「金庫を開けてゲットせよ」
浅川こうすけ


■第一章・仁科弘海登場!


 空気を裂いて拳が突きだされてきた。
 顔面でうけようものなら、鼻は砕かれ前歯は折られ、鮮血の海でアップアップだ。
 仁科弘海{にしなひろみ}は軽く右へステップした。
 左頬のそばを愚風が通りすぎていく。
 弘海が自賛の微笑を浮かべるよりも早く、もうひとりの不良学生が距離をつめていた。部活で鍛練した腰をひねってバネをため、右足という名の鎌を一気にはねあげる。
 流麗な放物線を描く右足を見ずとも、野球以外になにか武道をやっていると知れた。
 こんな蹴りをまともにもらっては、息はとまってあばらも危ない。お医者通いは免れまい。
 弘海はよけずに突っこんだ。
 ガードした左手に右足があたった。
 ただし、ふとももだ。
 十分にスピードののった蹴り先を受けるよりも、ふともものほうがダメージが少ない。
 弘海は電気信号的にそう判断したのであった。
 ふところに入りこんだ弘海は、たわめた両足を一気にのばした。
 衝撃が脳天から脊髄までを震わせた。
「いちち。力の加減をしくじった」
 弘海は頭を押さえて、少しよろめいた。
 もっとも、不良学生のほうはそれどころではない。顎の真下から手加減なしの頭突きをくらって真上に吹っ飛び、仰向けの姿勢で落下していた。背中をしたたかに打ちつけたはずだが、苦鳴ひとつあげないのは、気絶してしまって痛みを感じなかったからに違いない。
「この野郎!」
 もうひとりが、仲間をやられて逆上したのだろう。猪のごとく突っ込んできた。
 仁科弘海は微笑んだ。
 それは余裕の笑みであった。
 腕をまっすぐ、人間の形をした猪にむける。
 指の先から、なにかが飛んだ。
 不良学生の顔面ではじける。
 突進が一瞬だけとまった。
 次の刹那、不良学生の顔面に弘海の左拳が食いこんだ。
「あぎゃああぁあ」
 意味不明の叫びが尾をひいた。
 終着点は体育館の壁であった。
 不良学生がコンクリに頭をぶつけ、どうとばかりにうつぶせに倒れた。
 まるでタイミングを見計らっていたかのように、そのとき、風がふいて仁科弘海の前髪をゆらした。風には、早春の香りがのっていた。
 海鳴高校第二体育館裏でおこなわえた、これが私闘の幕切れであった。
「助けていただいて、ありがとうございます」
 やわらかいという表現がピッタリの声に、弘海はふりむいた。
 クラスメートの岡本文人{おかもとふみひと}が、センターわけの髪を風にゆらしながら微笑んでいた。
 彼の笑顔にこそ春風はふさわしい。そう思わせられるほど、柔和な表情であった。十人の女性がこの場にいたならば、九人までが母性本能をくすぐられるだろう。残りのひとり、それはきっと元男だ。
「助ける?」
 仁科弘海は眉間にしわをよせた。
「とんでもないね。オレはこいつらのやり方が気にいらなかったから、ぶん殴ってやっただけさ」
 弘海は詰め襟学生服の内ポケットから、一切れの紙を取りだした。
 岡本が、あっ、と小さな声をあげた。
 驚くのも無理はない。この紙切れは、不良学生たちが彼に渡したものなのだ。
『イタクインカウノニライコ』
 紙切れにはそう書かれていた。
「勘違いしないでほしいのは」
 弘海はこめかみにひとさし指をあてた。
 突進を一瞬とめたものの正体が、その指から発射された輪ゴムピストルだと知れば、当の不良学生はあまりのくだらない攻撃に怒り狂うだろうか、それとも、あきれてしゃべれなくなるか。
「勘違いしないでほしいのは、気の弱いクラスメートを体育館裏に呼びだしてカツアゲする行為が気にいらなかたってわけじゃあないんだ。そして、こいつらが健全な野球部員をよそおっていることに腹をたてているわけでもない」
 弘海は不良学生のひとりを見下ろした。去年の夏、この顔をテレビで見たことがある。
『甲子園の土は持って帰りません。来年また来ますから』
 マイクにむかってはにかんだ笑顔は、とてもさわやかであった。
「こいつらは、健全な野球部員をよそおっているから、カツアゲを表立ってやるわけにはいかない。だから、こんな手のこんだやりかたを使ったんだろう」
 弘海はこめかみにあてていた指で、紙切れをはじいた。パシンと、小気味いい音がした。
 この紙切れを発見したのは、つい先ほどである。交代制の掃除当番を終え、さて帰ろうかと教室にもどってくると、ドアのところで足取り重い岡本とすれ違った。そのときはどうとも思わなかったが、彼の机の上に白い紙を発見して、つい手にとってしまった。
『イタクインカウノニライコ』
 しばらくためつすがめつした末に、弘海は脱兎のごとく駆けだした。体育館へむかって。
 そして、
「お前のうち金持ちなんだからよお、サイフのなか全部、オレたちに貸してくれてもいいだろうよ」
 と、岡本に迫るふたりに、弘海はケンカをふっかけたのであった。
「体育館の裏に来い」
 弘海は、もう一度、紙切れを指ではじいて、
「たったこれだけをいうために、わざわざ暗号を使っている。暗号を使うってことは、相手に解き方を知らせていなければ意味がない。こいつらは、きっと常習できみから金を巻きあげていたと見えるな」
 弘海はふところから、使い捨てカメラを取りだした。
「オレは、そこのところが許せない。いや、勘違いしないでくれよ。オレが怒っているのは、きみから常習で金をまきあげていることに対してじゃあないんだ。こんな暗号にもならない暗号を恥ずかしげもなく、きみに教えたってところがムカつくんだよお! ただのアナグラムじゃあねえかあ!」
 弘海はすばやく身をひるがえすと、あおむけに倒れている不良学生に取りつき、ベルトを引き抜いた。
「あの、ちょっと……」
 いままでぼんやり講釈を聞いていた岡本が目をむいたが、弘海は気にせずに、不良学生のパンチをズボンといっしょにひきおろした。使い捨てカメラのシャッターを切る音がタップする。
「ふん、思ったとおり包茎だ。都合がいい」
「あの、なにを?」
 岡本が今度は目を点にしてたずねてきた。
 弘海はカメラをふところにしまいながら、
「あとから仕返しなんてされちゃあ、払い落とす手間がかかるだろ。こうやって弱みをにぎっておくんだよ」
「そんな、ひどい……」
「おいおい、きみはこいつらから金をまきあげられてたんだろ。ひどいのはこいつらのほうだ」
「そうだよ。金を取られてたのはぼくなんだ。だから、ぼくがそんなことしてもひどくはないけど、仁科くんの場合はそうじゃないよ」
 春風が、また吹いた。
 弘海は顔をうつむけ、肩をふるわせはじめた。ひっひっ、としゃくりあげるような音が喉からもれる。
「あの、仁科くん? もしかして泣いてるの?」
 岡本が怪訝そうに眉根をひそめ、そっと弘海に近づいてきた。
「仁科くん、その……」
「ぶわはははははははははは」
 春風をぶっ飛ばすほどの爆笑であった。
「そのとおり! そのとおりだよ、岡本くん! そう、そのとおりだ! ぶわははははは!」
 弘海は岡本の肩をたたきながら、大口を天へとひらいてひとすら笑った。
 しかし、ひとしきり笑ったのち、急に顔をひきしめた。岡本の肩をグイとひきよせて、
「ところで、なぜオレが暗号をとけたか知りたくはないかい、岡本くん?」
「え? うん、それは……」
「オレはね、物にふれるとそこに記録されている情報を読むことができるんだ。たとえば暗号を書いた場合、製作者の心が情報として紙に残っているわけさ。だから、紙にふれれば心が――暗号の解き方が読める」
「わあ!」
 岡本が子供のような歓声をあげた。その目の輝きは、清流にはじける太陽の光のようであった。
 きっと能力者の存在を知って歓喜しているのだろうと、弘海は想像して得意顔をしたが、岡本の口から出てきた言葉は次のようなものだった。
「仁科くん、ぼくの家に来て! 仁科くんなら、きっと金庫をあけられるよ!」



