ささ(H)「にばんめのあかいはな」
「あかい……はな、みたいな……」
 布団の中で、妹は小さく呟いた。

 そのとき妹は5つで、僕は小学校の1年目を終え、初めての春休みをむかえたばかりだった。妹は原因不明の病気を患い、一日のほとんどを床で過ごしていた。難病と呼ばれていたその病は、食べたものの成分を毒に変えるのだという。偏った栄養素だけを摂取しているうちに、妹はとても疲れやすくなった。
 妹の名はさち。幸福の幸で「さち」。何にもしていないのに疲れているさちの顔を見ながら、僕はときどき思った。うそつきな、名前、と。

「……」
 妹の声が聞こえた気がして、僕は家の中を覗きこんだ。薄暗い部屋の真中で妹はひっそりと横たわっていた。顔がこちらを向いている。白くて、人形のようだと思う。
「……な」
 また、声が聞こえた。今度は口の動きも見て取れたので、それが空耳ではないと分かった。僕は急いで竹刀を縁側に寝かせると、畳の上に這い上がった。
「……なに? 水?」
 枕元に近寄り、聞く。さちは小さな口をすぼめて、
「あかい……はながみたいな……」
 と呟いた。目は僕を通り越して、縁側の向こうにある広い庭を見つめているようだった。
「赤い、花? 」
「ウン。 あかいの……」
 すう、とこちらを見返して、さちが答えた。視線はすぐに外に戻される。少しだけ口元がほころんで、笑みを作っているのだと分かった。
「赤い花かァー、何の花だ? 」
 何気なくたずねると、すぐに答えが返ってきた。
「んと、さくら」
 ふと、僕は首をかしげた。さちは病気のせいでこの家から出たことはほとんどない。花見をしたことももちろんなく、桜など……家の庭にあるものしか見たことがないはずだった。
「あかい、さくら? 」
 思わず聞き返して、
「ウン」
 その思いも寄らぬ力強い返事に、僕は少しだけ驚いた。小さな体の中にこめられた熱いものを垣間見た気がして、同時にその希望をかなえてやりたいと思った。
「赤いさくらかァ……兄ちゃんが取ってきてやろうか? 」
 そう言ってやると、さちはぱぁっとほおを赤らめた。
「ほんとう? 」
「……ん、まァ、な」
 久ぶりに見た妹の満面の笑みに満足しながら、僕は軽く答えた。
 ……桜など、どこにでもある花だと思っていた。
 そのとき、玄関の呼び鈴が鳴った。「まァまァ。お忙しいところをよく来てくださいました……」ふすまの向こうから母の跳ね上がった声が聞こえてくる。僕は腰をあげた。
「おとなしくしてろ、な? 」
「ウン……」
 そして僕はそっと座敷を出た。客が誰かは分かっていた。玄関に向かうと、予想通り母と白衣を着た男が廊下を歩いてきた。僕はわざと急いでいるふうを装って、ばたばたと足音を立てた。
「やあ、武君。こんにちは」
 男がやさしげな声をかけてきたが、足音で聞こえない振りをしてやった。そして、下を向いたまま早足で通りすぎる。本当はにらみつけてやりたいくらいだったが、以前それをやってこっぴどく叱られてから、それはもうしないことにしていた。
(お医者様は、さちを治そうと一生懸命してくださってるのよ。さちの病気は大変な病気なの。すぐには良くならないのよ。……それなのに先生は、投げ出さずに見てくださっているの。わかるわね? )
 これはそのとき母が言った言葉だ。意味が分からないわけではなかった。むしろ分かってはいたが、僕は心の奥のほうでなぜだか納得ができなかった。医者は病気を治す仕事のはずなのに、病気を治せないなんておかしいと思った。だから、僕はいつも下を向いてすれ違う。
「あら武、どこいくの? 」
 背中から母の声が追ってきた。
「こーえん」
 せかせかと靴を履きながら答える。
「気をつけていってらっしゃいね」
 母の声を後ろに聞きながら、玄関を飛び出す。
「くらくなる前に帰るからァー」
 振りかえらずに叫んで、そのまま公園につくまで、僕は一度も振り返らなかった。

