ヨッスィー「桜の少年」
序)
 桜の花びらは、静かに降る雪の様に、天から地へと降り注いでいた。花見の宴会客が発する周りの喧騒など、中根正広の耳には入って来なかった。ただ、心を空にして、その桜の花びらの切なさを感じ取っていた。
 1年に1度、正広はそうやって気持ちを切り替えて、また、明日からの激務に対する意欲を燃やすのである。それは、あの日以来、必ず行ってきた事だった。
「中根先生、こんな所にいらしたんですか。」
看護婦の永井の声が聞こえてきた。正広は、その声が耳を通り過ぎる直前で、現実に意識を戻す事ができた。
「永井さんか…。」
 正広は、声のした方をゆっくりと振り返った。そこには、看護服から私服に着替えた永井が立っていた。仲間の医者の間でも、一番人気が高いのが、この永井という看護婦だ。例外なく、正広もファンの一人である。
「花見の宴会場を抜け出して、一人で何をしていたんですか?」
永井は、正広の左隣に立つと、正広を見上げながら尋ねた。その愛くるしい姿に、正広は、一瞬、心臓が高鳴るのを感じた。だが、今は、色恋沙汰に溺れる気分では無かった。
「うん、ちょっとね…。」
 正広は、再び桜の花びらの舞いに目を移しながら、曖昧な返事を返した。
「301号室の佐藤さんの事、気になさっているんですか?」
 永井の言った301号室の佐藤さんとは、最近まで正広が担当していた患者さんの事である。つい先日、肺がんで亡くなったばかりだった。
 別に医者になって、担当した患者さんが死んでいくのは初めてでは無かった。力が及ばず、助けられなかった経験は何度もある。しかし、その度に、正広は自責の念にかられるのである。仲間の医者からは、患者の死にいちいち悲しむ正広は、甘いと笑われている。
「入院された時には、既に手遅れだったんです。先生のせいじゃありませんよ。」
永井が、正広を慰める様に言う。正広は、その言葉を優しく笑いながら聞いていた。
「ありがとう。」
「先生は、優しすぎます。いちいち患者さんの生き死にに反応していたら、やっていけませんよ。」
永井のその言葉は、正広を本当に心配している気持ちからのものだった。正広にも、それが分かった。
「そうだね。本当は、永井さんの言う通りなのかも知れない。」
 正広は、桜の木を見上げながら、しばらく考えてから答えた。
「でしたら…。」
「でも、立派な医者というのがそういうものなら、僕は立派な医者になりたくないな。」
「え…?」
永井は、意外な言葉に驚いた。
「救えなかった患者さんの死は悲しみたいと思う。
 じゃないと、患者さんを人として見るという事が出来なくなると思うから。」
 正広は、桜の木に華やかに咲き乱れる桜の花たちを、真っ直ぐに見ながら答えた。永井は、その視線の先に、別な何かがあるのに気が付いた。
「桜…。」
「え?」
今度は、正広が意外な質問に戸惑う番だった。
「桜がとても、お好きなんですね。」
「あ、ああ。桜には、思い出があるんだ…。」
 桜の木は満開だった。それは、短い花の命の間を、自分の存在を証明するために、精一杯に生きるかの様だった。その姿は、とても気高く美しいものに思える。
「良かったら、聞かせてもらえませんか?」
「え?」
「その思い出を…。」
「いいけど…ちょっと恥ずかしいな。」
正広は、顔を赤らめてうつむいたまま、頭を掻いた。
「ぜひ!」
「そう? それじゃ…。」
永井の熱意に負けて、正広は思い出を語りはじめた。

2)
 中根正広、14歳。ひきこもり歴1年とちょっと。
 正広は、別に自分が特別な人間だとは思っていない。ごく普通のありきたりな少年だと思っている。ひきこもりだって別にしたくてしているわけではなかった。現に、1年前までは普通に中学校にだって希望を持って通っていた。だが、そんな正広を変える事件が起きた。
「ねぇ、「らりるれろ」って言ってみて。」
 こんな事を正広は、小さい頃から言われ続けてきた。友達や親戚の子供から、からかうように言われ続けてきた。理由は簡単だ。うまく言えないから面白いのである。
