守護霊
紅 草希


 久々にバイトのない夜だった。巧真は七畳の部屋に寝転がり、今日買ってきたばかりの雑誌を読んでいた。
 不意に、玄関のほうから扉を叩く音が聞こえてきた。
 雑誌を読むのをやめ、巧真は身体を起こした。再び、扉を叩く音がする。
(誰だろ? こんな時間に)
 畳の上に雑誌を置き、巧真はその場に立ち上がった。
 玄関へ行って、扉を開ける。
「うわっ」
 いきなり誰かに抱きつかれ、思わず後ろへ倒れそうになる。それを必死でこらえながら、巧真は視線をおろした。
 肩まである黒髪が目に映った。その髪から、覚えのあるいい香りが鼻をつく。
「亜樹?」
 訊ねると、抱きついている人物が顔を上げた。
 その顔は、紛れもなく亜樹だった――が、何かにひどくおびえている様子で、口元が微かに震えている。
 いや、震えているのは唇だけではなかった。身体全体が小刻みに震えていた。その振動が、亜樹から巧真の身体に伝わってくる。
「どうしよう、巧真」
 震える声で、亜樹。
「あの霊が……あたしを殺すって……」
 そこまで言い、亜樹は口元を手で覆った。
 堪えきれなくなったらしい。彼女の目から、涙があふれ出る。
 巧真は狼狽した。自分の彼女が、夜中に突然やってきて泣き出したのだ。どうすればいいのか、思考力を最大限にする。
「とにかく、中に入ろう。な?」
 亜樹の頭を優しくなで、巧真は彼女を部屋の中に入れた。
 玄関の扉を閉め、上着の袖で涙を拭っている亜樹を畳の上に座らせる。そして自分も座ると、亜樹が泣きやむまでじっと待った。
「いったい何があったんだ?」
 涙がとまったのを見計らい、巧真は口を開いた。
 最後にもう一度手の甲で目元をこすり、亜樹が喋りだした。もう、声は震えていない。
「サークルの帰りに――見慣れてるからいつもは気にならないんだけど、ひとりだけ……ひとりだけ、他と違うのがいたの」
「……」
「そいつが、あたしを見て言ったの。『お前は生かしておけない』って……。あたし怖くって。急いで逃げたんだけど、頼れるの、巧真しか思いつかなくて……」
 また、亜樹が沈黙に入った。
 巧真は亜樹の頭に片手を置き、少し力を込めてなでた。
「大丈夫だって。俺が守ってやるよ。な? だから安心しなって」
「……うん」
 頷く亜樹に、巧真はにっこりと笑った。
 だが内心、その霊から亜樹を守ってやる自信はほとんどなかった。霊視能力のない巧真に、霊と闘うすべはまったくないのだ。
(けど、なんで亜樹を狙うんだ? 霊視能力が強いから? そんなんじゃないだろ)
「……悩んでてもしようがないか」
 呟き、巧真は立ち上がった。亜樹を見おろす。
「こんなとこより、人の多いとこのほうがいいんじゃない? 居酒屋は賑やかだけど、亜樹、嫌だろ? ――そうだな。カフェに行こう。駅前の。あそこなら、学生達がいっぱいいるしさ」
「でも……」
「こんなとこで暗くなってても、霊が寄ってくるだけだぞ。行こう、亜樹」
 座っている亜樹を立たせ、巧真は笑顔のまま、両手で彼女の背中を押した。
 亜樹が微笑む。ようやく、彼女の顔から不安の色が消えていった。

 駅前のカフェに、二人は来た。
 巧真の思った通り、店は学生達でいっぱいだった。二人は空いているテーブルを見つけ、そこの椅子に座った。
 ウエイトレスが注文を取りに来た。巧真達は適当に飲み物を注文し、それが来るまで、周りの騒がしさに溶け込むことにした。
