小浜治巳「石語り」

「これが御神体ですわ」
黒い岩肌に手をついて、及川老人は私に笑いかけた。
「父が生きていた頃は、収穫の時期に家族で山に登って、ここに御神酒を捧げたりしたもんですがな。いろんな行事が徐々に廃れてしまって、今はわしら年寄りが時々掃除に来てみるぐらいですわ。もっとも、こうして注連縄(しめなわ)が張られていなければ、誰もただの岩としか思わんでしょうなあ。注連縄あっての御神体……いやいや、これは罰当たりなことを言ってしまった」
笑うとできる深い皺が、彼の七十二歳という年齢を窺わせる。
もっとも、その声や表情は生気に溢れていて、先月四十歳になったばかりの私より、むしろ壮健そうなくらいだ。
「土地を歩く」という紀行雑誌に載せる古仏の撮影のため、私はこの山を望むY村を訪れた。七日滞在の予定で各所を巡ったが、仕事が早めに仕上がり、時間に余裕ができたので、「他にどこか古い信仰を思わせる場所があったら教えて欲しい」と旅館の主人に聞いたところ、
「地元のことに詳しいっていやあ、及川さんだろう」
と、近くに住む彼を紹介してくれた。
 私は当初、場所を教えてもらって一人で行くつもりだったのだが、突然に訪ねて行った私を及川老人はなぜか気に入ってくれたらしく、散歩がてらに一緒に歩きましょうということになった。そして彼に案内してもらい、一時間ほど急な坂道を登って、御神体のある場所へとたどり着いたわけである。
 及川老人は、細身で小柄な人ながら、大した健脚の持ち主だった。
軽々と登っていく足取りは危なげがなく、今も呼吸ひとつ乱していない。背筋も綺麗に伸びている。カメラを抱え、前屈みになってゼイゼイと息を切らしている私とは大違いだ。
足と体力には自信がある、と人前で言うのは、今後は控えたほうがいいかもしれない。
「御神体に、昔ながらの呼び名というのはあるのですか?」
まだ動悸の治まっていない胸を抑え、私は尋ねた。
正直に言えば、その「御神体」なる岩は、そう興味を引かれる被写体ではなかった。幾本か白い横筋が入っている以外、これといって特徴のない不恰好な岩で、高さは一メートルほど。胴回りは子ども二人が両手を伸ばして届く程度。所々に茶色い苔がついて枯れた風情を醸しているが、いまひとつ魅力に欠けている。
むしろ、岩の後ろで無骨な枝を伸ばしている老木……たぶん、山桜だろう……のほうが、永い年月を思わせて、何とも言えない趣があった。
花芽はまだ出ていないようだが、あとひと月もして花が咲けば、まずまずの絵になりそうだ。が、そう言ってしまっては、せっかく案内してくれた及川老人に申し訳がない。
そんなわけで、何気なく聞いてみたのだが、及川老人は首をかしげて考え込んだ。
「名前ねえ。父もただ山神さんと呼んでおったし、聞いたことがありませんなあ」
「そうですか」
「ああ、しかし……」
ふと、彼の表情が変わった。
「及川さん?」
私が不審に思って声をかけるまで、彼は岩肌を見つめていた。私がいることを忘れていた、とでもいうように肩を上げて私を振り返り、照れた笑いを浮かべる。
「いや、すみません。ちょっと昔のことを思い出しましてな。この御神体のことを、勝手に石長比売(いわながひめ)と呼んでいた友人がいたんですわ」
「いわながひめ……。『古事記』に出てくる、石長比売、ですか?」
「そうそう。お若いのによくご存知ですな」
嬉しそうに及川老人は頷いた。若い、と言われて私は少し赤面する。確かに彼から見れば、私は子どものようなものなのだろう。私が五歳の頃に死んだ父も、生きていれば彼ぐらいの年になっていたはずだ。
「この岩が石長比売、そして、その」
と、及川老人は、先ほどの老木を指差した。
「桜の木が、木花佐久夜毘売(このはなさくやひめ)と。そんなふうに呼んでおりましたな。なかなか面白いでしょう」
なるほど、と私は岩と老桜とを見比べた。
日本最古の歴史書である『古事記』では、様々な婚姻神話が語られている。
「石長比売」「木花佐久夜毘売」という二人の姉妹の話も、そうした婚姻の物語だ。