 別に言語障害という事では無かった。正広が「ら」行を言うと、それは「がぎぐげご」と他人には聞こえるらしかった。ある時、その事に気づくと正広は、みんなの前で意識して「ら」行の言葉を言わなくなっていた。しかし、そうする事は、周りは面白がらせるだけであった。
 国語の時間の事だった。その日は、宿題で詩を暗記してきて朗読するという授業をやっていた。正広は昔から暗記が得意だった。長い文章でもすんなり頭に入ってきてしまい、人の何倍の速さで覚えてしまうのだ。だから、今回も、みんなが覚えきれない間に正広はスラスラと詩を朗読した。正広は、誰よりも早く詩を朗読できた事に得意になっていた。
「先生!」
その時、クラスのお調子者の子が手を挙げた。
「なんですか?」
「中根くんは、間違えてますよ。」
「どこがです?」
先生の返答に、その子はニヤリと悪戯な笑みを浮かべて答えた。
「だって、「らりるれろ」が言えてないです!」
 次の瞬間、クラス中が爆笑の渦に巻き込まれてた。他の子達も「そうだ、そうだ」とはやしたてる。先生が懸命に生徒たちを制止する声が、正広の耳に空しく聞こえていた。それ以来、正広は学校を休みがちになり、ある時、全く学校に行くのをプッツリとやめてしまった。
 正広は、別にイジメを受けたとは思っていない。あの時、笑っていたクラスの連中も、その後はいつも通りクラスメートと接していたし、特別に誰かに苛められていた訳でもなかった。ひきこもりの理由を「人との関わり合いが面倒くさくなった。」と正広は、母親に話した事がある。ひきこもりは、正広にできる唯一の自分を守る為の防衛手段であったのだ。
 よく正広のひきこもりを、母子家庭の性にする大人がいる。確かに、父親がいたらなにか変わっていたのかもしれない。でも、それは言ってもしょうがない事だし、別に母親を恨んだ事もなかった。
 卑屈になっている訳でも、精神的に病んでいる訳でもない。ただ「人との関わり合いが面倒くさくなった。」それだけで、正広は1年ちょっと、家にひきこもっている。正広は、そんな自分を、特別な人間だとは思っていない。
 
3)
 その日も正広は、いつもの公園に散歩に来ていた。午前10時から午後1時までは、同年代の子供は学校に行っていて、出会う心配も無いので正広の限られた外出時間なのだ。それでも用心をして隣の学区内にある公園にわざわざ来るようにしているのである。
 その公園は、広い敷地内にブランコや滑り台が点在して、ベンチがたくさんあった。そのベンチには、日向ぼっこをしに来た老人や仕事途中のサラリーマン、近所の主婦などが座っている。その中のひとつに正広は座って、時間まで本を読んだり、まわりをボーっと眺めたりしているのである。
 公園に来て1時間ほどたった時であろうか、携帯がメールを受信した事を知らせた。携帯は、仕事に出ている母親が、正広との連絡用に持たせてくれたものだ。だから、携帯の番号もメールアドレスも母親しか知らなかった。正広は、当然、母親だと思って、メールを開いた。
『こんにちは、木村孝也っていいます。
 友達になってくれませんか?』
 またか、と正広は思った。この手のメールは多いのだ。大抵は、相手が同姓だとわかると、もう返答はない。だから、正広はいつもの文章を送った。
『中居正広といいます、いいですよ。』
メールの名前は、名前の似ている有名な芸能人に変えている。このメールを送って返事が返ってきた試しがなかった。しかし、今回は違っていた。
『本当ですか!? 良かった。
 初めてです、OKしてもらえたの。』
正広はそのメールを見て驚いてしまった。まさか、こんな返事が返ってくるとは思わなかったからだ。正広は、慌ててメールを送った。
『僕は、14歳の男です。』
断りの意思を含んだそのメールを、メールの相手は、自己紹介と判断したみたいだった。だから、返って来たメールの内容はこうだった。
『わぁ、同い年なんて、偶然ですね。
 僕も14歳なんです。
 これから、よろしくお願いします!』
正広は、からかわれているのだと思った。大体、14歳ならこの時間は学校に行っている時間である。正広は、自分の事は棚に上げて、それを聞いてみた。
『学校は?
