春が、冬の扉を開く

砂倉 櫻 


「西川先生、来てくださったんですね。」
 待ち合わせ場所の喫茶店に現れた彼女を見て僕は思わず息をのんだ。3年前の、言っちゃ悪いが子供っぽかった女の子の姿はどこにもなかった。
 深みのある藤色の振り袖を着こなし艶やかな髪を現代的に結った彼女の姿に、その場にいた人間の視線がいっせいに集まった。大晦日の夜で、同じように振り袖の恋人を連れていた若い男までが見とれ、恋人につねられたのが目に入った。
 「何か飲んでから行く?」
 「ううん、座ったら着つけがくずれちゃうからすぐに行きましょう。お店の人には悪いけど。」
 店を出て終夜運転の私鉄駅に向かいながら、彼女は言った。
 「でも電話をかけたときはほんとにどきどきしたわ。3年前の約束なんて覚えてくれてるわけないと思っていたのに!」彼女ははしゃいで言った。その口調や表情は昔と全く変わらなかった。
 もちろん、あの、正確に言えば3年半前の出来事を忘れるはずなんかなかった。彼女の方が約束なんてとっくの昔に忘れているだろうと思っていた。
  *
 「ねえ西川先生。」
 その放課後も枡田笑子は社会科職員室の僕の席に遊びに来た。
 先生をやっていると女子生徒からラブレターをもらったりすることがけっこうある。あるいは「僕のことが好きなんだな」と思う生徒もいたりする。
 もちろん好きになってくれる生徒は僕も好きだけれど、あくまで先生と生徒という関係以上の何者でもない。まさか教え子を相手に恋愛なんかできないし、また生徒のそういう感情も大人になるまでのほんのひとときのものでしかない。ほほえましいラブレターをくれたりした生徒が、高校を卒業して少しして「結婚しました」なんてハガキをくれたことだってあるのだ。
 この枡田という生徒もどうやら僕をそういう意味で「好き」らしく、しょっちゅう僕をかまいにくるのだった。
 僕は枡田のクラス担任ではなかった。この高校では二年生から社会の選択があるのだが、たまたまこの子の世界史の担任になっただけだ。
 「今日の授業で言ってたこと、2000年って本当にまだ20世紀なの?よくわからなかったんよ。」
 「お、授業中寝てたんだろ。何度も説明したのに。」
 「寝てないもん。先生の授業は寝ないように、前の英文法の授業で寝とくも〜ん!」
 「世界史なんかより英語勉強しとけよ!」
 「それが世界史の先生の言うこと〜?!」
 「受験の先輩として忠告してやってんの。」
 「もう一回説明してよ。期末テストに出るんでしょう?」
 「じゃあよっく聞いとくんだぞ。一回しか言わないからな。」
 梅雨の合間の良く晴れた日で、気持ちいい風がカーテンを揺らした。校庭からは野球部のランニングのかけ声が聞こえてくる。ほとんどの先生方がクラブの顧問をやっているので、放課後の社会科職員室はあまり人がいない。
 「西暦、ってのは、キリストさんが生まれた年を基準の年に定めたんだけど、それを元年、つまり1年と定めたからややこしくなったんだ。もしその年を0年にしておいたら、2000年から21世紀になったんだけどね。」
 僕は紙に図を描きながら丁寧に説明した。
 「あ、そうか。じゃあ西暦10年というのは西暦ひとケタ台ということ?!」図を見たら少しはわかってきたようだ。
 「そう。西暦10年代は西暦11年から20年。西暦100年代は西暦101年から200年。西暦1000年代は西暦1001年から。ということは?」
 「西暦2000年ってまだ西暦1000年代なわけね?2001年から21世紀なんだ。」枡田はわかった!という顔で笑った。その枡田の表情を僕は前から気に入っていた。
 「良く分かったね。」
 「じゃあ私、70年代生まれなんだ。80年生まれだから80年代の人間だと思ってた。」
 「枡田は早生まれ?」
 「ウン。2月生まれ、水瓶座。先生の天秤座とは相性がいいんだよ〜。」
 「ふうん。」僕は興味ないように返事をした。
 ほんのすこし沈黙があった。校庭ではバッティング練習の、かん高い金属音がときどき聞こえてくる。最近練習ができなかったせいか、いい当たりとはお世辞にもいえない音だ。職員室を見渡すといつのまにか誰もいなくなっていた。
 「ねえ西川先生。」枡田が、まじめな顔で言った。
 「先生って、彼女いるの?」
 「いるよ。」僕は、やばい、と思った。彼女がいる、というのはウソだったが、こういう場合はそう言うに限るのだ。
 「どんな人?」悲しそうな顔で枡田は言った。
 「どんなって……ヒ・ミ・ツ。」明るくかわしたつもりの発言だったが、枡田は泣き出してしまった。
 「どうして泣くの?」僕はおろおろした。
 「先生、ウソつくのヘタだもん!! ウソつかなきゃならないほど、私のこと嫌い?私じゃだめ?」と大泣きされてしまった。
 それにしても恋する女の子って鋭い。それにひきかえ男のニブいこと!僕は枡田に、これほどまでに好かれていたとは気づいていなかったのだ。
