
「さむくないです。ユギンさん寒がりです」
 そう言うキルヨンはコートをを着ている。ユギンは勇人のハングル読みである。ぽかんと三日月を見上げていると頭がキンと冴えわたっていくように思えた。が……行動は夢うつつのようだった。僕はキルヨンの肩に手をまわし……たが、キルヨンがビクリと震えたので止めておいた。一瞬束ねた髪が手先に触れた。
 僕はごめんと、乾いたのどから絞り出した。緊張していたようだ……震えていたのは僕のほうかもしれない。キルヨンは今までなかなか僕の求めに応じてくれない。最近では僕のほうから、意識的にベンチに座るときも、少し間をあけていた。その夜も「月の魔力に導かれて」の行動だったが……失敗に終わった。
 キルヨンは、うつむいていた。薄化粧をしているようだ。 そこで記憶がとぎれた。突然目の前に火花が走って暗転した。
 次に現れた光景、音もない世界……かすむ世界にぬるりと歪んだ月が浮いていた。いやカサカサと言う砂の音が聞こえる。後頭部がずきずきと痛む。僕は、倒れていた。頭を振りながら身を起こすと、絡み合う男女が見えた。
 一人はキルヨン……一人はストッキングを被った、太り気味の男。僕は、腰が抜けたように動けなかった。その前で、キルヨンが男に組み敷かれて悲鳴も上げずに震えている。男は「にーちゃんはそこでおとなしく見てろや。これから始まるんは見せ物や。そんじょそこらの見せ物とちゃう! ただでええから、そこで黙って見とき。これから始まりまするは、学問の志高き留学生を変態が強姦すると言う、まことに意味深い見せ物にござい! よくみとき、大迫力や。それにな……妙な素振りを見せれば、こいつでザックリときたもんだ」
 男は、ナイフをちらつかせた。僕は、そのときああこれは演劇だ。映画だ。ビデオだ。そう思った。オレンジ色の舞台照明、そこで演じられるレイプショー……。迫真の演技を見せる女優と男優。
 ああなんと残虐なことか! 乙女が! 変態男に! それも心に決めた男の前で! 月の光に照らされて、青々と輝くナイフ。それをしっかと握って突きつける男。右手は初々しい乳房をもみしだき、指一本一本がもだえ、エクスタシイの歓喜をあげる。ストツキングから垂れ下がるよだれがが乙女の頬を汚し、かたかたと震える瞳からこぼれ出す涙。しかしそれは、よだれと混ざり合って犯されていく。乙女の柔肌はその上で繰り広げられた、痴態の有様に紅潮し引きつって震えて……拒絶する。あぁ! 何という汚らわしい! なんと痛々しい! だがしかし、変態男は容赦なしによだれを垂らし、胸をもみ、ナイフを巧みに操り、乙女を優しく包んでいたころもを剥いで絹のような、牛乳のような、なめらかな肌をオレンジ色の舞台照明にさらす。さらす。さらす! 喘息のようにヒューヒューと笑う変態男。乙女は対抗する手段を持たない……。ナイフは常に肌に食らい付く寸前まで鎌首をもたげ、カタカタと下卑た笑い声を響かせる。見守ることを生業としている月すらも、目を背けたこの状況の中。乙女はあきらめきった表情で、それでも少しの、最後の期待をかけて、心に決めた男を見つめる!
 これは、見せ物ではなかったのか! 演劇じゃ、映画じゃ、ビデオじゃなかったのか! 見つめる乙女、見つめられる男。
 男は……僕は……、逃げた。
 僕は、玄関から立ち上がって、ふたたび吐瀉物で溢れ返った部屋に戻った。もう臭いもわからなかった。頭痛も消えていた。ただ自分が自分じゃないような。まるで僕の魂が体を糸で操っているかのように、自分自身が肉体が遠く感じられた。机の上のウイスキーをラッパ飲みする。琥珀色の液体が喉を食堂を胃袋を焼き付けて、腹の底から痛みを伴って乾きが沸き上がった。流し台……いや後ろの方でピタンと水滴の音がした。キ・ル・ヨ・ン! 僕は背中にキルヨンの気配を感じた。キルヨンが僕を見てる。指先から、髪の先から、水を滴らせ、びしょぬれの破れた服を着て。僕の首筋にその手を伸ばし触れる寸前で引っ込めて、またジロリと見つめる。視線は気配となって僕の背中を突き刺す。心臓が暴れ出し、それに合わせて全身が痙攣した。キルヨンがじっと僕を見つめている。僕は振り返れなかった。息が荒くなる……。キルヨンと目を合わせたくない……そしてまた意識が闇に落ちる。