「この間、亜樹の新作出ただろ? あれ、読んだよ」
「え? どうだった?」
 自分の小説の話に、亜樹が少し身を乗り出した。
「面白かったよ、ほんと。高杉龍二が絶賛、だろ? すごいじゃん。俺、亜樹の彼氏として鼻が高いよ」
 巧真が褒めに褒めると、亜樹は照れくさそうに笑った。
「ありがとっ。でもね、まだまだなの。担当の川戸さんには、ずっと迷惑をかけっぱなしだし、大学のほうもあるから、なかなか書く時間がとれないし……」
「大変だよな。学生作家は」
「うん。でも、大学卒業したら専業作家になるから」
「あと一年の辛抱か。がんばれよ」
「ありがとう」
 巧真と亜樹は互いに微笑みあった。
 ――と、その時、注文してあった紅茶とコーヒーがテーブルの上に置かれた。巧真はコーヒーカップを手に取り、中身をひとくち飲んだ。
(さて。これを飲んだら、どうしようか)
 カップの中を見つめ、巧真はその後のことを考えだした。
(一晩中ここにいるわけにはいかないし、明日、大学もあるからな。帰って寝るのが一番いいんだが、亜樹をひとりにはできないしなあ)
「どうしたの、巧真?」
 亜樹に顔をのぞき込まれ、巧真は一瞬目を丸くした。考えていたことを悟られまいと、愛想笑いを浮かべる。
「え。あ、何でもないよ。ちょっと、ぼーっとしてただけ」
 巧真の返答に、亜樹が不審顔になった。
「さっきの顔、ぼーっとしてるって言うより、考えごとしてそうな顔だったよ。
「え? そ、そうかな」
 ごまかし、巧真はカップに口をつけた。
 カップから口を離し、受け皿の上に戻す。そしてため息をついて周りを見回したとき、巧真の全身に強い悪寒が襲ってきた。
(な、なんだ?)
 亜樹のほうを見る。彼女の表情はこわばっていた。
「来た」
 不意に、亜樹が呟いた。
 刹那、周りで悲鳴が上がった。食器や家具が、一斉に音を立てて揺れ始めたからだ。
 巧真は無意識のうちに、亜樹に飛びついた。そして、そのまま床に落ち、亜樹の上に覆いかぶさった。
 店内は大混乱に陥っていた。ガラスが割れ、食器が飛び交い、家具が踊っている。それらは一度制止したかと思うと、一斉にある方向へ集中した。
「ぐっ……!」
 背や頭にいろんなものがぶつかり、巧真の口から呻き声がもれた。
「巧真、どいて!」
 目をつむり、じっと激痛にたえている巧真の耳に、亜樹の悲鳴混じりの声が聞こえてきた。
「そいつらが狙ってるのはあたしだけだからっ。どかないと、巧真、死んじゃ――?!」
 亜樹の声が途絶えた。
 巧真は目を開けた。背中に何かが無数に刺さっている感覚はあるが、不思議と痛みはなかった。
 亜樹と目が合う。彼女の目には涙が浮かんでいた。
「俺が……守ってやるから」
 呟き、巧真は再びまぶたを閉じた。意識が闇に沈んでいく――。

       ○ ○ ○

 巧真は目を開いた。辺り一面真っ白で、何も見えない。
(死んだのか? 俺――)
 視線をおろす。さっきと何ひとつ変わらない自分の身体が見えた。
(足はあるけど、やっぱ俺、死んだんだよな)
 ひとり頷き、前に向き直る。「歩く」という動作をすると、全身が浮遊している感覚に包まれた。
 ――と、周りの白に景色が浮かび始めた。段々とはっきりしてくる。
「……!」
 呆然と、巧真は周りを見回した。割れたガラス窓、壊れたテーブル、粉々に砕け散った食器が目につく。それはまさしく、巧真の死んだところであった。
「――巧真」
