『しあわせ』
マカロニ
うたの出典:『幸福論』椎名林檎(東芝EMI)
    または
『幸福論(悦楽編)』
「無罪モラトリアム」椎名林檎(東芝EMI)より

なお、本文中に他にも楽曲を登場させていますが、それらはこの作品のモチーフとして使用しているものではないので、原典に触れる必要はありません。


 私は、小説を書くことをひとつの楽しみにしている。といっても、ひと昔前にあったような、薄暗い畳敷の質素な部屋の中で机の上の原稿用紙に向かい、頬杖に万年筆をかざしつつ、うんうん唸っている着流し姿の小説家、なんていうイメージからは程遠い。
 最近では、パソコンやワープロが一般の人にもけっこう普及していて、夏の暑い日も冬の寒い日も、エアコンの効いた部屋でソフトドリンクをそばに置き、軽く鼻歌でも鳴らしながらカタカタとキーボードを叩く、なんていうのが今どきの小説家のスタイルになっているのだ。
 かく言う私もそうした例に漏れず、毎日ヒマを見つけては、パソコンのモニターの前に座って、ウーロン茶を飲み飲み、軽い音楽を部屋に流しながら、カタカタカタカタとやっている。
「小説を書く」ということもさることながら、この「キーボードを叩く」という行為自体が実に楽しい。
 慣れていない人には凄く煩わしいことのように思えるかもしれないが、一旦、手元を見なくてもいいくらいスムーズにキーが叩けるようになると、リズム楽器を演奏するときのような、もしくは、ピアノを弾いているときのような、軽い「陶酔感」がからだの内から徐々に滲み出してきて、何とも言えない心地よさを味わうことが出来るのだ。
 というわけで、今日も私は気持ち良くキーを叩いている。

 カタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタ……。

 パソコンやワープロで書いている関係上、今どきの小説家には、自分が使っている機械をインターネットに接続している人が多い。そして、自分でホームページを立ち上げて、その上で自分の書いたものを公開している人もたくさんいる。
 私はといえば、普段使っているパソコンをインターネットに接続してはいたが、自分でホームページを作るのが面倒なので、自分が書いたものを、他の人の作った文芸系サイトに投稿して公開することにしていた。
 文芸系サイトとひとくちに言ってもいろんなところがある。
 個人のホームページとあまり変わらないような少数の参加者で細々とやっているところもあれば、リンクなどを辿ってやってくる不特定多数の参加者が投稿・フォーラム・チャットなどでわいわいと自由に楽しんでいるところ、投稿された小説をとにかく数多く掲載することを目的としたところ、など、様々なかたちで活動している数多くのサイトがインターネット上に存在している。
 私は、それだけ多くの文芸系サイトがあるということを知ったとき、正直驚いた。
 今の時代、娯楽と呼べるものは他にもたくさんあるだろうに、世間的にあまり人気がないと思える小説なんていうモノを書く人が、どうしてこんなにいっぱいいるのだろう? なんていう感じで。
 ただ、考えてみると、すぐに納得がいった。
 おそらく、私と同じように「物を書く」ということに魅せられた人たちが世の中にもともとたくさんいたということなのだろう。パソコンやワープロ、そして、インターネットの普及によって、私を含む「物を書くのが好きな人々」に、一種の「市民権」が与えられたということでもあるのだろうなぁ、と。

