「 ラディカル・エッジ 」  
 著作 あんでぃ


 仕事が終わって、僕はある女性と待ち合わせをしていた。
時刻は既に七時を少しまわった所で、本当ならもう彼女と会っていなければならな
い時刻であった。だが僕は、まだ満員電車に揺られていた。
 その時、不意に携帯電話の呼び出し音がポケットの中から響いた。
「今、どこ〜?」
電話の主は機嫌が悪そうだ。
「電車の中だけど」
「今、何時だと思ってるのかなぁ〜?」
「ごめん、もう二十分位で着くから」
こういう場合は、先にあやまるに限る。
「え〜まだ二十分もかかるの〜」
「会社を出ようと思ったら、上司に呼び止められたんだよ」
「も〜、初めて会うのに遅刻する? 普通」
「仕方ないじゃないか」
「あっ開き直るワケ〜最低!!」
「そ、そんなつもりじゃないって」
「じゃあ、私の事愛してるって言って」
「なんで、そうなるんだよ?」
「いいじゃない〜言ってくれなきゃ、私帰る」
「そ、そんな事いうなよ、今日外泊するのにウソまでついて出てきたんだから」
「じゃあ、言ってよ。いますぐ」
「……だって、ここ電車の中なんだぜ」
「はやくぅ〜」
僕は完全に香織のペースにはまっている。まぁ、いつもの事なんだが……。
「なぁ香織、後でいっぱい言ってやるからさ〜」
「じゃあ帰る。サヨナラ〜」
「わ、わかった。言うから……」
「はやくぅ〜」
「……愛してるよ」
「ふふっ恥ずかしぃ〜そこ電車の中でしょ」
「お前が言わしたんじゃないか!」
僕は、前身が火照ってくるのがわかった。
「ふふっ、とにかく早く来てよ。ロビー横の喫茶店でお茶飲んでるから」
「分かったよ」
電話を切ると、隣に立っていた女性が笑っていた。妻も知らないこの電話番号。知って
いるのは香織という名の女性ただ一人。僕は今晩初めて会う女性と、一夜を過ごそうと
していた。今日は3回目の結婚記念日だというのに……。


 僕がこの香織と言う名の女性に知りあったのは、二ヶ月程前だった。ネット上にある
不倫専用掲示板の書き込みを通じてであった。この掲示板は高い入会金を払って会員登
録せねば書き込みが出来ないシステムになっている。それ故、遊び半分の相手募集とい
うよりも、真剣に不倫相手を探す格好の場所となっていた。
 僕は、掲示板では『直人』と名乗り、香織と知りあった。香織と言う名の女性は、妻
に無い魅力を持っていた。妻は思ってる事の半分も口に出さないので、僕は妻が何を考
えているのか分からなくなる時があった。その点香織は、言いたい事をストレートにハッ
キリと言った。感情に任せる言動は、たまに僕を困らせる事もあったが、香織の気持ち
が素直に伝わってくるので、妻よりも近い存在として感じる様になっていった。
 二人の秘密の関係はネット上だけでは収まり切らず、ついには現実の世界でも秘密の
携帯電話を持つ様になっていった。はじめは、イヤがっていた香織だが、今では香織の
方が、僕の秘密の携帯電話を呼び出す方が多くなっていた。
 
 今日外泊しようと言い出したのも、香織の方からだった。昨日の夕方、突然の携帯
電話への連絡が事の始まりだった。

「明日の金曜日会わない?」
 むろん断る理由なんか見当たらなかったのだが、以前に一度、会う約束をすっぽかさ
れた経験が僕を用心深くさせた。
「絶対に来るって言うんだったら行くよ」
「あぁ〜この前すっぽかした事、まだ根に持ってるわけ〜イヤな性格」
「だって、あの時は三時間も待ってたんだぜ」
「あら〜ぁ?そうだったかしら、ふふっ」
まったく反省の色の見えない香織だったが、それが魅力と言えば魅力だなと思った。
「じゃあ、待ち合わせはリガールホテルにしようか」
「どうして、ホテルな訳?」
「深い意味はないよ、別に」
「ふふっ、深い意味ね〜」
「なんだよ〜」
「別に……奥さん大丈夫ぅ〜」
誘ったのは彼女の方では無いかと思ったのだが、
「大丈夫、適当にウソつくから。それに妻は僕の言うこと疑わないから」
「ふ〜ん、じゃあ待ってるわ」
「たぶん七時頃には行けると思うよ」
「それとさあ、さっき電話したでしょ?何か用でもあったの」
「なんで分かったんだ?」
「私の携帯電話の液晶画面に、あなたの番号が表示されていたのよ」
「ふ〜ん、最近はそんな事もしてくれるんだ」
「でも、あなたしかこの携帯にかける人いないから、役に立つ機能じゃ無いケド」
「そりゃ、そうだな」
「それじゃあ明日、待ってるから。奥さんによろしく〜バイバイ」
冗談とも本気ともつかない言葉を残して香織は電話を切った。
 それから家に着くまでの短い時間の中で、僕は必死に外泊の為のウソを考えていた。
そして玄関の扉を開ける時、左手の薬指に光るモノを見て大事な事を思いだした。
「明日って、結婚記念日じゃないか……」
僕は--いまさら後には引けないよなぁ--っと指輪に向かって呟いた。