 足元から聞こえてきた声に、巧真は下を見た。血まみれの自分の背中が見える。
 その背が動いた――かと思うと、その下から亜樹が姿を現した。
「亜樹!」
 叫び、巧真は彼女の前にしゃがんだ。
「俺が見えるかっ? 亜樹」
「……うん。見えるよ、巧真」
 亜樹の声に、生気は感じられなかった。
 巧真は、一瞬ためらったが、彼女の両肩に手を置いた。まっすぐに彼女の目を見つめる。
「亜樹、奴はどこだ? 俺が一発ぶん殴ってやる!」
 拳を握りしめ、威勢よく言い放つ。
 虚ろな目のまま、亜樹が巧真の背後を指さした。
 それにつられ、巧真は後ろに振り返った。何メートルか離れたところに、ひとりの男が立っていた。黒一色の身なりをした、三〇歳くらいの男だ。
 男は、じっと巧真たちのほうに顔を向けていた。冷たい視線が、巧真の視線とぶつかった。
(ぞっとする目だな)
 巧真は微かに身震いした。
 その時、男が巧真たちに向かって歩いてきた。目の前に散らばっているガラクタなど、気にせずすり抜けている。
 二人から一メートルほど離れたところで、男は立ち止まった。視線は依然、巧真のほうに向いたままだ。
 男の口が、ゆっくりと開いた。
「どけ。俺はその女に用がある」
 感情のこもっていない、冷たい声だった。
 巧真は胸中にわき起こる「恐怖」を抑え、亜樹を守るように立ち上がった。続いて、亜樹もその場に立つ。
 じっと、巧真は男を見据えた。
「亜樹になんの用だ」
 声を低くし、凄みをきかせて訊ねる。
 変わらぬ表情で、男が答えた。
「お前には関係ない」
「ハッ! 関係ないだと? 俺を殺しておいてよく言うよ」
「あれは俺のせいじゃない。お前が勝手に死を選んだのだ。邪魔をしてな」
 巧真は顔をこわばらせた。恐れからではない。怒りからである。
 しばらくの間、二人は無言で対峙した。一寸たりとも動かない――。
「……なんで」
 先に沈黙を破ったのは、巧真だった。
「なんで亜樹を狙う? 亜樹が何をしたって言うんだ」
 巧真の問いに、男も口を開いた。
「そいつは危険だ。俺たち霊にとって、危険な存在だ。だから消す」
「危険――って、どう危険なんだよ?!」
「お前は感じないのか? その女が持っている危険な力を」
 巧真は亜樹のほうを見た。亜樹も見上げてくる。
 亜樹のどこが危険なのか、巧真にはわからなかった。霊視能力が人一倍強いからなのか。いろいろと思考を巡らしてみたが、確定できるものに思い当たらなかった。
 再び男のほうに向く。相変わらずの、無表情な顔が見えた。
「わからないなら、それでもいいだろう。だが、女は殺させてもらう。俺たち霊のためにも」
 男の発する言葉に、巧真は大きくかぶりを振った。
「だめだ! 亜樹には指一本触れささない。だいたい、それが本当に霊のためだってんなら、なんで他の霊は亜樹を襲わないんだよ? おかしいじゃないか」
「みな、お前と一緒だ。その女の力がわかってないのだ」
「……」
「さあ、どけ。お前は霊界にでも行くがいい。そこの女も、すぐそっちに送ってやる」
 冷淡な口調で、男。巧真は、その声に嘲りが含まれているように感じた。
 まっすぐに男の目を見、大きく首を横に振る。
「どかない。亜樹は俺が守る」
 強い意志を込め、言葉を吐く。すると、男の顔に始めて感情が表れた。
 笑っている――。
「そう言うと思ったぞ。久々に退屈しのぎができそうだ……」
 笑みが一層きつくなるや否や、男が大きく拳を振るった。