 今、授業中だろ?』
いささか、乱暴な内容のメールだと思ったが、からかているだろう相手に礼儀など必要ないと正広は思った。しかし、帰ってきた返事は予想外のものだった。
『学校は、この5年間行っていないんです。
 だから、友達が一人もいないんです。
 お願いです、本当に僕と友達になってくれませんか?』
正広は、メールの相手に親近感を感じたのと同時に、5年も学校に行っていないと言うこの木村孝也という少年に興味を覚え始めていた。

4)
 中根正広の母親の洋子は、ディスカウントストアでレジの仕事をしている。店の終わる時間が8時なので、帰りはいつも9時近くになるのだ。中根家の夕飯は、いつもその時間からはじまる。
「今日は何していたの?」
洋子と正広の会話は、いつもこの質問から始まる。洋子は、正広に無理に学校に行けとは言わなかった。洋子は、正広をどう扱ってよいか分からなくなっていた。だから、子供のしている事を理解する事で、何か変わるんじゃないかと思い、毎日この質問をするのだ。
「うん。いつもと同じ。」
正広は、おかずを取りながら、洋子の目を見ないで答えた。
「じゃあ、公園行って家でゲームをしていたのね。」
 洋子は、正広を見ながらそう言うと、ごはんを一口、口にした。下を向いたまま、黙々と食事を続ける正広を見ながら、洋子は、まだ当分、ひきこもりが続く事を感じていた。
「あ・・・。」
正広が、何か思いついた様だった。
「なに?」
息子のいつもとは違う反応に、洋子は何かを感じて聞き返した。
「友達が…できるかもしれない。」
 洋子は、正広の顔の角度が少しだけ上を向いていた気がした。しかし、それは洋子の気のせいだったのかも知れない。
 正広は、食事が終わると部屋に入り、ゲーム機の電源をつけた。しばらく、いつも通りにゲームをやっていたが、なぜかいつもより熱中できなかった。正広はゲームのコントローラーを放り出すと、近くに置いてあった携帯に手を伸ばした。
『今晩は。正広です。今、何やっているの?』
 正広は、メールを送ってから再びコントローラーを手にしてゲームを始めた。しかし、意識は、携帯の方に向いていた。正広は、返信メールがいつ返ってくるかと心待ちにした。だが、1時間たっても、2時間たっても返事は返ってこなかった。そのうち、正広はゲームに、いつも通りに集中していた。
 木村孝也からメールが届いたのは、次の日の同じ時間だった。いつものベンチに座り、11時を少し回った頃だった。メールの内容は、昨日の夜に正広が送ったメールの返事を返せなかった理由だった。
『昨夜は返事を返せなくて、ごめんなさい。
 僕、この時間しかメールができないんです。
また、メールします。』
正広は、孝也からメールが来た事がすごく嬉しくて、すぐに返事を返した。
『気にしていないよ。
 それより、友達なんだから敬語はやめようよ。』
 そのメールを送信してから、正広はその内容に赤面した。昨日あったばっかりの相手をもう「友達」と認める内容だったからだ。メールを介しての友達という近くて遠い距離感が、正広の気持ちを少し無防備にしていた。
『ありがとう!
 正広君は、今日も学校休みなの?』
正広は、一瞬考えた。そして、メールをこう打ち返した。
『ううん。実は、授業中なんだ。
 でも、大丈夫だよ。うまくやるから。』
 嘘がばれて嫌われても、そこでメールのやり取りを止めてしまえばいい、所詮、ただのメル友だという気持ちが正広に嘘をつかせた。だが、何故、嘘をついたのかは正広にも分からなかった。

5)
 正広と孝也のメールのやり取りが始まってから1ヶ月がたった。今では二人は、正広は孝也からマサと呼ばれ、反対に孝也は正広からタカと呼びあう程、仲の良い友達になっていた。そんなある日の事だった。
『サクラってキレイなの?』
いつものメールのやり取りのほんの一文だった。正広は、孝也に返事を送った。
『え? タカは、サクラを見た事ないの?