 鳥の声がした。朝なのか。……時計を見た。六時である。僕は吐瀉物の片付けをすることにした。もう記憶が飛ぶようなことはなかった……。キルヨンが犯される様が、まざまざと思い出される。まるで自分が犯していたかのように。
 吐瀉物の片づけは、困難を極めた。だが、その間キルヨンのことを忘れられた。沸き上がる胃液と、吐き出された胃液。その二つの感覚のおかげである。目先に人参をぶら下げられればそれめがけて一目散に走り出す……。
 片付け終わって一段落付いたので、窓を開けて空気を入れ換えた。新鮮な空気が入ってくる。新鮮な空気を吸う権利は、誰にだって有るのだ。
 僕はテレビを付けた。すべてが元に戻りつつある。キルヨンは自殺した。だが僕は生きている。そして何もなかったかのようにテレビを付けられる。
『どう思われます? 西原さん』
『そうですなぁ……レイプというのはそもそも性欲処理と言う意味合いよりも、いわゆる力の誇示。と言う意味合いが強いんですな。非常に親しい友人、時に親族、時に恋人同士ですらレイプが起こり得るんです』
『今回の連続レイプ事件、警察の必死の捜査にも関わらず犯人はいっこうに捕まりません。犯人は巧みに捜査網をかいくぐって犯行を重ねています。韓国人留学生パク・キルヨンさんも同一犯によるものと推定されます……では久保さん』
 見慣れた景色が、映し出された。畑、電柱、民家。その路上に、作り「沈痛な面もち」の女性レポーターが立っている。その横にはどこにでも居そうな中年男が一人。いや……どこか引き締まった感じをがした。
『これからキルヨンさんの恋人と言われる男性が住んでいルマンションに行って、インタビューを試みたいと思います。なんとこの男性、近所の児童公園でキルヨンさんと夜のデートを楽しんでいたところを、レイプ犯に襲われ、事も有ろうに乱暴されているキルヨンさんを放って逃げ出したんです』
 悲劇!! 韓国人留学生恋人に見捨てられ自殺
 仰々しいタイトルと、仰々しい音楽。レポーターは僕のことを話している……。僕は身を伏せほふく前進で窓に近寄り、カーテンを閉めた。来る……もうすぐ来る。一瞬戻った平穏を壊しに。しばらくして呼び鈴が鳴った。魚眼レンズで外を見ると、久保というレポーターと中年男、そしてカメラが見える。部屋に戻ってテレビをのぞき込んで少し安心した。表札にモザイクが入っていたのだ。
 また呼び鈴が鳴った。僕は息を潜めた。テレビの音量を下げ、じっと待つことにした。と、突然中年男が扉を蹴って言った。
『出てこい! 卑怯だぞ! キルヨンさんに謝れ! 韓国人だと思って馬鹿にしてたんだろう! 韓国人は恋人を放り出して逃げたりはしない! 君は人として最悪の行為をした! 君は留学生であるという物珍しさから安易にキルヨンに手を出したのではないか! 君はキルヨンさんを本当に愛していたのか! 差別的な感情から生じた愛など、愛ではない! 私の名前は岡村善次、韓国で生まれて韓国で育った日本人だ。いまは在日韓国人支援協会で働いている! 文句があったらいつでも来い!』
 中年男はもう一回扉を蹴って、レポーターと一緒に引き上げた。しかし、引き上げたと言っても、恐らくまだ見張りが居るだろう。出かけるときは、できる限り変装して出かけることにした。変装と言っても、そのときはサングラスぐらいしかなかったが……。そして電話線を抜いた。
 また背中にキルヨンの気配を感じる。またじっと見ていたのだ。彼女は僕を恨んでいるのか。当たり前である……。キルヨンは「水泳がすきです」と言っていた。夏になったら海に行こう。そう言って約束していた。「水泳が好きと言うより……むしろ水が好きです」とあとで言い直した。ため池とはいえ水は水である。キルヨンは夜のため池にゆっくりと、ゆっくりと入っていったのだ。そしてゆっくりと身を横たえた。池の水は冷たく彼女の肌を刺したに違いない。星空を見上げ……彼女は何を思ったのか……次第に熱を奪われる中、僕を恨んだのだろうか。彼女は闇に浮かぶ蛍のように暗い池の中でぼうっと浮かび上がっただろうか? 彼女は、どぶ川に浮かぶ壊れたキューピーのようにして死んだのか……。それとも漂う魚のように死んだのか……。
 いや、キルヨンは、ケースに入った人形のように死んだのだ。彼女の大好きな水の中で。
 水滴の音がした。岡村と名乗った男は、僕はキルヨンを愛していなかった。と言った。そしてキルヨンにわびろとも言った。僕はキルヨンを愛していたのだろうか……。留学生であるという物珍しさだけだろうか? 彼女との出会いは、授業の時だった。ハングルの授業で先生のアシスタント的なことをしていたのだ。春期であったため、まだキルヨン自身にも知り合いが少なかった。先生に質問をしに行ったのがきっかけだった。先生が、キルヨンに話をして見ろ(この言葉も妙な気がしないでもない)。と言うので、僕はキルヨンに「イケダハヤトイムニダ、イルボンサランミムニダ」と言うと、キルヨンはぷっと吹き出すと「当たり前です」と言った。僕は「池田勇人です日本人です」と名乗ったのだ。