■第二章・美女と金庫


 塀の長さに、まずびっくり。
 鉄柵をぬけ、庭の広さに度肝をぬかれ。
 玄関はいって、部屋の広さに目をむかれ。
「いらっしゃいませ」と頭をさげる執事に天をあおぎ。
 すれ違ったメイドが、「おかえりなさいませ、お坊ちゃま」ときたときは腹がたち。
 岡本の自室に通されたときは、もうどうでもいいやと肩をすくめた。
 なんといっても、平均的な部屋の敷地面積をゆうに超えている。なにより天井が高いので、よけいに広く感じる。壁一面を占領している窓からは、青い空さえものぞめた。ウサギ小屋に住んでいては、絶対に獲得し得ない開放感。
 それでいて閑散としていないのは、部屋の広さに見合うだけの家具が置かれているからだ。毛足の深い絨毯は足音をすべてすいつくし、かわりに、やさしいふみごたえを返してくれる。百インチをこすプロジェクターが壁にかかり、映像を見るのに一番いい位置に、本皮張りのソファが置かれており、それを囲むようにスピーカーが配置されている。素人目に見ても、どれも一流品だ。せめて居間に置いてくれれば、庶民の立つ瀬もあろうに。
「これなら、サイフのなかから何枚か逃げていっても、影響ないんじゃないかあ」
 仁科弘海は、岡本に聞こえないように愚痴った。六人がけのテーブルのイスをひいて、どっかりと腰を下ろす。尻をやさしく受けとめたイスが、はたしていくらするものなのかは、あえて考えないようにした。
「さてと、さっそく聞かせてもらおうか。オレをここまで連れてきた理由を」
「どこから話せばいいんだろう? それがわからないや……」
 むかいの席にすわる岡本の瞳がゆれた。それが彼の困惑の表現なのだろう。
「金庫を開けてほしいといったな。その金庫にはなにがはいってるんだ?」
「――わからない」
「なんじゃそりゃ?」
「だから開けてほしいんだよ。金庫のなかを見れば、問題が解決するかもしれないんだ」
「問題?」
「うん、おじいちゃんに、おいしいお味噌汁を飲ませてあげたいんだ」
「さっぱり話が見えない!」
 仁科弘海は天をあおいだ。脳で製造された「混乱」が血液に溶けこみ、全身に巡りはじめる。
「開かない金庫、なにがはいってるかわからない、じじいにおいしい味噌汁、禅問答じゃないか、ええおい?」
「だから、どういう順序でいえばわかったもらえるのか、それがわからないっていったじゃな……」
 そこで岡本がポンと手を打った。
「そうだ! 物にさわって記録を読みとれるなら、ぼくにさわってみてよ。そうすれば、すぐにこの問題を理解して……」
「だめだ! 能力はみだりに使うものじゃあない」
「じゃあ、どうすれば……」
「事の発端だと思うところから話してみろよ。時間列にそってよ」
「うん、じゃあ……」
 岡本が上唇をなめてから、
「おばあちゃんの作るお味噌汁はおいしいんだ」
 仁科弘海はいいたいことはぐっと喉の奥で押えこんだ。ここでチャチャをいれては、また話が元に戻ってしまう。理解できるできないは別にして、とにかく岡本のいいたいことを全部いわそうときめた。疑問をぶつけるのはその後のほうがよいだろう。
「おじいちゃんはおばあちゃんの作るお味噌汁が大好きだったんだ。でも……」
 岡本がそこで悲しそうに目をふせた。しばらく無言の時間が部屋を圧迫した。仁科は顎で先を続けるようにうながした。
「おばあちゃんは、去年、肺の病気で、亡くなったんだ」
 岡本の声のトーンが落ちた。
「だから、おじいちゃんは、おばあちゃんの作ったお味噌汁をもう飲めないんだ」
「わかったぜ!」
 チャチャはいれないと決めたばかりなのに、仁科弘海は快哉を叫んだ。おおきな声がわざとらしいかなと思いながら。
「つまり、岡本はこう考えているわけだ! その味噌汁のレシピが、金庫のなかに隠されているんじゃないかってな!」
「半分は正解」
 岡本が苦笑を浮かべた。これでいい。しんみりされるよりずっといい。
「レシピは残してくれてたんだよ。お姉ちゃんがお嫁に行くときのためにって」
「じゃあ、なにも問題ないじゃないか。岡本くんの姉さんが、料理がヘタでなければ」
「お姉ちゃんは料理が得意なんだ。聞いたら怒るよ」
「岡本くんの姉さんに怒られても、オレはちっとも痛くない。だが、料理が得意なら、なにも問題ないじゃないか。教えられたとおりに作れば、同じ味になるだろ」
「うん。でも、おじいちゃんは納得してくれないんだ。これはおばあちゃんのお味噌汁の味じゃないっていって。ぼくたちには違いはわからないけど、きっとなにかがたりないんだってお姉ちゃんがいってた」
「ふん、やっと読めてきたぜ。その『なにか』を記すものが、金庫のなかにはいってると岡本くんたちは考えたわけだな」
「うん、そうなんだよ。やっと伝わった。よかったよかった」
 なにもよくはないぜ、と仁科弘海は心のうちでつぶやいた。岡本はおおきな勘違いをしている。味噌汁の隠し味を、なぜ金庫に隠す必要がある。料理人の家系で秘伝の味は一子相伝だとでもいうわけでもあるまいに。金庫には、きっと別のなにかがはいっているのだ。
「能力を使う使わないは別にして、とにかく、いちど金庫を見てみてよ。きっと驚くよ」
 岡本が立ち上がったと同時に、ドアをノックする音が空気をふるわせた。
 そこらにあるハリボテ同然のドアでは真似できない重厚な音だが、しかし、いまのノックには涼やかさが共存していた。
「失礼いたします」
 と、紅茶の香りといっしょにはいってきたのは、さきほどすれ違ったメイドではない。
 清楚な白いツーピースを羽衣のようにまとい、黒髪を楚々と背中に流している女性が、テーブルまで近づいてきた。
「ほら、さっき話したぼくの姉さんだよ」
 岡本のそういった自慢気な声が、厚い壁越しのように遠く聞こえた。
 その後、姉弟のあいだで会話がかわされたようだが、弘海は自分が紹介されたことと、岡本の姉が、
「朝美ともうします」