地上に降臨した神、邇邇芸命(ににぎのみこと)は、美しい乙女「木花佐久夜毘売」と出会い、求婚する。乙女の父親はこの縁談に大変喜んで、乙女の姉「石長比売」も、共に妻となるよう、邇邇芸命のもとへと送ったのだが、邇邇芸命は「石長比売」が醜女であったために、彼女だけを送り返してしまうのだ。父親はこれを嘆いて、「私は命(みこと)の御子が木の花のように栄えるようにと木花佐久夜毘売を送り、御子の寿命が石のように永久であるようと石長比売を送りました。それなのに、貴方は木花佐久夜毘売だけを娶(めと)られた。だから御子の寿命は、木の花のようにもろく、はかないことでしょう」と言う。御子の寿命は短くなってしまったのはそうしたわけである……というオチのつく、寿命にまつわる物語でもある。
私の妻には「男って今も昔も女の外見に左右されやすいのよね」で片付けられてしまっているが、石長比売(岩)と木花佐久夜毘売(桜)に「永遠と有限」を重ね、それを姉妹としたところが興味深い。もちろん、私も男として木花佐久夜毘売に憧れる気持ちもあるし、美しい彼女だけを娶った邇邇芸命の気持ちもわからなくはないが。
「そのご友人というのは、及川さんのように郷土のご研究をされている方なのですか?」
「いやいや。ここで一緒に遊んだのは十一、二歳の頃のことで、今はどこで何をしているのやら……。生きているのかどうかもわからんですわ。離れ離れになるまでは、毎日のようにこの山を探検して回ったもんですがな」
及川老人はまだ花芽も出ていない桜の枝を、懐かしむように見上げた。
「小畠さん」
突然名前を呼ばれて、私は少し驚いた。
「はい?」
「テレビなどで、よく『るぽらいたー』というのが殺人事件を解決する話をやっておりますでしょう。あなたもそういったことに興味がおありですか」
「は? はあ。私はルポライターではなくてカメラマンですが……。推理小説などで犯人を当てたりするのは好きですね」
唐突な話題に戸惑いながら、そう言えば、美人カメラマンが探偵役のドラマもあったな、などと頭の隅で考える。
「それをちょっと、ここでやってみやしませんか」
「は?」
「この近くに、もしかしたら死体が埋められているかもしれんのですわ」
言って、及川老人は悪戯っぽい笑顔で私を見た。
私は話の内容にあ然としながらも、その表情を見て、この老人は私とゲームをしようとしているのだと判断した。
ここまで登ってくるまでの道すがら、家族や仕事の話しをして、及川老人が意外にユニークな人だということはわかっている。たぶん彼は、私がこの場所にあまり興味を引かれていないことを察して、ちょっとした趣向を思いついたのだろう。
「いいでしょう。受けて立ちます」
「ふふ。まあ、そう肩に力を入れないで聞いてください。少し前置きが長くなりますから」
及川老人は「どっこいしょ」と言って、近くにあった石に腰をおろした。
私もそれに従って、彼と岩とに向かい合うようにして座りこむ。
腕時計をみると午後二時を少し過ぎたところで、陽はまだ高い位置にあった。木立に囲まれているためか、射し込む光はごくやさしい。
座った石の感触は硬く、ひんやりとしていた。
「先ほど話した友人……仲間内ではハクと呼ばれておりましてな。まあ、博学の「ハク」からついたあだ名だったのですが、とにかく本を読むのが好きで、いろんなことを知っておる少年でした。『古事記』もほとんど暗記していて、わしらにもわかるように、面白おかしく話してくれたりもしましたわ。そのハクと、ハクの後をいつもくっ付いて歩く年下の少年……まあ、仮に名前をトオルとしておきましょうか……その二人が、あの頃のわしの一番の友達でした」
及川老人は腰を屈めて、近くに転がっていた小さな石をひとつ拾い上げた。
「仲間七、八人で、よく、この石長比売と木花佐久夜毘売の前に来ましてな。そこで時々、ハクの作ったホラ話を聞くのがわしらの楽しみでした。ハクは頭の回転の早い子で、その辺に落ちている石をこうして拾っては、その形からぱっと物語を思いつくのですわ。石に変えられた蛙の話だったり、落武者が落とした無念の涙の話だったり……。トオルは半ば本気にして聞いていて、ハクが話し終ると、その石を大事そうに持ち帰っていきましたよ。トオルの家は貧しくて、本など持っていませんでしたからな。それに字もろくに読めない。トオルはきっと、ハクの話す物語が、わし以上に好きだったと思います」
彼のゆったりした話し方を聞きながら、私はここで笑い合う子どもの声を想像してみた。手振り身振りを加えながら話すハクという少年。その手には小さな石が乗っている。それを、目を輝かせて見つめる仲間達。春には満開の「木花佐久夜毘売」の下で……。
(あれ?)