 学校の校庭のサクラ、とてもキレイだよ』
 正広は、孝也に未だに嘘をついていた。正確には、今さら打ち明けるのも格好が悪いと思っているのだ。だから、あえてタカの事も詮索をしなかった。相手がどんな相手でも構わなかった。お互いに、かけがえのない友達と思っているのだから。正広は、そう考えていた。
『うん、5年前までは見ていたらしいけど、すっかり記憶からなくなっちゃた。』
5年間、サクラを見れない生活…。正広は、改めて孝也の私生活を知りたくなった。しかし、相手の事を尋ねれば、自分の嘘もばれる事になる。だから、聞くのはやめた。
『そうなんだ。』
わざと平静にしようとした為に、返事は味気ないものになってしまった。正広は、自分の気持ちが見透かされるのを恐れて、続けて返事を送った。
『今ね、目の前にはたくさんのサクラが咲いているよ。』
それは、嘘ではなかった。正広のいる公園は、桜の花がきれいな事が有名で、もうそろそろすると、花見の客で休日は賑わうのだった。
『いいな。見てみたいな。』
 正広は、次の返事を送ろうかどうか迷った。なぜなら、ずっと我慢していた事を書いて送ろうと思ったのだ。今まで、二人とも不思議とその言葉を避けていた節がある。しかしこの一ヶ月間で、二人の友情は急速に深まっていった。だから、大丈夫なはずだ。正広はそう思い、メールをこう送る事にした。
『一緒にサクラを見に行こうよ!』
正広は、返事を待った。そして、しばらくしてから返事が返ってきた。しかし、その内容は、正広の期待を大きく裏切るものだった。
『ごめん。それは、出来ないよ。』
信じられない内容に、正広は気が遠くなる思いで、返事を急いで返した。
『どうして!?』
『ごめん。』
『ごめん、じゃ分からないよ!』
『本当に、ごめん。』
『もういい! タカなんか大嫌いだ!』
正広は、携帯を地面に投げ捨てた。まるで、そこに立っている孝也に怒りをぶつけているかの様である。
 それから、1週間、孝也からのメールは全く無かった。

6)
 時計の針は、午後9時を回っていた。中根家の夕食の時間である。
「今日は何していたの?」
洋子と正広のいつも会話だった。しかし、最近では、正広の反応は更に悪化していた。ご飯も食べずに部屋の中にいる時も多くなっていた。だから、洋子が、正広の顔を見るのは実に3日ぶりの事であった。
「公園行って家でゲームをしていたの?」
「・・・うん。」
消え入りそうな声で、正広は返事を返した。洋子は、息子がまだ言葉をしゃべれた事に変に安心してしまった。
 殆ど会話の無い食事が終わり、正広が自分の部屋に戻ろうとした時、洋子は急にとてつもない不安に襲われ、正広にあわてて声をかけた。
「正広、あなた将来はどうするつもりなの?」
しかし、正広はそれに答える事なく、2階の自分の部屋に上がってしまった。洋子は、肩をガックリ落とすと、深いため息をついた。
 自室に戻った正広は、ゲームの電源をつけるとゲームの世界に没頭した。こうしている事で嫌な事から全て逃れられるのだ。
 ゲームの世界は、自分を不快にさせない。不快ならば、止めるかリセットを押してしまえば良い。どうしても、解けないゲームなら、不満を言って中古ショップに売ってしまえば良いだけの事だ。ゲームは、最高の友達だった。
 その時、携帯の着信音が鳴った。正広は、急いで携帯を取った。まるで、すぐに取らなければ携帯がなくなってしまうかの様だった。だが、それは待ち望んだ孝也からのメールの着信を知らせる音では無く通常のコール音の方だった。表示板には、「コウシュウ」と映し出されていた。
「はい。どちらさまですか?」
返って来た声は、中年の女性の声だった。声の感じからいって正広の母親と大して歳の変わらない感じであった。当然、正広にそんな知り合いはいない。
「中居正広さんのお電話でしょうか?」
「!」
メールの偽名を言われて、正広は驚いた。そして、その女性の次の言葉は更に正広を驚かせる事になった。
「私、木村孝也の母親です。突然、お電話してごめんなさい。」
「え? タカのお母さん?」