 さて、私が普段、主に参加させてもらっているのが「うぇぶ文芸部」という文芸サイトである。
 このサイトは、その名の通り、クラブ活動形式で運営されている。普通の掲示板やチャットボードなどは、一般の人も利用しているが、作品の投稿は、ここの部員になった人にしか出来ない。また、投稿された作品の批評や感想をアップ出来るのも部員になった人だけだ(批評・感想専用の掲示板がある。ただ、それらを見るだけなら誰でも見ることが出来る)。
 一見、「閉鎖的」にも思える、この「うぇぶ文芸部」だが、実はそうではない。
 確かに、他の不特定多数の人々が自由に参加しているサイトに較べれば、ページへのヒット件数も少ない(1日あたり50件くらい。他のサイトには300件を超えるところもある)し、掲示板だってチャットだって、毎日毎日大盛況、というわけでもない。また、細かいことだが、ホームページの体裁も、トップページはともかく、後のページは地味でダサい(笑)。
 しかし、「うぇぶ文芸部」には、たくさんの部員(およそ100人)が参加している。もちろん、掲示板に顔を見せたり作品を投稿してきたりする部員の数は、常時10人くらいだが、それを見守っている人たちがたくさんいるのだ。
 どういうことかというと、「うぇぶ文芸部」に投稿された作品は、全ての会員に向けてメールで配信され、それだけ多くの人の目に触れるということなのだ。これが、このサイトの大きな特徴である。
 もちろん、いくら目を通してくれるといっても、部員全員が読んでくれているとは限らないし、感想を返すことも各部員の裁量に任されている(1ヶ月に3作品の感想を述べればよいことになっている)ので、さすがに、全ての部員から反応が返ってくるということはない。しかし、他のサイトに較べ、感想が返ってくる数が圧倒的に多いのだ(私の投稿したものを例にすると、他サイトで3、文芸部ではその倍の6)。
 自分の書いたものを出来るだけ多くの人に読んでもらいたい、と思うのが、素人小説家の正直な胸の内であるなら、これほど魅力的な文芸系サイトは他にない、ということが言えるだろう。
「うぇぶ文芸部」の素晴らしいところはそれだけではない。
 例えば、上でも少し触れた、批評・感想専用掲示板。
 文芸部に作品を投稿すれば、ここに、必ず何らかの反応がある。簡単な感想もあれば、言葉を尽くして褒められることもあるし、貶されることもある。小説を書く上での技術・構成についてのアドバイスをもらえることもあるし、参考になるようなプロの書いた小説を紹介されることもある。そして、次回作への期待を述べられることもある……。
 ここでは、全く忌憚のない、様々な言葉がビシバシと飛び交っている。
 作品を投稿して、ここを覗くとき、胸がどきどきする。部員のみんなは、自分が書いたものをどのように読んでくれたのか? 書き方がまずくて伝わらなかったところはなかっただろうか? いろんなことを考えて、頭がいっぱいになる。
 ときには、自分が書いたものに対する否定的意見が多くて「ヘコむ」こともある(私も実際よくヘコんだ:笑)。でも、次回作に力を注げば、またそれに対しても必ず何らかの反応を返してきてくれる。結果的に、それが小説を書き続けていく上での励みになっていくのだ。批評専用掲示板は、我々のような素人小説家にとって、凄く「やさしい場所」なのだ。
 また、「うぇぶ文芸部」独自の企画も催されている。
「うぇぶ文芸部文学賞」と題する、部員と一般の人が審査に参加する作品コンテストがあるし、何らかのテーマを運営側から切って、それに沿った作品を募集したイベントなんていうのもある。
 こういうイベントの際には、普段忙しくてなかなかページの方に顔を出せない部員の人たちも、企画に合わせて作品を投稿してくるので、投稿作品の絶対数が増え、このサイトに対する注目度もいつもよりアップする。当然、作品に対する反応も格段に多くなる。非常に賑やかで楽しいものである。

 さて、そんなこんなで、私は、この「うぇぶ文芸部」というサイトがお気に入りなのであるが、現在、作品を募集しているのが「うたものがたり」という企画である。
 企画の募集要項によれば、広義の「うた」をモチーフにした文芸作品、を募集するということなのだが、はてさて、何を題材に選び、どんなモノを書けばいいのか? ここ1ヶ月くらいの間、私はずっと頭を悩ませていた……

 カタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタ……。

「ねぇ」

 カタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタ……。

「ねぇ」

 カタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタ……。

「ねぇってばっ」

 カタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタ……。

「ちょっと、裕介ぇ。わざと無視してるでしょ」

 カタカタカタカタカタカタカタカタカ……タンッ。

 薫子が声を掛けているのを無視してパソコンのキーを叩き続けていた裕介がようやく手を止め、座っている回転椅子の背もたれ越しにこちらを振り返って言った。
「ばれた? ゴメン」
「ゴメンじゃないわよ。いっつもそうなんだから」
「だってさ、いいとこだったんだ。途中で辞めると、せっかく浮かんだフレーズが頭から逃げていっちゃうだろ」
「なに、いっぱしの小説家気取りで言ってンのよっ。明日も仕事があるんだから、適当に切り上げて寝たらどうなの。今何時だと思ってンのよ」
「だからさ、いいとこなんだよ。頭の中に浮かんでることだけでも書いときゃなきゃ、明日になって忘れちゃうかもしれないだろ」
「もう、またそんなこと言って。たかが素人小説でしょ。いくら苦労して小説書いたって、それでお金が貰えるようなプロじゃないんだから。それより、明日の仕事のことを少しは考えたらどうなの。明日寝不足でキツイよっ」
「たかが素人小説とはなんだっ。たかが素人小説とは。素人だってなぁ、きちんとしたもの書こうと思えば、それなりの苦労をしなきゃいけないンだよっ」
(ま〜た、始まった)
 薫子は、眠たさにイライラしていて、つい口が滑ってしまったことに気づき、少し後悔した。薫子の同居人である裕介は、普段はけっこうものわかりのいい男なのだが、こと自分の小説の評価の話、しかも、頭ごなしに貶されたりすると、それに対する拘りや怒りが先に立って、まわりのことが見えなくなってしまうのだ。
 もっと時間に余裕があるときになら、少々口が滑って口論になってしまっても、薫子の方に受けて立つだけの体勢が作れるので、ある程度は裕介の「戯れ言」に付き合っても構わないのだが、今の時刻は午前3時。明日はまだ平日で、裕介だけでなく、薫子だっていつも通り仕事に行かなければならない。
 薫子は、うんざりしながらも、何とかこの場を早く治めなくてはならないと思ってこう言った。
「わかった。わかったわよ。あたしが言い過ぎました。ごめんなさい。たかが素人なんて言って。そんなこと言うつもりは無かったのよ。ただ、あたしは、明日の仕事に差し支えるから、ほどほどにしてって言いたかっただけよ。」
 しかし、『たかが素人』という言葉によほどプライドを傷つけられたらしく、裕介の
剣幕は少しも衰えを見せなかった。椅子から立ち上がると、薫子の目の前までつかつかと歩み寄ってきて顔を近くに寄せながら言い放つ。
「あのな、いくら言い繕っても、ホントはお前が俺の小説のことバカにしてンのわかってるンだぞっ。口先だけで謝って済むと思うなよなっ」
 せっかく下手に出ているのに、こうも激しく言い返されてしまうと、薫子も引き下がるわけにはいかなくなった。さっきからの眠たさも手伝って、ぶち切れた。
「そうよっ。その通りよ。あんたの小説なんて、下手くそで、陳腐で、ヤワで、つまんなくて、下品で、そいでもって……ええぇぇ、カスよっ、ゴミよっ、恥さらしよっっ!! そんな箸にも棒にも掛からないようなモン書いてないでまともに働きなさいよっ、この穀潰しっっ!!」
 これは、効いた。劇的に効いた。寸前まで、ちょっとやそっとでは治まらない様子だった裕介の剣幕が、薫子のこのひと言ですっとどこかに消え去ってしまい、裕介は、薫子に食ってかかった姿勢のまま、その場に凍りついたように固まってしまった。
 暫くの沈黙が流れたあと、裕介は、力なくその場に崩れ落ち、今度は蚊の鳴くような小さな声でゆっくりと、こんなことを言い出した。
「俺だってなぁ、俺だって、自分の小説が下手なことくらいわかってるよ。でも、でもさぁ、俺だって、俺だって、一生懸命に頑張れば、頑張ればさぁ……」
(あ〜ぁ、泣いちゃったよ。しょうがないなぁ、もう)
 これもいつものパターンだった。裕介は、自分が敵わないと思うと、途端に弱気になる情けない一面を持った男だった。まぁ、そういう面を見せるのは、薫子の前でだけだったが。
(最後まで突っ張りきれないんだったら、最初から絡んでこなきゃいいのにねぇ)
 薫子は、少々呆れながらも、とりあえず自分の優位が確定したことに満足し、裕介に対する憐れみと慈しみを同時に感じながら、さて、どうしたものか、と、この場を治める方法を考え始めた。
 裕介の泣き言は、まだ続いていた。裕介は、薫子の寝巻きの裾に縋り付きながら、なおも小さな声でしゃくり上げながら言う。
「なぁ、薫子ぉ。俺って、やっぱり才能ないのかなぁ。この間もさ、『うぇぶ文芸部』に出した俺の小説がさ、面白くないってさ、みんなが口を揃えて言うんだ。主人公の気持ちが全然わかんなかったとかさ、キャラが立ってないとかさ、そんなことばっかり言われるんだよぉ。こっちはさ、一生懸命さ、書いてるのにさ、みんな、好き勝手なことばっかり言ってさ、もう、俺、自信なくしちゃってさぁ……」
 何とも情けない裕介の泣き言が、恨み言に変わりかけたので、それまで聞き流していた薫子は、慌ててこう言った。
「裕介、そんなこと言ってちゃ、駄目よっ。小説書くの好きなんでしょう。好きで好きで堪らなくて、何とかプロになりたくて、それで、この歳になっても諦め切れずに、バイトしながら生計立てて小説書いてるんでしょう。だったら、少しくらい貶されたくらいでメゲてちゃ駄目よ。頑張んなきゃ、ね、そうでしょう?」
 さっき言い争っていたときとは正反対の物言いだったが、これは、薫子の本心だった。 同居人である関係上、裕介の書いたものを、薫子は全て読んでいて、裕介の実力がどの程度のものなのか、ある程度わかっていた。『うぇぶ文芸部』の部員達が言うことも間違いではないし、裕介が書くものが、プロに較べればいろんな欠点があることは確かだ。薫子自身も、同様の感想を本人に言ったこともあるし、かなり厳しい言葉で貶したこともある。
 しかし、裕介の書くものは、どことなく薫子の胸に響くものだった。何と言ったらいいのか、裕介という男が今まで生きてきた中で、何を為し、何を悩み、何を掴み取って来たのか、そういうものが行間から滲み出てくるような、そんな文章だった。
 もちろん、同居人の贔屓目なんていうのもあるかもしれない。ただ、この裕介という男が、小説を書くということに関して、大仰な言い方だが、人生を賭けて真剣に取り組んでいることは、自分がこの目で見て一番よく知っている。
 この歳(30歳)まで、ロクに就職もしなかったおかげで、楽な働き口が見つかるわけもなく、昼間は印刷所で働きながら生活費を稼ぎ、夜はテレビも見ないでずっと遅くまで本を読んでいるか、パソコンにしがみついてひたすらキーボードを叩いている。  もちろん、裕介が今までまともに就職しなかったことは、言ってみれば自業自得なんだけれども、今ある現実というものは決して後戻りしてくれるものではない。そういう、自分に与えられた条件というものを、ありのままに受け止めながら目標に向かって必死で頑張っている裕介の姿を目の当たりにするとき、薫子は、この人を好きになってよかった、と素直に思えるのだ。
 ただ、ときどき、今夜のように、あまりにも小説を書くことに夢中になってまわりが見えなくなるなることがある。そこが裕介の欠点だったし、もしかしたら、こういう視野の狭さが、裕介の書くものにも大きな影響を与えているのかもしれないと思うことさえある。そういうとき、薫子は、日頃から思っている不満を交えて、ついつい、容赦の無いことを口に出して言ってしまうのだ。
 そういうことが、ここのところずっと続いていた。裕介は、どうも、スランプに陥っているようなのだ。プロの作家ではないのだから、スランプも何もあったもんじゃないのかもしれないが、最近の裕介の様子を見ていると、思う様に小説が書けなくてイライラしている感じが、明らかに看て取れる。
 薫子は、裕介のそんな事情を知りながらも、自分を見失いがちになっている姿をあから様に見せられると、どうしても腹が立つ。腹が立って、つい言わなくてもいいことを言ってしまうのだが、言ってしまったあと、自分の胸の中にモヤモヤしたものが残ってしまうのを感じていた。

