萬忠太「闘花」

 彼が受け取ったのは、奇妙な届け物だった。大きさの割に重い木箱と手紙が一通。差出人も書いて無かった。
 その日、彼は彼の住むワンルームマンションの窓から覗く、小さな空を見ながら、寝たり起きたりの繰り返しからようやく目覚め、バランスが悪いだろうと思いつつも、買ってあったポテトチップスを昼食代わりにしながら、ゴミやら雑誌やらに埋もれたリモコンを探していたときだった。
 チャイムが鳴った。友人か、宗教か、セールスか、懸賞に当たったか。彼はそのチャイムの主に想像を巡らしながら体を起こす。現れたのは、宅配業者だった。名前を聞かれてそうだと答えると、サインを求める。ドアの向こうはやけに忙しいと思いながら、彼はサインをして、その奇妙な届け物を受け取った。
 差出人の名前が無い。何故荷物を出せたのか全く不明だ。やけに重いのも気になるが、爆弾とかそう言う発想を持たない彼は、テレビの企画か何かかと思いながら厳重に縛ってある青いひもをハサミで切った。ひもは張りを失って床に落ち、無骨で汚れた包み紙を剥がすと、木の香りが少しすがすがしい木箱と、二つ折りになった葉書大の和紙だった。和紙を開くと、達者な筆文字でただ一言、
 ここで、あなた一人を待っています。
 その脇にM公園の地図が描かれていた。
 その真ん中に、赤で×印が描いてある。
 M公園で最も古い桜の木だった。彼は、感動もせずにただ驚いた。そして、異様に重い木箱を開けた。紙くずで作った梱包材に包まれて、L字型と長方形の紙の包みが収まっている。ほんのり桜色があしらわれた和紙でくるまれた、そのL字形の包みはずしりと重い。彼は息をのんでゆっくりと紙を剥がした。出てきたのは銀色に輝く拳銃。蛍光灯の明かりを受けてつややかに輝き、彼の顔を映した。良くテレビで目にする物より少し小ぶりのリボルバー拳銃である。彼は知らなかったが、この拳銃はS&WM60チーフスペシャルと言い、携帯性に優れたものだ。
 彼はそれが本物なのか玩具なのかを見極める前に、紙にくるんで箱に戻した。そして、彼が密かにシャア専用と呼んでいる赤いブルゾンを着込むと、箱を片手にドアノブを回した。彼は手紙の主が、何を求めているのか了解したのである。
 外に出て扉を閉めたとき、隣の住人もちょうど出かけるところだった。彼はそのとき隣に女性が住んでいるのを初めて知った。
 薄紫の横縞のハイネックの上から薄手のギャザーブラウスを重ね着した彼女は、鍵を閉めている最中だった。
 彼は、彼女が片手にぶら下げた、帆布で出来た薄い緑色のトートバックの中から、自分の持っているのと同じ木箱が顔を覗かせているのを認めた。彼女は鍵を閉め終わり、道を空けない隣の住人を見た。ベリーショートの髪にストレートパーマをかけて、頭に密着させた髪のせいか、彼はシャープを通り越してきつい印象を受けた。もちろんにらみつけられたと言うのもある。
 そのとき二人は、今自分が何をするべきなのかが分かった。彼女はバックを床に落として、箱を取り出したし、彼も箱のふたを開けて紙をはがしはじめた。慌てると意味のないところにこだわるものだ。彼はそのとき、紙を破らないように包みを解くことに執心してしまった。
 包み紙は家においてきた彼女は、銀色に輝くチーフスペシャルを抜いて、未だに紙にこだわる彼に向けて、何の躊躇も無しに引き金を引いた。しかし、セーフティロックがかかっていたので、引けなかった。彼女は、目を見開いて銃口をのぞき込んだり銃をたたいたりしていたが、彼はその隙に箱を彼女に向かって投げつけた。箱は、拳銃をいじくる彼女の手元に当たって低い音を立てて床に落ちた。彼女はひるんで後ろに一歩二歩下がる。
 彼はそのまま。拳銃だけ持って走り去った。彼女は我に返ってトートバックを持った。一回試すつもりで片手に持った拳銃を廊下の奥に向けて引き金を引いた。
