「Arounded by MUSIC」
コロ助
うたの出典:特になし


 技術の進歩というものは恐ろしいもので、少し前までビープ音のような呼び出し音しか鳴らせなかった携帯電話が、CD顔負けの音質で歌い出すようになるまでそう時間はかからなかった。
 ちょうど、ヒット曲を携帯の呼び出し音にするのが流行っていた時分のことだったから、たちまちのうちに街は様々な歌声であふれ、特に通勤電車の中などはジュークボックスを引っくり返したような騒ぎになった。
 最初のうちは、私も携帯の音源の性能が向上することを歓迎していた。なにせ、あの呼び出し音というやつはひどく耳障りで、3音か4音の貧弱な音源で、聞き飽きたヒット曲のコーラス部をエンドレスに聞かされるのは苦痛以外のなにものでもない。だからまともな「歌」が聞かせてもらえるのなら……、そう思って無邪気に喜んでいたのだ。
 間違いだった。
 想像してみて欲しい。君が普段乗り込んでいる電車に持ち込まれている全てのウォークマンにアンプとスピーカーがついているとしたら。
 「歌う携帯電話」発売の翌日に私が遭遇したのは、まさにそのような状況だった。
 隣のサラリーマンの懐から演歌が流れ出したのを皮切りに、ポップス、ヘビメタ、ハウス、ありとあらゆる音楽が私に襲いかかってきた。
 最初の3駅の間に私は目眩を覚え、次の3駅で吐き気をもよおし、道程の半ばを過ぎる頃には瀕死の状態に陥っていた。
「ひどいもんですな」
 隣に立っていた老紳士が苦虫をかみつぶしたような表情でつぶやいた。彼の横にいる少年の鞄からは、ベン・E・キングの「スタンド・バイ・ミー」をよりにもよってパンク調にカバーしたサウンドが流れ出していた。私は老紳士にむかって「まったくです」とうなずいてみせた。
「いくら良い音質でも、こんなに混ざり合っちゃ騒音でしかないですよ。周囲の迷惑です」
 老紳士は我が意を得たりというようにうなずいた。
「あなたはよくわかっていますね。左様、こんなのはただの騒音です。まったくデリカシーがない」
 私はほっとした。話の通じる人間もいるのだ。誰もが「歌う携帯電話」に飛びつくわけではない。
 しかし私の心の平安は次の瞬間、もろくも崩れさった。
 老人の胸ポケットから、ひときわ強烈なファンファーレが聞こえてきたのだ。
 ワーグナーの「タンホイザー」だった。
 私は絶望的な気分になった。



 私は翌日から電車で通勤するのをやめた。
 家から会社までは電車で30分くらいの距離で、頑張れば原付で通えないこともない。車庫に眠っていたカブを引っ張り出し、埃にまみれたシートを雑巾で拭った。ガソリンを入れるため、もよりのスタンドまで手で引っ張っていかなければならなかったが、かまうことはない。あの気違い騒ぎに付き合うことを考えれば、よほどマシというものだ。
 早朝の道路は込んではいるが、動かない程ではなかった。いざとなれば車の脇をすりぬけていってもよい。エンジンが奏でる排気音の多重旋律はけして静かではないが、無秩序な音の洪水に比べればまだ好感がもてる。
 私は快適な気分でカブを走らせていた。
 その時だった。ディストーションのかかったギターサウンドが横殴りに私に叩き付けられたのは。
 私は傾きかけた重心を左から右に戻した。そうしなければ、頭からガードレールに激突していたことだろう。危うい体勢を、左足の筋肉だけで何とか支えながら、私は自分に襲い掛かった脅威の源を捜した。
 横を走っている車の窓が開いて、そこから強烈な音の奔流が流れ出していた。カーオーディオか……? 違う。私は悪い予感がした。
 ちょうど赤信号になって、私を囲むように何台もの車がとまった。そして悪夢が再現された。
 歌、歌、また歌!
 助けを求めるように天を仰いだ私の目に、ビルの壁に据え付けられた大画面テレビジョンが映った。そこでは若者文化の旗手とされるハイティーン・アイドルがにこやかに新製品の紹介をしているところだった。
『新製品「ドライブ・サウンド」は車に搭載できる歌う携帯電話! 話題の新曲を簡単登録。もちろん安全なハンズ・フリー仕様。ドライブの間も好きな人とつながっちゃうね。広がるネットワークは〇△から!』
「………」
 その日は普段よりも道が込んでいたようだった。
 結局私は、それから一時間近く無数の歌を聞かされ続けた。