 薫子は、さっきからずっと、腕組みをして考えていた。
(こういうのは、もう、今夜限りにしなきゃね)
 今夜の衝突を、時間に余裕がないことに託つけて有耶無耶のままにしてしまえば、きっと近いうちに、また同じような言い争いをしなければならなくなるだろう。そんなことはもう絶対にしてはいけないと思った。自分のためにも、裕介のためにも、ふたりのこれからのためにも……。
 裕介は、薫子の足下にうな垂れて蹲ったままだったが、薫子は、何とか問題解決の糸口を掴むため、裕介にこう訊いてみた。
「ねぇ、今日は何を書いてたの?」
「え?」
「だから、今日は何をそんなに一生懸命書いてたのよ」
 裕介は、さっきとうってかわって、やさしい声で問いかけてくる薫子の態度に我に返ったのか、少し元気を取り戻して顔を上げ、説明を始めた。
「いや、あのさ、俺がいつも小説を投稿している『うぇぶ文芸部』ってサイトがあるだろ? そのサイトでさ、今、『うたものがたり』っていう企画原稿を募集しててさ、それに応募する小説のテーマを考えてたんだけど……」
「けど?」
「そう、けどさ、なかなかいいのが思い浮かばなくてさ、それでさ、そういうときってさ、無理に進めても駄目だからって思って、違うものを書くことにしたわけ」
「違うものって何よ」
「うん。何て言うのかなぁ、随筆っていうか……そんなに堅いモンじゃないな、エッセイみたいなものだよ。なんかこう、小説書いてる過程って言うか、裏話みたいなもんだよね。」
「裏話?」
「だって、なかなかテーマが決まんないんで、悔しくてさ。あんまり悔しいんで、それを裏話としてエッセイっぽく書いたら面白いんじゃないかと思ってね。それで、書き始めると実際面白いんだよね、これが」
 ようやく、裕介の声の調子が普段通りに戻ってきた。薫子は、少し安心して、次の段階へと進んだ。
「ふ〜ん。今までそれ書いてたんだ。寝る間も惜しんで」
「あぁ、ごめん。今夜も心配して様子を見に来てくれたんだよな。いや、久し振りに思う様に書けるものが見つかったんで、凄くうれしくてさ、ついつい時間を忘れてたんだよなぁ」
「それはよかったわね。あ、勘違いしないでよ。皮肉じゃないからね。裕介、ここんとこ、ずっと朝方まで起きてたじゃない? 最近調子悪かったみたいだから私も心配してたのよ」
「ホントにごめんな。何か、なかなかアイディアが浮かばないというか、こういうときってさ、凄く自分に自信が持てなくて不安になっちゃうんだよな。まぁ、エッセイと言ってもさ、別に人に読んでもらおうと思って書いてたわけじゃなくてさ、ホント言うとね、さっき言った『うたものがたり』のアイディアが浮かばないイライラを誤魔化すために書いてたっていうことでもあるわけよ。まぁ、これはこれで面白いとは思うンだけど、自分としては、やっぱ、逃げてたんだと思うよ。そこをさ、薫子に突っ込まれたくなくてさ、あぁいう態度になっちゃったんだよな、きっと……」
(もう大丈夫みたいね)
 薫子は、冷静に自分のことを分析して話している裕介のしっかりした言葉を耳にして、安堵の溜め息を吐いた。