 発射音が響いて、反動に負けた彼女の腕が跳ね上がった。たたいたときにセーフティが外れたのだ。発射された弾がどこに行ったのか確かめる事無く、とにかく故障が直ったと思った彼女は拳銃をバックに入れて走った。彼の姿はどこにもない。馬鹿みたいに赤いブルゾン、そしてジーパン、寝癖頭。寝起きのような馬鹿面の彼を捜したが、いつもの住宅地が広がっている以外には何も見えない。たっぷりめのスカートに締めたフリンジのベルトが風に揺れた。
 彼女は軽く髪を押さえると、目に付く物陰という物陰を見たがどこにもあの赤い姿はかけらも見えない。とにかくこの場にとどまるよりは、目的地を目指すべきと考え、彼女もまたM公園に向けて走り始めた。彼もM公園を目指すなら必ず出会うはずだと思った。とにかく走った。ささやかでも庭のある家々では、美しく咲いた花が咲き誇り、道行く人を楽しませていたが、彼女にはそう言った余裕は無かった。とにかく彼を捜して走っていた。
 車の通りの激しい道に出たとき、彼女はそこに自動販売機があるのを見つけた。闇雲に走ったし、極度の緊張が続いたのですっかりのどが渇いた。自動販売機がウェルカムを告げている。彼女は茶色い皮の財布を取り出すと百二十円を取り出した。投入してから、何を買うか迷ってしまった。彼女もまた気が動転していたのだ。気ばかり焦った。コーラを飲んだら太ってしまう、ファンタを飲んだら太ってしまう。コーヒーは嫌いだし、ウーロン茶もいやだった。どうしたらいいのか分からず、全部押して見たらどうだろうかと考え始めたとき、目の前でコーラのボタンがはじけ飛び、缶が取り出し口に落ちた。振り返ると、ダンプが通っていた。土まみれのダンプが埃だか排ガスだか土だかを巻き上げて通り過ぎたとき、道の向こう側に赤いブルゾンがいた。チーフスペシャルが春の陽光を受けてかすかに輝く。
 彼女が背にする自動販売機の見本が入ったガラスが割れた。彼女は拳銃を用意するために近くのビニールハウスに逃げ込んだ。そしてチーフスペシャルを取り出す。ファンの音がけたたましく響くハウスの中は、暑苦しさとビニールの臭いとイチゴの臭いが充満していた。熟れたイチゴが足下でつぶれていた。彼がビニールハウスに入ってきた。丁度彼女と反対側に現れた彼は、寝起きの馬鹿面からこわばった硬直しきった顔に変化していた。彼女は、映画を思い出しながら両手で拳銃を支えると出来るだけ体から離して構えた。トートバックは左腕にぶら下がっている。顔を背けて撃った。彼は立っていた。彼は彼女の弾は当たらないと思ったのか、ゆっくりとねらいを定めて撃った。同時に彼女も撃った。二つの弾丸が空気を切り裂いて飛んだ。甲高い音がして、弾丸同士がぶつかってまだ青いイチゴの上に落ちた。イチゴが焼けた。
 チーフスペシャルは、当たらない拳銃である。銃身が短いので十分な回転が与えられないのだ。優れているのは携帯性だけ。そんな事はつゆ知らず二人はまた撃った。彼の弾は低く唸るファンに吸い込まれて火花を散らした。彼女の弾は、彼の脇腹をかすっていた。
 むせかえる臭いの中、お互いにもう一発撃った。彼女は、イチゴの香りよりも強く加薬の臭いを感じた。彼は立っていた。彼女も立っていた。彼は、銃床から銃身に手を移すと、わずかに腰を鎮めてバネを溜めると、彼女めがけて突進してきた。イチゴを蹴立て、土を蹴立て、赤い血を吹き出しながら、彼女は引き金をもう一度引き金を引いた。弾は出なかった。もう一度引いた。弾切れだった。
 彼女は、突進してくる彼を横にいなしてかわすと、間髪入れずに走り出し、彼が入ってきた入り口から飛び出した。一方彼は、イチゴの中に転んだ。甘酸っぱい香りを楽しむ余裕もなく、彼は立ち上がると。イチゴと土でめちゃくちゃの顔をブルゾンの袖で拭った。鼻の頭に黒いマルチシートがこびりついていたが取れた。イチゴと土は拭いきれなかった。脇腹の傷は痛くなかった。チーフスペシャルをその場に捨てた彼は、ビニールハウスを出た。
