カレーライス(食事ノ時間その二)
萬忠太
うたの出典:「カレーライス」遠藤賢司
(アルバム 遠藤賢司Special収録 古い曲ですが名曲なので他のアルバムにも入っているでしょう。フォーク全集みたいなものの方が見つかりやすいかもしれません)


 ゆかは、ひたすら玉ねぎを切っている。
 顔が涙でぐちゃぐちゃだった。僕は、テレビを見ていたのだが、呼びつけられてゆかの横に突っ立っている。ゆかのマンションはワンルームだから、つけっぱなしの高校野球の声だけが耳に入ってくる。多くの声が一つの声を形成する。応援の声を聞きながら玉ねぎを切っている。球場の真ん中で大声援を受けながら玉ねぎを切ったら、緊張の余り指を切るだろう。珍プレー好プレーの番組で馬鹿にされるに違いない。板東英二に馬鹿にされるのは許せないな……。
 ゆかが玉ねぎを切る音が耳に心地よい。しかし、涙腺はゆるむ。
「あのさ……玉ねぎ、せん切りにしてよ」
 僕は、ん〜と言いながら、差し出された果物ナイフを鞘から抜いた。せん切りをしようとしたが、やり方がわからない。
 ゆかは、大量の玉ねぎを、リズミカルにとは行かないが、それなりの速度でせん切りにしている。弱火で火にかけ水分として使うのだそうだ。僕が玉ねぎを縦にしたり横にしたりしていると、ゆかが吹き出した。
「泣くんだ」
 僕は「泣くさ」と言うと、果物ナイフで玉ねぎをざっくりやった。
「……せん切り出来ないでしょ?」
 ゆかはボールに切った玉ねぎを移しながら、僕の手元を笑う。
「出来るなんて言って無いじゃないか」
 ゆかは僕の答えにあっそと言うと、一息置いて、
「じゃぁあっちでテレビみてて良いよ」
 言われて僕は涙を拭いながらテレビの前に寝転がった。二回表、ワンナウト一塁。暑いな。肌を包み込む暑さに、僕の気力とかそう言う物がどんどん萎えていく。黄色いチアガールが単調に踊っている。選手より辛いかもな。帽子もかぶらぬ彼女達を心配しながら、いつぞやテレビ局の職員が彼女らのスカートの中身を取材した事件を思い起こした。
『ツーアウトランナー二塁と変わっております。さぁここで迎えるバッターは五番池内。地区大会ではホームランを二本打っております』
 窓辺の南部風鈴が高く澄んだ音を鳴らす。僕は、扇風機の首振りを切って自分に向けた。
 一球目はボールだった。バッターが軽く確かめるような素振りをする。
 僕は新聞を開く。今日は八月十五日……終戦の日か。絶対に黙祷をしなければ。
 扇風機の風が、新聞紙をめくりあげる。「まだ読んでる」と呟いた僕の鼻に、ニンニクと醤油の焦げる香ばしい香りが漂ってくる。食欲が引っぱり出される。食べたら胸焼けしそうだが、どうしても食べたい。そう言う香りだ。肉を焼いているのだ。その後、涙ながらに切り刻んだ玉ねぎを入れる。
『松久学園、福安高校から三点のリードを奪っております』
 新聞を眺める僕の耳に、アナウンサーの声に混じって、ゆかの声が飛び込んできた。
「扇風機さん壊れたのかなぁ。落ち込んで下向いて、首振りもできないようになって」
 ゆかは首を引き起こして、首振りボタンを押す。扇風機は気を取り直して部屋の中を睥睨する。
「そっちは換気扇あるんだからいいだろ」
ゆかは「あんなんで涼しくなるわけないじゃない」と言ってちゃぶ台に煎餅の袋をおいた。
 ちゃぶ台はゆかの趣味である。ゆかの部屋は普通にカーペットがひかれた部屋だが、テーブルだけはちゃぶ台である。
 僕は起きあがって煎餅に手を伸ばした。
 ゆかが「麦茶飲むでしょ?」と言って立ち上がり、冷蔵庫の扉を開けて首を突っ込んだ。
 すぐに覗き込んだ顔を上げると、
「飲むヨーグルト買ってきて欲しいんだけど、いい?」