「はぁ……」

 そのとき、薫子は、ある閃きが頭の隅の方に瞬いたのを感じた。それは、後から考えれば、今夜の裕介との衝突と、その後のやり取りから必然的に生まれ出たものなのかもしれなかったが、この時点では、全く偶然に、何の脈絡もなく出て来た考えのように思えた。
(なんで、もっと早く、思いつかなかったンだろう)
 そう思いながら、薫子は、頭の中にあるイメージの欠片を丁寧に拾い集めるようにして考えをまとめ、1秒後、おもむろに言った。
「ところで、ねぇ、裕介。今度の『うたものがたり』だっけ? それに出す小説なんだけど、あたしと一緒に書いてみない?」
「え?」
「だから、あたしと一緒に書くのよ。まぁ、言ってみれば『共同執筆者』ということになるのかな」
「な、なんでそんなこと急に言い出すんだよ。だいいち、薫子は小説なんて、読むことはあっても自分で書いたことなんてないし、別に書きたくもない、って言ってたじゃないか」
「気が変わったのよ。ね、やってみない?」
「でもなぁ」
「いいじゃない。裕介だって、誰かと共同執筆なんてやったことないでしょ。新しいことに挑戦してみるのもいいんじゃないの」
「そりゃ、そうだけどさ、でも、薫子は小説書いたことないんだろ。ホントに書けるのかよ」
「だから一緒に書くんじゃないのぉ。あたしは初めてなんだから、手取り足取り、指導してもらってさぁ」
「う〜ん」
 裕介は、しばらく考え込んでいたが、薫子には、それが裕介のポーズに過ぎないことはお見通しだった。伊達に同居人を1年半も続けているわけではない。薫子は、駄目を押した。
「まだ何か引っ掛かることでもあんの?」
「いや、ない。わかった。やろう、共同執筆。けど、最初に言っとくけど、途中で投げ出したりするなよ。薫子はもともと飽きっぽい性格だからなぁ」
「あら、随分と酷い言い草ね。大丈夫よ。あたしが飽きっぽい性格に誤解されるのは、興味の対象が広いってだけなのよ。飽きっぽいんじゃなくて、物事の取捨選択が厳しいって言ってよね。そこんとこの違いをわかって欲しいわ」
「ほぉ、言うもんだねぇ。よし、それじゃぁ契約成立だ。よろしく頼むよ、相棒っ」
「あぁ、こちらこそ、よろしく頼むよ。相棒っ」
「それじゃぁ、今度の土曜日から早速始めようか」
「うん。そうね。そうしましょう。じゃぁ、明日に備えて眠るとしますか」
「あぁ、俺も何とか眠る努力をしてみるよ。実際、寝不足は免れないけど、いくらかでも眠れればマシだと思うから」
「あ、そうだ。あたしのペンネーム、考えなきゃね。ははは」
「やる気ですねぇ、薫子さん」
「もちろんだとも、裕介くん」

 土曜日は、あっという間に訪れた。薫子も裕介も、毎週土曜日は休みを取るようにしていたので、今日と明日、目一杯、小説のアイディアを練ることが出来る。午前中に洗濯や掃除といった細々とした家事仕事を片付けてしまい、軽い昼食を取りながら、ふたりして、『うたものがたり』の題材となる「うた」を何にするのかを考えることにした。

「とりあえず、俺が最近よく聴いていて、これがいいかなぁと思ったうたをリストにしておいたから、目を通してくれよ」
 薫子は、手渡された一枚の紙に書いてある題材候補の数を見て、少し驚いた。
「へぇ、けっこういっぱいあるんだね。書けない書けないって言うから、候補も見つけられてないのかと思った」
「バカにしたもんじゃないだろう? これでもけっこう行動力はある方なんだからさ」
 裕介が挙げた、題材候補のうたは次のようなものだった。下にそれぞれ、題材として絞り込めなかった理由が書いてある。