 少年野球のユニホームを着た少年が道で小便を漏らしていた。ビニールハウスで始まった突然の銃撃戦を見ていて、流れ弾が耳元をかすめたのだ。出てきた彼の姿を見て、顎を上下に震わせて声も出ない。彼は、少年を見下ろすと、傍らに転がっている金属バットを拾った。そして、M公園を目指した。
 彼は、彼女の姿を求めて走った。春の日差しは暖かく彼を照らしたが、彼には関係がなかった。
 銃弾がかすめた傷が思い出したように痛む。ハンカチを当て、畑に張ってあったひもを盗んで固定した。そして彼は走った。彼女の姿を求めて、走った。途中の薬屋でガーゼと包帯を買った。店番をしていた中年の女は、口を震わせ目元を引きつらせながら応対した。彼女の口から心配の言葉は出てこなかった。イチゴと土と汗にまみれた彼の顔は、頬の当たりが小刻みに震え、猛烈な闘志を放って硬直していた。
 児童公園にある、涙のようにペンキが垂れて乾いたゴリラの上で、包帯を巻いた。血が止まるかどうか分からなかったが、とにかく巻いた。錆びた臭いがして、まるで自分が鋼鉄の様に思えた彼は、血で赤さを増したブルゾンを着込んで立ち上がった。そしてまた走りだす。
 ハンバーガーショップの前を通りかかったとき、不意に傷の痛みよりも空腹が気に掛かった。躊躇も逡巡もなく、彼は店に向かった。彼が金属バット片手に店に入ると、店中が緊張した。動かなくなった。誰もが手を止め、横目で彼を注視した。空気までも静止した中、彼はお構いなしに足を進め店員にチーズバーガーセットを注文した。店員は、一言一句を間違えないように、いつもよりも少しゆっくりと彼がキレて暴れ出さないように、とにかく慎重に注文の確認をして、彼が頼んだウーロン茶を用意した。会計が済んだ彼は、店に漂う違和感に気づかず、ただじっと彼女のことを考えていた。金属バットを脇に挟み、トレーに載ったチーズバーガーとウーロン茶、そしてポテトを慎重に持ち上げて二階に向かう。窓から彼女を捜そうと思ったのだ。一歩一歩、階段を上るたびに脇腹の違和感と戦いながら、彼はただ彼女への思いだけを支えに立っていた。登り切った、そのとき彼は階段から逆方向に、ベリーショートの髪を発見して凍り付いた。
 彼女は彼が来たのとは反対側の窓辺で、じっと下を向いてポテトを食べていた。彼はその姿を見つめながら、彼女からは見えない壁を選んで席を取った。周りの客は彼が来るなり黙り込んで、じっと様子をうかがう。彼がにらみつけると、思い出したように支離滅裂な話をしてごまかした。彼は、それきり視線を無視すると、耐えきれずに紙の包みを完全に剥がしてしまった。しおれたチーズバーガーはうまそうには見えなかったが、彼は指までも食わんばかりにかぶりついた。左手はバットに掛かっていた。ポテトもつかみ出すように食う。獲物にかぶりつく猛獣の勢いで食う。トレイに口を近づけて、家畜のように食う。甘いのか辛いのか、それともしゃんとしているのか、そんなことはどうでも良かった。彼は飲むように食った。周囲はその勢いの前に震えが止まらない。次々に席を立って階段に向かった。彼はしかし、食いながらも決して彼女から目を離さない。血走った目の横を避けるように汗が伝って、トレイに敷いた紙に落ちた。汗は黒かった。一方の彼女は、最後のポテトを食った後、彫像のように凍り付いて下を向いていた。
 彼はポテトもバーガーも食べ終えて、ウーロン茶のふたをはずして、氷まで全部食った。そして排気するように鼻息を吹き出すとゆっくりと立ち上がった。そして未だに動かない彼女に向かって歩み寄った。テーブルが彼の腰に当たった。彼は痛みに一瞬ひるんだ。テーブルの音を聞いてか、彼の気を感じたのか、我に返った彼女は、金属バットを振り上げた彼の姿を見上げた。彼は、大上段から彼女の頭めがけてバットを振り下ろす。彼女はしかし、じゃんけんゲームが得意だったのか、それともとぎすまされた神経が目覚めたのか、飲み物のコップを跳ね上げトレイを持ち上げた。彼のバットはしかし、トレーを割った。割ったが、そのせいで軌道が曲がって彼女の肩を打った。彼はまたバットを振り上げる。
