「ようこそ」
浅川こうすけ
大端正治{だいばたしょうじ}は真冬の風に前髪をゆすられながら、しかし体の芯から暖かい思いをしていた。
十九万九千九百円という大金をはたいて手にいれたコートが、寒風から身を守ってくれているからではない。
だが、体の芯から暖かい思いをしているのは、やはりコートのおかげなのであった。
大端は突然足をとめた。
通行人が迷惑そうな顔をしてその横を通りすぎたがいっこうに気にせず、路肩にとめられた乗用車に近づき、サイドミラーをのぞきこんだ。胸のポケットからクシを取り出し、艶やかな黒髪の形を整える。かしこまらないように、前髪を数本だけ額へとたらしてやる。
最近になってやっと、この髪型に顔がなじんできた。
大端はおおきくうなずき、車からはなれた。
ターゲットはすでに決まっていた。横断歩道をわたってこちらの歩道にやってくる女性だ。肩で切りそろえられた髪と、なにより控えめな化粧なのが気にいった。
学生なのかOLなのか、そんなことはどうでもいい。西暦二千年まであと一週間のこの時期だ。世界はお祭り騒ぎのど真ん中、大半の人間は休暇をとっている。開放的な気分にもなっているだろう。ナンパの成功率もぐっと跳ねあがっているはずだ。
そして、なにより、このコートがある。
背中に「Good bye 19」と描かれているこのコートは、千九百年代を惜しんで限定販売された物だ。身につけているだけで、誘蛾灯に集まる蛾のように女性がよってくるという。実際にナンパに成功したという報告が、インターネット上の掲示板に毎日のように書きこまれていた。
これで、彼女いない暦二十五年という十字架を下ろすことができる。
大端は絶対的な自信を胸に、ターゲットの女性に声をかけた。
「か〜のじょ、いっしょに茶しばきにいかへん?」
アッパーカットが飛んできても、大端は文句はいえないだろう。
しかし、絶対的自信はいまだ存在していた。なにかのドラマで、このセリフでナンパを成功していたのを見たことがあるし、なによりコートがある。
大端は「Good bye 19」が、ターゲットの女性によく見えるように体をひねりながら、
「ねっ、茶しばきに……」
「はん!」
女性が鼻で笑った。冷笑の形に唇をゆがめ、なにも言葉を発さず、大股で歩き去っていく。
驚愕と当惑を眉根に刻み、大端は信じられないと目を見開いた。
刹那、向かい風が吹いた。冬風にあおられて、奇麗に整えられた大端の頭髪が、むちゃくちゃにかき混ぜられた。
近くを通りすぎたアベックの声が、耳を通して心臓に突き刺さる。
「バカだぜ、あいつ。あんな自信たっぷりでさあ」
野球帽のようなキャップをかぶった男に答えて、その連れの女性がこういった。
「まだあんなコート着てるくせにね」
大端はアパートに急いでとってかえし、パソコンの電源をオンにした。すぐにインターネットに接続し、「ナンパ絶対成功術」というページにアクセスする。間髪いれず、ページが表示された。
早すぎる。ハードディスク内に保存されていたデータを表示したのだろう。更新ボタンを押すと、最新のデータに取ってかわった。
しまった、と大端は下唇を噛んだ。最新のデータだと思っていたものは、何日も前に自分のコンピューターに保存されていたものだったのだ。
最新のデータに目を通していくうちに、大端の顔がみるみる青ざめていった。
「Good bye 19」と書かれたコートは確かに希少価値がある。
だが、より希少価値の高いアイテムが登場してきたのだ。
それが「ようこそ二千年」と書かれたキャップであった。二千年代に突入すると同時に、発売される予定である。
これを十九年代に先行して手にいれる甲斐性がある男。それがナンパに絶対成功する重要なステータスだということだった。「Good
bye 19」と書かれたコートは、すでに流行遅れなのだ。
大端の行動は早かった。神速でマウスをあやつり、飛燕の速度でキーを打つ。インターネット上でだれかにキャップをゆずってもらおうと、あっちこっちの掲示板に書き込んでいるのだ。
しかし、その日は、収穫はなかった。
収穫があったのは、一九九九年十二月三十一日であった。十九年代最後の記念すべき日である。
こんな記念日でも、宅急便は運用されていた。朝一番の荷物を受け取ると、大端はその小さな小包を引き裂いた。
ただし、中までは引き裂かない。五万をつぎこんでゆずってもらったキャップなのだ。
小包の中から出てきたキャップは、野球帽のような形をしていた。「ようこそ二千年」と書かれてあることをしっかりと確認する。
