『紫炎』
吉井あひる
うたの出典:「BURN」The Yellow Monkey


「楠木……冴子さん?」
「小倉先生でしたっけ?」
「そうだ、N中学で担任だった」

 デパートやショッピングモール、駅などを結ぶ地下街はいつでも人があふれている。ましてや週末の午後六時、波のように動く人々の中で小倉隆史は、その女性の顔を見つけた。白いシャツにデニムのパンツ。特に目を引く服装をしていたわけではないのに、隆史の目に彼女の姿が飛び込み「あ……」と小さく呟いて、彼は彼女に近づき、声をかけた。
 隆史が十年前の教え子の顔を覚えていたのと同じように、冴子もまた声をかけてきた男性が、かつての担任だったとすぐわかったようだった。
 十年という歳月は思ったほどには人を変えないものかも知れない――隆史はそう思った。が、十年前の自分と今の自分ではずいぶん違う。仕事も生活も変わってしまった。
(楠木冴子もおれと同じように変わってしまったんだろうな)
「今は何をしてるの? 二十四歳になったんだよね?」
人ごみから外れるように、自動車のショールーム横に移動して話す。
「仕事をしてる。そして一人で気楽に暮らしてるわ」
ショールームのガラスにもたれるように立って冴子が答える。
 黒いストレートヘアは肩の上で切り揃えられ、薄化粧の下の肌は荒れた様子もなく健康的だ。もともと整った部類に入る顔立ちをもつ冴子は、品の良いお嬢様のようにも見える。「落ち着いた暮らしをしてるんだね」
「ええ」
冴子と話しながら隆史は、彼女が変わっていたとしても変な方向に変わったのではないと思え、ふと安心感を覚える。
 隆史の知る過去の冴子は、今みたいに柔らかな笑顔を見せることはなかった。どこか冷たく挑戦的でもあった冴子の笑顔。隆史の人生を変えるきっかけともなった中学三年生の頃の冴子の笑顔を思い出し、隆史は胸の奥に冷たい塊がつかえるような息苦しさを感じ、冴子から目をそらせた。

「元気そうで安心したよ。それじゃ」
目をそらせたまま隆史は、別れを告げ、立ち去ろうとした。
「先生」
冴子が呼び止める。
「急ぎますか? 少しお話しする時間はないのかしら? せっかくの偶然の再会、なんだかもったいないわ」
冴子は背を向けかけた隆史の前に回り込むようにして言う。少し傾けた首と柔らかな笑み。
「いや……急ぐわけではないけれど」
「じゃぁ、どこかでお茶かお食事でもしませんか?」
冴子に誘われるまま、隆史は地下街を出、まだ夕暮れの気配すらない真夏の道路を歩く。アスファルトの照り返しと車の排気ガスが粘っこい暑さとなり、それが体にまとわりつく。その暑さの中にいても、隆史の胸の奥の冷たい塊は消えないままだった。
「この時間だから食事しましょうよ。この先にいい店があるの」
冴子に主導権を握られた格好で、隆史は料理屋の小さな座敷に案内された。

「教師を辞めたんだ」
ビールで乾杯し、一通りの料理が運ばれたあと、努めてさりげなく隆史は言う。
「そうなんですか……今は何を?」
「予備校の講師をやってる。受験のテクニックだけを教えてるよ」
「いつ頃からですか?」
「君が卒業してすぐに中学校を辞めた。その半年後からだから、十年になるね」
「ベテラン講師ですね。受験って、私は経験がないからよくわからないんですけど、やっぱり大変なんでしょうね」
「君はなぜ進学しないことを選んだのかな。十年前にも訊いたけど。結局答えてくれなかったし」
「あら、私、答えましたよ、十年前に。学校も勉強も興味がないし、親がかりの生活がイヤだからって」
「でもなぁ。あれだけの優秀な成績でさ。もったいない」
「もういいじゃない、今さら。それに私、この十年かなり幸せに暮らしてきたのよ。まるで後悔がないといえば嘘になるけど、間違っていたとは思わないわ」
「幸せか……それなら良かった」
隆史はビールビンを取り上げて冴子のグラスにつぐ。冴子も隆史に注ぎ返しながら
「ねえ、先生」
「ん?」
「覚えていますか? あの頃のこと」
「あぁ。中学三年生の君と教師三年生のおれと。忘れられないさ」
隆史はネクタイを緩め、小さく息をつく。冴子は少し微笑んで右手を伸ばす。その右手が隆史の左頬に触れた。