 その次の日、洋子と正広は、郊外に建てられたある療養所を目指していた。後で知ったことなのだが、その療養所に来る病人は、もう命が長くない人ばかりなのだそうだ。
「孝也は、もう5年も前からそこに入院しているのです。」
正広の頭に、昨夜の孝也の母親の声が響いた。
 教えられた駅には、3本の電車を乗り継ぎ約2時間ほどで着いた。本当に東京都内かと思う程、緑や小高い丘に囲まれたのどかな場所だった。
「あ、ほら、あそこでしょ。」
 駅からタクシーに乗り、しばらくすると洋子が、目の前の小高い丘の上に立つ大きな療養所を指差しながら言った。その建物が、正広に監獄の様に見えたのは、孝也が5年もそこに閉じ込められている気がしたからだ。
「桜がない…。」
「え、なに?」
正広は、駅から療養所に辿り着くまでの間、桜が一本も咲いていないのに気がついた。
 正広たちは、建物の中に入ると、案内所で病室の場所を教えてもらい、真っ直ぐそこに向かった。病室に近づく度に、正広は胸が高鳴るのを感じていた。それは、期待と不安が入り混じった複雑な気分だった。
 エレベータを5階で降りると、そこは遮断された空間の様な気がした。1階のロビーまでは世間と通じていたが、ここはまるで別世界の様に、ひそりと静寂に包まれていた。正広たちは、薄暗い廊下を、教えられた方に歩いていった。
「ここよ。」
 洋子が、孝也の母親から教えられた病室の番号をメモした紙と、病室番号の札を見比べながら言った。正広は、逃げ出したくなる衝動をジッと我慢した。
 母親が、病室のドアをノックした。しばらくしてから、一人の女性が現れた。孝也の母親であろうその女性は、正広たちに会釈すると、扉を大きく開き「わざわざ遠くまですいません」といいながら、二人を中に招き入れた。
 病室の大きな窓からは、傾きかけた陽の光が差し込んできていた。その強く暖かい光に照らし出されてベッドに座っている少年の顔は影になっていた。
「いらっしゃたわよ。」
母親は、そういうと窓に近づき、カーテンを閉めた。そして、急に正広の目に、その少年の姿が飛び込んできた。
 正広が何より驚いたのは、今までに見た事のない程やせ衰えた手足の細さよりも、髪の毛が一本も生えていない少年の頭だった。
 少年は、少し照れた様に笑いながら、
「はじめまして…じゃないよね。木村孝也です。」
と挨拶をした。その声と姿は、命の灯火がもうすぐ消え去る人の声とは思えないほど、とても気高く美しいと正広は感じた。
「ようやく会えたね、マサ。」

7)
 病室には、正広と孝也の二人だけがいた。孝也の母親と正広の母親は、気を利かして部屋を出ていったのである。照れくさくて戸惑う二人だったが、先に孝也の方から口を開いてきた。
「驚いた?」
 孝也が不安そうに、正広に尋ねた。正広は、一瞬、首を縦に振ってしまいそうになり、慌てて左右に大きく振りなおした。
「いいよ。気にしないで。
 こんな姿を見れば誰だって驚くよね。」
そういいながら、孝也は頭を擦った。
「つい最近までは、髪の毛だってあったんだ。
 でも、薬の副作用とかで、今はこうなっちゃた。」
正広は、何も言えなかった。14歳の少年には対処のしようがない重い現実だった。
「メール送れなくなっちゃてごめんね。
 前は、中庭まで散歩に行けたんだ。だから、メールを送れたんだけど…。
 病室から出られなくなっちゃて、メールを送れなくなちゃったんだ。」
 孝也の言葉を聞きながら、正広は再び、昨夜の会話を思い出していた。正広が「嫌いだ!」と送ったメールを見て驚いた孝也は、急に心臓の発作が起こってしまった。幸い、大事に至らなかったものの、それ以来、安静状態が続いていた。また、その時に、母親から理由を問いただされて、仕方なく正広の事を話したのである。
 その後、病室から出られなくなってしまい、正広と連絡がとれないで落ち込んでいる孝也をみるに見かねて、母親がメールアドレスに使われている携帯番号に電話をしたのが今回の真相だった。
「ごめん、僕のせいで…。」
正広は、肩を揺らしながら小さく嗚咽しだした。