 僕は『暑いから嫌です』と顔に書いたが、彼女は意に介さないふりをした。
「いいよ。行く……なかじまでいいんだよな」
 スーパーなかじままで歩いて十五分くらいだろうか。僕のようにちんたら歩いたら三十分はかかるかも。
 麦茶をもって席に戻ったゆかは、煎餅の袋を破り、煎餅をくわえた。いつもながらのジーンズにTシャツである。料理の時は、アネさんかぶりに、エプロンを欠かさなかった彼女だったが、最近はやめてしまった。
 物を食べるときは喋らない、テレビも観ないをモットーにしていた彼女が、最近ではそう言うこともないようだ。
「美味しく食べられればそれで良いじゃない。片意地張ってたってしょうがないでしょ」
 と言って彼女は主張を曲げた。全く簡単にである。
 僕は固い煎餅を、かみ砕きながら麦茶を飲む。香ばしい醤油煎餅が口の中で麦茶に溶ける。
「正晴って、最近食べ物美味しそうに食べるよね」
 と言うゆかの感想をもらったのは、つい最近である。たしかに前より食べることが好きになった。それに今日は食べられることに感謝する日である。何々の日には何々をする。と言うことにばかばかしさを覚える人は多い。でも僕は好きだ。
 とにかく今日は平和に感謝して、戦没者の霊を弔う日なのだ。
 ゆかは、千円札を取り出して「これで買ってきて」と言った。僕が出すよとポケットに手を入れたが、空だった。
「忘れてきたんでしょ?」
 いつものことである。余計なことを考えていて、自分が何をしたいのかすら、すぐに忘れる。僕の目はいつも遠くを見ている。そう言えば聞こえが良いのだが。とにかく悪い癖であった。
「お釣り返してね」
 と言う言葉を背に受け、玉ねぎの甘い仄かな香りと共に部屋を出る。
 だが、僕を押し戻そうとするように熱気が立ちはだかる。後ずさりしそうになる僕の後ろで無情にもドアが閉まり、鍵のかかる音が響いた。
 いってくるぞぉと勇ましく……いやかってくるぞぉと勇ましくでもいいよな。くだらない冗談を考えつつ、とにかく炎天下に足を踏み出す。目標はスーパーなかじま、飲むヨーグルトの入手。
 少々遠回りだが、田んぼのある方の道を行く。そちらの方が涼しいと思ったからだが、暑いものは暑かった。田圃を抜ける風が穂が垂れはじめた稲を揺らし、僕の頬を撫でる。家々の間に点在する田圃。かつては逆だったろうに。と濃い青空と濃い緑の山とそして、遠くに見える陰影の濃い積乱雲を眺めた。夏は意識をぼんやりとさせる。それは空気と風景の自己主張に負けてしまうからかも知れない。肌に絡む熱気をそよ風が運び去ってくれたが、次の熱気がまた絡んだ。
 腕時計を見ると十一時四十五分。腕にうっすら汗が光っている。
 黙祷まで十五分。僕はなかじまに向かった。
 目の前の家が吹き飛んだらどうなるだろうか。僕の目の前で戦争が起こり、なんのことはないこの民家が砕け散ったらどうなるだろう。
 漠然とだが、僕は生き残るような気がした。理由はわからない。ただなんとなく、なんとなく生き残れるような気がしたのだ。
 国を守るために戦い、散っていった人々。国民みんなが戦って、散っていった五十数年前。彼らも、自分は生き残るような気がしていたのだろうか。
 その日も稲はざわめいていたのだろうか。戦争は終わったけれど、それでも国のために死ぬ人がいる。数は違う。比べ物にならないくらい。だけど、確実にいる。
 死にたかろうが死にたくなかろうが死ぬ。食べ物もない。娯楽なんてとんでもない。
 もしもゆかの作るカレーが、あの時代に有ったら、人々は群がって食べるだろうか。