(あの日と同じだ)
 隆史は目を閉じた。
 胸の奥の冷たい塊が隆史を息苦しくさせる。
 
――進学しないのか?
――しません。
――なぜ?
 放課後の教室には冴子と隆史だけが残っていた。明日が高校への願書提出期限。今ならギリギリ、高校進学へと進路を変えることも容易い。
 が、冴子はあくまでも進学しないという。更に就職の斡旋もうけないという。

――卒業したらどうするつもりだ?
――自由になるの。

 隆史には冴子の考えていることがまるでつかめなかった。それでも、所詮は学歴を云々とする社会の中に冴子を放り出すことが躊躇われ、なんとか進学してみる気にならないかと何度も放課後の教室に残しては話をした。
 そんな隆史を、先輩教師達は冷ややかな目で見ていた。
――楠木冴子はダメですよ、まともじゃない。
 そんな声さえ聞かれた。
――まともじゃないってどういうことですか? 成績も良いし真面目に登校している、特に問題のない生徒です。
――小倉先生はご存じないのですか……。
――何を?
――彼女の男性関係がね……派手だと。もっぱらの噂ですよ。特に女生徒達の間ではね。
 楠木冴子の体にはキスマークらしい赤い痣がいくつもついている、夜の繁華街をうろついてはナンパをしているらしい、などという噂をその教師は隆史に教えた。
 ばからしいと思いながらも隆史は、夏服の隙間に垣間見えた冴子の二の腕にあった赤い痣や、冬でも隠しきれない手首やふくらはぎに爪でひっかいたような傷跡があることを思い出している。

 願書提出期限前日の放課後、隆史は冴子にその件を問いただした。
――バカみたいな噂がたっているのは私も知ってる。
冴子は特に気にする様子もなく、さらりと言う。
――体中にキスマークがついてるって言うのは本当よ。見る?
冴子はにやりと笑って制服のブレザーを脱ぎ、リボンを外し、ブラウスのボタンを外した。何も言えないまま隆史は冴子の行動を見守る事しかできなかった。
 冴子の白い肌の上に咲く赤や紫の痣。瘡蓋。息をのむ隆史に冴子が笑いかける。どこか挑戦的な笑顔だった。
――火のないところに煙は立たない、ってよく言ったものよね。私はしょっちゅう男に抱かれてるわ、噂どおりにね。
 言葉を見つけられない隆史の頬に冴子の手が伸びる。冴子に触れられて隆史は硬直し、同時に何かが隆史の中で壊れた。
 気がつけば隆史は冴子を抱きしめ、彼女の痣の上に新たな痣を刻んでいた。
 まだ若さを持てあまし、遊び慣れてもいない二十五歳の彼には自分を抑える術がなかった。
 恋だったのか、単なる肉欲だったのか……卒業までの僅かな期間、隆史は何度も冴子を放課後の教室や自分のアパートで抱いた。休日には買ったばかりの車の助手席に冴子を乗せ、真冬の海に出かけたりもした。
 冴子の体には別の男の形跡らしきものがはっきりとわかる時があった。そんな時、隆史は決まって冴子を問いただした。
――誰だ? 誰に抱かれた? 恋人がいるのか?
醜い嫉妬、独占欲……とにかく思いやりのない言葉を口にしていた。
――恋人なんかいないわ
無表情に言う冴子。
 今思えばどこか狂っていたとしか思えない自分自身に苛立つ隆史だが、無表情な冴子の頬を打ったこともあった。
 頬を打たれた冴子は、なぜか微笑んで
――私が好きなのは先生だけだわ。
そう言った……。