 周囲の客が、立ち上がって隅に逃げる。停めようとする者は誰もいない。
 彼女は割れたトレーを彼めがけて投げつけた。放たれたトレーは、空中を滑り、大上段で振りかぶっていた彼の鼻っ柱に当たる。彼は、そのままのけぞった。脇腹の傷にテーブルが触れて、そのまま彼はうずくまった。
 彼女はその隙に立ち上がり、走った。転がるように階段を下り、店員の挨拶にも耳を傾けず、振り返らずに走った。
 武器を求めて走った。頭にぴったりくっついていた髪もたまらず跳ね上がった。裏路地に走り込んで、咳き込んだ。苦しかった。彼の顔が瞼の裏に浮かんだ。やっとの事で落ち着いて、化粧も崩れた顔を上げたとき。彼女はほくそ笑んだ。壊れた傘、いす、ヘルメット、空き缶、掃除機、テレビ……がらくたの山だった。不法投棄かゴミの日か。彼女はゴミが好きと言うのではなく、その山の中に日本刀を発見したから微笑んだのだ。伝家の宝刀に見えたそれがしかし、通信販売で買った模造刀とは思いもよらず、彼女は刀を手にとって抜きはなった。彼に打たれた肩が痛んだ。骨の芯の方から痛みが沸き上がってくる。熱を持って脈打つ痛みに彼女は、顔をしかめた。
 刀身は春の太陽を受けて輝いた。その輝きの向こうにスクーターがあった。
 野菜をお裾分けしにきたおばちゃんが、玄関先で話し込んでしまって置き去りなのだ。しかもキーは付いていた。彼女はスクーターのキーを確認すると、勝利を確信してまたほくそ笑んだ。
 彼女はスクーターのシートを開けてトートバックをつっこむと、飛び乗った。そして彼に反撃をすべく発車する。彼女が大通りに出ると、彼女の心の叫びを聞いたかのように、彼が現れた。彼も盗んだママチャリに乗っていた。大通りは珍しく車が少ない。彼女は勝負を付けるべく、刀を抜いてさやを捨てた。
 彼女は左手で刀を振り上げると、アクセルを一気にふかす。体が後ろに置いて行かれそうになりながらも、右手一本でしがみつき、彼女は一気に加速する。自分で作ったビーズのネックレスが風になびく。友人に馬鹿にされたがどうしても入れたかった勾玉も風の中で踊る。甲高いエンジン音が彼女の精神を高揚させた。彼も左手でバットを振り上げ、彼女めがけてペダルをこいだ。チェーンが唸り、ペダルがきしむ。
 二人の距離は一気に縮まり、景色は流れ、バットと模造刀がぶつかり合い、火花を散らす。その火花を軸に回転しながら入れ替わった彼と彼女は、互いの乗り物に見放されアスファルトに落ちた。通りがかりの車が急停車して、後続とぶつかった。彼と彼女は、起こったことが理解出来ずに呆然とそこに寝転がっていた。しかし、二人はけたたましく響くクラクションに我に返り、全身の骨をきしませながら立ち上がった。彼女は彼めがけて走った。彼も拳を振り上げて走った。
 振り下ろされた彼の拳は彼女の頬を捕らえた。彼女は護身術教室で習ったひざ蹴りを彼の脇腹に当てた。彼は収まらずに大口を開けた。ドラキュラよろしく噛み付こうと彼女の首筋を狙う。彼女は自分でも信じられないほどに機敏に動いて飛び退くと、襲いかかる彼の顔を平手打ちではねとばしたが、そのまま尻餅をついた。
 彼は平手打ちの威力よりも、脇腹の痛みに耐えかねてそのまま仰向け倒れた。彼女は立ち上がると、ぼろぼろの体に鞭打ってバイクを起こした。エンジンは停止していた。ギャザーブラウスが破れていた。
 彼を轢こうとバイクのエンジンを再始動したとき、二人の間を老婆が渡った行った。手を挙げていた。腰が曲がった老婆はよたよたと、二人の間を割って行く。クラクションの音も聞こえないようだった。彼女はじっと待った。何故か動けなかった。その隙に彼が立ち上がっていた。車輪が曲がったママチャリを持ち上げていた。発車しようとする彼女に向かって投げつける。しかしあいにくその自転車は彼女のバイクに届くことなく地面に落ちた。しかし、バリケードとなったママチャリが彼女の突撃を阻止した。彼は愛用のバットと、刃の欠けた模造刀を拾って構えた。酷くへっぴり腰だったが、気合いだけは十分。江戸時代のやくざそのままの気合いと度胸だけの剣術だった。