「考えてみたんだ」
 私は朝食前に妻に相談をもちかけてみた。
「なあに?」
 電子レンジから解凍したエビフライを取り出しながら、妻は尋ねかえしてきた。
 考えてみれば、妻も昼間は働きに出ており、その通勤には電車を使っている。同様の地獄にまみえていてもおかしくないはずだが、それにしてはその表情はさっぱりしている。ものの感じ方の違いなのだろう。だが、それで片づけることは私にはできそうにない。
「あの歌う携帯電話とやらをどうすれば避けることができるか、ずっと考えていたんだけどね」
 妻はころころと鈴のなるような声で笑った。
「気にしないのが一番よ。あんなのどうせ流行モノなんだから。すぐにすたれてなくなるわよ」
「そうかなぁ……」
 私は半信半疑だった。
「そうよ。だって携帯の呼び出し音なんて、長くても30秒も続かないじゃない。今はみんな物珍しさから、取らずに鳴らしっぱなしにしてるのよ。そのうち普通の呼び出し音に戻るわ。だってあんまり長いこと電話にでなかったら向こうの人も電話切っちゃうし、一分やそこらじゃまともな曲は聴けないでしょ?」
「そりゃそうかもしれないけど」
 私は溜め息をついた。私の精神は、周囲の人間が「歌う携帯電話」に飽きるまでもってくれそうになかった。
 私は心をきめた。
「悪いけど、今日からちょっと会社の仮眠室で過ごすことにするよ。土日はちゃんと戻ってくるようにするから……」
「あら、そう?」
 エビフライの尾を菜箸でつかんだ妻はちょっと不満そうに言った。
「エビフライ作りすぎちゃったんだけどねぇ。一人で食べきれるかしら」
「お弁当で持ってくよ」
 私は少し気分がよくなって、妻の手からエビフライを受け取り口に運んだ。これで明日の朝は快適に過ごせそうだった。

 その夜、私は仮眠室に寝袋を運び込んだ。
 ちょうどプロジェクトが終わったばかりなので、他に利用する人間はいない。貸し切り状態というやつだ。私は満足した。これなら邪魔されずにゆっくり眠ることができるだろう。
時計の針は11:30を指している。始業時間の前に朝食をとりに行きたいので、目覚しの時刻は8:30にセットする。だが、最初に目が覚めたのは12:30だった。
 枕元で北島三郎が歌っていた。
 誰かが置き忘れた携帯らしい。仕事の電話かもしれないので、私は仕方なく通話ボタンを押した。
『もしもし!? あんた今いったいどこにいるのよ』
 女の人の声だった。彼女は携帯電話の持ち主が、ホストクラブか雀荘で道草を食っていると考えているらしかった。私は懇切丁寧に事情を説明したが、彼女は納得してくれなかった。
『そんな言い訳で納得すると思ってるの!? そこにいるんでしょ? 出しなさいってば!』
 私は諦めて電話を切った。このまま話し続けても、彼女の誤解をとくにはまだまだ時間がかかるだろう。今の私に必要なのは、会話ではなく睡眠だった。
 私は携帯電話を放り投げた。
 沈黙が続いたのはほんの5分だった。北島三郎が再び歌いだした。
『今日という今日は逃がさないんだからね!』
 私はしばらく考えてから電源を切ればよいことに気がついた。だが「切」とかかれたボタンを押すと、携帯は「パスワードを入力してください」と歌いだした。私は癇癪を起こし、携帯電話を三階の窓から放り投げた。
 疲労困憊で仮眠室まで戻ってくると、そこにはディープパープルの「スモーク・オン・ザ・ウォーター」が流れていた。ぼんやりした頭で仮眠室を見渡すと、畳の上には他にも私物がいくつか転がっているようだった。
 私は諦めて、自分の席に戻り机の下に転がり込んだ。
 悪いことに空調はまるできいていなかった。そしてそこにも誰かが置き忘れた携帯がいくつか転がっていた。
 結局、その晩は一睡もすることができなかった。



 次の日の朝早くに私は会社を抜け出し、家に帰った。
 妻の車に乗って病院にいくと、医者は「ノイローゼですね」と断定した。
「少し、入院することをおすすめします」
 願ったりだった。
 会社は休むことになるが、これ以上あの歌う携帯とやらに関わるのは御免だった。私が入院する棟には携帯電話の持ち込みが禁止されている。しばらくはゆっくりと休ませてもらうつもりだった。
 だが、退院の日は意外にはやくやってきた。
 「歌う携帯電話」が発売禁止になったのだ。

 考えてみれば単純な話だった。CDなみの音質でフル・コーラスとくれば、呼び出し音といえど原曲とかわりない。音楽業界が著作権を盾に規制を求めるのは当然の話だった。
 もちろん、移動体通信各社は著作権がクリアな曲ばかりを配信していたが、世の中にはいくらでも悪い奴がいる。そいつらが膨大な曲目を無料で配信しはじめたために、「歌う携帯電話」は非難のやり玉に上げられたのだ。
 それと妻の予言も的中した。歌う携帯電話そのものに皆が飽き始めたのだ。
 3ヶ月を待たず、通勤電車の中から歌が消えた。残ったのは昔ながらの呼びだし音と、ウォークマンのイヤホンから漏れるシャカシャカという小さな旋律だけだった。 
 私は静かになった車内で、いつものように吊革広告に目を走らせていた。ゴトンゴトンと身体を揺するリズムが心地よい。おそらく歌う携帯電話が流行することはこの先しばらくないだろう。だが、ある広告に目を移したとき、私は驚きのあまり、卒倒しそうになった。
 そこでは若者文化の旗手と黙されるハイティーン・アイドルがにこやかな表情で、新製品を紹介していた。
「世界に差をつけろ。『躍る携帯電話』登場」
 悪夢は次の朝からはじまった。


戻る