「訊いてもいい?」
ベッドの上で隆史が言う。料理屋を出て、どちらが言い出すでもなく訪れたホテルの一室で、十年前と同じように互いを貪り合い、熱を吐き出し合った後で。
「なに?」
「君はおれのこと、好きだった?」
冴子は曖昧に微笑んで隆史に口づける。それだけで、何も言わなかった。
 どこか寂しげな笑みを浮かべて隆史は
「受験しか目的のない奴らに、それに勝つテクニックを教えるって言うのは、考えようによっちゃ楽な仕事だよ。結局、教師に教えられることなんてテクニックだけだ。人の心なんて何年教師を続けたところでわかりゃしないんだろうな。学力だけじゃない他の部分で生徒の役にたとう、何かを変えてやろうなんて単なる思い上がりだって、おれは痛感したよ」
冴子は黙って隆史の胸に顔をうずめていた。
「卒業したとたん、君とは連絡もつかなくなるし……おれは自分の無力さ、バカさを思い知った。それで学校教師を辞めた」
隆史が知らせておいた電話番号に冴子がかけてくることはなかった。そして冴子の家にかけてみても『冴子はここにはもうおりません』という返事しか聞かれなかった。居場所すらわからなくなってしまった。自分はほんの気まぐれの相手だったのだと思いこむ。どこかで冴子の何かを変えてやりたいと思っていた隆史は、それだけで打ちのめされた。生徒の心の領域まで踏み込むことは不可能なのではないか。それならいっそ、単純に受験のみを扱う仕事の方がいい……子供じみた理論ではあるが、当時の隆史は冴子に限らず生徒達の気持ちをつかむことができず、自己嫌悪と苛立ちの中で過ごしていた。卒業してから音信不通となった冴子。その冴子にどこか断ちきれない想いを抱いている自分。それに嫌気がさして予備校講師に転身した。偏差値だとか合格者数だとか、何もかもが数字となって現れる世界の中にいて、隆史はなんだか気楽だった。

「仕事は楽しい?」
胸に抱いた冴子の髪を撫でながら訊く。
「楽しい……かな。楽しくない時もあるけど、気を紛らわせて楽しむようにしてるの」
「利口なやり方だね。どんな事をして気を紛らわせてるの?」
冴子は隆史の腕を抜け出、仰向けに寝ころぶと両手を天井に向けて伸ばし、指を組んだ。
「思い出すの、夕焼けやささくれだった畳や冬の海」
「なんだ? それ」
隆史はよくわからないまま冴子の横顔を見つめる。
「想い出、なのかしらね。時々思い出す風景なのよ」
「それが気を紛らわせてくれるの?」
「ええ。幸福な想い出がある私って幸せだと思うわ」
寝ころんでいた冴子だが、起きあがると
「シャワー浴びるわ」
バスルームに消えた。
 隆史が煙草を一本吸い終わる頃、冴子はシャワーを終え、衣服を身につけ始める。髪を乾かし化粧を整える。わずか十五分ほどで冴子の身支度が整う。
「そろそろ行かなくちゃ。先生はどうするの?」
「眠いから泊まるよ」
「そう。じゃあ私、失礼しますね」
冴子はバッグから財布を出すと一万円札を一枚抜き取って、テーブルに置く。
「ホテル代、割り勘でいいかしら?」
「いらないよ」
「そんな訳にはいかないわ。私だって社会人やってるもの」
「とにかくいらない。そのかわり、連絡先を教えてくれないか?」
冴子は微笑んで隆史に軽く口づける。
「さよなら」
一万円札をテーブルの上に残したまま、冴子は部屋を出ていった。残された隆史は、冴子がまた腕の中からするりと逃げ出してしまったと感じながらも、後を追うこともできずベッドの中で冴子を見送った。


 それからどのぐらい経っただろうか……二ヶ月か三ヶ月か……。既に秋の色が濃くなっていた。
 隆史は週刊誌記者の取材申し入れの電話を受け取った。
『楠木冴子さんをご存じですね?』
政治問題から芸能記事まで扱う有名な週刊誌の記者を名乗る男が、電話口の向こうで言う。隆史はその記者の意図することが飲み込めず、無言のままだ。
『楠木さんの中学時代の担任だったと聞きましたが』
「はぁ。そうですけど」
『ちょっとお時間いただけませんか? 都合の良い時間を知らせていただければお伺いさせていただきます。もちろんそちらの都合のいい場所を指定して下さっていいのですが』
「楠木さんに何かあったのですか?」
『いや、まぁ、会っていただければ教えますよ。まだどこも記事にしていない話題ですからね』
どこか気の重くなるような電話ではあったが、冴子の近況にふれられるかもしれないと思って隆史は、その記者と会う約束をした。