「泣かないで、マサのせいじゃないんだから!」
「違う…、違うよ。嬉しくて泣いているんだ。」
正広は、とめどなく流れる涙を拭きながら小さく呟いた。
「え?」
「良かった。僕、タカに嫌われたわけじゃなかったんだ。」
 ロビーの喫茶室で、二人の母親は、紙コップのコーヒーを手にしていた。大きなガラス越しに見える野山の緑は、不思議な安らぎを与えてくれる。
「お医者さんはなんと?」
「もって後1週間って言っていました。」
「お辛いでしょうね…。」
「いえ、もともと5年も生きていた方が奇跡に近いから。覚悟はずっとしてました。」
「そう。お強いんですね。」
「母親ですもの。」
「私は、駄目。正広にどう接していいかわからないわ。」
「大丈夫、正広君はいい子じゃないですか。」
「そうかしら…。」
「いつか立ち直ってくれますよ。」
「それならいいけど…。」
「信じる事も親の務めですよ。」
 病室には、笑い声が溢れていた。正広と孝也は、まるで昔からの友達の様に仲良く話していた。友情とは時間ではなく、二人の間にどれだけ密な時間が流れたのかという事なのだろう。
「こんなに楽しいの久しぶりだよ。」
「僕もだよ。」
そう言った次の瞬間、孝也は胸を押さえ苦しそうな表情を浮かべた。
「大丈夫? 痛いの? お医者さん呼ぶ?」
 正広は、心配そうに孝也の肩に手をかけた。その手を孝也の手が握り締める。正広はその力の強さに驚いてしまった。
「だ、大丈夫。少し疲れただけだから。」
孝也が言った通り、しばらくすると、孝也は落ち着きを取り戻した。
「ね。言った通りでしょ。」
「う、うん。」
「自分が自分の事を一番わかるんだよ。」
正広は、孝也の口から発せられた次の言葉に強い衝撃を受けた。
「だから、僕の死がもう近いのも分かっている。」
「…!」
重い沈黙が病室に流れた。14歳の少年の心はその重さで潰されそうになった。だが、正広は、そこでいつもみたく逃げちゃいけないと思った。
「タカ…大丈夫だよ。君は…」
精一杯の励ましに、孝也は笑顔で首を振った。
「分かるんだ。母さんや先生は必死に隠そうとしているけど…。」
「タカ…。」
「だから、最後に友達が欲しくなった。そして、僕はマサと出会う事ができたんだ。」
正広の目から急に涙が溢れ出した。
「ごめん、ごめんなさい。僕はタカに随分、嘘をついている。
 本当は、学校にだっていってないんだ。」
「そうなんだ…。」
孝也は、すごく悲しそうな顔を正広に向けた。正広は、とてつもない罪悪感と後悔の念にかられた。何も言えずに立ち尽くす正広に、孝也が声をかけた。
「じゃ、友達って言ってくれたのも嘘なの?」
正広は、力いっぱい首を横に振った。首がとれそうになるかと思った。
「違う! それは、本当だよ!」
 その言葉に孝也は嬉しそうに笑った。人はこんなにも純粋な笑顔ができるものなのかと正広は驚いた。
「なぁーんだ。だったら、何も気にする事ないよ。 だって、友達だろ!」
「タカ…。」
 正広の目からは、再び大量の涙が溢れ出した。正広が駆け寄って、孝也の細い体を抱きしめようとした時、再び孝也の発作が始まった。今度の発作は、先ほどとは比べ様もない程、孝也を苦しめている。
「タカ! タカ!」
正広は、孝也の肩をしっかり抱きしめた。孝也は、その正広にすがるような格好をした。
「怖い…怖いよ、マサ。」
「大丈夫だよ、すぐに先生が来るよ!」
「死にたくない、死にたくないんだ。」
「大丈夫、タカを一人では死なせたりしない! タカが死んだら僕も死ぬ!」
「ほ、本当に?」
「本当だよ! もう嘘はつかない。」
「約束だよ…。」
そう言うと孝也は、正広に弱々しくも、とても安心した笑顔をむけた。自分が一緒に死ぬ約束をした事で、一人で死ぬ恐怖から克服できたのだと、正広は思った。
「約束だ!」
そう言った瞬間、かけつけたナースに正広は孝也から引き離された。
「どいて!」
そして、病室には数人のナースと医者が集まり、正広の居場所は無くなってしまった。

8)
「孝也君、大事に至らないで良かったわね。」