 相手が武器を得たのを見て取った彼女は、一時撤退を決めた。走り去るスクーターを見つめながら、彼は額から血が流れているのに気が付いた。手もすりむいていた。体中が痛かった。彼は金属バットと模造刀を両手にぶら下げたまま、路地裏に向かった。事故で集まった野次馬が彼の姿を認めたが、声も出さずにただ見つめていた。あまりに非常識な彼らに関わりたくないというのが、野次馬の中の共通認識であった。
 路地に入った彼は目の前が急に暗くなってきたのに気が付いた。板塀に背中を預ける。体中に重しが乗り、押しつぶされるようにその場に尻を落とした彼は、ぐったりと向かいの生け垣を見た。ぽっかりと開いた口の端から、血液が糸を引くように流れた。彼は、泣いていた。もう立てないと思ったのだ。このまま死んでしまうと思った。意識が拡散していく。つぎはぎだらけのアスファルトに投げ出した両足を見た。それから空を見て、もう夕方なのだと気が付いた。風が冷たかった。体が熱を失っていく。
 あきらめて光を失いつつあった彼の脳裏に、彼女の顔が浮かんだ。彼の拳を受けた瞬間の、歪んだ顔だった。しかし、その顔は彼を嘲笑するようにまた歪んだ。拡散しつつあった意識が、その彼女の顔めがけて集まり始めた。殺したい。殺したいと思った。とにかく今は、あの女を殺したい。その一心が彼の心臓を力強く脈動させた。全身の傷から血が噴き出したが、彼は憤怒の表情を崩さず、立ち上がった。ふと気が付くと近くに地蔵があった。その前に紙包みが供えてあった。彼は、団子だ! と直感して飛びついた。ひもを引きちぎり、紙を剥がした。しかし、それはL字形の黒い鉄の固まりだった。拳銃だった。数時間前に、とある男が暴力団員の友人から預かったが、怖くなって置き去りにしたのだ。そんな事情を彼が知るはずもなかったが、彼はグリップに刻み込まれた星を見て、トカレフだと思った。グリップの冷たさを確かめながら足を進め、彼女の姿を探した。
 板塀の間を進んでいく彼の足取りは、決して軽くはなかった。限界を迎えた肉体が、精神によって無理矢理動かされているのだ。人間は体が壊れないように無意識に力を押さえているのだが、かれはその限界を超えて動いていた。
 どれだけ歩いたか、彼は小高い丘に出ていた。眼下に住宅と細い道が見えた。夕闇迫るその光景の中に、彼はスクーターを走らす彼女の姿を見つけた。ほとんど見えていなかったが、彼はそれが彼女だと分かった。意識の触手がはっきりと彼女を捕らえ、彼は気力を振り絞ってトカレフの引き金を引いた。銃弾は自らの進む道を悟って走り、スクーターが倒れ、彼女はアスファルトに転がった。反動を受けた彼の体は傾き、そのまま大の字になって気絶した。
 彼は彼女の倒れる瞬間を見ていなかった。しかし、血を吹き出して死んだと言う確信があった。裏付けは無かったが、そう信じたかったのだ。しかし、彼女は死んでいなかった。一日に二回も地面に投げ出された彼女は、気力を振り絞って立ち上がり、バイクを起こそうとして咳き込んだ。口からは唾液に代わって血が噴き出した。彼女はバイクの側面に穴が開いているのを見て、自分が訳もなく転んだのではないと分かった。彼女は周りを見回したが、誰も見えない。彼の姿もなかった。逃げたのだと思った彼女は、シートを開けると帆布のトートバックを取り出した。そのまま、石垣に背中を預けて座った。トートバックからハンカチを取り出して、口元を拭う。意識が遠のきはじめ、痛みが他人事の様に思えた。死ぬと思った。悲しかった。目が潤んで、涙がこぼれた。しかし、雫が頬を伝うくすぐったさを感じたその直後に、死にたくないと思った。生きたいと思った。そして、彼の事を考えた。あのバットを振り上げた瞬間の顔を思った。彼女は生きたいと願った。今日の出来事をかすかにしか思い出せない自分がいた。自分はずっとこんな事をしているのではないかと思えたが、しかしそれでも良いから生きたいと思った。次の彼もしくは彼女が現れても、それでも生きたいと思った。彼女はトートバックの中に入っていた木箱を取り出した。