 隆史が指定したデパート屋上のペットショップ。そのすぐ横のベンチで記者は待っていた。平日のデパート屋上には人影も疎らで、少し離れたベンチに老人が座っているのと、ペットショップ内で一組の親子がいるだけだった。
 記者は名刺を差し出す。そしてすぐに本題を切り出す。
「楠木冴子さんがある有名な政治家と繋がっているという噂がありまして」
「は?」
隆史にはその記者の話す言葉の意味が分からない。
「つまりですね、特殊な関係な訳ですよ、その某政治家と」
「特殊と言いますと……愛人とか?」
「まぁそれもあるかと思いますが、彼女は情報収集のために政界・財界の著名人達の寝物語を聞いていたらしいんですね」
「スパイみたいなものですか……」
「はい。目的を持った高級娼婦といったところですけども」
「娼婦?」
「はい。斡旋係が楠木さんのスポンサーである某政治家というわけでして。で、我々は最近その政治家先生がらみのスキャンダルを入手しまして。それを取材しているうちに楠木さんに行き当たったわけです。ちょっと調べてみると彼女は、非常に興味深い経歴をお持ちだ」
「彼女を記事にするのですか?」
「実名ではしないと思いますよ。政治家先生にまつわる女達、と言った取り上げ方でしょう」
「そうは言っても、私は彼女に関して個人的には何も知らないのですよ」
「またまたぁ。あなたが彼女と深い関係にあったことは調査済みです。それも中学生だった彼女とね」
隆史は口の中に苦いものが広がるような気がした。
 記者は隆史の表情が強ばったことなどには構わず続ける。
「あ。あなたを糾弾するつもりはありませんよ、念のため。あれですね、楠木冴子さんは小学生の頃から性的虐待を受けていたとか。ご存じですよね?」
そんな事は知らなかった隆史は首を振る。振りながら冴子の体の痣を思い出す。性的虐待であったとすれば、なんとなく納得がいくような痣であった。
「とぼけないで下さいよ。楠木さん自身が認めてるんですから」
「彼女にも取材をしたのですか?」
「もちろんです。十分な取材をしなければいい記事は書けません」
「……」
「楠木さんは認めていますよ、実父からの性的虐待があったこと、政治家先生との関係、さらにはスパイ的行動までね」
「おれは知らない!」
思わず隆史は叫んだ。叫んだ自分の声に驚いて口を押さえる。周囲を見回すが、ベンチに座った老人は居眠りをしているし、ペットショップの中にいた親子は既にいなかった。誰も隆史達に関心など持っていない。
「変ですねぇ。楠木さんは小倉先生のことを別格扱いしていましたよ」
「別格?」
「はい。小倉先生がいたから私は生きていけるの、なんて言ってましたから」
隆史には何もかもがわからなかった。冴子にとっては自分を犯した父親と同じ事をおれはしている。なのに冴子は、自分に感謝すらしているらしい……そんな馬鹿な話はあり得ない。いつだって隆史は肉欲の赴くまま冴子を抱いていた。抱きながら罪悪感に囚われて、それが冴子を救ってやりたいという見当違いの気持ちとなっただけだ。
「本当に私は何も知らないし、わからないんです。お役に立てなくて申し訳ないんですが」
「そうですか。ご足労いただいて申し訳ないです。ありがとうございました」
隆史からは何も得られないと悟ったのか、記者はあっさりと引き下がった。
 厭な気分で隆史は記者を見送り、厭な気分が抜けきれないまま帰路につく。冴子の過去や現在、それらは隆史には関係のないところで回っている。ほんの一瞬、隆史は冴子の過去に関わりはしたが、だからといって冴子との関係が特別なものだったわけでもない。隆史はあの中学校の放課後の教室から、冴子に対して特別な、と言うよりは不可解な感情を抱いてはいたが、若さ故の熱だったと今は思っている。
 冴子の過去や現在、結局、自分はそのほとんどに関われない「その他大勢」の一人であったことを実感する。性的虐待や娼婦だということ、そのどちらをも隆史は知らないでいて、知らないまま冴子を抱いていたわけだ。
――私が好きなのは先生だけだわ。
 遠い昔、聞いたことのある言葉。
 今の隆史には幻聴だったかとも思える。