 帰りの電車の中だった。この時間は、都内から流れてくる客が多いので、二人の乗る都内に向かう方向の列車の乗客は、まばらだった。
「うん。」
 何気ない正広のその声に、いつもと息子の微妙な変化を感じたのは、さすが母親といった所だろう。洋子は、不治の病の息子を女でひとつで育てている孝也の母親を思い出した。
(同じ母親として負けてはいられない)
そう、洋子は考えた。
「正広。」
「なに?」
「孝也君はね、学校が好きなのに行く事が出来ないの。」
「…。」
「正広は、その気になれば学校に行く事だって新しい友達を作る事ができるよね。」
「…。」
「友達として、孝也くんに恥ずかしいと思わないの?」
「…少し考えてみる。」
 洋子は、その日はそれ以上その会話を止めた。しかし洋子は少し満足をしていた。なぜなら、正広が引きこもりを始めてから1年とちょっと、はじめて息子の口から前向きな言葉を聞く事が出来たのだ。何かが変わる。そんな期待が洋子を満たしていた。
 孝也の死の連絡が入ったのは、それから3日目の夜だった。夕食を食べている時に孝也の母から連絡がはいったのだ。電話には洋子が出た。
「2時間前に様態が悪化して、たった今…。」
 息子がたった今死んだというのに、孝也の母の声は落ち着いた立派なものであった。覚悟をしていたというのは嘘ではないのだろう。洋子は、横目でチラッと正広を見た。正広は食事の手を止め、心配そうに洋子を見ていた。洋子の態度で何かを感じ取ったのであろう。
「誰? タカのお母さんから? タカに何かあったの?」
 電話を切ると直ぐに正広が尋ねてきた。が、洋子は、すぐに打ち明ける事が出来なかった。
「ねぇ、お母さん、何があったの!?」
洋子は正広に近づくと、正広の両肩に優しく手を置き、視線を正広に合わせる様にしゃがんだ。そして洋子は、つとめて冷静に打ち明けた。
「孝也くんが、たった今亡くなったそうよ。」
「え…?」
「明日、お通夜に行くから。」
正広の顔が、みるみる青ざめていく。
「嘘だ。」
分かっていた現実。だが、正広にはそれを容易に受け入れる事は出来なかった。嘘だと母に言って欲しかった。だが、洋子は静かに頭を振った。
「本当よ。」
「嘘だーー!」
正広は、母親を突き飛ばすと、家を飛び出していった。
 どこをどう走ったか憶えていなかった。気がついたら正広は、どこかのマンションの非常階段の踊場にいた。その非常階段は、マンションの脇にそなえつけられていた。その非常階段の手すりから顔を出して下を見ると、自転車や車が小さく見えた。その手すりは高いが乗り越えられそうだった。
「タカが死んだら僕も死ぬ」
 ふいに正広の頭に、あの時の孝也の安心した顔が浮かんだ。孝也は、自分が一緒に死ぬと一緒に言った時、とても嬉しそうな顔をした。きっと、孝也は一人で死ぬのが怖かったんだ。だから、自分が一緒に死ぬといった時、あんな安心した顔したんだ。その気持ちは絶対裏切れない、正広はそう考えて手すりから身を乗り出した。
 あの約束を果たさなければならない。それが友達だ。それに孝也のいない人生なんて生きていても意味がないと正広は思った。この世に未練はなかった。正広は、手すりから身を乗り出した。
 あとほんの少し重心を外側に傾ければ、孝也の行った世界に正広も行く事になるその時だった。偶然持っていた携帯が、メールの着信を知らせた。
 正広は、それは母親からだと思った。そういえば、散々迷惑をかけたのに、別れの挨拶もしていなかったなと思いながら、携帯を取り出した。次の瞬間、正広は携帯を落としそうになる程のショックを受けてしまった。なぜなら、たった今届いたばかりのメールの差出人が、死んだはずの孝也からのものだったからだ。
『マサが来てくれてからもう3日が過ぎようとしています。
 びっくりした? 我慢できなくなって、メールしちゃった。
 どうしてもマサにお礼が言いたくて。
 君があの時、一緒に死んでくれると言った時、僕とても嬉し
 かった。だって、僕の事を本当に心配してくれる友達が出来
 たんだもん。だから、言います。