 
「ただいま」
「おかえりなさい、あなた」
妻が僕を出迎えてくれた。僕は必死で考えた割には、安易なウソしかつけなかった。
「亜紀、明日の金曜なんだけど、出張に行く事になったんだ」
亜紀と言うのが、僕の妻の名前である。
「何処に行くの?」
「大阪まで。仕事が終わってから、新幹線で上司と一緒に行くんだ」
「じゃあ、着替えが要るのね」
「あぁ、頼むよ」
「わかったわ」
とりあえず怪しまれなかった事に、ほっとした。しかしもう一つ言って置かなければな
らない事があった。
「それと亜紀……」
「なに?」
「明日、結婚記念日なのに一緒に過ごせなくて、すまんな」
その瞬間、彼女の瞳が突き刺さる鋭利な刃物の様に僕を捕らえた。おもわず顔を逸ら
してしまう。僕は一瞬二人の間に流れた、冷たくも切れるような重圧を払いのけようと
したのだが、言葉が出てこなかった。
「仕事だから、しょうが無いでしょ」
「……」
恐る恐る、亜紀の方を振り変えると、先程感じた視線は感じられなくなっていた。それ
どころか、僅かだが微笑んでいる様にさえ思えた。
「……す、すまんな」
微笑みにつられ、なんとか言葉を発する事ができた。
「そんなに気にしないで、結婚記念日は毎年来るんだから」
「あぁ」
「さきご飯にします?それとも、御風呂?」
「ご飯、食べるよ」
「はい」
 そう言ってリビングへと向かう亜紀は、僕のウソを信じ込んでいた様だった。先程感
じた亜紀の視線は、見間違いだったのだと僕は自分に言い聞かせた。


 僕はようやく香織との待ち合わせ場所である--リガール・ホテル--へ到着した。時
間は七時四十分を過ぎていた。
 まずは深呼吸をして『僕は直人なんだ』と言い聞かせた。そしてロビー横にある喫茶
店へ入る前に、僕は香織の携帯電話にダイヤルした。
「もし、もし」
「香織、直人だけど。いま着いたよ」
「なにが『あと二十分』よ」
「すまん。いま喫茶店に居るんだろ?」
「ふふっ、まあね」
「で、何処に座ってるんだ?」
「一番奥の窓側よ、サングラスを掛けて煙草を吸ってるわ」
「じゃあ、今からそこに行くよ」
「ふふっ、待ってるわ……」
電話を切って、喫茶店の入り口に向かって歩いて行く。鼓動が早くなり、緊張で体中が
熱くなっていった。
 喫茶店に入って、指定された場所を見た瞬間……僕は言葉を失った。

 香織が指定した場所には、サングラスを掛けた中年の男性が煙草をふかしていた。

--まさかあの禿げオヤジが、香織??--
そんな、ハズはない。現に携帯電話で話していた声は、間違いなく女性のモノだった。

 しばらくぼう然と、喫茶店の入り口で立ちすくんでいた。
突きつけられた現実を、どう理解すればいいのか困惑している時、僕は不意に声を掛け
られた。
「島様でいらっしゃいますか?」
「え?」
振り返ると、そこにはウェートレスが立っていた。
「島直人様でいらっしゃいますか?」
「えぇ」
「お連れ様から内線が入っております」
「内線?僕に?」
「はい、そうです。こちらへどうぞ」
少し声が引きつっているのが、自分でも分かった。電話が手渡されて、
「501号室の方からで、ございます」
501号室? 内線? 僕を惑わせる言葉が、次々と発せられた。とりあえず僕は、電
話に出ることにした。