 隆史は自分の中から冴子の姿を追い出す。冴子が隆史の人生の中で転機となったのは確かだが、所詮は一時の熱だけで繋がりあった関係だ。そう思う。
 だから隆史は、冴子と関係のあったという某政治家のスキャンダル記事を読まなかったし、楠木冴子(匿名になってはいたが)の手記、なんてものがあることも知らずにいる。知っていたなら、冴子が手記によって隆史に寄せた思いを知ることもできただろうが……。そこには以下のような記述があった。

『恋を知るより先に体だけが大人になってしまった私には、同級生達の話す恋の話がよくわからなかった。この前彼と遊園地に行って初めて手をつないだの、なんて言いながらきゃぁきゃぁ騒いでいる女の子達の気持ちがわからなかった。私にとっては男女の関わりは肉体の結合でしかなかったのです。そんな私が初めて淡い恋心を抱いたのが中学時代の担任の先生でした。表だってはいなかったけれど色々とトラブルを抱えていた私のことを気にかけ、事あるごとに話をしてくれた先生に対し、私は感謝とともに恋心を抱いたのでした。けれども、私は肉体を捧げることに於いてしか、気持ちを伝える術を知りませんでした。先生はそれは優しく私を抱いて下さいました。あんなに丁寧に扱われたのは初めてでした。こういうのが本当のセックスなのだろうか。幼い私はそう思いました。私を抱くだけではなく、ドライブに連れていってくれたり、いろんな話をしてくれたり……今思えば、あの頃が、先生と過ごした僅かな時間が、私にとってはもっとも満たされた時期だったのです。
 中学校を卒業した私は、年を誤魔化して水商売の世界に入り、すぐに実家を出ました。実父から逃れるために。安物の女を続けながら、先生との想い出があるから私もなんとか人並みに恋だって知ってるんだ、と思えることができ、それだけでなんだか誇りを持っていられたようにも思えます。
 やがて今、渦中にある政治家の先生に拾われる事となりましたが(当初、私は彼の地位や経歴など、まるで知りませんでした)その後始まったとんでもなく割り切られた世界、何もかもが金や地位名声その他で動く世界の中にいても、私はこの僅かな誇りだけを大切に抱いて、自分を見失うことなく過ごせたのです。
 もちろんこれは、私の独りよがりの感情でしかありません。私の唯一の恋の相手である先生は、私の気持ちなどまるで知らないだろうと思います。寧ろ私は、先生の中に「教え子を抱いた」という罪悪感を抱かせてしまっただけでしょう。
 つい先日、偶然に街で再会した先生から、学校教師を辞めたのだと聞かされました。十五歳の私を救うことができなかったと悔いておられました。けれど私は、先生によって救われたのです。救われたのだということを、先生に伝えることができないでいただけなのです。伝えられなかったことを私は悔やみました。かといって、今さら私が恋を告白したところで、蔑まれるだけでしょう。私は自分の仕事の事を大っぴらに話すことすらできない立場にいます。
 抱かれる相手が政財界の大物であるというだけで、所詮は単なる売春婦です。遠い昔に強制や惰性で抱かれていた私が、今は金によって抱かれている。なぜ抱かれなければならなかったのかわからなかった過去に比べて、金という目的がはっきりしている今の方が、私は幸せだと思えます。私は社会的には蔑まれる立場にいる女でしょう。けれども私は、今、かなり幸福な生活を送っていると感じるのです』

 手記が週刊誌に掲載された後、楠木冴子の消息は不明となった。北陸の温泉地近くの小料理屋の女将をしているという噂もたったが、噂の真偽は確かめられなかった。


    END
 


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