 と、名乗った以外はほとんど記憶になかった。朝美の卵型をした顔ばかり眺めていた。
 彼女の富士額の肌はきめ細かく、眉は天才画家が細筆でひいたように美しい。二重瞼のおおきな瞳、そのあいだからは鼻梁がすっとのびており、高貴ささえ感じさせられる。うすくもなく厚くもない唇は、きれいなピンク色をしていた。
「では、わたしが高倉さんに伝えてきます」
 ピンク色の唇が動いて、朝美の身がひるがえった。スカートのすそがわずかにひろがる。
 その背中がドアにさえぎられるまで、弘海はぼんやりと眺めていたが、
「仁科くん」
 岡本の声に、ハッと自分を取りもどした。ゴホンと咳払いひとつ、ティーカップに口をつける。朝美がいれてくれたのだと思うと、むしょうにおいしかった。
「ああ、ところで岡本くん。朝美さんはどこにいったのかな?」
「いやだなあ、ちゃんと話を聞いててよ。高倉を呼びにいったんだよ」
 岡本の話し方の癖が、なんとなくわかりかけてきた。彼のいうことには、いくつか重要な事柄がぬけているのだ。そのたりない部分は、聞き手が気をきかせておぎなってやらなければならない。きっと幼いころから、まわりの人間に大事にされすぎたのだろう。
 弘海は紅茶を嚥下しながら、気をきかせて推理した。朝美がこの部屋にくる前、岡本は金庫を見てよといって立ちあがった。みなに大事に育てられている人間だ。自分で持ってくるつもりはなかっただろう。してみると、だれかに持ってこさせるために立ちあがったということだ。その相手が「高倉」という人物なのではなかろうか。朝美がでていったのは、その「高倉」を呼びにいったということだ。岡本が敬称をつけていないということは、「高倉」という人物は使用人である可能性が高い。
 ひかえめなノックの音が、思考を遮った。朝美のそれとは異なる音だ。
「失礼いたします」
 といってはいってきたのは、さきほど「いらっしゃいませ」と頭をさげた執事であった。黒の三つ揃いがピタリ決まっている。短く刈った髪の毛はついさっき床屋にいってきたようにきれいにそろい、頬からあごにかけてはヒゲの剃り跡さえも皆無だ。切れ長の目が、窓から差しこむあかりにキラリと光った。
「ああ、高倉。金庫を部屋にいれて、仁科くんに見せてあげてよ」
「かしこまりました」
 高倉執事がいったん廊下に戻り、台車を押しながら再入室してきた。
 仁科弘海は瞠目した。
 まず頭に浮かんだのが、保険証をどこにしまったかということであった。そして、カウンセリングをうけるのに、はたして保険証が必要なのかどうかの確認が先だということに思いいたった。
「まいったね、こりゃどうも」
 弘海は目をこすったあと、自分が幻覚を見ているのではないと自覚し、ようやっとそれだけ口にできた。
「すごいでしょ」
 岡本が微笑みながらいった。
「ぼくもはじめて見たときはびっくりしたんだ。おばあちゃんが病気で寝込んじゃう前に購入したんだよ。だから、きっとこのなかには、おばあちゃんが大事にしてたなにかがはいってるんだ。ぼくたちはそのなにかが、味噌汁の隠し味だと思って――仁科くん、聞いてる」
「ああ、聞いてるぜい」
 弘海は額の汗をぬぐって、金庫を凝視した。
 人間の腰までもあるおおきさであった。それだけなら、別段どうということもない。問題は、それが木製であるということだ。
 だが、ただの木製ではない。それくらいなら、いくらでもある。木を板状に切り、鋼の金具でとめて、はいできあがりだ。
 弘海は恐る恐る歩を進め、金庫へと近づいた。
 高倉執事の瞳の矢が鋭く突き刺さるが、まるで気にならなかった。
 近くによってみて、さらに確信を得た。金庫には開閉する扉部をのぞいて、切れ間がまったく存在していなかった。金具も同様に、蝶番と鍵となっている部分以外にはない。つまり、この金庫は……。
「一本の木を彫って作ったものでございます」
 高倉執事が、うすい唇から平坦な声をだした。言葉使いは丁寧だが、どこの馬の骨ともわからない人物には、気持ちまでは露呈しない。そんなふうな声音であった。
 弘海は気にせず、芸術作に鼻先を近づけた。金庫の肌は、朝美のそれよりも、さらに木目が細かかった。全体的にツルンとしており、艶めかしくもある。開閉しなければならないので、どうしても扉のかたちに溝がはいってしまうのがおしい。これさえなければ完璧なのに。
 いや、この溝があるからこそ、芸術作として、より昇華しているのだ。この扉がなければ、ただのサイコロ型した木のかたまりにすぎなくなる。
 弘海は金庫の金庫たるゆえん、鍵に視線をうつした。なにも特別な仕掛けはない。U字型をした金具を、本体と扉にひとつずつ取りつけ、数字錠をはめているだけだ。
「なるほど、数字の組みあわせがあっていれば開くんだな。だが、これなら正攻法でいかなくても、方法はいくらでもあるんじゃないか? バーナーで鍵を切ったりさ」
「そ、そんなことしたらおじいちゃんになんていわれるか。おばあちゃんの形見のひとつなんだもの」
「前権撤回してもうしわけないが、形見というだけでなく、たしかにバーナーは使えないな」
 そんなことをすれば、金庫に焼け焦げがついてしまい、せっかくの作品がだいなしになってしまう。だから、強攻策はとれない。
 もしかしたら、岡本のばあさんはそこまで計算にいれて、この木の金庫を作ったのではないだろうか?
「とにかく、オレが来たからには、数字錠なんてなんの意味もないぜい」
 弘海は両手をもみしだいた。
 高倉執事の眉間に、わずかに影がよった。
「なにをするつもりでございますか?」
「なあに、ただちょっと金庫にさわるだけさ」
「仁科くん!」
 と、喜色を叫んだのは、もちろん高倉執事ではない。岡本が期待感をこめた目をキラキラ輝かせている。
「岡本くん、あとでこの執事にオレの能力のことを説明しておけよ。いくぜい!」
 弘海は金庫のうえに手を置いた。



