『New Year's EVE in 1999』 

北郷博之


 その時、男がいたのは、かつて空と呼ばれていた場所だった。
 透明な板の一枚で遮られた向こう側には、圧倒的な闇がある。掌で触れたなら、強い弾性でもって押し返されるような、たっぷりとした量感は、地上近くの浅い闇からは、決して、感じられないものだ。
 例えば、一〇〇年前、人はこのような場所にいる自らの存在を、想像し得ただろうか。
 視線を転じ、遙か眼下に広がる静と動の光点を、見つめるではなく眺めて、男は、微かに頷いた。
「想像することはたやすい。問題は、そこに行き着くための道程を見つけだすことだ」
「その通りです」
 予期せぬ返事は、男の背後からだった。
 ささやかな動揺を悟られぬよう、男は片側の頬だけを声の主に見せる。
 視界の端には、ダークグレイのタイトなスーツに身を包んだ、しゃんとした長身があった。
「あなたか。驚かさないでほしいな」
 返事は、艶やかな唇が象る曲線によって返された。
 男は、女にさらした頬だけに笑みを浮かべ、そしてその方向から振り返った。
 向かい合った二人の中間には巨大な机が座し、その上にはボトルと、グラスが二つ。
 男は無造作にボトルを掴むと、よどみなく、洗練された手つきで栓を抜いた。
 一方のグラスの中程までに漆黒の液体を注ぎ、次に、もう一方にも注ごうとした時、女が動いた。
 グラスの口を覆った掌、それを支える手首を、男の掌が包んだ。
「私は……」
「今夜ぐらい、いいでしょう」
 微弱な抵抗を無視して、掌を退けると、男はグラスに液体を注いだ。
「どうぞ」
 グラスを取り、女に差し出す。
 小さな会釈で女が受け取ると、さらさらとした髪が流れて、揺れた。
 と、その時、闇の中に、大きな、大きな、菊花が咲いた。
 女は、彼女自身の瞳でそれを見つめ、男は煌めいた女の瞳の中に、それを見た。
 振り返り、掲げたグラス、その向こうの散りゆく菊花たちの名残に、彼は、
「旧世紀よ、さらば。そして、新世紀よ、ようこそ」
 と、歌うように言い、一気にグラスを空けた。
 半瞬の静止した時を過ごして、女の秀麗な眉は僅かにその角度を変え、視線はとめどなく彷徨った。
 また外では大輪の菊花。
 いくつも、いくつも、いくつも。


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