一瞬、何かのイメージが重なって、私は奇妙な気持ちになった。
既視感、というやつだろうか。そのイメージを思い出そうとしたが、うまくいかない。
「そのトオルが、ある日突然、両親ともども失踪してしまいましてな」
ふう、と及川老人が息を吐いた。
「あの時は驚きましたよ。いつものように顔を見せないと思ったら、大人たちが失踪だ夜逃げだと騒いでいる。小さな村のことですからな。トオルの父親はここでは有名な飲んだくれで、借金に相当困っていることも、みんな知っておりました。その取立てから逃げたのだとか、そんな夫に愛想をつかして、母親が若い男と駆け落ちをしたのだとか……まあ、好き勝手なことを言われていましたな。
ハクはトオルを弟のように可愛がっておりましたから、よほど心配しているだろうと思ったのですが、わしが『トオルはどこに行ったんだろう』と言えば、怒ったように『考えたって仕方ない』と言うだけで、まるで相手にならんのです。これには驚きましたし、腹が立ちました。もっとも、あの時にわしがトオルのために出来たことなど、何もありはしなかったのですがな」
及川老人の手の中で、小石がころころと転がった。
「わしは、ハクがその時、一人で秘密を抱え込んでいるとは思ってもみんかったのです。ただ、ハクの様子がいつもと違うなとは感じておりました。何だかんだと別のことをやろうと言って、妙にこの山に登ろうとせんのです。まあ、他に遊び場はいくらでもありましたからな。わしも他の仲間も、トオルがいないことを何となく意識しながら、いつも通りに過ごしていました。そのうちに冬になり、雪が降って、村も山も真っ白になり……春、この樹が満開になる季節になったのです」
私は先ほどのイメージを気にしながら、彼の視線が老木に向けられるのを見て、自分もその枝へと顔を向けた。
「父が山神さんのところに花見に行こうと言い出して、わしはそれにハクを誘いました。ハクは最初ためらっておりましたが、家族や近所の人もいくと聞いて、ようやく一緒に行くと言ってくれました。わしらにとっては実に四ヶ月ぶりの登山で、わしは久しぶりにハクが作った物語が聞けることを期待しておったのです。
木花佐久夜毘売は見事に咲いておりました。殺風景な場所が、この時ばかりは華やかな雰囲気になりましてな。酒も入って、皆、楽しげに歓談し始めました。ただハクだけは、落ち着かない様子で辺りを歩き回って、彼らしくない難しい顔をしているのです。わしはハクに石を拾って渡し、作り語をしてくれるようにとせがみました。ですが、ハクは、よけいに難しい顔になって、渡された石をじっと見ているだけなのです。しかも、急に屈みこんだと思ったら、あちこちと動き回り、小石を拾っみては放り投げる……。わしはハクが話を作り始めるのかと思って、しばらくその様子を見ていましたが、だんだん腹が立ってきて、もういいと背中を向けてしまいました。大人達のほうに戻る途中、一回だけハクを振り返えったのですが、その時、ハクは泣き出しそうな顔で私を見ておりました」
及川老人は言葉を止めて、私のほうに顔を戻した。また照れ臭そうに笑って、禿げ上がった頭を片手でなでる。
「わしはハクと違って、あまり話すのは得意ではないのですわ。退屈させておりますかな」
「いえ、そんな」
私は本心から首を横に振った。ここで話をやめられてしまったら、それこそ欲求不満になってしまう。それに、桜というキーワードが、私の記憶の何かにつながりそうな気がしてならなかった。
「それで、ハクはどうしたのですか? 秘密を抱えていたというのは、もしかして、トオル君が、その、亡くなってこの山に……」
「いやいや、それは絶対に違いますよ」
私の早急な推測を、慌てたように及川老人は否定した。
「ハクがどんな秘密を抱えていたのかは、実のところ、わしにもわからんのです。ですから、小畠さんにも一緒に考えていただこうかと。……おっと、まだ話が途中でしたな」
及川老人は座る位置をもぞもぞとずらした。
「その花見の後、ハクの袖(そで)は重そうに膨らんでいました。中には、まず間違いなく小石がたくさん入っていたのだと思います。その日は、家に帰るまでお互いに一言も口をききませんでした。……まあ、ちょっとした喧嘩なんぞ、わしらの間では当たり前でしたからな。気がつけば喧嘩のことなど忘れて、遊んでいる。その時もたぶんそうだったと思います。