■第三章・美女と語ろう!


 仁科弘海が厨房へ行くと、すでに朝美が忙しく立ち働いていた。その長い黒髪が、蝶をかたどった髪留めでまとめられている。チラリとのぞくうなじが、なんとも色っぽい。
 部屋に残してきた岡本の話では、食事はメイドではなく朝美が作るきまりになっているという。いや、暗黙の了解といったほうがより正解だろう。
「ああ、ゴホン」

 少しどころがおおいにわざとらしい咳払いひとつ、弘海は朝美に近づいていった。
「あら、仁科さん。どうされたんですか?」
 朝美の微笑みに、弘海の心臓が強くいっかい打った。もう一度咳払いをしてから、
「いやあ、ちょっと喉がいがらっぽいので、なにか飲み物でもいただこうかと思いまして」
 言葉づかいがガラリとかわったことに弘海は嫌悪を感じたが、美女の前ではそんなくだらないものはゴミ箱のなかだ。
「あら、それはたいへんですわ。お茶でもおいれしましょうか?」
「いや、できれば牛乳をもらえますか」
 にっこりとうなずいた朝美が、冷蔵庫から牛乳を取りだした。紙パックではない。一リットルサイズのおおきなビンいりであった。
「はい、どうぞ」
 朝美が牛乳をついだグラスを手渡してくれた。
 弘海は一気にあおった。濃密でまろやかな味が、喉をすべり落ちていく。
「ふふ、もう一杯いかがですか?」
 再度ついでくれた牛乳もまた、弘海は一気にあおった。
「ふふ、二杯もお飲みになって。よっぽど牛乳がお好きなんですね」
「好きですよ。でも、それだけじゃない」
「と、いいますと?」
「牛乳を飲むことによって、カルシウムを補給するんです。そうするとイライラしなくなるんですよ。眉間にしわをよせて厳しい顔して、せっかくの美男子を台無しにしたくないですからね」
「まあ」
 といって、朝美がフフフと笑ったのはどういうことだろう? 冗談だとでも思ったのだろうか。
「ところで、味噌汁作りのほうは順調ですか?」
「わかりません。こればかりは、おじいさまに飲んでいただいてみなくては……」
「しかし、その悩みもいまだけですよ」
「そうですわね。夕食後には仁科さんが金庫をあけてくださるということですし」
 仁科弘海はおおきくうなずいた。
 すでに、金庫をあけるべきナンバーはわかっている。いますぐにでもあけることはできる。しかし……。
「どうして、すぐにあけないの?」
 高倉執事が金庫といっしょに退室したあと、岡本がそう訊ねてきたのが思いだされた。
「いまあけてくれなきゃ、夕食に間にあわないよ」
「それがあけない理由さ」
 岡本が怪訝な顔をしたのへ、
「いまあけると夕食に間にあうだろ。それじゃあ困るんだよ。オレはまだ一度も、朝美さんのつくった味噌汁を飲んでない。ここで金庫をあけて隠し味をだしたらどうなる? いまの状態でつくる味噌汁が飲めなくなるじゃないか。それじゃあ、違いがわからない。なんだかオレだけ損してるじゃないか」
 もちろん、理由はそれだけではないが、岡本が納得しさえすればよかった。彼は首をかしげてはいたが、イヤとはいわなかった。
 その後、弘海は屋敷内をブラブラと散策した。
 廊下を歩いている途中で、一度だけ高倉執事とすれ違った。彼のさすような視線には、自分の家のようにふるまうな、という意志がこめられていた。しかし、口にはだしてこなかった。ただ、会釈してきただけだった
「いままで、味噌汁の味にはいろいろ苦労してきたんでしょうね」
 弘海は回想をうちきると、朝美の目を見つめながらいった。
 朝美が微妙な笑みをうかべ、
「ええ、いろいろと。熱さの調整をしてみたり、具の切り方をかえてみたり。いろいろと飲みくらべもしてみましたけど、どれも無駄でしたわ。わたしはおなじ味だと思うんですけど、きっとおじい様は、微妙な違いを感じとってらっしゃるんでしょうね」
 そこまで一気にしゃべった朝美が、突然ハッとばかりに目をむいた。その顔があまりにかわいらしいので、弘海はあやうく鼻の下をのばしそうになった。
「あら、いやですわ。なんだかわたしばかりこんなにしゃべって……」
「いえ、味噌汁にかける熱意が伝わってきますよ。ところで、あなたのおじいさんは、味噌汁を飲むのに特別のおわんを使ってるんですってね」
「弟から聞いたのですか。そうですよ。お見せしましょうか」
 といって朝美が食器棚から持ってきたおわんは、内側が赤色で外側が黒い漆塗りであった。外周にそって、金粉で鳥が描かれている。おそらく鶴だろう。
「このおわんで飲むと、味噌汁の味がぐっとひきたつんですよ。というのはですね、これに唇をつけると、無機物なのにやわらなかくて、あたたかくて、やさしいんです。インスタントの味噌汁でも、このおわんで飲んだら極上の味になるんじゃないかしら」
 そこまでいって、朝美が口をつぐんだ。
「あら、またわたしばかりこんなに。ごめんなさいね」
「いえ、朝美さんとお話しができて楽しかったですよ。牛乳、ごちそうさまでした」
 弘海は立ちあがって、軽く会釈した。
 厨房をでて、どれほども歩かないうちに、またもや高倉執事とばったり会ってしまった。
「おや、どこに行くんだい?」
 弘海はいつもの口調で、高倉に言葉をかけた。
「この廊下の先には、厨房しかないぜい」
「その厨房に行くのでございますよ。もうすぐ夕食の時間でございますので、朝美お嬢様と交代で、わたくしが料理のしたくをしなければなりませんので」
「なるほど、納得。じゃあねえ」
 片手をあげてその場を去りながら、弘海は背中が痛むのに気づいた。きっと高倉執事の瞳の矢が、何本も命中しているのだろう。
 背中をさすりさすり食堂へいくと、すでに岡本が席についていた。
「仁科くん、どこいってたんだよ」
「ん、ちょっと、な」
「まあ、いいや。仁科くんの席はそこに用意したから座ってよ。」
 メイドのひいてくれた椅子に、弘海は座った。なんだかいい気分である。
 正面の壁に、額にはいったおおきな絵があった。朝美が和服を着て、この屋敷の門のところに立っている絵だ。キャンバスのすみに、「M.Masaki」と作者名が小さく描かれている。
「あれ、お姉ちゃんじゃなくて、おばあちゃんの若いころだよ」
 視線に気づいたのか、岡本がそう注釈を加えてくれた。
「絵のくすみぐあいで、それくらいは……」
 弘海はみなまでいえなかった。
 食堂のドアがひらき、長身の老人がはいってきたからだ。白髪白髭ではあるが、額の後退はまるで見られない。頬骨からおりてくる皺とへの字の唇が、強情さを表現してあまりあるのに、さらに眉が尻上がりになって後押ししている。
「見慣れない顔がテーブルについているが、だれかな?」
 眉根にしわをよせてにらまれたが、弘海はいっこうに気にしなかった。あれが岡本の祖父だなと、内心で思っただけだ。
 岡本老につきそってきた朝美が、説明と紹介をしてくれた。
「ほお、あの金庫をあけられるとな。これはおもしろい」
 岡本老がかすかに微笑んだが、それは友好のためではなく嘲笑であった。
 だが、次の瞬間、岡本老が突然せき込みはじめた。胸をおさえて顔を歪め、身を折って痙攣するように。喉にひっかかるような、いやな予感をさせる音がはじける。朝美が背中をさするのを手でなだめようとしているのは、さすが年の功といえるだろう。孫によけいな心配はかけたくはないということか。
 弘海は隣の席に座る岡本に、チラリと視線をやった。彼から聞いたことを思い出したのだ。
「おじいちゃんは車を運転するのが大好きだったんだ。朝から晩まで乗ってた。だけど、事故を起こしてからはすっかり乗らなくなっちゃったんだ」
「事故?」
「うん、ぼくは詳しくは知らないけどね。それからだよ、恐そうな顔ばかりするようになったのは。だけど、なんだかしょんぼりもしてるんだ。おばあちゃんがいなくなってからは、体の調子も悪くするし……」
 立て続けに不運がおこって、メンタルバランスが取れなくなり、それで健康まで損なってしまったのだろうか。人間の体とは、つくづく謎であった。