 「……ねえ、枡田。もし僕が枡田とつきあったら、ご両親がきっと心配なさると思う。」
 「だって。十六歳だったら、結婚できるのよ。」
 「法律上はね。でも未成年だとご両親の許可がいるって知ってた?」
 枡田は首をふり、手の甲で目をぬぐった。
 「それに先生と教え子、というのも困るよ。」僕はありきたりの言い訳を口にしたが、
 「化学の谷先生だって昔の教え子と結婚したって聞いたわ。」と切り返された。
 「それは『昔の』教え子だろう?」
 枡田は黙ったが、僕の方をじっと見つめた。どれだけ僕のことを想っているか、よく分かるまなざしだった。
 「だから……僕は、9歳も年上だよ。」僕には自分をつくる余裕がなくなってきていた。
 「同じ70年代生まれじゃない!」少女はさっきの話を使って切り返してきた。
 「君は、大学とか短大とかを経験するべきだし、就職して社会も経験すべきなんだ。その間にすてきな男性ともたくさん出会えるよ。」僕は答えに窮していた。
 少女は、僕の自己欺瞞を見破っているみたいな目で僕を見た。
 僕は、なぜ答えに窮しているのか自分で分かっていた。それは正直な答えを言わないで済まそうとしているからだ。この子を傷つけたくないからではなく、自分が面倒に巻き込まれたくないという、それだけだ。
 君は僕にとって恋愛対象じゃない。そうはっきり言うべきだ。
 窓の外からは、だいぶ当たりが良くなったバッティングの音が聞こえてきた。
 「……君とおつきあいすることは、今のところ考えられないんだ。」僕は言葉を選びながら、始めて本音を口にした。
 「……だったらひとつお願いしていい?」少女は真剣な表情で僕の言葉を受けとめ、言った。
 「聞いてあげられることだったら、いいよ。」
 「もう少し大人になったら、もう一回会ってくれる?そのときもう一度、おつきあいを考えてもらえるか、返事をもらっていい?」
 「いいよ。」この真剣なお願いに、否定の返事などできるわけがなかった。
 「じゃあ1999年の12月31日の夜に、一緒に初詣に行ってくれる?21世紀最初の日じゃないけど、でも、20歳になる年を一緒に迎えてくれる?」
 ……それからは少女は、卒業の日まで僕を困らせないよう接してくれた。それでいて僕のことがなお好きだということは伝わってきた。そして彼女が卒業してしまってから、僕は、自分が思ったより彼女を好きだったと気がついた。
 今まで自分に、あれだけ本音で接してくれた人間がいただろうか。
 だがもう遅かった。それから約2年何の連絡もなかった。僕は約束を覚えていたが、彼女は忘れていると、そう思っていた。3週間前、突然電話がかかってきたときまで。
  *
 「西川先生、こんなに寒いのにどうしてあと何分かしただけで『新春』なのかしらね?」笑子は可愛いくしゃみをして、言った。
 電車を降りて僕たちはある大きな神社へと向かった。0時とともに神社が開門するのを待つ人たちで参道はごったがえしていたが、人混みとはいえ立っていると寒かった。
 「さあ。どこかで区切らなかったら時間なんて無限に続くんだから。どこかで次の日とか、次の年とか、次の世紀とか決めなかったら。」答えにはなっていなかった。
 「そうね。私も、あと1ヶ月で、『大人』になるのね。中身は変わってなくても。キリスト様が生まれてから2000年目の2月に。どこかで区切りって、いるわね。」
 遠くで、除夜の鐘の音がした。
 「……西川先生。あのとき私、ずいぶん先生を困らせたと思ってます。ごめんなさい。」
 彼女がことばを切り出した。僕は彼女を見つめた。ずっと、たわいない話ばかりしていて、核心にはおたがい触れないようにしていたのだった。
 「短大に入ってつきあう男性もできたんです。でも本音で接してくれる人はいませんでした。相手がいないと格好が悪いから、というだけで、結局就職活動が忙しくなって、それっきり。」笑子は笑って続けた。
 「あのときはもちろん、本当のことを言われて本当に辛かったです。でも先生が気を遣って言ってくださったことも分かるし、私だって自分を相手にしてもらえるとは思ってませんでした。ずいぶんわがままを受け止めてもらって……そんな人今まで先生しか会ったことがないんです。もし今決まった方がいらっしゃらないのでしたら……来月で20歳になります、今だったら交際を考えてくださいますか?」笑子はまっすぐ僕を見つめていた。
 今度は近くで鐘がなった。
 そう、区切りはつけないと。
 「笑子。もう『先生』はやめてくれる?寛でいいよ。」僕は言った。
 「西川先生……じゃなかった、寛、それって……!?」笑子は驚き、そしてその驚きの表情はみるみる、僕の好きなあの笑顔に変わった。僕は黙ってうなずいた。
 その瞬間神社の門が開き、人波が僕たちの周りを動き始めた。

−終−


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