 おりしも季節は春。桜の花がちらほらとほころび始めたころだった。妹の寝床から見える庭にも一本、桜の木が生えているけれど、その桜は他の桜よりも花を咲かせ時期が遅く、枝にはまだ固い蕾しかつけていなかった。僕は妹に桜の花を見せてやりたくて、喜ぶ顔が見たくて、まっすぐに近所の公園へ向かった。僕はその公園に桜の木が沢山植えられていることを知っていたからだ。
 公園の桜は早いもので2分咲きくらいになっていた。その中で一番色の濃そうな花をつけた枝を摘むと、今度は急いで家に足を向けた。
「ただいまぁ! 」
 僕は早く桜をさちに見せてやりたくて、玄関を回らずに庭を通り、縁側から家に上がりこんだ。いつもならすぐ帰ってくる母の返事が聞こえてこなかった。そのせいか、なんとなしに家中が静まり返っているような気がした。さちはよほどよく眠っているのだろう、一人で小さな寝息を立てて眠っていた。僕が近づくと、小さく寝返りをうった。その枕元には薬の入った袋が2つ置かれている。僕は薬袋を隠すように桜の枝をその上に置いた。こうすればただ昼寝をしているだけに見えるだろうと思って。それから僕はさちを起こさないようにそっと座敷を出た。
 花瓶でも探そうと台所へと向おうとして、帰ってきてから感じていた違和感の原因に気がついた。廊下が、夕方のように暗い。それはいつも開け放してあるドアのどれもが、まるで僕を拒むかのようにぴっちりと閉められていたからだった。ただひとつ、台所へと通じるドアからほんのすこし光が漏れていた。細い隙間から漏れた光は、針のようなすじを廊下に描いていた。僕は吸い寄せられるようにその光に近づいた。
 ドアに近づくとその向こうから、ぼそぼそと低い音が聞こえてきた。僕は空恐ろしい気がして、中に入っていくことができずに思わず聞き耳を立てた。
「……で、……難しい」
 低い男の声が言い、
「……か?」
 かすれた母の声が聞こえた。
「……くの場合、……長くは……」
「……」
 しばらく沈黙が続いた。母が、泣いているのだと分かった。音もなく、空気だけが震えて、母の押し殺した吐息を伝えてくるような気がした。きっと医者は「長くない」といっていたにちがいない。ラジオのドラマで聞くような台詞だと思った。僕は息を止めたままでさちのいる座敷まで戻った。さちの寝顔を見る。眉根がほんの少しだけ寄せられているような気がした。僕は廊下に置いてあった竹刀をひっつかむと、庭に飛び出して素振りをはじめた。正確に……正確に……それだけを考えようとして、瞬きもせずに前だけを見つめて素振りを繰り返した。
 長くないのは、命だ。病気が、妹を道連れに死のうとしているのだと、こころの奥のほうで自分の声がぼそぼそとしゃべり続けていた。

 その日から、さちの容態は少しずつ、けれど目に見えるように悪くなっていった。僕は素振りの場所を庭から縁側へ移した。さちの声がどんなに小さくてもすぐ聞こえるようにと思って。そして僕は毎日、近所を歩き回っては咲いている桜の花を見つけ、その枝をとってきてはさちに見せた。濃い桃色の花、赤く見える花……。花を見るとさちは喜ぶ。けれど、どれもがさちの言う桜の花ではなかった。
 何度も同じことを繰り返した結果、僕は切羽詰って、親に助けを求めることにした。
「さちがねぇ、あかい桜の花が欲しいっていうんだよ」
「赤? 公園に……確かあったわよねぇ? ねぇ? お父さん? 」
「おう」
「でも、それはみんな違うって言うんだよ」
 二人は一瞬と惑ってから、顔を見合わせた。
「……父さん、知り合いにちょっと聞いてみる。詳しいのがいるからな」
 父は新聞に目を落としながらぼそりと言った。
「母さんも、お友達に聞いてみるわ」
 ガッツポーズを作りながら母は白い歯を見せた。
 僕たちは赤い桜を探してきては家に持ち帰った。そして、その度にさちはうれしそうに少しだけ顔をほころばせた。けれど「これがその花か」と聞くと、さちは申し訳なさそうに「ちがうよ」と言うばかりだった。
 そして、さちは次第に笑顔さえ見せなくなっていった。
 根を持たない花はすぐに花びらを落とした。僕は、少しでも茶色い花びらが目立つようになると、その枝を捨てた。あからさまに死んでいくものを、さちに見せたくなかった。死の影が見えるものを、さちの近くに置いておきたくなかった。
 ……結局、誰もさちの言う赤い桜を見つけられないまま、日々は過ぎていった。

