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いとう


たとえば

地下鉄のホームにゆらめく陽炎を見ることができたり

たとえば

街中の吸い殻捨ての汚れが気になったり

そういう人だけが

私と出会えるのよ

そういう人だけが私といても大丈夫で

そういうふうにみんな

決まっているの


名前は?

さゆり

ひらがなの?

うん。


雨の日のゲームセンター

彼女の足音に気づいたのは

僕だけなのかもしれなくて

彼女の目に見えていたのも

僕だけなのかもしれなくて

物事が決められている時があるのを

2人とも知っていたから

2人の影は雨なのにクッキリと映えていて

コマ劇場からALTAへ向かう歌舞伎町中央通り

傘をさすほど2人の肩は濡れているわけじゃないけれど

傘をさすほど2人の距離は近いわけじゃないけれど


新宿は海みたい

油断してると溺れそうになるけど

見ているだけならとても優しい


あの横道は晴れてると白いの

でも今日は黒

入っちゃいけない日

あそこのお兄さんはいつも泣いている

青いジャンパーのお兄さん

誰も知らないけれど

私は知ってる

露店のお姉さんの居場所が変わって

人の流れが少し変わったのは

つい最近の話

浮浪者が怖がって通らない外れ道

キャッチバーのお姉さんは

うつむいて出勤するのよ

目印はいっぱいあるの

みんな泳いでるの

みんな知らないだけなの


人も音も何もかも溢れ出すこの街で

戸惑いながらさまようさゆり

僕は彼女の知らない彼女の秘密をひとつだけ知っていて

気が遠くなる靖国通り

冷たいさゆりの手を握りながら

ここの信号はとても怖い

大きすぎて深すぎて

1人では越えられない

だから

手を離さないでね

私を向こう側まで連れていってね


ささやかな雨はいつも

肩なんかじゃない別の場所を濡らすので

さゆりを導きながら

「誰が待っているの?」

「お父さんとお母さん。手を振ってる」

渡りきると彼女は僕の手を離して

ありがとう

と言ってそのままどこかに手を振って

ようやく会えるんだね

うん。でもまだ帰れないみたい

越えたら大丈夫と思ったんだけどダメだったみたい

ねぇ、どうすればいいの?

このままだと帰れないよ

ねぇ、このままだと…


かわいそうなさゆりは

気がつくとまた向こう側で溺れないように泳ぎ始めて

彼女といても大丈夫な人を

探そうとしている


ねぇさゆり

君がここにいるのは

死んでいることに気づいていないからだよ

このままだと君は帰れないんだよ

この街をさまようだけなんだよ

君の魂はこの雨のように降り注いで

そして消えてなくなっていくんだよ



作者紹介/いとう。作者のホームページ