■第四章・大団円


 仁科弘海は食べることよりも、岡本老を観察することに神経をついやした。だから、メニューになにがでたのかは、ほとんで覚えていなかった。和食だということと、腹がふくれたということだけわかっていれば十分だ。
 岡本老を観察していて気づいたことがみっつばかりあった。
 体の調子が、予想以上に悪そうだというのがまずひとつ。食事中にせき込むことが何度かあり、そのたびに横に座った朝美に背中をなでられていた。具合がよくないのなら自室で寝ていればいいものをわざわざ食堂までやって来るとは、もしかしたら寂しがり屋なのかもしれない。連れ合いをなくしたのだ。無理もないことではあるが。
 もうひとつ。岡本老が料理の味をほめたのである。聞いた話から、料理の味にはことごとく難癖をつけるようなイメージがあったので、これには驚かされた。逆にいえば、それだけ味噌汁には固執しているということだ。
 みっつ目は、岡本老も左利きだということだった。きっとひねくれた人生を送ってきたに違いない。
「あっ、仁科くんって左利きなんだ」
 と岡本がいったときに、こちらをギヌロとにらんだのは、きっと共通点があるのに驚いたのだろう。
 みなの食事が終わると、食器が片付けられた。
「いよいよ、だな」
 弘海はだれにも聞かれないように、小さくつぶやいた。
 部屋のすみにひかえる高倉執事が、こちらをジロリとにらんできた。おそるべき地獄耳である。
 彼がこの部屋にきているかわりに、いまは朝美が厨房で作業をしていた。味噌汁だけは、執事にまかすことはできないというところか。
 弘海は壁にかかった絵に、もう一度目を流した。門のそばに立つ和服を着た美人は、朝美にそっくりであった。いや、逆だ。朝美のほうが彼女にそっくりなのだ。
 ドアが開いた。
 なべをのせたワゴンが、まず入室してから、朝美があとにつづいてきた。
 部屋のすみで待機していたメイドたちが、ワゴンにのっていたおわんを各人の前に並べていく。味噌汁をついでいくのは、朝美の役目であった。
 なにやら儀式めいた雰囲気だ。何ヶ月もおなじことをやっているうちに、いまのような形態になったのであろう。
「どれどれ」
 弘海はわざと浮かれたような声をだして、おわんの味噌汁を思いっきりすすった。睨みつけてくる高倉執事を無視して、
「うん、うまい! ほら、みなも早く飲んだ飲んだ。さあ、じいさんもはやく飲んで」
 全員が全員、岡本老のほうをチラリとうかがったが、当の本人はいっこうに気にした様子がない。ふところが深いというのか、バカは相手にしてられんと無視しているのかどちらかだろう。その仏頂面からは表情が読めなかった。
 岡本老がおわんを持ちあげて、一口すすった。みなが注目するなか、
「だめだ」
 と、おわんを置く。
 朝美のため息が床に落ちた。
 同時に弘海は立ちあがった。足音高く岡本老に近づき、予備動作ひとつなく、おわんを手にとり一気にあおった。
「あっ」
 みながいっせいに、驚きの声をひびかせた。
 弘海は音をたてて、テーブルにおわんを叩きつけた。
「たしかにこのおわんで飲むと味が違うね。なんというか、情緒がある。ねえ、高倉政重さん」
「なんだって?」
 高倉執事が、怪訝そうに眉根をよせた。
「あれ違ったかな? 高倉さん、あなた政重さんて名前なんでしょ。そして、このおわんをプレゼントしたのもあなただ。なかなかすてきな贈り物だね」
「ふ、ふん。ほめられても、うれしくもなんともない」
「あれ、言葉使いがおかしいね。さっきまでは慇懃だったのに。身内になにかよくないことでもおこったかな?」
 高倉執事の顔がたちまち紅潮した。
「おや、風邪でもひいたのかい? 顔が真っ赤だよ。自室で休んだほうがよくはないかい? でも、その前にちょっとひと仕事してくれよ。ここに金庫を持ってきてほしいんだ」
「――かしこまりました」
 歯のあいだから声を押しだして、高倉執事が退室した。
「仁科くん、どうして高倉の名前を? もしかして心を読――」
 岡本の腕をつかんで続きをとめさせた。
 金庫が入室してきたのは、それから五分後であった。
 しかし、それを運んできたのは、べつの男であった。岡本のほうを見ると、住み込みの庭師だと説明してくれた。
「高倉さんは気分がすぐれないといっておられました」
 庭師の説明を聞き、弘海は天をあおいだ。
「やれやれ、休む前にひと仕事してくれといったのにこれだ。職務怠慢だね。これから、メインイベントがはじまるってのに」
 弘海はこめかみに人差し指をあてながら、金庫に近づいた。
「いまからあけるぜい」
「仁科くん、ついに!」
 と、喜色に顔を輝かせたのは岡本のみで、ほかの全員はみな半信半疑の顔をしていた。いや、ただひとり、この屋敷の当主のみは無表情であった。
 気にせず、弘海はマイペースで数字錠を手に取った。数字が七桁ならんでいる。考えるでもなく、無造作にナンバーをあわせる。
 カチリ、と音がすると同時に、岡本老が立ちあがった。
 弘海も立ちあがり、数字錠をみなに示した。
 4444654
 正解のナンバーであった。
「いっておくが、これはゴロあわせなどではなく、ほんとうに無意味な数字の羅列だ。ヒントなしでは絶対にわからない。岡本くんをはじめここにいる全員は、そのヒントを見逃しているはずだ。もしかしたら、ゴミだと思って破棄しているかもしれない。もしオレがこなければ、絶対に金庫はあかなかっただろうな」
「どういうことかな?」
 岡本老が、はじめて興味を示してきた。
 岡本がこちらを見た。軽くうなずいてやると、彼は自分の祖父に特殊能力のことを語りはじめた。
「ホラだ、といいたいところじゃが、目の前で金庫をあけられてはの」
「まだ金庫はあけてない。鍵をはずしただけだぜい。あけるのは、いまだ」
 弘海は金庫のドアをあけた。みなが立ちあがって、なかをのぞきこもうとする。スポットライトのように視線が集まる中心点では、一枚の便箋が横たわっていた。
 いまここに、隠し味の秘密が公然のもとに。
 弘海は便箋を手にとり、読まずに岡本老に渡した。
 かの老人がしばらく便箋に視線を落としたまま、静かな時間が何分かすぎた。
「ふぅ」
 岡本老が小さなため息をもらした。その唇には、淡い微笑が浮かんでいた。
「みなに読んでやってくれんか」
 といって、岡本老が渡してきた便箋を弘海は受け取った。こめかみに人差し指をあててから、
「朝美の作る味噌汁は、わたくしの作るものと同じ味がいたします。わたくしはもうこの世にはおりません。その事実をどうか受け止めてくださいませ」
 便箋にはそれだけしか書かれていなかったが、行間にはそれ以上の意味が込められていた。気のせいか、便箋からは味噌の匂いがしてくる。
 岡本老の顔を盗み見ると、すでに朝美の味噌汁を認めているふうであった
 仁科弘海は、なぜこの便箋を金庫にいれなければならないかを看破した。
 このメッセージを見せてから、朝美の味噌汁を飲ませても、意固地になっている岡本老には通用しなかっただろう。
 だが、毎日毎日、朝美の味噌汁を飲み、深層心理でおなじ味だと理解していた場合はどうか。意地になって拒みつづけている表面意識を氷解する力が、このメッセージには込められている。
 だから、遺言ともとれるこの便箋は、すぐに読まれるところに置かれてはならなかった。特注の金庫にいれて、時間がたってから発見されなければならなかった。
 岡本のばあさんは、生前にみずからの死を予感し、このメッセージを残したのであろう。おそるべき先読みの能力である。
 しかし、誤算があった。それは数字錠をあけるためのヒントを、だれかがそれとわからずに破棄してしまったのだ。
 そして、一年が経過したいま。
「朝美、味噌汁をついでくれんか」
 岡本老が無表情に、否、目尻に若干の皺をつくって、その言葉を口にした。
 長い時間をかけてつくられた食堂の緊張が、水に解ける砂糖のように氷解していく。
「待った」
 空気の氷解を、手をあげてとめたのは弘海であった。全員の疑問が目が集まるなか、
「借りるぜ、岡本くん」
 と、岡本のおわんをとり、朝美にそれにつぐように頼んだ。
「どういうことじゃな?」
「ひとりだけ特別なおわんを使わずに、みなとおなじので飲みなよ、じいさん。まさか、孫の使ったおわんでは飲めないってことはないだろ」
「うむ」
 岡本老がぐっと味噌汁をあおった。
 仁科弘海は微笑んだ。
 すでに結果はわかっていたから。
 味噌汁を飲み干した岡本老がいった。
「うむ、あいつの味噌汁の味と同じだ」
「おじい様!」
 朝美が目を潤ませて、胸の前で手をくんだ。彼女の一年間の努力が、ついにむくわれたのであった。
「やったね! 姉さん」
 岡本が姉の元にかけよっていった。
「すまんかったな、朝美。わしのまがままに一年間もつきあわせて」
 仏頂面を柔和な微笑みにかえ、岡本老が朝美にむかってわびた。
「そんな、おじい様」
 感極まったのだろう、朝美の涙が頬を流れた。
 それがテーブルに落ちるまで、弘海は待たなかった。背をむけ、音がしないようにドアをあける。
「家族は、円満なのが一番だぜい」
 ポツリつぶやき、弘海はドアをぬけ――否、一度だけ立ち止まり、壁にかけられた絵をふりかえった。
 朝美そっくりの女性が、和服を着て門のそばに立っている絵だ。彼女の思惑どおりに、岡本家は大団円をむかえたのであった。