 キルヨンと僕はとりとめのない話をした。彼女はドラマがどうのバラエティがどうのと、テレビの話ばかりした。キルヨンは出かけていないのか……。僕はそのことを訪ねると、交流会とかそう言ったイベント以外には、ほとんど出かけないと答えた。日本語は問題なく使えるのに……というと「発音が下手なので店の人が妙な顔をする。それ嫌です」と言った。日本人と韓国人は区別が付かないほど似ている。だからよけいに下手な日本語は妙な印象を与えるのだ。彼女は留学生にしては少々引っ込み思案のようだ。
 僕は韓国人はいつも韓国が一番だと思っていると思っていた……が、それは一部の語学教師のみであるようだ。語学教師は常にそうである。英語教師はアメリカがいかにすごいかを語り、日本はだめだという。でもキルヨンも韓国に帰れば、日本のすばらしさを語り、僕が語学教師に抱く不信感と同様のものを周囲に与えるのかもしれない。今となってはその機会は永遠に来ないが……。
 キルヨンとはその日、一緒に昼を食べた。キルヨンと何の話をしたのか憶えていない。とりとめのない話をした。だが彼女はそれが楽しかったようである。韓国について話せとか……日本の料理は好きかたか、対外国人用の質問責めをしなかったのが良かったのだろう。僕は彼女の化粧っ気のない、素朴なところに好感を持った。変に国際人ぶらないのも良かった。彼女は僕に心の隙間を埋められたようである。僕は彼女の寂しさにつけ込んだ。岡村はそう言いたいのだろう。僕は、物珍しさで、ステータスほしさで、彼女に近付き、好きでもないのにつきあい始めた。そう言いたいのだろう……。そんなことは無い! そう叫びたかったが、僕はそれをする自信がなかった。僕は僕が信じられなくなっていた。果たして本当に好きだったのか……。
『日本の若者は恋愛に淡泊すぎます! そこに現代日本の病根があります! 韓国はそんなこと無い。若者みな本気で恋愛してます』
 テレビに岡村が出ていた。その日はぐったりと、寝続けた……次に起きたときにほとぼりが冷めればいいのに……。と密かに願ったが、収まるどころか、僕はさらに追いつめられることになった。
 次の日発売の雑誌に僕の顔写真が載ったのだ。どこから入手したのか知らないが、僕の顔写真が載った雑誌が紹介されていた。僕は二十歳過ぎていたので、論議は呼ばなかったようだ。それに世間は僕に同情の余地無しと見切りを付けたのだ。僕はテレビのアンテナ線を抜いた。キルヨンの気配が時間を追うごとに濃くなっていく。僕は水滴の音を聞かないように、耳をふさいだが、張りつめた水滴の響きは僕の頭の芯から響いて、脳内で共鳴した。たまらず耳から手を離すと、音は耳から抜け出た。僕はキルヨンから逃げ出したかった。何でこうなったのか……。顔が痙攣し、そして全身が震える。体内にバイブレーション機能が付いたようである。結論は出ていた。すべてはあのレイプ犯が原因である。僕が復讐すればキルヨンは許してくれるだろうか? 僕の地に落ちた名誉は回復するだろうか? このままここで、食料の買い出しにも行けずに終わるより、あの変態男を屈服させた方が良さそうである。そうした方が前向きである。僕はそう思った。連続レイプの区域は広がったり狭まったりを繰り返し、場所を特定させなかった。市民によるパトロールも実施されたが、それも巧みにかいくぐって犠牲者を増やしていった。上は六十歳から下は十歳まで……女性の夜の一人歩きは、皆無になった。だが……犯行は夜ばかりでなく、昼間にも行われた。
 いったい何がしたいのか……ひたすら犯して逃げていく。恐らく被害を受けながら黙っている者もいるだろうから、被害は相当数に及ぶだろう。手口をまねた犯行まで起きはじめた……。手口と言っても、昏倒させてから犯す。その一点張りであったが。僕は、外に出るために変装した。変装と言っても前述の通り、サングラスぐらいしかないが、無精ひげが伸びているので、だいぶわかり辛くなっている。それに何より雑誌の写真と比べると、僕はずいぶんやつれている。
 思いつきは不意に訪れる。そうだ! 女装だ! 僕は、変装しながら、思いついた。犯人に僕を襲わせて、包丁で脅しそのままお縄にする。相手はナイフを持っているがこっちが男とわかれば、さすがにたじろぐだろう。それに変装にもなる。僕は早速町に向かった。家の前で張っていたマスコミは僕を無視した。変装が巧みだったのかもしれないし、ことによると放って置いてくれたのかもしれない。日本中の笑い者になった僕を、これ以上痛めつけるのは、あまりにも哀れだと思ったのかもしれない。

