私の風
北郷博之
うたの出典:『私の風』〜『リベルテ』/岡村孝子・アルバム『リベルテ』より〜


 アナログ時計の針は、五と六の間で触れるか、触れないかといったところ。私は駅前広場の噴水に到着した。約束の時間には、少し間がある。
 夕暮れの人混みを、とりあえず見回してみた。が、連れどもの姿は、やはり、ない。
 折良く空いていたベンチに腰を下ろし、ほぅと一息。白いもやが、一瞬だけ私の顔を覆って、すぐに消えた。
 そして、五時四五分。
 恒例となったため息を、思いきり吐き出した。
 いつも通りの展開だ。
 分かり切っていたことなのに。やっぱり、私も二〇分ぐらい遅れてくればよかった。まったく、まったく、まったく……。
 むなしいぼやきを胸中でくり返していると、
「エリー!」
 聞き慣れた声である。
 見ると、白ずくめの小女と、黒ずくめの大男とが、私の方に向かって来る。
 ぶんぶんと手を振り回す小女に、私は、小さく手を振り返した。

   1

「ええっ! 別れるって……」
 私は文字通り、ポカン、と口を開けて、目の前の二人を見た。
 短い髪を明るい茶色に染めた、痩身の、かたちの良い女。白い肌に白い服が、本当によく似合っている。彼女の名は、小滝香苗という。
 肩までの長髪に、剛健な肉体。黒は自分の色と言うだけあって、お世辞ではなく、きまっている。彼の名は、山本誠という。
「なんで、えぇっ、どうして……」
 テーブルを跨ぎ越さんばかりの私に、二人は、ほぼ同じタイミングで吹き出した。
「なにが、おかしいの」
「いや、だって、エリー、すごい顔しててさ」
 白い顔に鮮烈なルージュの紅が、ニタリと笑う。
 言い返そうとしたところに、グラスを抱えた店員がやって来たので、私は椅子に座り直した。
 香苗と山本の前には生。私の前にはカルピスフィズ。こういう席では、とりあえず生から始めることが多いが、私は生が好きでない。
「まずは、乾杯しよう」
 山本がグラスを高く掲げた。香苗が続き、最後に、私がグラスを手にした。
「いい? それじゃ、我々の、特に、俺と香苗の卒業を祝して、乾杯!」
「乾杯!」
 女二人の声がそれに続き、グラスが派手な音をたてた。
 時は三月一〇日。夕方の六時過ぎ。場所は駅前の飲み屋「ずぼら」。山本誠主催による卒業決定記念飲み会の始まりである。
「で、山本、さっきのはなに?」
 一気に飲み干して、グラスをテーブルに置いた後、香苗が言った。
「なに、って?」
「私とあんたの卒業を祝してって、エリーの卒業は祝してあげないわけ?」
「そうは言わなかっただろ」
 山本はそう言って、私の方を見た。眼の周りだけ白い「逆パンダ」状態なのは、冬の間中、スキーに行きまくっていた名残だという。
「考えてもみろ。御園さんの卒業は、これ当然。一方、俺と香苗が卒業できたっていうのは、ほぼ奇跡。当然と奇跡だったら、珍重すべきは後者じゃないか」
「確かにね。卒業式の招待状が来たの、本当にびっくりしたもん」
「だろ」
 香苗は頷き、頷き、それから、私の方にその眼差しを移した。
「でも、さ。その奇跡って、ほとんどエリーが起こしてくれたようなものじゃないの」
「全く」
 言うなり、香苗と山本は私に向かってペコリと頭を下げた。

   2

 早いもので、私とこの連中との付き合いも、もうじきまる四年。
 試験直前の中国語の講義で、隣に座っていた肉付きの悪い女――そういえば、この頃の香苗は髪が長かった――に声をかけられたのが、始まりだった。
「ねえ、ノート、とってる?」
 少し間をおいて、私は頷いた。次の台詞は、予想通りのものだった。
「コピーさせてくれない?」
 本心を言えば、嫌だったのだが、結局、私は頷いてしまった。こういう場合、はっきり「ノー」とは言えない私なのだ。
「ありがとう」
 その翌日、肉付きの悪い女は、髪をツンツンに立たせた大男を、私の所に連れてきた。当時の山本は、ロッカーくずれみたいなヤツだった。ちなみに今の山本を評するなら、サーファーくずれである。
「ねえ、こいつにも、昨日のノート、コピーさせてやってくれない」
 わざわざ私の所に来なくても、コピーのコピーで済ませればよかったものを、とは、後になって思ったことだ。私は、ロッカーくずれの大男にもノートをコピーさせてやった。
 それが始まりだった。
 二年、三年、四年と、不思議に私たちは講義が重なった――いや、二人が私の取った講義に合わせてきたと言うべきか。なにを選ぶかなんて、話したことはなかったはず。どこで調べてきたのやら……。
 そうなのだ。
 見るからに遊び人風――そして、事実、遊び人のこの二人が、四年間で大学をパスできたのは、まさに私のおかげなのだ。
 とは言っても、私は搾取されるばかりだったわけではない。もし、そうだったとしたら、いくら私でも、多分、キレていただろう。
 二人は私をよく飲みや食事に誘ってくれた。一人なら絶対に行かないような店にも、連れていってもらった。そして、彼らは、私に勘定を一円も払わせたことがない。
 私たちはそういう関係だった。