■第五章・そして、それから……


 仁科弘海はノックもせずにドアをあけた。
「だれだ!?」
 イスに座ってぼんやりしていた高倉執事が、魚のように目をむいた。驚愕と困惑がないまぜになったような視線であった。
「カギをかけたはずだ。どうやってあけた!?」
「カギはかかってなかったぜ。神経、まいってるんじゃないかい?」
「そう思うなら出ていってくれないか」
「出て行くさ。用がすんだらな」
「わたしに用はない。出て行け」
「ゴルフをするのかい?」
 弘海は無視して、部屋の壁にたてかけられたゴルフバックを見た。
「オレはゴルフをしないからわからないんだけど、そのクラブって高いの安いの?」
「出て行けといっている!」
 高倉執事がテーブルに両拳を叩きつけた。灰皿が浮きあがり、着地のときに盛大な音をたてた。
「あんまり騒がないでくれないか、食堂じゃあ、ハッピーな大団円をむかえてるところなんだから。水をさしちゃ悪いだろ」
「そう思うなら早く出ていってくれ。ひとりになりたいんだ」
「出ていけ出ていけと連呼されると、余計に出ていきたくなくなるなあ」
「たたき出してやる」
 高倉執事が立ちあがった。そのいきおいで、イスが倒れる。
 弘海は気にしたふうもなく、手に持ったグラスに口をつけた。
「おい、なんだそれは?」
 こめかみに血管を浮かした高倉執事の質問に、
「牛乳だよ。ここにくるまでに、ちょっと厨房によってたんだ。あれ、もしかして、いまはじめて目にうつったのかな?」
「いままで背中に隠していたくせに……。そうやって、わたしをいらだたせる魂胆なのだろう。いちいち、腹のたつことを」
「ばれたか」
 それだけいって、弘海は牛乳を一気にあおった。
「プハァ、テーブル借りるよ」
 からになったグラスをテーブルに置いてから、
「さっきひとりになりたいっていったよねえ。なにか考え事でもしたいのかい。たとえば、そうだなあ、『毒』についてとか」
 次の瞬間、高倉執事の顔色がかわった。
「あんたと朝美さんは、交代で厨房をしきっていた。朝美さんが食堂で夕食をとっているあいだに、あんたは岡本のじいさんが使うおわんに毒を少量ぬっていた。じいさんがあそこまで体を壊しているのは、心労ではなくあんたの毒がきいているからだ」
「――ふん、あてずっぽうもそこまでいくと……」
「あてずっぽうじゃないぜい。じいさんは後から飲んだ味噌汁を認めたんだぜ。金庫のなかの便箋の効果もあるだろうが、味噌汁自体の味も実際違っていた。ほんのちょっぴりだけだが、味にうるさければすぐにわかるぜい。じいさんは、あのおわんでしか朝美さんの味噌汁を飲んでなかったからな。彼女の味噌汁はあんな味だと思ってたんだろうな」
 弘海は人差し指をこめかみにあてた。
「オレは飲みくらべたから、味の違いに気づいたぜい。それに、壁に耳あり障子に目ありっていうぜ。オレは夕食時まで遊んでいたわけじゃあない。ちゃんと聞き込んでいたのさ。あんたの凶行を目撃した人物からね」
「なんだと? だれが見たというのだ」
「それはいえない。おっとその人物をかばっていると思われると迷惑だぞ。名前を知らないんだ」
「ふん、どうせメイドのだれかだろう。わたしがおわんを洗っているのを見て、勝手に空想したというところか」
「まだ空とぼけるか。岡本くんからオレの能力について聞いてるだろ。この部屋のドアノブにふれたときに、あんたの考えはすべて読めたよ。おっと、そんな能力は嘘っぱちだといいたいんだろう。なら、オレはどうやって金庫のナンバーを知ったんだ。ええ、おい」
「ふふ、ふははは」
 高倉執事の笑い声が部屋にこだました。
「そんな超能力まがいのホラを信じろというのか。笑わせる。わたしの考えが読めたのならいえるよなあ? どうしてわたしが毒をもらなければなからなかったか」
「動機、ってやつだな」
 弘海は口元に笑みを浮かべながら、高倉執事に近づいていった。
「動機を聞いたのは、あんただぜい。あとで怒るなよ」
 すれ違いざまにそういい残し、弘海はゴルフバックのそばで立ち止まった。
「おい、なにをする気だ」
 なにをするつもりなのかわからず面食らったのだろう、高倉執事が慌ててとめにはいろうとした。
「遅い」
 弘海はゴルフバッグにふれた。
「覚えているか。オレが金庫にふれたときのことを。あんたあのとき、嘲るように口を歪めたな」
「そのとおりだ!」
 高倉執事が胸を押してきたが、弘海は逆らわずにうしろによろめいた。
「今度は嘲り笑う余裕はないみたいだな。なんたって、金庫をあけた実績があるんだ。そして、宣言する。オレはたったいまゴルフバックから、あんたの凶行の動機を知った」
「はん、ばかばかしい」
「動機は復讐だな。娘さんのための」
 高倉執事の顔に、はじめて本物の驚愕が姿をあらわした。
「あんたの娘さんは、別れた奥さんに連れていかれた。奥さんはすぐに再婚した」
「やめろ」
「そこまではいい。問題はその後におこった。娘さんが交通事故で亡くなったんだ」
「やめろ」
「そして、娘さんを跳ね飛ばした車を運転していたのは、岡本老だった」
「やめろといっているんだあ!」
 高倉執事が身をひるがえして、ゴルフバッグからクラブをぬきとった。一番アイアンであった。
 ふりむきながら、ぶんまわしてくる。
 弘海はバックステップで軽々とかわした。
「別れた奥さんにそのことを聞いたあんたは、執事としてもぐりこんでずっと機会をうかがっていた。そして、今度の味噌汁騒動だ」
「だまれ!」
 高倉執事がアイアンをふりおろした。
 弘海は今度は横にさけた。
 クラブのヘッドがテーブルにあたり、にぶい音がした。
 硬い音が背後ではじけたところを聞くと、また灰皿がジャンプしたに違いない。
「うおおおお!」
 高倉が吠え声とともに、アイアンを横殴りに投げた。
 空気をかきまぜながら飛来するアイアンを、弘海はしゃがんでよけた。
 黒い靴が視界いっぱいにせまってきたのは、次の瞬間であった。
 肉と肉のぶつかる音。
「ぐう」
 弘海の体は、苦鳴とともに浮きあがった。
 高倉執事の蹴りは、それほどまでに凄まじかった。
 咄嗟に腕でガードしていなければ、内臓破裂はまぬがれなかったであろう。
 なんとか床の上にたった弘海は、それでも数歩よろめいた。
 なにかを踏んだ。
 天井が見えたと思うと同時に、尻に痛みがはしった。
 まぬけにすっころんだとは思いたくなかったが事実だった。
 呆然とした視界のなかで、グラスが床のうえを転がっていた。厨房によって牛乳をついできたあのグラスだ。
 先ほど高倉執事がアイアンでテーブルを叩いたときに、転げ落ちたのだろう。
 不運と思う余裕は、弘海にはなかった。
 悪鬼の形相と化した高倉執事が、猛然と迫っていた。
 逃げられる体勢でもない。ましてや、立ち上がる時間さえなかった。
「うおおおおお!」
 吠え声とともに、高倉執事の腰が回転した。
 黒い脚が空気を灼いて襲いかかってくる。
 次の刹那。
「うぎゃああああ!」
 絶叫が部屋にこだました。