===

『ここでキスして』椎名林檎(東芝EMI)
 俺は、文芸部で「まかろに」というペンネームで書いているが、この間、似た様なペンネームのヤツが、うたものがたりの前哨戦だ、とかなんとか言って椎名林檎の別の曲をモチーフにした小説を発表していたから、ちと使いにくい。

『カプチーノ』ともさかりえ(東芝EMI)
 椎名林檎の作詞・作曲・プロデュース。これも、俺と似たペンネームのヤツが、続編を書くときのモチーフにする、とか何とか言ってやがったから、ちと使いにくい。

『ぺピン』Blankey Jet City(ポリドール)
 暗く荒んだ雰囲気の中にも、愛する人を喪失した哀しみや寂しさが切なく歌い込まれた「大人の味」を感じる作品。ただ、俺は暗いの書くの苦手なんだよなぁ。なんか、無理やりハッピーエンドの話を書いてしまいそうで怖い。

『Get up Lucy』thee michelle gun elephant(TRIAD)
「ブルース・パンク」とでも呼びたい、TMGEのヒット作。BJCの『ぺピン』と地続きであるかのような世界観を、愛するものを失ってしまった者の感情がそのまま剥き出しにされたような「葬送曲」として歌い上げている。でも、やっぱ、こういう暗いのは、俺には書けないような気がする。
『少年』黒夢(東芝EMI)
 清春の書く詞は全般的に面白い。ただ、この曲の詞は、俺と同世代の人間が書いたものとしては、ちと「青臭い」感じがしてしまう。でも、「青臭く」感じるからこそ『少年』というタイトルなのかもしれず……。要するに、俺自身が少年に感情移入するのが困難な「分別臭さ」を身に付けてしまった、ということなのかもしれない。

『STARS』Original Love(ポニーキャニオン)
 宇宙の無限・永遠の拡がりと、愛し合うふたりの世界のそれをダブらせて歌い上げる田島貴男の真骨頂。幻想的で底が見えないくらい深い愛の世界がそこにある。楽曲としての完成度も高く、到底、俺ごときの芸でこの作品を超えるイメージを紡ぎ上げる自信がない。脱帽。

『Over and Over』Every Little Thing(avex trax)
 詞だけ読めば、「キレイすぎる」感じがしてしまう。でも、持田香織のどこまでも澄んだ歌声とさわやかな曲調に凄くよく合っていると思う。ただ、俺がこの曲をモチーフに小説を書くとすれば、と考えたときに、邪魔になるのが、この曲がエンディングテーマに使われていた『ボーダー』(日本テレビ系・中森明菜主演)というテレビドラマのイメージだ。日本人女性プロファイラーが、様々な異常心理犯罪を解決していくという、けっこうドロドロとした内容の「濃い」ドラマだったが、その「濃さ」を中和する働きをこの曲は持っていた様な気がする。何か、同じような使い方をしてしまいそうで、怖い(ドロドロしたものも苦手だ)。

『そのスピードで』the brilliant green(Sony RecordS)
 川瀬智子の書く詞は、粗削りな未完成さを感じさせながらも、詩的センスのレベルの高さ、醸し出すイメージの豊かさにおいて、他の同世代のソングライター達から、一歩も二歩も抜きん出ている。ただ、難しいのは、フレーズごとに喚起されていくイメージが、曲全体を貫くようにカチッと固まったものでなく、実に様々な解釈が可能であるため(もちろん、それが彼女の書く詞の非凡なところでもあるのだが)、この曲をモチーフとして小説を書くということがしにくいのではないか? ということ。要するに、俺の力量が、彼女の詞の持つ力に負けちゃってるんだよね、悔しいけどさ。

『無限の住人』沙村広明(アフタヌーンKC:講談社)
 
 音密かにくりかへし 
 くりかえす苧環へ
 紡ぐは誰そと我は問ふ為
          
           『無限の住人』より <詠の九>

 これは、楽曲ではなく、唯一、漫画から「うた」を抜粋してみた。他にも「うた」は作品中に数多く登場する。定型を破ったその「うた」には、独特の雰囲気があるものの、やはり、原作の漫画に勝つのは難しいだろう。江戸末期っぽい美意識を描くなんて芸は、今のところ俺には無いということだ。ちなみに、「苧環」は(おだまき)と読む。紡いだ麻糸を玉の形に巻いたもののことだそうだ。