 まず化粧品を買った。ファンデーション・頬紅・口紅・マスカラ・アイシャドー。メイク落としも忘れずに買った。マニキュアは、あまりどぎつくない透明な物を選んだ。
 イヤリングやネックレスも安物を選んで買った。カツラはキルヨンと同じくらいのロングヘアーを買った。貯金がどんどん減っていったが、どうでも良かった。
 服は、ダボッとしたブラウスとダボッとしたジャケットそしてプリーツの多いゆったりとしたロングスカートを選んだ。赤を基調としたコーディネイトにしたが、派手にならないように気を付けた。店員には女装大会と言っておいたが、果たして信じたか……「そうですか」と答えて黙々と僕に合う服を選んでくれた。その目には明らかなさげすみが浮かんでいる。ことさらに参っちゃいましたよとか、嫌なんですけどねを強調したのが、まずかったのかもしれない。そう考えたが、実は本当のところそうではなかったのである……。
 すね毛を剃って、ひげを剃って、服を着た。合わせが逆なのが新鮮であった。
 ファンデーションを塗って、頬紅を付けた。マスカラでまつげを整えアイシャドーを入れてみた。この工程を何度も繰り返した。なかなかうまく行かないのだ。女性はいつもこんな大変な作業をしているのかと思うと、男に生まれた自分に感謝しないでもなかった……それもはじめのうちだけだったが……。だが男だからキルヨンを見捨てたことを責められるのだ。だんだんコツをつかんでいった。マニキュアも付けた。爪が真珠の色に変わっていく。その光彩は指を動かして角度を変えるたびに違っていた。
 最後に口紅を付けた。ゆっくりとゆっくりと紅を引いた。僕のくすんだ色の唇が、鮮やかな紅に変わっていく。自分が生まれ変わっていく。ふとそんな感覚にとらわれた。キルヨンの気配が一瞬遠のいた。胸の奥から心地良い快感が沸き上がり、目を閉じてそっと唇に触れた。ゾクゾクした。だが、僕はそのような感情を受け入れる気にはならなかった……僕は復讐をするのだ。
 僕は、夜を待って外に出た。あいにくの曇り……いや幸いであったかもしれない。これなら顔がはっきり見えないだろう。僕は、闇から闇を渡り歩いた。街頭のないところを選び、歩き回った。キルヨンの気配が追いかけてくる。緊張感で歯の根がうずいた。かちかち鳴った。胸に入れたタオルがごわごわと気持ち悪い。人に見られないように人に見られないように、こそこそと走り回った。化粧の時の湿った快感は消えていた。
 次の日、田中刑事がやってきた。抱きつくような声で「池田さん、今日は忠告に来たんですよ」と、鼻を鳴らした。
「あなた……女装して歩き回っているようですね」
 僕は、頭を撃たれたかのような衝撃を受けた。ばれていた……。僕はどこに逃げてもどう変わっても無駄なのか。僕は、下唇を噛んだ。昨日あんなに気持ちが良かった下唇が、痛みにもだえる。
「あなたの写真は全国に流れてるんです。店員がたれ込んできたんですよ、あの男が妙なコトしてるって……あなたご存じ無いですか、あなたを連続レイプの容疑者とする説が浮上してるんです」
 警察がでっち上げたのだ……なりふり構わないやり口である。警察はそれほど手を焼いているのか。
「マスコミの勝手な憶測なのは、こちらも承知しているが……止めておいた方が良い。私も職業柄いろいろな方とつき合いがありますよ、あなたみたいな女装趣味の人もね。それぞれにポリシーを持ってやってらっしゃる。自分の生活も一般的な幸せも棒に振って、その趣味に没頭する様は、美しい物がありますよ……感服します。むしろそれらを意に介さず異常異常と言う輩こそ認識を改めるべきでしょう。まっ、どうあれ一般的にはあんたは異常だ。将来を棒に振ってまで女装趣味に没頭する覚悟は有るんですか? 現状のままなら、そのままほとぼりが冷めるのを待つこともできるでしょう……悪いことは言わん」
 田中刑事は、扉の隙間から、ぬるぬるした眼光を投げかけてきた。その視線には期待が入り交じっている様に思えてならなかった。
「違います……僕は……」
 復讐するためだとは言えなかった。
「違う? あなたがどのような意図でやろうとやってることが同じなら、それは同類ですよ。一般的には……あんたは変態扱いだ……それでもやり続ける勇気が有るのですか?」
 勇気とかそう言う問題ではないのだ、僕の精神は危機に瀕しているのだ。キルヨンに見つめられ、このままでは僕は……。口ごもる僕を、挑発するように田中刑事は話題を変えた。
「……岡村はあなたを使って、ずいぶん儲けているようですよ。あの男、差別はいかんとかなんとか偉そうなことばかり言っているが、その実やつこそ偏見の固まりだ。それが受ける原因かもしれないですが……。口先だけならいくらでも良いことは言える。あなたは生命の危険を感じたから逃げた。別に悪い事じゃない。私もそんな目にあったらそうしていたかもしれない……誰だってそうですよ。あなたのことは誰もとやかく言えやしない……まぁそのうちほとぼりも冷めるでしょう気長に待つことです。悪いことは言わない女装なんて馬鹿なまねは止めておきなさい」
 田中刑事は、ドアを閉める間際に不適な笑みを浮かべていた。アルカイックスマイルのような、へたくそな引きつった笑みである。