そうして、翌年、あの戦争が始まりました。神風が吹いて日本は勝つ。そんなことを本気で口にする時代の到来ですわ。ハクは父親の都合で、村を離れていくことになりました。わしは嫌でしたよ。トオルについで、ハクまでがいなくなってしまう。男子は泣かない、などと言われても、お別れの日にはこう、泣くのを我慢して喉が痛くなってきて、言いたいことも上手く言えませんでしたわ。ハクも何も言いませんでした。ただ、お互いに肩を叩いて別れましたわ。精一杯の大人の真似事ですな」
及川老人はちょっと笑った。
「それから数年のことは、日本中で起こっていたことが、この村でも起こっていたというだけで、話す必要もないことばかりです。空襲のことも、わしらにはどこか遠い話で、召集されていった大人が死ぬということも、本気で考えてはいなかった。竹槍の練習だ、勤労奉仕だとかり出されて、あの奇妙な熱気ばかりを感じておりましたわ。
敗戦も間近なある日、この村にも爆弾が落とされましてな。空襲というより、邪魔になって捨てていったということらしいのですが、これに巻き込まれた男の子が一人、死にました。大騒ぎになりましたよ。わしはその現場を見たわけではありませんが、顔見知りの子どもだったので、知らされた時には言葉もありませんでした。自分よりずっと小さな子が、理由もなく殺されてしまった。その時、ふいにトオルのことを思い出したんですわ。あの小さかったトオルは生きているのだろうか、と。
同時に、ハクと別れた日のことも思い出しました。トオルとハク……二人のことを思い出した途端、たまらなくこの場所に来たくなりました。この御神体の前まで汗だくになって走って、小石を拾いました。自分でもよくわからんのですが、涙がぼろぼろと出てきましてな。ひとしきり泣いてから、手の中の石を見て、おやと思ったのです。見覚えのある、おかしな色と形の石だったのですわ」
及川老人は、今持っている小石がそれであるかのように、じっと手の中を見つめた。
「間違いなく、ハクの作り話に使われた小石だと思いました。もう何年も前のことなのに、その形から、話の内容もちゃんと思い出せましてな。しかし、あの小石はトオルが大事に持ち帰っていったはずで、ここにあるはずはないのです。そう思ってから、花見の時のハクの様子を思い出しました。そして、あの時ハクが拾い集めていたのはこれだったのだと、直感したのです」
その声を聞きながら、私もまた、記憶の不思議に直面していた。ついさっきまで忘れていたことが、何かのきっかけで鮮やかに蘇る……。ずっと昔に及川少年に起こったことが、私にも今起こっていた。思い出したのだ。「桜」と、それからもう一つ、「石」がキーワードとなる懐かしい光景を。
「トオルが持っているはずの小石がこの場所にたくさん落ちていた。ハクは、そのわけを知っていて、なぜか小石を隠そうとしていた……。わしは考えました。突然にいなくなってしまったトオルとその両親に、この小石がどう関わってくるのか、ハクは何を隠そうとしていたのか……。先ほど小畠さんが言われた最悪の事態も考えましたよ。でも、トオルがここで殺されてしまうようなことがあったなら、ハクがそれを知っていて、誰にも言わないでいるのは絶対におかしい。結局、思いついたのは、ハクはトオルを守ろうとしていたのではないか、ということでした」
私は思わず、そうか、と声をもらしていた。
「失踪の前、トオル君はその場所にいた。それがわかってはトオル君も困る何かを、ハクは、いえ、ハク君は……知っていたのですね」
「ええ。たぶん、そうだと思うのです」
及川老人は頷いた。
「ハクの住んでいた家はこの山の登り口近くにありました。これはあくまで憶測にすぎんのですが、トオルの失踪の前の晩、その原因となるような何かを、ハクは目撃していたのではないかと思うのです。そして、それは小さなトオルにとっても、罪に問われる類いの出来事だったのではないかと」
飲んだくれだったというトオルの父親。彼がトオルの母親を殺したのか、あるいはその逆なのか、あるいは噂にあったという若い男が関わっていたのか。いや、もしかしたら殺人事件などではなく、何かの事故だったのかもしれない。
いずれにしても、想像できることは、単純に正当化してよいことではなかった。