 目の前の美味しい物を今日今すぐに食べたい。そうしないと、もう食べられないかも知れない。一瞬一瞬に悔いのない生き方なんてできるはずがない。それでも生きなくてはいけない。だれかに命令される筋合いなんかない。
 蝉の声が聞こえる。人間の営みなど関係無しに夏は五十数回巡って今に至ったのだ。蝉は五十数年、夏になると鳴き続けた。
 とりとめのない思考が頭を駆けめぐって、気が付いたときにはスーパーなかじまの前だった。足下で蝉がもがいている。残り少ない命を、再び飛び立とうと、再び声を上げようと、足をばたつかせている。僕は蝉に構わず店内に足をすすめる。
 涼しい店内、陽気な店内、しかし僕は先ほどの思考のせいで、その中で一人取り残されたような、現実味を欠いたような、世界を防犯カメラで見ているような、そんな気がしていた。買い物をする子供連れ。子供が奇声を発する。母親はそれをとがめようともせずに、二つの切り身を見比べている。
 飲むヨーグルトを手に取り、レジで勘定を済ませる。茶髪の若い女性店員は、笑顔一つ見せずに飲むヨーグルトを、袋に納めて手渡してくれた。
 音楽の合間に、生活情報が流れる。『夏です! スパイシーなカレーライスはいかがですか?』これから帰って食べるところだ。
 店の外に出ると、再び熱気が襲ってきた。僕は、青い空をうんざりと見つめた、思わずお釣りを自動販売機に入れた。そしてコーラのボタンを押す。
 買い物袋を手首に引っかけ赤い缶のプルタブを引き起こす。その瞬間泡が吹き出して、右手を濡らした。濡れた右手の露を払い、プルタブを戻して缶に口を付ける。乾いたのどに酸味と甘みの入り交じった液体が流れ込む。のどが痛み、涙が流れる。
 CMで若者達がさも美味そうに一気飲みするがあれは嘘だ。僕は店のささやかな屋根下で涙ながらにコーラを飲み干すと、ゆかの家に向かって歩き始めた。
 田圃の近くにさしかかったとき、時計を見ると正午。僕は道ばたで黙祷をはじめた。そっと目を閉じて軽く頭を下げる。
 低く唸るB−29。モノクロの空を飛ぶ爆撃機の影。人々はその音を聞いただけで恐怖に身を縮めたそうだ。
 僕はその黒い影を見つめる。
 不意にモノクロの空が色を帯びはじめた。B−29の羽音がひときわ大きく聞こえはじめた。笛のような甲高い音が響いたと思うと周囲で爆音が響く。稲と泥が吹き飛んできた。
 目の前の家も砕けて焼夷弾は瞬く間に周囲を焼きはじめる。僕は逃げようとして、自分が砕け散っていることに気が付いた。飛び出した僕の目玉が周囲の業火を見つめる。轟々と周囲を舐め尽くす炎。爆音は消えず、僕は千切れ飛んで田圃に落ちた耳でその音を聞いている。
 音が消えた。視界もモノクロに戻る。
 しかし目の前を炎の中を、人の列が通っていく。顔も姿も判然としない黒い人々は、旗を持ち、花を持ち、白い箱を持ち、下を向いて静かに静かに歩いていく。スローモーションのように残像を残しながら、旗が翻り炎も翻り、人々は歩みをすすめる。その列はいつ果てるともなく続き、白い箱を持った人が僕に近付いてきて。僕だった部品を一個一個拾い集めて、箱に詰める。僕は自分の心臓がいまだ脈打っているのを見て、生きてる! ほら、心臓が動いてる! と叫ぶが、その人には耳がないのか、聞こえてはいなかった。
 しかし僕が自分の口が失われていることに気が付いた。僕が観念して黙り込むと、白い箱の人は、延々と続く列に再びくわわった。無言に見えた集団はしかし、皆一様にすすり泣いている。列は延々と続きとぎれることは無い。僕はどこに運ばれるのかもわからず、しかし今はこの箱の中で浮遊感に身を任せるしか無かった。すすり泣きはとぎれることなく続き、しかしそれが徐々に蝉の声に変わっていった。その時クラクションが鳴り、僕はとび上がりそうになって我に返った。事故で死ぬとこだった。