 それでも僕は夜な夜な歩き回った。忠告は百パーセント無視した。キルヨンの視線が前よりもきつくなったからである。やがて張り付いていたマスコミも消えた。
 それでも僕は止めなかった。レイプの犯人がどうなったのかも、テレビも新聞も友人知人すらも無い僕にはわからなかった。それでも僕は止めなかった。
 変身した自分が、町を歩き回る様が、しばしば人に見とがめられているようである。市民パトロールのおっさんに声をかけられたときは、さすがに驚いたが、僕を男と思わずに、一人歩きを注意した。僕は無言で頷くと無言で走り去った。
 おっさんは、確かに僕を女と思い、そのスケベな生ぬるい視線で僕を見つめた。僕はその視線を鋭いさげすみの目で返してやった。今まで僕に、彼女を捨てて逃げた男に向けられていた、粘液のような気持ちの悪い、多くの蔑みの視線への復讐を果たした。
 それだけではない、今では服もあと二着買ったし、化粧品のバリエーションも増えた。そして手提げ鞄も買った。貯金はもう無かった。キルヨンの視線に追い立てられるように、僕は……。
 それでも鞄の中には、常に包丁を入れていた。僕は復讐のためにこんな事をしているんだ。
 その夜僕は、初めて女装した日と同じ格好をしてキルヨンが犯された公園に来ていた。あの日の光景が、まざまざとよみがえって来る。僕はそれを思い出す度に頭痛と吐き気を催すようになっていた。思わず吐きそうになって胃液がこみ上げてきた、そのとき、オレンジ色の街灯の下、スポットライトを受けてあの男が現れた。後ろから殴られると思ってばかり居た僕は、一瞬たじろいだ。が、包丁を取り出すと、近寄っていく。男は、ストッキングの下から、聞き覚えのある声で、言った。
「おまえ男だろ」
 僕は、目を剥いた。一度として見破られたことの無かった僕の女装が……!
「止めておけって言ったはずだ」
 呆然とした僕の頬を男は力任せに殴った。包丁が宙に舞い、僕は地面に倒れた。蛙のような声を出した。男は僕にキルヨンと同じように馬乗りになると、ストッキングを取った。田中刑事だ! 生ぬるい息が顔にかかり、むせ返りそうであった。
 僕は全身が皿に盛りつけられたホルモンのように、べっとりとぐっちゃりとしていくのを感じた。
「女を放り出して逃げたときは、笑いが止まらなかった。あれ以上の快感はそうそう味わえんだろうな。その上あの女自殺したろう?」
 田中刑事は、僕の頬を殴りつけた。視界がかすんでいく。力は入らない。キルヨンが僕を見下ろしている。目が合った。その目は哀れんでいた。血の通わない肌はクラゲのように透き通って、血管一本一本、骨の一つ一つまで透けて見え……いや、見えない……キルヨンが見えない。キルヨンは居る……見えないところで……僕をにらみつけている。涙がはれた頬を伝って落ちた。キルヨンは許してくれないのか。化粧が崩れる。
「私が作った詩を聞かせてやろう。おまえとわたしのためのような詩だ。そのあとでカマをほってやる」