 見事なまでに、それは巧真の頬にきまった。その威力をまともに受け、なすすべなく後ろに倒れる巧真。
「巧真!」
 亜樹が、巧真の傍らに屈んだ。巧真のからだに触れようと手を伸ばすが、その指は巧真には当たらず、ただ空を掴むばかりであった。
「くっそぉ……」
 強烈な痛みに顔をしかめつつ、巧真は足に力を込めて立ち上がった。
 男を睨む――と、男は口端をつり上げ、楽しそうに巧真を見てきた。
「たまらんよなぁ、これは。死んだ者同士が闘ったら、どうなると思う?」
「知るか!」
 巧真の怒声に、男が含み笑いをもらした。
「消滅するんだよ。負けた者が」
「?!」
 巧真は目を見開いた。「消滅」と言う言葉が、頭中で鳴り響く。
「もういいっ。もういいよ、巧真」
 亜樹の声がした。
「巧真が死んじゃったの、あたしのせいだから。あたしだけ、おめおめと生きるなんて――できない」
「なっ。ば、馬鹿なことを――」
 巧真が驚いて亜樹のほうに振り向いたとき、パトカーのサイレンが聞こえてきた。
 間もなく、割れたガラスの向こうに、二、三台のパトカーの姿が現れた。警官たちが降りてくる。
「ちっ。また邪魔者か」
 男の舌打ちする音が聞こえた。
 それとは正反対に、巧真は胸中で安堵のため息をついた。これで、ひとまず亜樹の身は安心だ――と思ったのだ。
「こりゃ、ひどい」
 警官のひとりが呟いた。
「お嬢さん、大丈夫かい?」
 他のひとりが、亜樹に近づいてきた。「はい」と頷く、亜樹。
「うわっ」
 また別の警官が、巧真の死体を見て一歩退いた。
 ――と、外が騒がしくなってきた。野次馬たちが今頃集まってきたのだ。
「だめだ。応援を呼ぼう」
 ひとりが提案し、他の者達が頷く。そして早速、彼らは亜樹を連れて外へ出ようとした。
「巧真……」
 振り返る亜樹に、巧真は頷いて返した。まだ何か言いたげな様子のまま、亜樹が警官たちに連れて行かれる。
 巧真は表情を固め、男を見た。男はじっと亜樹の行ったほうを見つめている。
「ほら。やるんなら、早くやろうぜ。朝が来ちゃうぞ」
 一向に亜樹から目を離さない男に、巧真はいらだちを感じた。
 男が巧真のほうに顔を向けた。先ほどの笑みはない。
「しらけた。今日はここまでだ」
 ぽつりと呟き、背を向けてどこかへ行こうとする。
 かっ、と巧真の頭に血がのぼった。
「勝手なこと言ってんなよ! お前からやるって言い出したんだろが!」
 怒鳴り、男に掴みかかる。
 男が振り返った。初めと同じ冷然とした眼差しで、巧真の目を見てくる。負けじと、巧真も睨み返した。
「放せ。俺の機嫌が悪くならないうちに」
 男の台詞に、巧真は肩を掴む手にさらに力を加えた。
「『どけ』だの『放せ』だの、とことん勝手だな。いったい何様のつもりだよ」
「……じゃあ、こうすれば気がすむのか?」
 問いかけてくるとともに、男が右腕を動かした。大振りの拳が巧真に向かってくる、が、巧真はそれをすんなりとかわした。男が殴りかかってくるのは、あらかじめ考えてあったのだ。
 薄笑いを浮かべる。
「ようやく、やる気になったか。ったく、手間かけさせやがって」
 顔から笑みを消し、巧真は男の肩から手をどけた。

       ○ ○ ○

 荒い息を吐き、巧真は空中からゆっくりとアスファルトの道路に降りた。
 周りを見回す。人の姿は見当たらなかった。
 深く吐息し、白んできた空を見上げた。
(もうすぐ朝か。くそっ。奴はどこへ行ったんだ?!)