===

「いつも、何でもアリ、なんて言ってる割には、裕介にも、けっこう苦手な分野ってあるんだね。まぁ、暗いのやドロドロしたのが苦手っていうのはわかるような気もするし、わからないような気もするなぁ」
「どういう意味だよ、そりゃ」
「ははは。気にしないで。それは読者さんに訊いてみた方がいいんじゃないの」
「だから、どういう意味だってのっ」
「まぁ、いいじゃない。それよりさ、裕介って、こんなにいっぱいCD持ってたっけ?いつの間に買ったのよ」
 薫子は、裕介が持ってきた、リストに書いてある曲のCDと漫画本を代わる代わる手にとって眺め、無邪気にはしゃいだ。
「椎名林檎関係のやつとミッシェル・ガンとブランキーと『無限の住人』は、前からみんな持ってた。あとのやつは、1ヶ月前くらいに近くの『TUTAYA』に行ったら、激安販売してた。何と1枚100円っ」
「へぇ、衝動買いしたにしては、けっこうしっかりと分析してるじゃないのよ」
「衝動買いじゃないよ。テレビなんかで一度は聴いてた曲だし、だいいち、ヒット曲ばかりだろ。ちゃんと計算して買ってきたんだよっ」
「計算ってなに?」
「あぁ、これだから、もう。いいか、さっき『うたものがたり』の募集要項を見せたろ。そこに書いてなかったか? 審査の際は作品のモチーフにしたうたの原典に触れておくことが望ましい、ってさ。ということは、あんまりマイナーなやつをモチーフにしちゃうと原典が探しにくくなるから、審査する方としちゃ、CDなり本なりが手に入りやすいに超したことはないわけだろ。その点、ここに持ってきたやつなら、だいたいどこのレンタルCDショップにも置いてあるじゃないか。そういう計算をしたってことだよ」
「あ、見落としてた」
「困るなぁ、共同執筆者がそれじゃぁさ」
「反省します」
「わかればよろしい。……じゃぁ、これ、ひと通り聴いてみて。それから薫子の意見を聞いて、そこからまた始めることにしようよ。俺もいちから聴き直してみるからさ」

 裕介がミニコンポにCDをセットし、リストに挙げた曲が順番に流れるようにプログラムしてスタートボタンを押した。間も無く、椎名林檎の『ここでキスして』が聞こえてきた。
 薫子は、裕介に言われた通り、この曲を小説にするならどんな話がいいだろう、とか色々考えてみた。

 ♪ 行かないでね どこにだって あたしと一緒じゃなきゃ嫌よ
   あなたしか見えないのよ 今すぐにここでキスして……

(あたしには、もう、こういうことは言えないなぁ。それに、どう考えてもあたしと裕介じゃぁ絵になんないわよね。恥ずかしいわよ。まぁ、こんな風に考えてるあたしっておばさんよねぇ)

 ♪ 愛してたあいつのこと 心から好きだった
   でも今は 水色の夕焼けが目に染みる……

(確か、ブランキーのボーカルの浅井さんって一児のパパだったわよね。子供がいてもこういう詞って書けるのねぇ。でも、裕介ったら、こういう暗いのは書けない、なんて言ってるけど、実はこういう暗いのがホントはお好みなのよねぇ)

 ♪ 星くずのシーツに素肌あわせて眠りつくまで
   そっと愛のなかでだけ生きる短さを忘れてゆくだろう
   きみがそばにいればいい……

(オリラブの田島さんって、あの顔でロマンチストよねぇ。あ、あの顔で、なんて言っちゃ可哀想よね。そういえば、『リング』に出てたギバちゃんの子供役の男の子、可愛かったわよねぇ)

 ♪ 悲しみの翼を転がる光は月の方へ
   この胸を映して星屑のように散りばめて壊して
   そのスピードで……

(この娘の書く詞って、やっぱりよくわかんないわねぇ。でも、なんとなく元気が出て来るような気はするわね。ドラマは見てないけどさ、たぶん元気な人が出て来る話だったんじゃないのかな? CDも売れたみたいだし、やっぱ、才能ある娘なんでしょうねぇ)