「もしもし」
「あ、直人?」
電話口から聞こえる声に、僕は安堵のため息をついた。
「びっくりした?」
「びっくりするもなにも、何なんだよ一体?」
「ふふっ、遅刻したバツよ」
「……タチが悪いよ、全く……」
「ふふっ」
「それより、どこにいるんだ?」
「ふふっ……501号室よ。とにかく、こっちに来てよ」
「喫茶店に居るんじゃ無かったのか?」
「こっちの方が、都合いいでしょ。ふふっ」
「ま、まぁな」
「イヤなら、別に来なくてもいいわよ」
「い、今から行くから」
「ふふっ、じゃあ待ってるから上がって来て」
彼女の声の後ろで、何故か水の流れる音がしていた。

 エレベータで五階に降り立った僕は、もう一度、携帯電話で香織を呼び出す事にした。
 もし指定された部屋にいるのが香織本人なら、その部屋の中で呼び出し音が響いて
いるはずだ。たとえ彼女が電話を取ったとしても、 本人を目の前にするまで、電話を
切らなければいいだけなんだから……。先程の喫茶店での件もあるし用心するに越した事
は無いと、僕は思ったのだ。
 自分の携帯電話が、香織を呼びだしているのを確認して--501--と書かれた部屋の
ドアをノックした。……少し間があって、物音がした。
「はい」
低い声がする。だが明らかに、女性のモノには間違いない。
携帯電話でしか話したことが無いから、これが本人のモノかどうか確認するには決定力
不足であった。
「香織、遅くなってすまん、僕だ」
本人であるハズの女性に--香織--と始めて声を掛けた。
「だれ?」
「僕だ、直人だ」
僕は、周りを見渡し言葉を続けた。
「早く入れてくれないか?人に見られちゃまずいだろ」
「ごめんチョット待ってて。いまシャワー浴びてたから、なにも着てないの」
先程の水の音は、シャワーの音だったのか。ドアに耳をつけ、よく部屋の中の音を聞い
てみると、かすかだが携帯電話の呼び出し音が響いていた。僕は意を決して声を掛けた。
「そのままでも、いいから開けてくれないか?」
「ふふっ、バカ」
内側からドアのロックが解除される音がした。
 
 僕の目の前にある、扉が開かれていく。体内の温度が急激に上昇していくのが判った。
この扉が開けば、僕はホントの意味で妻を裏切ってしまう。そう考えると、ますます鼓
動が激しくなった。そして僕は扉がすべて開く前に、自分の体を501号室の中へねじ
込んだ。
 
 驚いた事に、部屋の中は真っ暗だった。呼び出し音が部屋に響いている--間違いない、
ココにいる女性は香織本人だ--僕は確信した。
「香織どこだ?電気つけてくれないか?」
目がまだ暗やみに慣れてないので何も見えなかった。不意に僕は、背後から声をかけられ
た。
「ダ〜メ、私なにも着てないから」
「か、香織そんな所にいたのか? 」
と言いながら、声のする方を振り返った。

--その瞬間--
僕は、自分の喉元を冷く、薄いモノがすり抜けるのを感じた。
「あなた……」

--あ・な・た?-- 聞きなれた声がした瞬間、僕は喉元に急激な熱さを感じた。
不意に部屋の電気がつけられ、僕は目の前に居る女性の姿を、始めて確認することがで
きた。
「なっ、どつどうしておまえが……」
言葉の後半が正確に発せられなかったのは、喉元から熱い液体が流れでている為だった。
僕は立っている事を苦痛に感じはじめ、遂にその場に崩れ落ちた。
「……」
呼吸をするたびに、喉元が笛を吹いた様な音をたてる。もう僕には声を出す事なんて
でき無くなっていた。

「これ、新しく買ったのよ、あなた知らなかったでしょ……」

 目の前に出された携帯電話は、呼び出し音を響かせながら、僕の秘密の番号を表示
していた。この世で、たった二人しか知らない秘密の番号を……。

 薄れ行く意識の中で、僕は亜紀が昨日のあの時と同じ瞳をしている事に気付いた。

「私、香織って名乗ってたの……ネットではね、ふふっ……」


----そして僕は、人生最後の結婚記念日を妻と一緒に迎えた。

                                    おわり


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