 初めて気が付いたが、蓋の裏に紙が貼りつけてあった。チーフスペシャルの説明書だった。朦朧としていた意識が戻り初め、そう言えば木だけにしては重いと思い、梱包材だと思っていた四角い紙包みが、気になって包みを開いた。弾丸だった。全部で十発。彼女の顔に笑顔が戻った。
 チーフスペシャルを取り出すと、説明書を見ながら排筴する。薬莢がアスファルトに落ちて跳ねた。そして一個一個、彼に当たれと願いを賭けて五発装填した。
 彼女は星が覗き始めた空を見た。
 立ち上がり、M公園を目指した。行かねばならない。そう心に決めて、ひたすら足を進めた。体中が激痛にきしんだが、それが生きている証なのだと感じた。M公園に向かえば彼に会える。その一心だった。
 彼女はM公園に足を踏み入れたころには、もうあたりはすっかり暗くなり、公園からは人々のざわめきと露店が発する臭いが漂ってきた。張り巡らされた提灯に照らされた桜の花は、一方で天からしみ入る闇を吸い、その姿を浮き立たせている。ネクタイを頭に巻いたサラリーマンが何であるかもはっきりしない踊りを踊っている。手拍子が起こった。一個一個の音が混ざり合ってぶつかり合って波とも渦ともつかない空気の奔流を作り出す。その中を彼女は、彼の姿を求めて歩いた。トートバックを捨てて、チーフスペシャルを両手で握った。彼女のすぐ横で、禿頭のオヤジが振りかざしていた一升瓶が割れ、酒が飛び散った。彼女は彼の気配を感じた。
 公園の真ん中に、古木があった。樹齢も定かでない古木は、張り巡らした枝をもはや自分では支えられず、補助用の柱が設置されている。その枝一本一本に少し色あせた桜がしずかに咲いている。
 古木を挟んで反対側に彼がいた。彼女は一直線に走った。花見客が重箱を蹴立てて逃げまどう。跳ね上がった重箱が砕け、提灯が割れた。彼女も撃った。怒号の渦をかき分けて進む弾丸は、彼の脇を通り過ぎた。彼女は団子を蹴散らし、紙コップを踏みつぶして走った。弾丸が頬をかすめたが、構わず走った。彼の姿も大きくなってくる。彼も走っていた。互いに最後の力を振り絞っての疾走だった。
 花見客も彼女も彼もすべてを包み込んで突風が吹いた。花びらが舞った。彼女は闇雲に撃った。淡く暗い桃色に閉ざされた視界の向こうに、古木が見えた。溶けたように脈打つ幹が見えた。その向こうに彼の姿を見つけた。彼女は撃った。彼も撃った。
 古木が歓喜の悲鳴を上げるように枝を揺すり、吹雪のように花びらを散らす。
 一瞬すべてが花びらで包まれ、彼女の銃口が彼の額にぴたりとくっついたとき、彼の銃口もまた彼女の額にぴたりとくっついた。銃口の熱を互いに感じながら、彼も彼女も凍り付いた。
 逃げまどう人々のざわめきも、突風の音も、何もかもが消えて凍り付いた。桜の木々が固唾をのみ、古木は根の先から震えた。最初に口を開いたのは彼女だった。
「桜は、あんたと私、どっちの血を欲しがっていると思う?」
 彼は、イチゴと土と血と汗を歪ませて、怒りをあらわにしていた。
「どっちでも良い。俺はお前を殺す。そのために今生きている。ここにいる」
 彼女は、殴られて腫れ上がり、弾がかすって血を吹いた頬を震わせた。
「私は死なない。死にたくない。生きたい。絶対に生きる。だから私はあんたを殺す」
 二人の魂がぶつかり合い、火花を散らす。古木はその火花を独り見守るために花を散らした。
 彼も彼女も、ひたすら舞い散る花の中に消えた。

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