「これどうだ? けっこう赤いぞ」
 僕はいつものように持ってきた桜をさち顔に寄せて見せた。さちは申し訳なさそうに首をちいさく振った。
「もう、いいよぅ。……おウチにあるから……」
 呟くようにさちは言った。
「うち? うちのどこ? ……テレビの中? 」
 思わず聞き返した。
「……ウウン、おにわ・・…」
 庭の桜といえば一本しかない。しかも花びらはむしろ白いくらいで、赤というには程遠い。僕は首をかしげて桜を見た。
「さくらじゃなくて、ちがう花のまちがいじゃないのか? 」
「まちがって、ないよ」
 白い小さな指が庭先を指した。その先には花の散りかけた桜の木がある。
「アレ。にばんめに、さいたんだもん……もうすぐ、いっぱいになるんだもん」
「あれは……赤い花なんか……」
 咲かないぞ、とは言えなかった。……どうしても言えなかった。そう言ったら、さちの小さな体が枯れてしまうような気がして。さちが別のなにかと花を見間違えているのだろうとは思った。けれど、それが何かは見当もつかず、僕はただまた赤い桜を探して近所を歩き回ることしかできなかった。
 そうしているうちに、桜は盛りを終え、ほとんどの木が花を散らせてしまった。さちの赤い桜はまだ見つけられていなかった。簡単に見つかると思っていた花は日に日に見つけることが難しくなっていく。僕は頭を抱えた。父と母はすでに桜以外の赤い花まで持ってくるようになっていたが、やはりさちの見たがっている花ではなかった。庭にある、ただ一本の桜の木ももうほとんど散ってしまっていた。所々に残る白い花びらが無残で、汚らしく見えた。僕は庭の桜を見るたび、黄ばんで地面に落ち、茶色く腐っていく花びらを想像し、吐き気を覚えた。
 僕はだた、頬を赤らめ、顔一杯に広がるさちの笑顔を見たいだけだったのに。今はたださちの白く痩せこけた顔を見ることさえも辛くなっていた。

 その日は朝からよく晴れ、空には柔らかい光を放つ雲がぽっかりと幾つか浮かんでいた。僕は、いいかげんあきらめかけて庭の桜を眺めていた。見ごろをとっくに過ぎた桜の木は、みすぼらしくところどころに花びらを残して佇んでいた。
 不意に、春特有の強い風が吹いた。風は地面に落ちた花びらを吹き上げ、木ににかろうじて残るそれも毟り取っていった。僕がほこりが入らないようにと障子を閉めようとしたとき、
「あかいはな……」
 さちがうれしそうに呟いた。
「花なんか……」
 庭を振り返った僕は、思わず立ちあがった。閉めかけた障子を力任せに開く。狂ったように舞い散る白い花びらのその向こうに桜の木があった。そしてその枝に、僕は確かに紅い花を見た。
 それは本来の桜の花よりも一回り小さく、ひっそりと咲いていた。けれどその濃い紅は強く、まるで命を凝縮したかのように強いものに見え……。
「ようやく、にばんめのはながさいたねぇ」
 さちは小さく笑いながら、さもうれしそうにぶやいた。

 その日の午後、母が血相を変えて仕事から戻ってきて、さちを病院に連れていった。そして、それを境目に、さちの病気はあっけなく快方に向かい始めた。医療研究が進み、さちの病気の原因がわかったからだった。僕には難しくてよく分からなかったが、体の中の働きを変える命令を出す何だかが、さちには足りなかったらしい。要はその足りないものを足してやれいればいい、ということだった。
 さちはどんどん回復し、3年もかかったけれど、普通の子どものように走り回ったり、笑ったりできるようになった。
 あの日見た紅い桜は、6年目になる今も毎年かかさず咲く。
 僕はさちの病気が治ってからも、縁側で素振りをしている。多少窮屈な気はするが、そのおかげかどうか、まっすぐに竹刀を振ることができるようになったからだ。さちはよく庭の花の手入れをするようになった。
「お兄ちゃん、お花見行こう!」
 さちがだいぶ花びらの落ちた桜の木の下で僕を呼んだ。左右の手にそれぞれ水筒とおにぎりを持って、こちらに差し出している。顔には満面の笑み。
「おう!」
 僕は竹刀を置きながら返事をした。
 公園は日曜日だというのに人もまばらだった。先週までの賑わいは、名残さえも残っていない。僕らは桜の下に設置しなおされたベンチに座ると、持ってきたものを空いたスペースに広げた。
 上を見上げれば紅い桜の花が咲いている。
 さちの言っていた紅い花は、花びらの散った後に残る、濃い紅色をしたがくのことだった。花を支えていたがくは、小さいけれど花と同じ形をしていた。花が美しいのは、それを支えるものがあるからで、花が落ちても、木が枯れるわけではない。むしろ眠るように佇むその中で、次に残す種を、命をつくりあげている。花が散っても、それで終わりではないのだ。
 ふと横を見ると、さちも見上げるようにして桜を見ていた。そこ口元に、うっすらと笑みが浮かんでいた。

 紅い桜は、今は二人だけの秘密になっている。
 僕は、さちの名前がうそつきだとは思わなくなった。

(終)
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