   3

「――そんなことはどうでもいいけど。さっきの続き。どうして、別れるの?」
「だって、私、お里に帰りますもん」
「それだけ?」
「それだけ」
 私は首をひねり、山本の方に眼をやった。
「山本君は……」
 山本が手を顔の前に掲げて、ちょっと待って、という仕草を見せた。
 懐に手を入れて、携帯電話を取り出すと、それを耳元に近付ける。
「もしもし」
 申し合わせたわけでもないのだが、私と香苗は、途端に黙りこくった。
「――いや、今、飲んでる――」
 なにしてる、とでも訊かれたのだろうか。
「――今日は駄目――」
 なにが、駄目、なのか。
「――来週はずっとヒマだから――」
 なにか、約束をしているのかもしれない。
 やがて、会話が終わったのか、山本は携帯電話をしまい、ビールを一口。
「だれ?」
「ああ、嶋」
「なんて?」
「今、飲んでるって言ったら、合流させろって言うから、来るな、って」
「それがいいよ」
 香苗が私の方を見て、
「嶋っていってね、私たちの知り合いなんだけど、すっごい酒癖悪くて、絡みまくるのよ」
「へえ」
 と、頷く私。
「おまけに馬鹿みたいにタバコ吸うしね」
 私はタバコが大嫌いだ。香苗も山本も喫煙者だが、私の前では吸わない。遠慮してくれているんだ、と気がついたのは、いつのことだったろうか。
「ふうん」
「で、なんだっけ、御園さん」
「ああ。山本君は、それでいいの?」
「仕方がないでしょ」
「あの、遠距離恋愛とか、やらないの」
「無理よ。この組み合わせじゃ」
 応えたのは香苗である。
「全く」
 と、笑う二人につられかけて、私は大きく息を吐くことで、それを自制した。
「そうかな。出来ないかな」
「無理。絶対、無理」
 言下に、断定的に言う香苗をちょっと睨んで、しかし、
「かもね」
「そうよ」
 私は、今度は、大きく息を吐いた。

   4

 香苗が手を挙げて、店員を呼んだ。香苗は焼酎を、山本は生と、いくつかの料理を注文する。私のカルピスフィズは、まだ、半分以上も残っている。
「でも、なんか、私たちらしいと思わない? あっさりしててさ。話したことあったっけ、私たちの馴れ初めってヤツ?」
 知っている。聞かされたとき、からかわれているのか、それでないなら、この人たちはおかしいと思ったのだから。
「あの、してみて、それで良かったら付き合うとか、そういうのだったよね?」
「そうそう」
「私、今までずっと疑問に思っていたんだけど、あれって、本当に本当だったの?」
「本当も本当。大本当よ」
 香苗の隣で山本は、ただ、生を飲んでいる。照れている風ではない。
「まあ、この男ほどのは、なかなかいないと思うよ。ねえ」
「お前ほどのも、なかなかいないだろうな」
 しゃあしゃあと言う二人を視界の端に追いやって、私はグラスを手にした。少しだけカルピスフィズを口に含むと、グラスをテーブルに戻した。
 奔放とか、自由とか、そういう風な言葉では括りようのない奇天烈カップル。馴れ初めが尋常でなかったように、その終わり方も、やはり一筋縄ではなかった。
 少なくとも私の常識からは遠く離れた場所にいる二人。私は、二人と同じことをやろうとは思わないし、また、出来もしないだろう。
 でも、だからこそ、私にとって、二人は「憧れ」だった。
 例えるなら、ノーヘルで原付をかっ飛ばす輩を見て、転んだら間違いなく死ぬのに、と思いながらも、気持ちいいだろうな、と感じているようなもの。でも、私はちゃんとヘルメットをかぶる。かぶらずにはいられない――。
「御園さん、食べて。こんなことぐらいでしか、お返しが出来ないからさ」
 山本の声に、ボーッとふさいでいた自分に気付いた。見ると、いつの間にかテーブルにはいくつもの皿が並んでいる。
「なによ、エリー。あんた、まだ、最初のヤツ、飲み終わってないじゃないの」
 確かに、私のカルピスフィズは、いまだ健在。溶けた氷で上澄みが出来あがっている。
「呼ぶから、なにか飲みなよ」
 言うが早いか、香苗はすでに店員をつかまえている。
 私は勧められるままに巨峰酒を頼んだ。香苗が横から勝手に、濃いめで、と店員に言う。
 ちょっと眉をひそめた私だったが、結局、なにも言わなかった。

   5

 宴はまさにたけなわだった。
 笑い上戸の香苗は、なんでもないことにケラケラと笑い、普段は無口な山本も、三倍ぐらいおしゃべりになっている。
 私も私なりに酔っぱらって、二人のやりとりに茶々を入れて楽しんでいる。
「ねぇ、エリー」
 香苗の声に、私は眼差しで応えた。
「エリーって、今、彼氏いないんでしょう」
 今も昔も、私に彼氏なるものがいたことはないのだが、頷いておいた。
「だったらさ、山本と付き合ってみたら。結構、面白いよ、この男は」
 突然、なにを言い出すのかと、私と山本は同時に香苗を見た。
「結構、お似合いだと思うんだけどな、私の予想では」
 しばしの沈黙の後、私は唇を開いた。
「そうね。山本君、いい男だしね」
「でしょ」
「でも、やめとくよ」
 酔っていて、よかったと思う。二人の視線を浴びても、私の心はそれほど揺れ動かなかった。
「私、二人みたいにクールに別れとか語れそうにないから」
「ふられたね、山本」
「残念」
 あっさりとしたやりとりは、やはり、二人らしかった。
「そろそろ、出る?」



戻る