 薫子は、曲が変わるたび、頭の中で歌詞を反芻しながら考えを巡らしたが、振り返ってみると、小説のアイディアを考えているというよりは、ただの感想を自分の頭の中に思い浮かべているに過ぎないことがわかって、少し失望した。
 そうして、一通り曲を聴き終わると、裕介が尋ねてきた。
「どうだった? なんか思いついた?」
「う〜ん、そうねぇ。どれも今一つかな」
 薫子は、曲を聴いてもたいして何も感じなかったことを裕介に気付かれてはいけない様な気がして、つい、言葉を濁した。
「今一つって、なんだよ」
「だから、今一つなのよ、この曲全部。何にもイメージが思い浮かばなかったのよ」
「ああっ、薫子ぉ。ちゃんと聴いてなかっただろう」
「違うわよ。ちゃんと聴いてたわよっ」
「聴いてただけで、何にも考えてなかったんだろ」
「失礼ねぇ。いろいろ考えてたわよ。なんでそんなこと言うのよ」
「じゃぁ、何考えてたんだよ。口に出して言ってみろよ」
 裕介に突っ込まれ、薫子は答えに困った。確かにいろいろ考えはしたものの、特に言わないといけないようなことなどひとつもない。この場は、屁理屈を捏ねるしか仕方がなかった。
「だから、わざわざ口に出して言うようなことなんてなかったのよ。やっぱ、裕介が言ってる通り、小説のテーマにはならないんじゃないの?」
「何言ってンだよ。俺には駄目でも薫子なら何か感じるかもしれないから聴いてもらったんじゃないかよ。一回聴いたくらいですぐに諦めるなよなっ」
「仕方ないじゃないのっ。何にも感じなかったんだからさ。何回聴いたって同じよっ」
「共同執筆したいって言ったの、そっちだぞ。やる気ないんなら最初からそんなこと言うなよなっ」
「別にやる気ないなんて言ってないでしょ。何回も聴かなくてもわかるって言ってるだけよっ。もう、すぐ怒るんだからぁ」
 だんだん、雲行きが怪しくなってきて、薫子は焦った。このままでは、いつもと同じような口論になってしまう。もうそんなことは終わりにしたはずだったのに……。
「怒ってなんかないさ。ただ、自分で言ったことには責任を持てって言ってるだけさ」
「怒ってるじゃない。自分の方こそ初心者に厳しすぎるんじゃないの。あたしは小説のアイディア考えるのなんて初めてなのよ。そこんとこもうちょっと考えてさ、あたしが言うことに少しは耳を傾けてくれてもいいじゃないよっ」
 薫子は、募る焦りを隠すように裕介から目を背け、自分の目の前に積まれたCDを一枚一枚手に取ってジャケットを眺めた。と、そのとき、薫子の目に、セーラー服の少女がパステルカラーのエレキギターを支え持ってこちらを睨んでいる写真が載ったジャケットが飛び込んできた。
「だからさ、俺が言ってるのは……」
 薫子の様子を見て、身を乗り出すように食って掛かる裕介の機先を制するように、大きな声で薫子は言った。
「あれぇっ!?」
 裕介は意表を突かれ、半分腰を浮かせたままその場に静止した。
「裕介ぇ。これって、リストにあったっけ?」
 そう言いながら薫子は、そのCDを裕介に手渡した。裕介は両ひざを床に着いた姿勢のままそれを受け取り、まじまじとジャケットを見た。
「あれ? おかしいなぁ。これは外しておいたはずなんだけど」
 そのCDは、椎名林檎の『幸福論』(東芝EMI)だった。
「椎名林檎だから外したの?」
「ああ。何曲もあったってしょうがないだろ。『ここでキスして』だけでいいと思ったんだよ」
「じゃぁ、なんでここに混じってンのよ」
「さぁ。入れた覚えはないんだけどなぁ。さっきコンポにセットするときだって、あるのに気がつかなかったし」
「でも、ここにあったのよ。間違いなく……」
 薫子は、訝しむ裕介の様子を見ながら、何か不思議なインスピレーションの様なものが頭の中に走ったのを感じた。
「ちょっとそれ貸してっ」
 薫子は、裕介から『幸福論』を引ったくるように奪うと、立ち上がって、ケースからCDを取り出し、ミニコンポにセットしてスタートボタンを押した。
『幸福論』がスピーカーから流れだす。最初は呆気にとられていた裕介だが、諦めたのか、もとの場所に座り直し、薫子と一緒に曲を聴いた。
 薫子は、曲を聴き終えたが、すぐにリピートボタンを押し、何度も聴き返した。裕介も、薫子のただならぬ意気込みを感じ、そのまま動かずに曲を聴いていた。
 そのとき、薫子の頭の中には、『幸福論』の次のようなフレーズがぐるぐると渦巻いていた。

 ♪ あたしは君のメロディーやその
   哲学や言葉全てを 守り通します
   君が其処に生きてるという真実だけで 
   幸福なんです……

 何回聴いていただろう。10回目くらいだろうか。薫子は、ずっと目を閉じて曲に聴き入っていたが、曲が終わると同時に目をカッと見開き、誰に言うともなく呟いた。
「これよ」
「ん?」
「これよぉっ」
 二度目は大きな声だった。薫子は、言い様のない興奮が我が身を包んでいるのを感じ、からだを小刻みに震わせた。
「何だよぉ、いったい」
 裕介の問いに、薫子は、想いをぶつけた。
「わかんないの? これよ。これなのよ。あたしが求めてたのわっ。こんなイイ曲があるのに、どうして外しちゃったりするかなぁ。まったく、もう、あんたって人は……」

 カタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタ……。

『うたものがたり』への応募作である私の小説のタイトルが『シアワセ』というものに決まったのは、この直後のことである。

 カタカタカタカタカタカタカタカタカ……タンッ。

 (おわり)


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