 仁科弘海がはじめて疑惑をもったのは幼稚園児のころだった。
 いつものようにお遊戯を終え、さあこれからお弁当を食べようというころに、若くて美人の先生がこういったのだ。
「いいですか。箸を持つほうが右手ですよ」
 はーい、と弘海はほかの園児といっしょに返事をした。
 いつもなら、お弁当箱をあけるやいなや、お互いのおかずの検分がはじまるのだが、その日は違った。
「こっちが右手」
「ぼくはこっちが右」
「右手、右手」
 先生のいうことが影響したのだろう、その日は箸をもった順にどちらが右手かの確認作業がはじまった。
「こっちが右手」
 弘海もほかの園児と同様に、箸をもった「左手」をふりまわした。
「仁科くん、そっちじゃないわよ」
 すぐそばで先生の声がして、弘海はドキリとした。
「箸はこっちで持つの。こっちが右手」
 左手に持っていた箸を、右手に持ちかえさせられた。
 弘海は、すぐにはわけがわからなかった。
「箸を持つほうが右手、だから、いままで箸を持っていたほうが右手、逆のほうが左手、でも、いま、先生は左手に箸を持たせてこっちが右手といった。じゃあ、いままで右手だったのが左手に、左手だったのが右手になるの? じゃあ、また箸をもちかえたら左手が右手に、右手が左手になるの?」
 心の声も混乱していた。
 この混乱を先生にどう伝えていいかもわからなかった。
 だから、意味もなく泣きだした。
 なだめられて泣きやんだ後、弘海は言葉にできない感情を先生にいだいていた。いままで絶対的信頼をよせていたが、なぜそれほどまでに思っていたのか理解できなくなっていた。
 この事件の真相に気づいたのは、ずっとあとになってからだった。なんのことはない。右利きの人間の数が、圧倒的に多いだけの話だ。箸は右手でもってあたり前という常識が、はびこっているにすぎない。予備知識や暗黙の了解を知らない幼い弘海は、困惑して当然であった。
 さらなる困惑は、そう時がたたないうちにやってきた。
 小学校に入学して間もないある日、弘海は鏡とむきあったとき、自分の背中が映ることに気づいたのだ。
 鏡のなかに、見えないものが見えた。
 弘海はすぐさま両親に報告したが、一笑にふされただけだった。
 弘海は調べに調べた。どうして、鏡に背中が映ったのか。しかし、所詮は小学一年生。解答にはたどり着けなかった。しかたなく、鏡に映る自分の姿は常に左右逆に映るのだという常識を採用した。
 それから、長い時がたち、弘海は鏡に背中が映る解答に到達した。
 そのとき、なにかがかわるのが実感できた。
 常識に縛られて、見ようとしてないから見えないのだ。
 その気になれば、見えないものが見えてくる。
 見えないものが見えてくる。


 黒い脚が空気を灼いて襲いかかってきた。
 次の刹那。
「うぎゃああああ!」
 と、絶叫をあげたのは、しかし高倉執事のほうであった。
 弘海はそのすきに立ちあがり、体勢を整えた。
「今日二度目だな。輪ゴムピストルを使うのは」
 左手をピストルの形に固定したまま、弘海は微笑を浮かべた。
「ただし、今度のは特別だぜ。なんたって、厨房でタバスコをまぶしてきたからな」
「うぐおおお!」
 高倉執事が右目をおさえながら、おそろしい形相でにらんできた。
「きさまあ、よくもお!」
「そんなすごんだって恐ろしくないぜい」
 弘海は床からアイアンをひろいあげた。さきほど、高倉執事が投げ飛ばしたものだ。
「片目だと遠近感がとれないだろ」
 弘海はにんまりと意地悪く笑った。
「このクラブをかわせるかな」
「ふん、いい気になるなよ。やれるものならやってみろ!」
「そんなに吠えるな。冗談だぜい。あんたには同情してるんだ。娘さんを亡くしたというだけでじゃなく……」
 前触れなしにドアがひらいた。
 そこからはいってきたのは……。



■第六章・牛乳を飲もう!


「おいちちち」
「あっ、ごめんなさい」
 包帯を巻く手をとめて、朝美があやまってきた。
「いやあ、なんのなんの」
 変な答えをかえしながら、弘海は包帯越しに朝美の暖かさを感じた。
 さきほど高倉執事の攻撃をガードした右手が、熱をもってはれあがってしまっており、朝美の部屋で治療をうけているのであった。
 だから、弘海の鼻の下はずっとのびっぱなしである。
「だけど、高倉さん。かわいそう」
 治療が終わった後、朝美がポツリともらした。
 たしかにそうである。大事な娘は、もう手の届かないところにいってしまったのだ。そうなってしまった原因に、一矢報いたいと思うのは、むしろ当然であろう。方法に問題があったが、同情を禁じ得ないのはたしかだ。
 これから高倉執事がどう生きていくのか。
 弘海は高倉との対決のときを回想するごとに、そう思わずにはいられない。
 あのとき、ドアからはいってきたのは、岡本老と彼につきそう朝美のふたりであった。あれだけ騒いでいれば、だれかがやって来るだろうとは思っていたが、まさかこのふたりであろうとは。
 成り行き上、しかたなく弘海はこのふたりに事の顛末を話した。そのあいだ、高倉執事が黙していたのは、観念したのか右目がうずいているからか、あるいは、岡本老の反応が見たかったからだろうか。
「すまない、と謝ったところで許してはくれまいの」
 岡本老が目をふせた。
「奥さんから、別れた夫がいるとはきいておったが、まさかおまえだったとはの」
「ふん、警察に突き出すなり勝手にしな」
「そんなことはせんよ。わしのほうが、悪いんじゃ」
「そのとおり、貴様が悪い」
 高倉執事は岡本老を押しのけるようにして、部屋をでていった。きっとそのまま、屋敷も出ていったのだろう。その後、姿を見かけていない。
「でも、高倉さんの使った毒っていったいなんだったんでしょう?」
 朝美の声に回想をやぶられた。
 弘海はイスから立ち上がって、
「毒、というと少し語弊がありますね。工業用の薬品だということらしいです。少量だと影響はありませんが、人体に蓄積していくと害を及ぼします。どんな症状かは――おじいさんの容体を見ていればわかるでしょう」
「高倉さんが、また、おじい様を狙うって事があるんでしょうか?」
「ないですね」
「どうしてですの?」
「高倉の蛮行を知ったうえで、おじいさんは謝った。オレに敗北した姿をせせら笑うでもなく、警察に突き出すこともしなかった。もう一度襲うようなことをすれば、プライドにかかわる。誇りのようないような、頭の悪い人間には見えなかった」
「仁科さんのいわれることなら、わたし信じますわ」
 朝美の瞳が、湖のように潤んだ。
「仁科さんのおかげで、わたしのお味噌汁がおじい様に認められたんですもの」
「勘違いしないでほしいのは」
 いままでだらしなく鼻の下をのばしていた弘海であったが、このとき、瞬時に顔がひきしまった。こめかみにひとさし指をあてた姿勢で、
「勘違いしないでほしいのは、朝美さんの気をひくために、金庫をあけたり高倉と一戦まじえたりしたわけじゃあないんだ。ましてや、好奇心でもない」
 朝美の顔から、波がひくように笑顔が消えていった。
 いや、逆に頬のあたりの筋肉が、かすかにピクピクと痙攣をはじめた。
 自分の深窓の令嬢たる価値と、たかが好奇心を同等にくらべられた。しかも、興味なしといういわれかたをされ、いたくプライドを傷つけられた。
 朝美の表情から、弘海は彼女の心情をそう推測した。九割はカンだが、はずしていない自信があった。
「オレがこの件に首をつっこんだのは、好奇心でもなく、美女のためでもなく、岡本くんが頼んだからだ」
 弘海は思い出した。岡本のいった言葉を。
『そうだよ。金を取られてたのはぼくなんだ。だから、ぼくがそんなことしてもひどくはないけど、仁科くんの場合はそうじゃないよ』
 彼のこのセリフが、心の琴線にふれてきた。岡本とは波長があう。いい付き合い方ができる。だから、味方になったのだ。
「岡本くんの味方につくと、オレは決めたんだ。でなきゃあ、高倉に協力して逆に毒をもるのを手伝っていたかもしれない。あの執事の場合、十分に同情できるからな。娘さんを亡くしたというだけでじゃないぜい。他人にいいように利用されてたってところもだ」
 弘海は心持ち胸をそらし、朝美を見下ろした。
「あんた、執事が毒をいれていたことを知ってただろ」
 途端、朝美の顔が凍りついた。表情がなくなり、蒼白になっていく。
「な、なにを……」
 といった声は震えていた。
「あんたはオレにこういった。『いろいろと飲みくらべもしてみましたけど』ってな。いったい、なにとなにを飲みくらべたんだ? 目的はばあさんの味と同じにすることなんだから、よそ様の味噌汁と飲みくらべしても意味がないだろ。そこにオレは疑問を感じたんだ」
 弘海は再度、こめかみに人差し指をあてた。
「ところが、親切なあんたはすぐにその答えを教えてくれた。なんていってたかな、そう、たしかこうだった『このおわんで飲むと、味噌汁の味がぐっとひきたつんですよ。というのはですね、これに唇をつけると、無機物なのにやわらなかくて、あたたかくて、やさしいんです』ってな。つまりあんたは、あのおわんで味噌汁を飲んだことがあるってことだ」
 朝美が無言のまま立ち上がった。庶民に見下ろされたくはないということか。
「以上のふたつを総合すれば、つまりこういうことになる。あんたは、味噌汁作りにいきずまった。じいさん以外の人間、たとえば岡本くんはばあさんの味噌汁と同じ味がするといってくれるのに、肝心のじいさんは違うといいはっていたからな。このふたりの差はなにか、それはおわんだと、あんたは考えた。熱の保持性だとか、塗装のしかたで、味にじゃっかんの違いを生んでいるんじゃないかってな。そして、あんたは、自分のおわんと、じいさんのおわんとで飲みくらべをしたんだ」
 弘海は肩をすくめて、
「結果は、やはり味が違った。だが、その味の違いはあんたの予想しえないものだった。あきらかに、別の味が隠れていたからだ。おかしいと思ったあんたは、うたがいの目を高倉にむけた。夕食の準備で交代するとき、厨房に岡本くんのビデオカメラを設置して、高倉の行動を記録したのだ。後で映像を見て、自分の考えどおりだと知ったが、あんたはだれにもいわなかった。高倉もばれたことに気づかなかった。彼はあんたに体よく利用されていたんだ」
「なんのことをいっているのか、さっぱりわからないわ」
 朝美の顔は、すでに蒼白ではなかった。地獄の溶岩もかくやと思われるほど、赤黒く変色している。染料の正体は、怒りであった。
「どうして、わたしが、毒をいれているのを見逃さなくっちゃならないの」
「あんたは、蝶も花よと育てられてきた美女だ。深窓の令嬢だと騒がれてきた。そんな自分が、味噌汁ごときにしばりつけられていることに内心腹をたてていた。しかし、表面上はお嬢様をかたちづくっていなければならない。たいへんなストレスだ。そうなる原因をつくっているじいさんに対して、日ごとゆがんだ恨みがつのっていった、ってところか」
「見たような口をきくのね」
 般若とはまさにこのことか、充血して真っ赤に染まった唇は三日月型に裂け、狂気を秘めた目は糸でつったようにつりあがった。これこそが、朝美の本性であろうか。
 弘海は、しかし、ひるまなかった。
「岡本くんから、オレの能力は聞いているだろ。さっき包帯をまかれている間に、あんたの考えが読めたんだよ」
「そんなことを信じろっていうの?」
「金庫あけただろ」
「それはきっと、どこかにヒントがあって、それであけられたのよ」
「オレの能力にかんしては、そう解釈してもらってもかまわない。だが、あんたのいまの顔を見れば、オレのいったことは、まんざら間違ってもいなさそうだな」
 弘海はふりむかずにドアまで歩いた。
 いや、あけたところでふりむいた。
「そんなにイライラするなよ。せっかくの美女が台無しだぜい。牛乳を飲めよ」