大端はさっそく鏡にむかった。クシを使って、髪の毛を整えていく。どうせ帽子をかぶるから見えないのだが、その見えないところにこだわってこそ、真の男ではなかろうか。
大端はキャップをかぶると、颯爽とドアをぬけて外へでた。早足で繁華街へとおもむく。
真冬の風が吹きつけてくるが、しかし体は芯から暖かかった。五万円をはたいたキャップのおかげであった。
「ようこそ二千年」
突然、耳のなかにその声が飛びこんできた。
電気屋のショーウィンドウのなかで、32インチのハイビジョンテレビが、民法のCMを流している。
大端は苦笑を浮かべた。
まだ十九年代なのに「ようこそ二千年」は気が早すぎる、と思ったからではない。
ブラウン管のなかでは、2000と大写しにされているのだが、そのゼロにあたる部分がおかしかったのだ。「2」と大きく明朝体で書かれた横に、スキンヘッドが三人分並んでいる。ご丁寧に眉までそっている。禿頭をゼロに見立てているのだ。くだらない。
大端は首をふりふり、そのテレビの前を後にした。自信満々の足取りで歩いていく。一週間前にナンパを失敗したあの場所へと。
今度のターゲットは、ショートカットで目がクリクリした女の子であった。
大端は今度こそという思いを胸に、ターゲットの女の子に声をかけた。
「か〜のじょ、いっしょに茶しばきにいかへん?」
大端は「ようこそ二千年」と書かれたキャップが、女の子によく見えるように体をひねりながら、もう一度、
「ねっ、茶しばきに……」
「はあ!?」
女の子が眉根をよせた。
「バカじゃないの。まだそんな帽子かぶってナンパするなんて」
靴音高く去っていく女の子をふりかえることはできなかった。
吹きぬけた冬風が、五万もしたキャップを吹き飛ばしたが、大端はまるで気にとめなかった。髪の毛もボサボサになったが、なでつける余裕さえなかった。
油の切れた機械のように、大端はぎこちなくあたりを見回してみた。
あの日と同じだった。
一週間前、「Good bye 19」と描かれたコートを着てナンパしたときと。
あのとき、だれもコートは着ていなかった。
今日もまた、キャップをかぶっている者はだれもいなかった。
――ああ、そうか。
と、大端は心のうちで嘆息をついた。
――今日は、一九九九年十二月三十一日なんだ。だから、すでに、この帽子は……。
大端の読みはあたっていた。
明日にはもう二千年になってしまう。そうすれば、この帽子はどこででも買えてしまうのだ。そんなものに、希少価値はなくなる。
ああ、またしても、大端はおいしい蜜を吸いそこねたのだ。先を読めていなかったのだ。
「ふふ」
大端は震える肩をおさえもせずに、唇を笑いの形に歪めた。そして――。
「ははははは!」
突然、狂ったように笑いはじめた。
躍らされていた。それがおもしろかった。
哀れな自分。それがおもしろかった。
もてる努力をした。それがおもしろかった。
努力をした気になっていた。それがおもしろかった。
笑っているのに、涙が込み上げてきた。それがおもし――いや、どうでもよくなった。
大端は頭の上にのっている物をつかんだ。
帽子はすでに風に飛ばされている。なら、なにをつかんだのだろう?
大端はつかんだ物を歩道に叩きつけた。
黒いそれは――カツラであった。
太陽の下にさらされた大端の頭は、皮膚の色一色であった。
視線が突き刺さってきた。歩行者たちは、きっと冷笑を浮かべているに違いない。
ハゲだという劣等感のために、大事な青春を棒にふってしまった。それを取り返そうと、カツラを購入した。インターネットで、ナンパ術を磨こうとした。なのに、こんな結果だ。
「ステキ」
まさか、濡れた声がかかろうとは!
大端はふりむいた。
肩で切りそろえられた髪に、控えめな化粧をした女性が、うっとりと瞳を潤ませていた。
なんと! 一週間前にナンパしたあの女性ではないか!
あたりを見渡せば、すれ違う若い女性全てがこちらを振りむき、ぼおっと頬を赤らめていた。男づれの女の子も、彼氏に引っ張られながら名残惜しそうにふりかえっている。
「ようこそ、二千年」
その声に、ふと脇を見てみると、街頭テレビに例のCMが写っていた。「2」と大きく明朝体で書かれた横に、スキンヘッドが三人分並んでいる。
まさか、という思いが大端なかで、急速に膨らんでいった。
――まさか、このCMが影響してスキンヘッドが重要なステータスになったのか?
そんなまさかという思いは、しかし女性の濡れた瞳の前では些事であった。
「どうにでもして」
女性が関極まっていった。
断る理由がどこにある?
「まかしとけ!」
脂ぎったハゲ頭に、キラリ太陽の光が反射した。
(終)