 頭中で悪態つき、巧真は再び空に飛び上がった。
(死んでても、体力って関係あるのか? 汗は出ないくせに、めちゃめちゃだりぃ……)
 空中で停滞し、首元に手をやる。実際は肩などこっていないのだが、気分的にこっていそうだった。
 街を見おろす。少し離れたところに、小さな公園が見えた。ブランコのところに、誰かがいる。
(まさか――)
 巧真は目をこらした。
「亜樹!」
 名を呼び、公園に降り立つ。
 一瞬身体をびくっとさせ、亜樹が振り向いた。その目は大きく見開かれている。
 巧真が亜樹に近寄ろうと足を踏み出す――とほぼ同時に、亜樹がブランコから立ち、叫んだ。
「巧真、後ろ!」
「――?!」
 巧真が後ろに振り返ったときには、もう遅かった。にやりと笑った男の顔が見える。その手には、鈍く光るものが握られていた。
 声にならない声を発し、巧真はひざを折った。腹部にナイフが刺さっていた。亜樹の悲鳴が聞こえる。
「霊には霊の武器がある。血が出なくとも、苦しいだろう? その痛みから解放される方法はただひとつ――」
 男の、笑いを含んだ声が続く。
「負けを認めろ」
 苦痛に表情を歪めつつ、巧真は顔を上げた。すぐ隣に、亜樹の泣き顔が見える。
 腹部に視線をおろす。ナイフを抜こうと柄に手をかけるが、どんなに強く引っ張っても、それは抜けなかった。
 男の含み笑いがする。
「そいつを今まで使わなくて正解だったな。こんな面白い展開になるとは……。あの時、その女を殺さなかったかいもある」
 巧真は男を見上げた。
「なにを言いたい」
 問うと、男の口端がそれ以上ないくらいにつり上がった。
「すべて計算済みだったのさ。あの時、お前が死ぬことも。女ひとりをただ殺す、なんてのはつまらないからな。遊ばせてもらった。楽しかったぞ」
「……けっ。貴様みたいなのを、悪霊って言うんだよ」
「その通りだ。――さあ、やせ我慢はそろそろにしろ」
 男の右足が、反動をつけて前に飛び上がった。
「やめて!」
 亜樹が巧真の前に身体をやった。だが、足は彼女の身体をすり抜け、巧真のあごに命中した。
 呻き声を上げ、仰向けに倒れる巧真。
「巧真!」
 亜樹は一度巧真のほうを見、キッ――と男を睨んだ。
「ひどい。ここまでしなくてもいいじゃない! ――許さないから。絶対に許さない!」
(亜樹……)
 なんとか身体を動かし、巧真は立ち上がった亜樹を見た。彼女の身体は、ほのかな光に包まれているようだった。
 その時、男が動いた。
「その力は使わさん!」
 すごみのある声で言い、亜樹に掴みかかる。
「ああぁ――!」
 渾身の力をふりしぼり、巧真は立ち上がった。勢いに乗って、男に飛びかかる。
 男と一緒に地面に転がり、急いでそこから離れようとする――が、巧真の足は思うように動かなかった。
「あんたなんか消えちゃいなよ!」
 亜樹の声が響いた。男の身体が、亜樹と同じほのかな光に包まれる――と、男ががっしりと巧真の足を掴んできた。
「一緒に行こうぜ」
 不気味な笑みを張りつけ、男が誘ってくる。
 そこまでだった。まぶしい光が男を包んだかと思うと、次の瞬間、それは男ごと消え去った。巧真も、掴まれていた足首がなくなっている。
「巧真!」
 亜樹が、巧真のそばにしゃがみ込んだ。
 巧真は苦笑し、彼女に目を向けた。
「もう浮かぶ力もないんだ」
 亜樹の目から涙があふれ出た。
「俺も行くよ。――大丈夫。また亜樹に何かあったら、必ず戻ってくるから。亜樹が俺を必要としてくれるなら――」
 何度も、亜樹が頭を振った。
「だめよっ。お願い、行かないで」
 懇願してくる亜樹に、巧真は微笑を返した。
「この世界にいるの、結構疲れるんだ。だからさ……。大丈夫だって。俺を信じろよ」
 巧真は上半身を起こした。亜樹の唇に、そっと自分の唇を重ねる。
 つむった亜樹の目から、まだ涙は流れ続けていた。
(俺が守ってやる。ずっと――)
 巧真は、自分の身体がなにか暖かいものに包まれるのを感じた。すぐ前に見える亜樹の顔が、段々と透明になっていく。
 亜樹に名を呼ばれながら、巧真はその世界から姿を消した。


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