■第七章・ウソ


 深紫の空では、銀盆が輝いていた。
「泊まっていけばいいのに」
 という岡本に対して弘海は、
「またにしておくよ」
「そんなこといってえ、ほら、お姉ちゃんも寂しそうに窓から見てる」
 その言葉に弘海は肩をすくめた。さっきから背中が痛いと思っていたら、鬼女の視線が突き刺さっていたのだ。
「でも、すごいよね。ぼくらが何ヶ月かかってもだめだったあの金庫を簡単にあけちゃうんだから。物にふれて記録を読むか、いまさらだけど、すごい能力だよねえ」
 弘海は歩をとめた。自然と微笑が浮かんだ。
「岡本くん、胸をはって自慢しろ。この屋敷で、きみが一番ピュアだ」
「――どういう意味?」
「物にふれて記録を読む、なんて能力はウソに決まってるじゃないか」
「え? え? え? ええ!?」
 目をむいた岡本が、口をあんぐりとあけた。驚愕にのどちんこがプラプラゆれる。
「だ、だって、ほら、不良たちのあの暗号を解いたじゃないか」
「だからあのときいっただろ。あんなのはただのアナグラムだ。解き方を知らなくても、文字をいれかえてれば解答にたどりつく」
「じゃ、じゃあ、どうやって金庫をあけたの?」
 岡本の当然の疑問に、弘海はふたたび歩を進めながら、
「きみの姉さんは、どこかにヒントがあってオレがそれを見たといった」
「ヒントがあったの?」
「なかったさ。正確にいうならば、ヒントの書かれた紙は、きみらが知らずに捨てている」
「じゃあ、どうして?」
「ヒントはなかったが、金庫のあけかたを知っている人がいてくれた。まあ、仮に『Xさん』とでもしておこうか」
「Xさん」には、この味噌汁事件にかかわるすべての事柄を教えてもらった。
 岡本老が高倉から贈られた特別なおわんを使っていたことがまずひとつ。朝美が勝手に勘違いして『弟から聞いたのですか』といったときには、プッと吹き出しそうになるのをこらえるのがたいへんだった。
 高倉執事のフルネームを「高倉政重」だと知ったのも、「Xさん」に聞いたからだ。そして彼の凶行のことも。
『ふん、どうせメイドのだれかだろう。わたしがおわんを洗っているのを見て、勝手に空想したというところか』
 高倉執事がそういっていた。彼は自分のことを過小評価している。もし凶行をだれかに見られたのであれば、神経を尖らせているときのこと、きっと気づいたはずなのだ。朝美のように、隠し取りでもされないかぎりは。
 また、高倉が凶行におよんだ動機、朝美のたくらみとその動機、すべて「Xさん」から聞かされた。
 いや、弘海はただ、「Xさん」の代弁者でしかなかった。
「岡本くん、鏡には背中がうつることもあるんだよ」
 弘海の脈絡のない言葉に、岡本が眉をひそめたが、それでも、
「あわせ鏡のこと?」
 と、返してきた。
「違うさ。鏡は一枚で、まっすぐ前にたった状態でだ」
 岡本がむずがゆそうに顔を動かした。きっと、どんな表情をすればいいのか困惑しているのだ。
「たとえば、左手に箸を持つだろ。そして、箸を持っているほうが左手だと仮定する。この状態で鏡にむかうとどう映る?」
「左右が逆に映るんじゃないの?」
「違う。箸を持っているほうが左手だと仮定してるんだ。鏡のなかのきみも、箸を持っているほうが左手なんだ。ほら、そうすると、鏡に背中が映ることになる」
「――え?」
「いいかい、顔のあるほうが正面ではないんだ。あくまでも、箸をもっているほうが左手なんだ。地球から重力がなくならないかぎり、これで鏡に背中がうつる」
 岡本が顔中使って、クエスチョンを表現した。
「わからないかい。それじゃあ、あとで鏡の前で実験してみればいい。見えないものが見えてくる」
 仁科弘海は「Xさん」にはじめて会ったとき、額から冷や汗を吹きださせてしまった。カウンセリングをうけなければとならないと思い、保険証をどこにしまったか本気で考えたものだ。
「見えないものが見えてくる」
 仁科弘海は、屋敷の門をくぐりながら再度つぶやいた。
 そして、片手をあげて笑顔を見せる。
 和服を着た老婆が、深々とおじぎしてきたからだ。品のよさそうな顔に、微笑を浮かべて。
 年をとった朝美が微笑めば、きっとこんな表情になるだろう。
「どうしたの?」
 岡本が不思議そうに顔をのぞきこんできた。
 だれもいないところで、なんで手をあげるのか疑問に思ったのだろう。
「何でもないよ」
 老婆の顔が透きとおっていたことを思い出しながら、このことはだれにもいうまいと、仁科弘海は心に決めた。



(終)


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