猿とトマト
田中弘泰

踊る猿の輪の中で
踊り狂ってはじかれた
空の上には朧月

笑う月にほだされて
ヘラリヘラリと猿共に
唾をかけてかけられて

マワレマワレと猿の骨
俺の手を踏み足を踏み
ウセロキエロと輪がまわる

血を吐き見上げる空の上
つぶれたトマトの見た夢は
猿に汚され空の上


 僕は朗々と歌い上げる、田中の尻の下で、力を盛り返しつつあった。僕の右側に包丁があったのである。僕はじりじりと手を伸ばし指を伸ばして、虫を捕まえるときのようにそおっと……手に取った。田中が気が付いたときには遅かった。田中の贅肉の付いた背中には包丁がザックリとつきたっていた。
 田中は、どろりとした目で僕を見つめて、犬のように舌を出し、血の混じったよだれを一筋僕の頬に垂らし「痛い」とつぶやいて事切れた。
 犬が吠えた。飼い主のおっさんが、こちらを見つけて「あっ」と叫んだ。散歩の最中にえらい物を見てしまった。
 僕は、田中の体をはねのけた。人間は緊急時には自分の限界を遙かに超えた力を出すらしい。田中のぶよついた体が宙を舞った。そして走る。近所に逃げ込むあてがないわけではなかった。そう……この廃屋である。僕は裏口の鍵が開いているのを知っていたので、そこに転がり込んだ。息が上がった。キルヨンの視線を感じた。

 ロウソクの火が揺らいだ。キルヨンの気配は消えるどころか強くなっている。雨漏りがひどい。部屋の腐って落ち窪んだところに、水たまりを作っている。
 キルヨンはまだ僕をにらみつけている。
 僕はキルヨンの所に行かねばならないのだろうか?
 僕がキルヨンの所に行かない限りキルヨンは僕の所にやってきて、じっと見つめているのか。
 ペンを持つ手がだるい。鉛のように重く、そしてむくんでいた。キルヨンは僕を待っているのだろうか?
 あの、哀れみの顔が脳裏に浮かんだ……。
 キルヨンは僕を受け入れてくれるのだろうか? しかし現にキルヨンの視線は、強く僕の背中を刺しているではないか……。キルヨン。もう一度あのキルヨンに逢いたい。透明で、優しい……。キルヨン。水が好きなキルヨン。僕がキルヨンのいる水の中に行ったら、あの透明な体をクラゲのような体を僕に預けてくれるだろうか。肌にみずみずしい弾力は僕の指を体を心を受け入れてくれるだろうか。そうしたら僕の体も透明になれるのだろうか。
 雨漏りの音がした。
 僕はマニキュアを見つめた。水は溶かしてくれるだろうか……。
 キルヨンの視線は闇に溶けて消えた。
 ロウソクの火がもうすぐ消える。


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