ここには、ハク以外には知られることのなかった罪が隠されて、それを隠したハクの罪もまた、隠されている……。でも、それを語りながら、及川老人の穏やかな表情は変わることがない。
「すべては、憶測ですわ」
及川老人はそう言って、再び「どっこいしょ」と立ち上がった。
「今お話ししたことには、何の証拠もありません。トオルの失踪と、ハクの奇妙な行動に、わしが勝手な解釈をつけただけなのかもしれんのですわ。そもそも、見覚えのある石が落ちている、などと気づく者がそういると思いますか。たかが小さな石なんですよ。わしがそんな憶測を立てるようになったのは偶然からで、戦争で身近な人間が殺されたという衝撃から、ぽんと飛び出した夢想にすぎんかもしれんのです。ハクが何かをわしに隠していたとしても、それはそれで良いとも思うのですわ」
あまり肌寒さを感じさせない風が頬をなでていった。
及川老人は持っていた石をそっと地面に置いた。
「どうですかな、小畠さん。すべて事実は闇の中、というわけですが、あなたはどんな推理をされますか」
「私は……」
父の顔を私は思い出していた。
満開の桜を見上げていた父。その片手には幼い私を抱き上げていて、もう一方の手には、なぜか、小さな石が握られている。桜と石。よく覚えてはいないが、父はいつも何か物語を私に話してくれていたように思う。実際、小説家になりたかったと言っていたと、母から聞いたこともあった。
ハクという人物が、私の父であるという可能性はあるのだろうか。
及川老人が初対面である私に親しみをみせてくれたのも、また、ハクのことを話してくれたのも、もしかしたら、私の顔が父に似ていたからではないだろうか。
違うかもしれない。だが、そう想像してみても良いような気がした。
次男である私は、妻と結婚して、姓が小畠に変わっている。旧姓を言って、ハクが父であるかどうかを及川老人に確かめてみることは容易いだろう。
「……私も、それはそれで良いと思います」
結局、私は父のことを言うのはやめて、そんな答え方をした。及川老人はただ、そうですか、と目を細めて笑った。
「あ、でも、ひとつだけ疑問が」
「ほう。何ですか」
及川老人は興味深そうに身を乗り出した。
「トオル君はなぜ、大事にしていた小石をわざわざここに置いていったのでしょうか。まだ小さかったから、証拠を残すことになるとか、そんなことはわからなかったかもしれませんが」
「言われてみれば、そうですな」
及川老人は何度も頷いた。
「これもまた、想像するしかありませんが……。トオルはここにハクの物語を置いていくべきだと考えたのかもしれませんな。どこへ行くともわからないこの先に、思い出を連れて歩くのは辛いと思ったのかもしれません。それとも、もしここに誰かが埋められているのなら、その人への手向けとなると思ったのか……。単に重かったから捨てたとは、できれば考えたくありませんがなあ……。いやまったく、想像するのはハクの専門で、わしにはちょっと難しいですわ」
照れた笑いを浮かべて、及川老人は御神体に手を置いた。
そうして、老木を見上げる。
石長比売と、木花佐久夜毘売と。
満開の季節には、あの無骨な枝がやわらかな花に覆われて、岩をそっと包み込むのだろう。消えない記憶を包む、あたたかい友情の思い出のように。
「及川さん、ここで記念に一枚撮らせていただけませんか」
「わしをですか?」
及川老人は目を瞬かせた。
「はい、是非に。写真を見ながら、妻にあなたのことを話したいのです」
「はは。そりゃまた照れますなあ。奥さんに見てもらえるのなら、男前に撮っていただかんと」
「そこはお任せください」
彼に岩の前に立ってもらい、私は後ろにさがって、カメラを構えた。
……お父さん。
及川老人の隣に、桜の枝を見上げている父の背中を見たように思った。そして、白く満開に咲き誇る、木花佐久夜毘売の姿を。
それは幻。あの岩のように、いつまでも消えずに残ることはないもの。
それでも、胸に刻まれた何かと一緒に、残せたのなら。
「撮りますよー」
私は美しい幻に向かって、シャッターを切った。
                                終

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