 マサ、君は生きてください。そして、僕の分も立派な人間に
 なって下さい。これが本当の約束だよ。
 PS
  照れくさいけど、友達になってくれてありがとうね。
  あと、長文でゴメンね! じゃ、また!』
 孝也からのメールは、そこで終わっていた。
「タカ…。」
最後の方は、とめどなく涙が溢れるせいで滲んで良く読めなかった。
「タカ…。」
正広は、全身の力が抜け、その場に座り込んでしまった。ズボン越しに鉄の冷たさが伝わってくる。そして、うつむいてしばらく泣いていた正広は、急に顔を上げると、友達の昇っていた空に向かって、大きく叫んだ。その声は孝也に届くのであろうか。
「タカーー!!」
正広の絶叫は、珍しく星の多く出ている都会の夜空に、静かに消えていった。
 その後、正広が家に帰ったのは既に11時を回った頃だった。台所に近づくとTVのニュースの音が聞こえてきた。
「今日、大手通信メーカのメールサーバーがシステムダウンして、送ったメールが大幅に遅れて届くなどトラブルが続出しました。これは…。」
 台所のテーブルには、待ちくたびれて眠ってしまった洋子がいた。正広が台所に入ると、その気配に気づいたのか、洋子は起き出して、大きく背伸びをした。
「お帰り。どこ行っていたの?」
 正広は、絶対に母に怒られると思っていたので、拍子抜けしてしまった。
「怒らないの?」
「だって、あなたを信じているもの。」
洋子は、テーブルの上のラップをかけた料理の皿を取ると、電子レンジに入れた。
「待ってて、今、暖め直すから。食べるでしょ?」
「…うん。」
 再び、中根家の遅い夕食が始まった。そして、そこでちょっとした事件が起きた。正広の方から、洋子に話かけて来たのだ。正広から口を開くのは、実に1年ぶりの事である。
「前、僕に将来どうするか聞いたでしょ?」
「うん。」
「僕、将来、絶対、医者になる。」
「え、じゃあ?」
洋子は、正広の顔を見た。正広は顔を上げ、真っ直ぐに洋子の事を見ていた。
「うん。明日から学校に行くよ。」
 息子のその晴れやかな顔を見て、洋子は正広が将来、良い医者になる気がした。そしてそれが、親馬鹿から来るものではないとも感じていた。

終)
「で、現在に至るってわけだよ。」
正広が横を向くと、目に一杯涙を溜めた看護婦の永井が立っていた。正広は、それを見て驚いてしまった。
「わ、わ、どうしたの?」
「どうしたのって…。」
正広は、ポケットからハンカチを取り出すと、それを永井に手渡した。永井は、それを使って涙を拭きながら、正広に問い掛けた。
「じゃ、桜を見ると…」
正広は、眼前に広がる桜の花をまぶしそうに見ながら、それに答えた。
「毎年、桜を見るとタカを思い出すんだ。そして、タカに尋ねるんだ。
 約束どおり、立派な人間になているかなってね。」
「で、孝也君はなんて?」
正広は、その答えには肩をすぼめておどけて見せた。
「何も答えてくれない。きっと、まだまだなんだろうね。」
「そんな事はないです。先生は、立派な人間です。」
永井は、正広の目を真っ直ぐに見つめた。
「ありがとう。そう言われると、とても嬉しいよ。」
「それに、とても良いお医者さんですわ。」
正広は、そう言う永井の顔を覗きこんだ。永井は、カッと顔が赤くなるのを感じた。
「何か変だと思ったら、酔っているね。顔が真っ赤だよ。」
「酔ってなんかいません!」
 笑いながら正広は、気高く美しく咲く桜の花たちを、もう一度見回した。その姿は、まさにあの時の孝也そのままだった。その時、静かな風が吹いて、桜の花たちがざわめきだした。
(ありがとう)
桜の花のざわめきが、そんな風に聞こえたのは、優しい春の風の悪戯のせいなのだろう。
「みんなの所に戻ろうか!」
そう言うと、正広は花見の宴会場に向けて走っていった。
「あ、待ってください。」
その後を、永井が慌てて追いかけた。桜の花たちは、そんな二人の幸せな姿を、いつまでもやさしく見守っていた。

− 終了 −

 
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