 そう思いながら、またクラつきはじめた頭で記憶をたぐり、黙祷をしていたことを思い出して、時計を見てまだ一分程しか経ってなかった事に気が付いて、再び歩き始めた。

 チャイムを鳴らして扉を開けてもらうと、空腹を促すような、カレーの匂いが漂い出てきた。
「おそ〜い。まぁだいたい予定通りだけどね」
 そう言って、苦笑いを浮かべるゆかの顔を見て、僕は力が抜けた。買い物袋を差し出す。
「すごい顔してたけどどうかしたの?」
 ゆかは受け取ったお釣りを数えて
「あぁジュース買ったでしょ。お釣り足りない」
 硬貨をサイフに戻し、右手を差し出して握ったり開いたりしてみせる。買ってないなら出せと言うことである。
 僕は「ごめん買った」と言って、部屋の奥に入り込む。
 ゆかの「まぁいっか」と言う声が聞こえて、僕はまたテレビの前に寝転がった。汗が流れ出る。
『ノーアウトランナー一塁と変わりりまして、続いて迎えるバッターは紀田宏』
 ちゃぶ台の上にカレーを置く音が聞こえる。僕は漂うカレーの匂いにむっくりと起きあがり、カレーを前にじっと座る。背にしたテレビからは歓声が響く。
 具が豊富なカレーと、スプーン。そして僕が買ってきた飲むヨーグルトが置いてある。
 そして鍋を挟んで向こう側にゆかがいる。
 僕は「いただきます」と言って一口目を口に入れた。赤ワインの香りがする。仄かな甘みの後から口に広がる辛さ。そして酸味。思わず頷く。茄子は噛むと口の中でじゅわりと汁が湧き出た。
「あのさ」
 幸せそうにカレーを食べるゆかに僕は声をかけた。ゆかはスプーンを止めてこちらを見た。
「今日って終戦の日だけどさ、黙祷したか?」
「してない」
 ゆかは即答して、またカレーを食べはじめた。
「俺さ、道ばたでやってて轢かれそうになった」
 ゆかは急にせき込んだ。せきの合間にばーかと言う言葉を交ぜるのがやっとだった。そして、スプーンを置いてヨーグルトを飲んで、なんとか落ち着いた。
『さぁ九回裏、福安高校一打サヨナラの場面。バッターは三番河田』
 僕は振り返ってテレビを見る。ランナー一塁、二対一である。
 ピッチャーは、汗を拭って帽子をかぶり直した。
「なんかね、黙祷で流れが変わったみたい」
 僕は、再びカレーを口に運んだ。
「いつどこでなにがどうなるかなんて、わかんないよな。世の中は無常だよな」
 ヨーグルトで喉を湿した。辛さがすっと和らいでいく。僕は続ける。
「戦時中なんかさ、今日死ぬかも明日死ぬかもだったんだぜ」
 と言ったところで、ゆかは片方の眉を少し動かして、うんざりしたような顔を見せると、スプーンを置いた。
「戦争なんかテレビの向こうだよ」
『のびるのびるのびるのびる! はいった! はいりました! 福安高校サヨナラ! サヨナラです!』
 アナウンサーが興奮する。振り返った僕の目に入ったのは、感動の余り飛び上がって涙を流すアルプスの女生徒であった。
「絶望も恐怖もブラウン管の向こう側か」
 僕は呟いて、一口食べる。
「さっさとたべなさいよ、スイカ冷やしてあるんだから」
 ゆかは、僕の言葉をけらけら笑い飛ばした。
 それから、ヨーグルトを一口含むと、
「生きてるんだから良いじゃない」
 と言った。
 僕は「ああうん」と曖昧な返事を返しながら豚肉を口に含んだ。バラブロックはジューシーで、食べたときすごく幸せである。
 僕は肉を咀嚼しながら、豚は痛かったのだろうか? などと考えてみた。
 風鈴が鳴っている。


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