暢永イチロー「桜の木の下で……」

 寒さが急にすっ飛んだ、寝静まった夜だった。住宅街の小さな公園に若い二人が入っていった。髪を茶色く染めた、バイト帰りの男女だ。
 正面に見事な満開のサクラが4、5本あり、花見にお誂えの場所のベンチに腰掛けた。若者はこの公園に前から目をつけていた。入口は一個所で、奥が正面からは死角の小高い丘だ。さらにその先がコンクリ塀の行き止まりなので、不測の闖入者に面食らわずにすむ。死角が多く、夜中の密会には最適だった。
「サンクス、漸く見つかったね。俺、絶対ここのを食べたかったんだ」
「え? うっそおー」
「神田川俊郎の春爛漫二段重。さすが860円だけのことあり、だぜ。お品書きが入っているってえのが感動的だよなあ。赤魚の焼魚ゆず風味、菜の花の辛子和え、旬の竹の子煮、桜ご飯……。う、うぅぅ。もう、ケンちゃん感激!」
 こうして二人はワンカップ大関片手に酒盛りを始めた。
 飲むほどに次第に傍若無人な大声の談笑にふけり、桜など眼中になくなる。いいや、最初からそんなものはどうでも良かった。今年一番の青姦をするぞ! それが二人の目的だったから。
 でもその前に出すものを出しておくのが準備というものだった。彼はちょっと失礼、とトイレへ行った。トイレは死角の丘の向うだ。
 トイレの近くの、コンクリ塀の行き止まりの辺りにサクラが数本あった。1本は朽ちかけた老木。もう1本は苗木で、どちらも花を咲かせていない。日陰なので育ちが悪いのかもしれない。
 突然、奇妙な声に驚かされた。
「我が命も常にあらぬか、昔見し、さきの小川を行きて見むため」
「え?」
「さきの小川を行きて見むため!」酔っ払いによくあるが、聴き取りづらかったかもと、語尾に念を押すような言い方だった。
「おっさん、何者だ?」
「わしか? わしは梅の番をしとる者だ。名乗るほどの者ではないが、大伴旅人と申す」有名だから名乗らずにはいられない、といった自信たっぷりな調子だった。しかし若者の反応がなく、むっとした顔だ。
「大体な、桜見物だ? そんなものうわっついた世代の莫迦趣味じゃ。花といえば、昔っから梅。梅なんじゃ。梅こそ美学で、万葉集でも119首も詠まれておる。桜はわずか44首じゃ。女房装束の重ねの色目にしたって、「梅」「梅重」「一重梅」「紅梅重」「紅梅匂」…と梅の花と決まっとる。……それをまったく近頃の者は、……梅を蔑ろにしおって」
 酔った年寄りはおぼつかない目で桜を見た。
「ここの梅だって、誰にも顧みられず可哀想じゃ」
「え? これが梅だって? あんた、飲みすぎだよ」
 小声になって更につづけた。
「と言うか耄碌のせいか。あの世の間際まで近づいしまい、錯乱が始まったってところか」
「なに言っとる。お前さんこそ死相が顔にでておるぞ」
「あれ、聞こえちゃった?」
「このくっきりした白い花の咲く、大きな梅が目に入らんか? 満開の巨木が。それに今だって、こうして植えてるじゃないかい」
「梅? 梅だって?」若者は急にひゃっくりに襲われた。
「そう、こっちの古い方がワシみたいにヨボヨボだからね。取りあえず苗木を1本……」
 ひゃっくりが止まらない。若者の食道が持主の意志を無視して暴走していた。それは今まで未経験な激しいものだった。漠然とした不安を感じる。するうちに今までの経緯をすっかり忘れてしまった。そして不思議なことに、目の前の木が花盛りの梅だと悟るのだった。
「ふーん、ゴージャスだ。ここまでなるには大変だったろうなあ。この梅」若者はひゃっくりでつかえながら言い、老木をしげしげと見た。
「これは山上卿の歌会の時に植えた木だ。樹齢1300年、よくここまで育ったものだ。こっちの苗木もそれくらい待てば……」
 若者は身震いした。
「風邪かな?……それにしても1300年もか。すごい長生きだ。でも俺の知ったこっちゃないよね。とても生きちゃいられないもん。……その時は人も世の中も変わっているだろうなあ。宇宙旅行行ったり、ロボットが飯作ったりして……」
「いいや、案外ワシだけは変わっとらんかもしれんよ」老人はすっかり醒めた顔になった。
「それも良いさ。年寄はそれくらい元気でないとね」
 そして若者は頭上を見上げた。真剣な顔で首をかしげる。
「それにしても、ここの木、確かに梅だったっけか?」
 余りの遅さに少女が様子を見に来たとき、老人の姿はなかった。若者は朽ちた桜の木の下に倒れていた。すでに冷たくなっていた。
 若者は目を見開いていた。和んだ表情でその老木を見つめている。それが少女にはせめてもの慰めに思えた。彼が見えない花見をつづけているように思えたのだ。

※ 大伴旅人{天智4年(665) 〜 天平3年(731)}は酒好きの太宰府長官で万葉集に歌を載せている。

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